君のために

皆河雪華

第1話

「おい、あっちに行ったぞ! 早く捕まえろ!」

 静かな森に銃声と怒号が飛び交う。猟銃を手に男達は森の奥へ向かった。

数人の男性が追いかけているのは幼い少女——のように見えるが、頭からは茶色いうさぎの耳が生えている。獣のような足で木の根を軽やかに飛び越えるその姿はうさぎそのもの。

「はっ、はっ、はあ……っ!」

 飛んでくる銃弾に当たらぬよう気を配りながら少女は逃げる。森の奥深くには大量の植物の葉が茂り、人が通れるような道はない。そこまで逃げてしまえば捕まることはないだろう。

(ここまでくれば、もう少し……!)

 あと一歩で茂みに届くというところまで差し掛かった瞬間、


 パンッ!


 乾いた銃声と同時に少女の身体が地面に落ちた。少女の足からは真っ赤な血が流れだす。

「うっ……!」

 苦しそうな表情で足を押さえる少女。必死で近くの茂みに入ろうとするも、すぐに複数の男が近付いてきた。手には猟銃や縄を持っている。

「ふぅ……どうにか捕まえられてよかったな。もう少しで逃げられるところだった」

「まったくだよ。獣人風情がちょこまかと逃げやがって……」

「おかげでこんな森の奥まで来ちまったじゃねーか。穢れが移ったらどうすんだ?」

 三人の男性は獣人を睨んで口々に文句を言う。小さなうさぎの獣人は抵抗することもできず、怯えたようにぷるぷる震えるばかり。

「それにしてもよくこんな小さいのに銃弾を当てられるもんだなぁ。ニール、お前もこっちに来い!」

 一人の男性が呼びかけると少し離れた茂みから猟銃を持った青年が出てきた。擦り傷の付いている引き締まった体に氷のような瞳。歳は十六、七ほどだろうか、切り揃えられた黒髪には葉が引っかかっている。

「流石だな、お前がいなかったらこいつを仕留められないところだったぜ」

 笑顔の男性がニールの肩を叩いたが、本人は顔色一つ変えずに冷たい瞳で倒れた獣人を見つめるだけ。そんなニールを見て男性はため息をつく。

「お前……またあのことを考えているのか? そう焦らなくても大丈夫だって。こいつらを狩り続けていればそのうち順番も来るさ」

「それじゃあダメだ。こんな小さな奴じゃ薬もそこまで作れない。もっと大きな獲物を仕留めないと……」

 足下の獣人と手にした猟銃を見比べ、険しい表情を浮かべるニール。周りの男達は呆れ気味だ。

「まーたそんなこと言ってんのか。そうは言ったって獣人を見つけるだけでも一苦労だし、そこから大物を見つけて仕留めるなんて夢のまた夢みたいなもんだろ」

「ニールの気持ちも分からなくはないけどよ、俺達にできることは地道に狩りを続けることくらいしかないしなぁ……」

「おいお前ら! くっちゃべってないで手伝え!」

 一際体格の良い男が暴れる獣人の耳を掴み、動けないように縄で縛り始める。最初は抵抗していた獣人だったが、傷が痛むのか徐々に大人しくなった。顔はすっかり青ざめてぐったりしている。

「はいはい……ったく、散々走って疲れたってのによぉ……」

「仕方ないだろ? ここにずっといたら俺達も危ないんだから」

 文句を言いながらも帰り支度を始める男達。

「……今日はもう終わり?」

 ニールは獣人を掴んでいる大柄な男性の顔を覗き込む。

「ああ。今日はこいつを狩ったから他の獣人は俺達を警戒して森から出てこないだろうし、とりあえず撤収するぞ」

「そう……もし午後からまた狩りに出るようなら教えて」

 残念そうに呟いたニールは男達に目もくれず、森の出口へと歩き出した。

「おい、ニール! ……行っちまったか」

「止めてやるな。あいつも本当ならずっと妹のそばにいてやりたいはずなんだから——」




森の中を歩き続けておよそ15分。水が流れる音のする方へ歩き続けるうちに森を抜け、現れた小川を飛び越える。そのまま進んでいくと、のどかな村が現れた。

幼い子供達は所かまわず走り回り、家々からは談笑する声が聞こえてくる。店屋の並ぶ通りからは、とれたての野菜やら魚やらを売る声が響くばかり。

ニールはそんな光景には目もくれず、真っ直ぐに通りを進む。辿り着いたのはボロボロの一軒家。隙間風の吹き付ける玄関で履き潰した靴を脱ぎ、軋む廊下を静かに歩く。建付けの悪い扉を引いて薄暗い室内に入った。

「ただいまー……サニア、起きてるか?」

 その声に反応するように家の奥で何かがもぞもぞ動き、体を起こす。

「ん……ぅう、お兄ちゃん……?」

 か細い声で返事をしたのはニールと似た顔の女性。ニールに近寄ろうとするが、寝たきりで歩くことがほとんどない脚では立ち上がることすらままならない。

「きゃっ……!」

「危ない!」

 間一髪倒れそうになるサニアを慌ててニールが受け止める。

「あ……ありがとう、お兄ちゃ——」

「何してるんだ! 安静にしてないといけないのに布団から出たらダメだろう⁉」

 思わず大声を出すニールにサニアが縮こまる。少し怯えた表情の妹に気付いたニールは慌てて布団にサニアをおろした。

「あー……ごめん、急に叫んで」

「ううん、大丈夫だよ! お兄ちゃんは私を心配してくれたんだもんね!」

 笑顔になったサニアを見て安心したのか、ニールの口からため息がこぼれる。困ったような笑みを浮かべてニールはサニアの頭を撫でた。

「ああ。だからもうお兄ちゃんを心配させないでほしいな」

「はーい! そういえば今日の狩りはどうだったの?」

「それなんだけど……また今日も小物だったよ」

 猟銃を近くに置くと、サニアの横に腰を下ろして残念そうな表情になるニール。するとサニアがニールの背中に抱きついた。

「さ、サニア……⁉ 何して……」

 驚いたニールが振り返ってもサニアは兄の背中に頬をこすりつけるばかり。突然のことに目をぱちくりさせているニールを見たサニアはにっこり笑う。

「ふふっ、これで元気出た?」

「サニア……」

「そんなに焦らなくても大丈夫だよ。私はお兄ちゃんが思ってるより元気だし、薬が手に入るまでゆっくり待ってるから」

 自分を見て微笑むサニアにニールは微笑み返し、頭を優しく撫でた。

「ありがとう。サニアが早く元気になるように、お兄ちゃんももっと頑張るからな」

「うんっ! 私も応援して——うっ」

「っ、サニア!?」

「ん……っ、げほっ」

 突如胸に手を当てて苦しそうな表情を浮かべたサニアは、耐えきれずに咳込んだ。口を押えていた雪のように白い右手には血がついている。

「あ……」

「な、やっぱり全然平気じゃないじゃないか! このままじゃダメだ……今すぐ村長に相談して薬を——」

「待って!」

 慌てて立ち上がったニールの服を、血が付いていないサニアの手が掴む。ニールが振り返ると、凛とした表情でサニアが自分を見つめていた。

「でも、サニア……」

「……お兄ちゃんは昔っから私のためにいろんなことをしてくれた。でも、お兄ちゃんの人生はお兄ちゃんのものだよ。私は元々体が弱いからきっとこの病気が治っても長くは生きられない……それならお兄ちゃんには私のことを気にせず、自分の好きなことをしてほしいの」

 サニアの言葉は兄を安心させるための嘘などではなく、本心から出たもの。真剣な表情からもそれは明白だ。

 サニアが赤子の時から一番そばで見守ってきたニールもそれは承知している。ニールは軽くため息をつき、困ったような笑みを浮かべた。

「……サニアの気持ちは分かった。俺は俺のために生きるよ」

 その言葉を聞いてサニアの顔が明るくなる。

「それじゃあ……!」

「だからこそ俺は獣人達を狩らなければならない」

「っ⁉ なんで……」

 動揺するサニアの隣でニールは目をつむる。

「俺にとって何よりも大切なこと、俺の生きる意味……考えたんだ。真っ先に思い浮かんだのはサニアのことだったよ」

 そう言ってサニアを見つめるニールの表情はとても穏やかだ。サニアの長い黒髪を優しく撫でる。

「俺はサニアと一緒にいるために、サニアの病気を治したい……たとえそれがどんなに困難な方法だとしても。今この村に蔓延している病が獣人の血液で作られる薬でしか治せないなら、早くサニアの分の薬を貰えるように獣人を狩り続けるだけだよ」

「お兄ちゃん……」

 やはり納得していないのか、サニアは不安そうな表情を浮かべている。

「お兄ちゃんは本当に優しいね。でも、お兄ちゃんだって本当は獣人をむやみに狩りたくはないでしょ? だってお兄ちゃんは前に——」

「ニール! 大変だ! デカい獣人が出たぞ!」

 サニアの声を遮るように玄関から怒鳴り声が聞こえてくる。それを聞いた瞬間、ニールは脇に置いてある猟銃を手に取って素早く立ち上がった。

「さっき仕留めたのを奪い返しに来たのか? 分かった! 今行く!」

 部屋を出て行こうとするニールは扉の前で振り返って真剣な表情でサニアを見つめる。

「それじゃあお兄ちゃんはまた狩りに行ってくるよ。サニアは大人しく寝て待っていてくれ」

「……うん。気を付けてね」

「ありがとう。じゃあ」

 急ぐ足音は廊下を軋ませ、玄関先からはニールと狩り仲間であろう男性の話し声が聞こえる。しかしその声もすぐに聞こえなくなってしまった。

「お兄ちゃん、昔は獣人と仲良くなるべきだって、ずっと言っていたのに……」

 サニアの独り言は誰に聞かれるでもなく、暗い部屋に溶けて消えた。




「デカい獣人が出たって本当なのか⁉」

 森への道を走りながらニールが男性に尋ねる。

「ああ。しかもかなり強い。俺達もどうにか仕留めようと努力したんだが、弾を当てるどころかこっちがやられていくばかりでどうしようも……うっ!」

 突如走るのを止めて腹部を抑えた男性は、苦しそうな表情でその場にしゃがみ込んだ。顔は青ざめ、冷や汗をかいている。

「っ、どうしたんだ⁉」

「ああ、さっき獣人に腹を蹴られてな……辛うじて走れはしたからお前を呼びに来たんだが、さすがに無理をしすぎたようだ……」

「そんな……今すぐ医者のところへ連れていかないと……!」

 ニールが近寄って手を取ろうとするも、男性は首を横に振るばかり。

「俺は大丈夫だ……だからお前は急いで森の奥へ向かって、あの獣人を仕留めてくれ!」

 ニールを見つめて必死で懇願する男性。男性のそばにしゃがみ込んでいたニールだったが、すぐに立ち上がって森の奥を見つめる。

「……絶対に仕留めてくる」

 それだけ言い放ち、ニールは森の奥へと走りだした。

 

急がなければ。このままでは先程の獲物を奪われてしまうかもしれないし、村の狩人達も危ない。何より大物を仕留める千載一遇のチャンス。

(早く行かないと……逃げられる前に……!)

 獣人と交戦している狩人達も心配ではあるが、相手は滅多にお目にかかることのできない大物。自然と気合が入り、手にした銃を強く握りしめる。

 森の奥で何かが動き、それと同時に銃声や叫び声が聞こえてきた。

「動くなっ!」

 茂みを抜けたニールが銃を構えると、現れた大きな影は動きを止める。しかし獣人の姿を捉えたニールも同じように固まった。

「お前……」

 戸惑った声に反応したのか、影はゆっくりとニールの方を向く。かすかな木漏れ日が森の奥を照らし、大柄な獣人の姿が露になった。

 枝分かれしている太い角は鋭く、筋肉質な四本の脚で蹴られたらひとたまりもないだろう。栗色の毛を全身に生やした鹿の獣人は、鋭い視線をニールに送る。

「……久しいな、ニール」

「ヴェリンこそ。しばらく見ないからくたばったのかと思ってたよ」

 言葉こそ親しげだが、お互いに警戒を解こうとはしない。しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはニールだった。

「……これはお前が?」

「ああ。軽く蹴飛ばしたらあっさり伸びたよ。それがどうかしたのか?」

 そう話すヴェリンの周りには動かなくなった狩人達が倒れている。その中にはつい数十分前にニールと狩りをしていた屈強な男性達の姿も見えた。

「俺の仲間を傷付けやがって……!」

 歯ぎしりをしたニールは明らかな殺意と銃口をヴェリンに向ける。しかしヴェリンは動揺するどころか呆れた様子でため息をついた。

「先に俺の仲間に手を出したのはお前達だろう? これは仲間を救うための正当防衛だ。何より俺達は獣人の誇りにかけて無駄な殺生はしないと決めている。手あたり次第に獣を狩るお前達人間と同じにするな。疑うなら確認してみたらどうだ?」

「……勝手に逃げ出すなよ」

 ヴェリンから目を逸らさないようにしながら近くに倒れている男性の顔に手を近付ける。目を覚ます気配はないものの、かすかながら確かに呼吸をしているのが確認できた。そのままヴェリンの周りで倒れている男達にも目をやる。

(出血している人は数人いるけど、危険な状態ではなさそうだ。良くて擦り傷、悪くても骨折ってところか……でも、さっき仕留めた獲物がいない)

 安否を確かめたニールは静かに立ち上がり、ヴェリンに向き合う。

「ほら、大丈夫そうだろう? 自分を殺しにかかっている奴らにも手加減してやってるんだから感謝してほしいくらいだな」

 そう言いながらヴェリンが角を振り回すと、辺りの木の枝がバラバラになって落ちてきた。悪びれた様子のないヴェリンをニールは睨みつける。

「ここにいる人達は、な。お前は今の村の状況を何も知らないからそんなことができるんだ」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ。お前達のせいで俺達の森は滅茶苦茶だ。家族を失う獣人の気持ちがわかるのか?」

 淡々と話し続けるヴェリンに対し、ニールの怒りは爆発寸前。銃は軋むほど強く握られ、噛みしめた唇からは血が流れだしている。

「……がって」

「相変わらず声が小さいな。何か言ったか?」

 挑発するかのような態度で震えるニールに近付くヴェリン。

「……っ、勝手なこと言いやがってぇえ!」

 怒声と共に顔を上げたニールはおもむろに銃をヴェリンの喉元に突き付けた。しかしいつ発砲されてもおかしくない状況でありながら、ヴェリンは一切動揺することなく黒い瞳でニールを見据えている。

「……変わったな、ニール。昔のお前はそんな奴じゃなかった」

「俺を変わらせたのはお前らだ。お前らが運んできた病が村を蝕み、そのせいで大勢の村人が犠牲になった。病を止めるにはお前らを狩りつくすしかない。何より——サニアの命がかかっている」

 ニールの脳裏には病に苦しみながらも自分のことを心配してくれている妹の姿が思い浮かぶ。病を治すためにニールができることは獣人を狩り続けることくらいしかない。

(こいつを、ヴェリンを殺せば、大量の薬が作れる……そうすればサニアも……!)

 引き金に指をかけ銃口をヴェリンに強く押しつける。だが銃を持つニールにはどこか違和感があった。

 ただでさえ表情が乏しいニールの身に起こった些細な変化。よほどニールをよく知っている人物でなければその変化を見抜くことはできないだろう。そう、例えば昔からの友人のような人物でなければ。

「……甘いな、ニール」

「っ⁉」

 たった一瞬生まれた隙をついてヴェリンは高く飛び上がり、そのままニールの下顎に強烈な蹴りを食らわせた。

「が、あ……っ!」

 助走がなくとも筋肉質な鹿の脚から放たれる蹴りの威力は伊達ではない。あまりの衝撃に手からは猟銃が離れ、ニールは仰向けに倒れてしまった。

(まずい、銃が……!)

 幸いにも銃の落ちている場所はそこまで遠くない。慌てて手を伸ばしたニールだったが、あと数センチというところでヴェリンの脚が振り下ろされ銃は飛ばされた。

「そう簡単に武器を取らせると思ったか?」

「くっ……そぉ……」

 ニールが必死で起き上がろうとするも、その上にヴェリンが塞がって身動きが取れない。蹴りの衝撃で揺れたままの頭では起き上がったところで反撃などできないだろうが。

「妹思いなのは変わらないな。だとしても所詮はその程度か」

 見下ろすヴェリンの顔はよく見えない。ただ自分より強く大きな獣に襲われる恐怖を、ニールは感じていた。

「馬鹿にするな! 俺はサニアを助けるためなら何でもするって決めたんだ……たとえお前を殺してでも!」

 恐怖を誤魔化すかのように大きな声を上げる。余裕のないニールの状態を分かってか、ヴェリンは馬鹿にしたように鼻で笑った。

「その割には覚悟が足りないと思うぞ。俺を見た瞬間に迷わず引き金を引くくらいしてみろ」

「くっ……」

 ニールはすぐさま反論しようとしたが言葉が出てこない。

(確かにこいつの言う通りだ。さっき俺が迷わず撃っていたら……いや、あの時から、俺は結局ヴェリンを——)




「ここにいたんだな、ヴェリン」

「ん、ニールか……どうした、今日はやけに真剣な顔つきじゃないか」

 暖かな木漏れ日が降り注ぐ森の中。人間はおろかほとんどの獣人さえも知らぬ二人だけの秘密の場所。敵対する種族である二人のための場所に、ニールは訪れていた。

「そうかな……普通だと思うけど」

 両手は後ろに、どこかよそよそしい態度を取るニール。普段と違う様子の友人を心配してヴェリンは近付いた。

「それなら構わないんだが……村の方針に反対するって必死になってただろ。俺達獣人と和解しようとしてくれるのは嬉しいが、それで責任を感じているんじゃないかと思ってな。何よりお前は自分のことになると誰にも話さず溜め込みやすいだろ」

「そう、かもな……これでもお前にはそれなりに頼ってるつもりだよ」

「それでも足りないくらいだ。言っただろ? 困ったときはお互いに頼るって。何かあるなら俺に話してくれ」

「ヴェリン……ありがとう」

 ニールが下手くそな笑顔を作るとヴェリンもニヤッと笑ってみせた。安心したのかニールはヴェリンのもとへ歩み寄る。

「俺の頼み、聞いてくれる?」

「ああ。何でも言ってみろ」

「助かるよ。それじゃあ——」

 言いながらニールが差し出したのは、一本のナイフだった。


「——死んでくれ」


「っ、何言ってんだよ、冗談キツいって……」

「ヴェリンには申し訳ないと思ってる。でも今のままじゃ、どうしようもないんだ」

「だからって……」

 そんなのおかしい、そう思ったヴェリンだったが言葉を飲み込んで深呼吸する。完全に動揺を抑えきれるわけではなくとも、少し冷静になってニールを見つめた。

「……妹か?」

 そう言った瞬間、ニールの肩が震えた。きまり悪そうにナイフへ視線を落とす。

「……一昨日、家に帰ったら血を吐いて倒れていたんだ。今は落ち着いているけど、またいつ酷い症状が出るかも分からない。薬の順番を待っている間にもどうなるか……!」

「それで薬を作ってもらうために俺を殺したいってことか」

「俺だってヴェリンを殺したくはない……でも小さな獣人ばかり狩っていても作れる薬は——」

 言いかけてハッとした表情になるニール。慌てて口を閉じたが、自分を見つめるヴェリンの瞳は暗かった。

「殺したのか、俺の仲間を」

「っ、仕方ないだろう⁉ 俺なら狩りに慣れているから効率的に獣人を狩れる。薬に使える血液の少ない小型の獣人でも狩らないよりはよっぽどましだ」

「そう、そうか……」

 ヴェリンの顔は影になっていて表情を読み取れない。ただかすかに見える瞳はどこか悲しげな光を宿しているようにニールは感じた。それでも妹を救うために獣人の犠牲を出すことは止められない。

 次の言い訳をヴェリンに話そうとした瞬間、ナイフを握っていたはずの手に痛みが走った。

「だっ……!」

 宙を舞ったナイフは飛び上がったヴェリンの蹄の下になった。強く地面を踏みしめた鹿の獣人は敵意を剥き出しに、大きな角をニールに向ける。

「……ニール、俺は獣人に理解を示してくれているお前を信用していた。人間は嫌いだがお前のことはいい友人だと思っていた……だが、それも今日で終わりのようだな」

「うるさい…………俺の気持ちも村の惨状も、何も知らないくせに‼」

 叫ぶニールがヴェリンを睨みつけると、冷たい眼差しとため息が向けられた。

「残念だ。二度とお前と分かり合うことはない」

 足元のナイフを踏み砕き、土と共に蹴り上げる。視界を遮る土と葉が落ちる頃にはヴェリンの姿はすっかり見えなくなっていた。

 ニールは数分前まで笑顔の元友人が立っていた場所に近寄り、粉々になったナイフを手に取る。ボロボロのナイフでは獣人を狩ることなど不可能。それなのに——

(どうして、安心しているんだ)

 土まみれのナイフを持つ手は震えていた。




「——今のままのお前には俺を狩ることなどできない。妹を救うこともできない。諦めろ」

 悔しさとやるせなさで泣き出しそうになっているニールを見下ろしながらヴェリンが言う。ニールは目の前に突き付けられた正論に、何も答えられなくなっていた。

 そんなニールを見かねたのか、ヴェリンはため息をついてニールから離れる。呆然とした後ニールは起き上がって銃に手を伸ばす。

「……敵に背中を見せていいのか?」

 おぼつかない手つきで銃を構えてみせるも、ヴェリンは依然余裕ぶったまま。焦るどころか振り返ったその顔には笑みすら見える。

「今のお前じゃあ撃てないと分かっているからな。下手したら仲間に当たるんじゃないか?」

「そんなこと……っ」

 強がっても手の震えは止まらない。標準は定まらず、力の入らない人差し指では引き金を引くことは不可能だ。

(やらないと……俺がこいつを殺して、サニアに薬を持って行ってやらないと——)

 無理矢理にでも覚悟を決めようとしたその時、近くの茂みが揺れた。

「「⁉」」

 それまで互いから緊張を逸らすことのなかった二人が同時に茂みの方を向く。深緑の葉の隙間から現れたのは茶色いうさ耳を生やした少女だった。

「獣人……!」

 視界に獲物を捉えた狩人は速かった。真っ直ぐに銃を構え直すと獲物に標準を合わせ、逃げられる前に引き金を引き——


 パンッ!


 乾いた銃声が森に響きわたった。




 狙いは完璧、確実に仕留められた——そう思ったニールの瞳に映ったのは倒れるうさぎの獣人ではなく、血が流れる鹿の脚だった。

「え……」

「ヴェリンっ!」

 唖然としていたニールはうさぎの獣人が発した甲高い叫びで我に返った。うさぎの獣人は苦しそうな表情のヴェリンに近付き、ボロボロ涙をこぼしている。毛の色も耳の形もニールが仕留めた獣人とうり二つだが表情は幼く、体も一回り小さい。

「ごめんなさいっ、わたし、おねえちゃんをたすけてくれたおれいを言おうとおもったのにっ、わたしをかばってヴェリンが……!」

「気にするな、これくらい何てことない。それよりお前とお前の姉ちゃんが無事ならよかったよ」

 冷や汗を流しながらも笑顔で幼い獣人の頭を撫でてやるヴェリン。先程ニールと話していた時とはうってかわってとても優し気だ。

 その様子を黙って眺めていたニールだったが、状況を把握するにつれて胸の奥に違和感を覚え始めた。

(うさぎの獣人……今朝、俺が仕留めた……)

 よく見ると小さな獣人の身体には血が付いている。どこかで転んだのだろうか、土だらけの脚は傷だらけだ。

『家族を失う獣人の気持ちがわかるのか?』

 ヴェリンの言葉が頭の中を巡る。そのたびにニールの胸の奥の痛みは大きくなっていくばかり。

(でも、俺だってサニアを……)

「う……うぅ……」

 銃を手に迷っているニールの横でうめき声が聞こえた。視線を落とすと倒れていた男性がうごめいている。それも一人だけではなく、複数人。

「まずいな……このままここにいたら俺達も危険だ。こいつらが完全に目覚める前に帰るぞ」

ヴェリンも異変に気付いたようで、まだ泣き止まない少女を背に乗せた。右の後ろ脚から流れる血は少しずつ乾き始めている。軽く地面を蹴り上げて動くことを確認すると、ニールの方に顔を向けた。

「……」

 ヴェリンは何も言わずにニールの顔を見つめるばかり。それは怒りではなく、憂いを含んだような表情に見える。ニールにとってはそれが悔しくて、銃を握りしめる。

「……馬鹿にしてんのかよ! 俺がお前を撃てないからって、妹一人救えない可哀想な奴だって思ってるだろ!」

 認めたくなくとも自分の嫌な部分が露呈していく。叫んでいるうちにニールの目からは大粒の涙が流れだしていた。

「なんとか言えよっ‼」

「…………妹、大事にしてやれよ」

「……!」

 待ってとニールが言う前に、ヴェリンの姿は森の奥に消え去ってしまった。

「ヴェリン……」

「ん……ニールか……?」

 倒れていた男性が目を覚まし、ニールに近寄ってきた。よろけそうになった男性を慌ててニールが受け止める。

「だ、大丈夫か……?」

「ああ、すまないな……ってニールお前、もしかして泣いてる?」

「っ、こ、これは……」

 自分が泣いていたことにやっと気付いたニールは急いで目をこする。

「……皆が倒れてたからちょっと心配になっただけ」

「ふぅ~ん? なんだよお前、俺達のことが心配で泣くとか、結構かわいいとこあるじゃねぇか~!」

「わっ、ちょ、止めろって……!」

 男性は暴れるニールなど関係無しに、頭をもみくちゃにする。すると騒がしい二人の声で他の男達も意識を取り戻し始めた。

「うぅ~ん……うるせぇよお前ら!」

「聞いてくれよ! あのニールにも意外とかわいいとこがあってだな……」

「あっクソ! さっき仕留めた小型の獣人がいない! 逃げられたか……」

 男達はお互いの安全を確認できると安心したのか、会話に花を咲かせる。そんな中、ニールはたった一人で森の奥を眺めていた。

「…………」

「どうしたんだニール、ぼーっとして」

 声をかけたのはうさぎの獣人を仕留めた時にいた一際体格のいい男だった。

「あ、いや……」

「まあせっかく仕留めた獲物に逃げられたら悔しいよな。でも今日はとりあえず撤退して、また明日狩りに出ようじゃねぇか」

「いや……」

「お前らー! 話ばっかしてないでさっさと帰る準備しろ!」

「あ……」

 男性は一人で十分話して満足すると、ニールの返事も聞かずに他の男達の場所に戻る。少し呆れたニールだったが、どこか安心している自分がいるのに気付いた。

「……次は絶対に仕留めてやる」

 誰に聞かせるでもなく呟き、自分も村に帰る準備を始めるのだった。

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君のために 皆河雪華 @sekka_0301

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