第2話
『初めまして、ルナサリア・グリンド嬢。私はノア・ヴァルガ、これから婚約者としてよろしくお願いします』
グリンド公爵家の中庭に用意された茶の席で、二人は初めて顔を合わせた。
柔らかな色彩に浮かぶ、はっとするほどの鮮やかな黒。
少年から青年に差し掛かろうとしている時期の、アンバランスさ。さらりと揺れるその髪は肩よりも少し長く、紫紺のリボンで結わえられている。こちらを真っ直ぐ見つめる眸は透明感のある青。それだけでも目を引くのに、その眼差しはひたすらに優しかった。
一瞬、こんな方と人生を共にできて安心して終生を送れるのか、と夢さえ見た。
彼はヴァルガ侯爵家の嫡子であり、主に各国との貿易で国を発展させた家系で三公の次に力のある家柄である。
「…お初にお目にかかります、ルナサリア・グリンドと申します。こ、ちらこそ、お願いしますわ」
淑女であることを意識して、ドレスを広げ淑女の礼を取った。
テラスに用意された白いテーブルに、軽食やデザート、流れるように紅茶が用意される。彼は、当たり前のようにルナサリアの為に席へエスコートをし、自身は向かい側へと腰を下ろした。
「態々のお越し、ありがとうございます。どうぞお召し上がりになってくださいませ」
「お気遣いありがとうございます。グリンド嬢のおすすめはどれですか?」
「そうですね…わたくしはチェリータルトが好みで…」
「では、私もそれを」
傍らのメイドに軽く手を挙げて頼む彼は、貴族の傲岸さなど見えない。ふと目が合ってにこりと微笑まれ、どきっとしてそっと目を伏せた。
まだ十四歳のルナサリアは社交界へ出ていないため、異性との交流は身内のみだ。それですら、こんな柔らかな眼差しむ向けられるのは初めてだった。
「本当に美味しいですね」
緊張から乾いた口内を潤すように紅茶を一口含んでいると、彼は感嘆したように声をあげる。
「お気に召していただけたら、嬉しく思います」
ほっとして、少しだけ肩の力が抜ける。人見知りと気恥ずかしさも相まってぎこちなく微笑えめば、屈託のない少年のような彼の笑顔に鼓動が鳴った。それと同時に自己嫌悪に消えてしまいたくなる。
こういう時に、上手な返し一つどうして出てこないのか。
淑女としてのマナーも、詰め込んできた勉強も、何の役に立たない。
「あ、あの、ヴァルガ様…」
「ノア、と。これから貴女のことを、そして私のことを知ってほしい」
ぴくっと身を揺らして、ルナサリアは目の前の青年を見つめた。その言葉に浮かれてしまいそうになる自分がいる。こんな素敵な人に興味を持ってもらえたことが、まさに夢のように感じた。
「ノア、様…。では、私の事は、」
「ルナとお呼びしてもいいですか?」
声変わりしたての少しハスキーな声はどこまでも優しい。
姉はルナサリアのことを「リア」と呼ぶ。
だが、他の家族は誰も愛称で呼ぶことはない。姉のことは「サリー」と呼ぶのに、だ。降って湧いたようなこの婚約者だけが、唯一自分を認めてくれたのだと胸が震えた。
溢れそうになる涙を堪えることに必死で言葉にならず、ただ何度も頷く。
木々を渡る風の音がこんなにも優しいのだと初めて知った。
ルナサリアは神に感謝したくなるこの出会いに舞い上がり、何の話をしたのかも覚えていないほどで。
「今度は私の家へ招待します。ルナ、来ていただけますか?」
「は、はい、是非」
少しだけ、自然に微笑えただろうか。熱の引かない頬に右掌を押し当てながら小さく返すと、彼は目元を緩めルナサリアの手の甲に口づけた。
「楽しみにしてます」
馬車に乗り込んで彼が帰っても、ルナサリアは暫くその場に佇む。
差し込む日差しに斜陽の色が滲み、景色は澄んだ橙に染め上げられていく。
未だ夢心地の中で、生まれて初めて喜びという感情を知った。
そして、恋を───。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます