残念
嶋野夕陽
残念
「家に帰してくれ」
杖をついて尚、足をふらつかせる老人が、私を責めるような目で見つめる。
昔から言葉の少ない人だった。そのせいで勘違いして、辛い思いをしたことも一度や二度ではない。
「はいはい、これができたら帰りましょうね」
曲がった腰を叩いて伸ばしながら、フライパンの中身を覗き込む。
いい頃合いだ。
菜箸で茄子を大皿に取り出して、その上にお玉で汁をまんべんなくかける。
大皿をテーブルに運ぼうとすると、老人が相も変わらず怖い顔をしたまま、端に体を避けてテーブルまでの道を空けてくれる。
避けた拍子に、ふらりと体を傾かせたのをみて、心臓が跳ねた。
一瞬ひやりとさせられたが、食器棚に寄りかかって体を支えたのを見て、ほっと胸をなでおろす。
大皿をテーブルに置いて、キッチンまでよたりよたりと戻っていくと、その途中で道を空けたままの老人が、九官鳥の様に同じことを繰り返した。
「家に帰してくれ」
それこそ九官鳥の様に、可愛らしい見た目と声をしていれば、まだ心が和むものだが、相手は眉間に幾重にも皴を寄せた頑固そうな老人だ。子供が見たら泣き出すに違いない。
デイサービスの若いお姉さんも、いつも困り顔で家まで送り届けてくれている。きっとこんな調子で、友達も作らず、いつも若い人を困らせているんだろう。
それでも私にはこの老人が、少しかわいく見えてしまう。
家に帰してほしいと文句ばかり言っているのに、私がキッチンとテーブルを行ったり来たりするのだとわかると、ちゃんと道を空けて待っていてくれる。自分の要求を通すために、人の邪魔をするのは違うと思っているのだろう。
昔からそういう人だった。言葉は少ないけれど、行動で示してくれるから、最後はいつも信じることができる。
味噌汁をコンロの小さな火で温めている間に、炊飯器からお椀にご飯を盛って、またよろよろとテーブルに運んでいく。
老人は何かを言いたそうに、私の歩く姿を目で追っているが、口をへの字に閉じて黙っている。ここで私が一言「運んでくださる?」と声を掛けたら、きっと重々しく頷いて、出来た食事をテーブルまで運んでくれようとするんだろう。
でも今は、ふるえる足で辛うじて立っている老人に、それを頼むわけにはいかなかった。
ご飯の後はお味噌汁を。その後は冷蔵庫からお漬物を。最後にガラスのコップに水道水を。
何度も行ったり来たりする間、老人はずっと同じ顔をして私の動きを監視していた。怖い顔をしているように見えるが、あれは手伝うと声をかけることができずに困っているのだ。ほら、不器用でかわいい。
エプロンを椅子の背もたれに引っかけて、老人の前まで行って、声をかける。
「ご飯をたくさん作ってしまったので、食べていきませんか?」
「……迷惑だろう」
「いいえ、食べていただかないと、捨てるしかないんです。助けると思ってお願いします」
「……それでは、いただこう」
ゆっくり慎重に食卓までたどり着いた老人は、エプロンのかかっていない方の椅子の横について、私の方を見つめる。
私が先に座って「どうぞおかけください」と言うと、老人も頷いて椅子に腰かけた。
私が手を合わせて「いただきます」と言うと、老人も黙って手を合わせる。
私が味噌汁を一口すするのを見て、老人が箸を手に取って茄子の煮びたしに手を伸ばした。
ご飯と煮びたしを交互に食べて、味噌汁をずずずとすすって、お爺さんがほっと息を吐いた。
「相変わらず、婆さんの煮びたしは美味いな」
「そうですか、それは良かったです。今日はどんなことがありましたか?」
「今日はな、婆さんのところに早く帰りたいのに、皆が意地悪をして中々帰してくれなかったんだ。遅くなって悪かったな」
「いいえ、元気に帰ってきてくれたので、それでいいですよ」
「そうか」
「そうですよ」
そうか、と言う時、お爺さんが鼻の下を指でつまむように撫でた。どうやら照れているらしい。眉間の皴が無くなったお爺さんは、誠実そうで優しい顔をしていた。
食事を終えて、食器を洗い、布巾で手を拭いていると、固い声の老人から声を掛けられる。
「家に帰してくれ」
「……今日はもう夜も遅いですからね、朝一番で帰りましょう」
「……家に帰してくれ」
今日も婆さんが待っているから帰りたい、とは言ってくれないみたいだ。たまには知らない人に、妻を大事にしているところを見せてくれてもいいのにと思う。
また明日、ご飯の時に会いましょうね、お爺さん。
残念 嶋野夕陽 @simanokogomizu
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