道標


龍は今日も暗いうちに家を出た。万が一にも遅れるわけにはいかなかった。

移動中のクルマの中で、昔からずっと考えてきた事を改めて考えてみたが、いくら考えても答えは出ない。そもそも璃子はどうして自分の元から居なくなってしまったのか。自分との生活が嫌になって、どこかへ行ってしまったのだろうか。いや、そんなはずは絶対にない。龍は心の底から璃子を愛していたし、璃子も自分の事を愛してくれていたはずだ。やはり未来に戻ってしまったのだろう。来られたのだから戻れないはずはない。龍はタイムスリップについて璃子から二〇二一年の六月の日曜日としか聞いていなかった。だからこうやって六月になってから日曜日には暗いうちからポプラの並木にきて、璃子を待った。しかしこれまで璃子らしい人物には出会わなかった。そして今日が最後の日曜日だった。もし、今日も会えなければ、タイムスリップの話は嘘だった事になる。龍は自嘲的に笑った。三十年前に聞いたタイムスリップという常識では考えられない話を信じてこうやってクルマを走らせている自分がおかしかった。五十を過ぎたいい大人のする事とは我ながら思えなかった。今日もし会えなかったら、璃子の事はきっぱり忘れよう、龍はそう固く心に決めていた。そして多分そういう事になるのだろうと思っていた。

しかし、もし璃子に会えたなら、その時どうすればいいのか、三十年間考え続けて来たが未だに結論は出ていない。璃子はタイムスリップした事であんなに苦しんでいたのだから、何とかして璃子の苦しみを取り除いてやりたかった。だから最初は、タイムスリップしないように、璃子を見つけたら直ぐに並木道の外に連れ出そうと思っていた。若しくは璃子を追いかけてきたという不審者を捕まえてやろうとも考えていた。しかし、よくよく考えてみると、タイムスリップする前の璃子は自分の事など知らないのだから、首尾よくタイムスリップを阻止できたとしても、璃子にとっては知らない中年男にいきなり並木道の外に連れ出されただけで、何の事だか分からないだろう。説明したところで信じてもらえるはずもない。それに、もしタイムスリップを阻止してしまったら、自分は璃子に出会わない事になってしまう。その場合、自分の中にある璃子との想い出、記憶はどうなるのだろうか、一瞬にして消えてしまうのだろうか。そう考えるとそれはそれで耐えられなかった。ならば、タイムスリップの阻止など考えない方がいいのではないか。そうすると自分は何のためにここに来たのか、いつもと同じで結論のでない堂々巡りを繰り返すだけだった。しかし、今、はっきりと分かった事が一つだけあった。それは、どういう結果になろうとも、一目だけでもいいからもう一度璃子に会いたい、という事だった。

そんな事を考えながら運転していて、ふと気付くとクルマが全然進んで行かない。しかし日曜日のこんなに早い時刻に渋滞などあるはずがなかった。事故に違いない。龍は段々イライラしてきた。三十分程たったが十メートル程しか進んでいない。徐々に空が明るくなってきた。龍は渋滞を避けるため、ナビを見ながら迷路のような住宅地へ入り込んだが、一方通行や進入禁止が多く、思う様に進めない。龍は焦った。

(何で今日に限ってこんな事になるんだ!)

並木道まではまだ五キロ程ある。辺りは更に明るくなってきた。龍は一方通行を逆走して最短距離で並木道に向かった。ここで遅れたら三十年間待ち続けた事が無駄になってしまう。狭い路地のブロック塀にミラーを擦りながら龍はクルマを走らせた。何とか並木道の近くまで辿り着くと駐車禁止の標識を無視してクルマを停め、外へ出ると並木道へ向かって走りだした。こんな時でも長年の習慣でキャップとサングラスをかける事は忘れなかった。

龍が息を切らせながら並木道の端に着いた時、道の中程に人影が見えた。女性の様に見える。龍は呼吸を整えながらゆっくりと近づいて行った。するとその人影もこちらに気付いた様で反対側に向かって歩き出した。龍は思い切って声をかけてみた。

「すみません。ちょっと!」

その声に振り返った時に顔が見えた。璃子だった。

長い間思い続け、夢にまで見た璃子が今目の前にいる。璃子を見た瞬間、三十年前に璃子と過ごした日々の様々な場面が頭の中に流れ込んできた。龍に説教をしながら部屋を掃除する璃子の姿やタイムスリップの事を打ち明けた時の悲しそうな顔、そして嵐のポプラ並木で二人ともびしょ濡れになった時の光景等が映像として頭の中に次々と映し出された。タイムスリップを阻止したらどういう事になるか等という心配は全て頭から飛んでしまった。今はただ、璃子をもう一度この手に抱きしめたい、その思いだけがあった。

「待って!」

龍は全力で走った。璃子も走って逃げたが直ぐに追いついた。

そして後ろから璃子の肩に手をかけた。

「待つんだっ!」

その瞬間、龍の手は空回りした。バランスを崩して転びかけたのを何とか持ちこたえたが、その時には周りに誰もいなかった。

龍は、状況を理解するのに数分かかった。三十年ぶりに璃子に会えた事に我を忘れ、走り寄った瞬間に璃子は消えてしまった。それは璃子から聞かされていたタイムスリップの状況そのものだった。璃子は不審者に追いかけられて、肩を掴まれた瞬間にタイムスリップしたと言っていた。

(一体俺は何をやってるんだ。璃子をタイムスリップに追いやるために、三十年間もこの日を待ち続けていたのか! 何て間抜けな話なんだ!)

龍はその場に座り込んでしまった。足に力が入らず立ち上がる事が出来なかった。三十年前に璃子が突然いなくなった後も、いつかまたきっと会えると自分に言い聞かせ、約束通りプロのギタリストになった。決して楽な道ではなかったが、今では実力派ギタリストとしてそこそこ名の通った存在になっていた。もし璃子に会えたなら、プロになるという二人の夢を叶えたこの姿を見てもらいたかった。そう思い続けて三十年間待ってきたのに、今目の前で璃子はタイムスリップして消えてしまった。龍の右手にはほんの一瞬だけ触れた璃子の細い肩の感触が僅かに残っていた。

どれ程の時間が経っただろうか、龍は何とか立ち上がりゆっくりとクルマの方へ歩き始めた。タイムスリップの話は本当だった。しかしこれからどうやって生きていけばいいのか。そんな事をぼんやり考えながら龍は帰って行った。



 割れるような頭の痛みで璃子は目を覚ました。美智子も幼い璃子もそこにはいなかった。一体自分は何という事をしてしまったのだろう。璃子は絶望した。もうこれで二度と美智子には会ってはもらえないだろう。

 璃子は何とか立ち上がり、痛む頭を押さえながら近くのベンチに腰を下ろした。

それにしても何という皮肉な巡り合わせなのか。三十年前のあの狂人が自分自身だったとは。とにかく一旦アパートに戻ろう、そう思って立ち上がろうとした時、何かが違う感じがした。今座っているベンチの端が腐って崩れていた。心臓の鼓動がまた急激に速くなった。

 (まさか!)

 璃子は逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと周りに目を移した。すると目の前にあの洋館があった。それは建物中が緑色の蔦に覆われていた。これは何かの勘違いなのか、それとも夢なのか。璃子は慎重に考えた。喜び過ぎると勘違いだった時に立ち直れない程のショックを受けてしまう。自分自身に「喜ぶな、喜ぶな」と言い聞かせながら、走り出した。もう頭の痛みは全く感じなかった。

 並木道を駆け抜ける間も目に入る家は全て古い家ばかりだった。そして細い路地を通り抜け、最後の角を曲がったその先にあったのは、夢にまで見た我が家、あの白い壁に薄茶色の洋瓦が映えるスペイン風の家がはっきりと見えた。璃子は、そのまま走り寄り、家の中に飛び込んだ。

すると奥から貴士が物凄い剣幕で怒鳴りながら出てきた。

「璃子か! 一体どこに行ってたんだ! もう昼過ぎてるんだぞ! 心配するじゃ……」

しかし貴士は璃子の姿を見るなり言葉を飲み込んで、その場で固まってしまった。目の前にしゃがみ込んだ若い女は、薄汚れた見慣れないジャージを着て、璃子よりも髪の毛がかなり長かった。玄関でうずくまる様にして、肩で息をしていた。

そして貴士が「どなたですか」と声をかけようとした時、貴士を見上げたその目は、紛れもなく璃子の目だった。どんなに容姿が変わっていても目だけは璃子そのものだった。

璃子は、貴士が自分と同年代の若い貴士ではなく、白髪の混じりの見慣れた父だった事に安堵したが、貴士がどんな反応をするのか恐ろしくて何も言い出せなかった。不安そうに見つめる璃子に向かって貴士が言った。

「お前、璃子なのか? 一体どうしたんだ。そんな格好をして。まさか……」

璃子は叫ぶように言った。

「私、帰って来たの! もう戻って来られないと思ってた!」

それだけ言うとあとはもう言葉にならず、大声を上げてわんわん泣いた。貴士は駆け寄って璃子を抱きしめた。

「それじゃあ、三十年前に俺達の所に来たのは、やっぱり璃子だったのか?」

貴士もそれだけ言うと後は言葉にならなかった。異変に気付いた美智子も出てきて直ぐに状況を理解した。そして三人でいつまでも泣き続けた。


璃子は一年前にタイムスリップしたその日の午後に戻って来た。貴士や美智子にとっては、早朝ジョギングに出た璃子がいつもは一時間程で返ってくるのに、その日は昼を過ぎても戻って来なかった。心配しているところへ髪の毛が伸び見慣れない服を着た璃子が帰って来たという事になる。

しかし、璃子にとってはタイムスリップの後、一年間を三十年前の世界で過ごしていたため、貴士と美智子に会うのも一年ぶりという事になる。最初はどう接すればいいのか戸惑ってしまった。

それに、これまでに何度も元の世界に戻った夢をみたが、いつも喜んだ瞬間に目が覚めた。これは本当に現実なのか、夢ではないのかと疑っていた。またふと気付くと三十年前の世界に戻っているのではないか、そんな不安があったが、暫くして本当に元の世界に戻ってきたのだと分かった時、やっと喜びが込み上げてきた。手放しに喜んで有頂天になっていたが、少し落ち着いてくると、自分が三十年前の世界から突然消えてしまったという事に気が付いた。政子は大丈夫だったろうか、面倒な事になっていると言っていたが、杉本に騙されなかっただろうか。

(ちょっと待って! 龍は、龍はどうなるの! 龍とはもう会えないという事なの!)

自分は龍の前から突然消えてしまったという事に気が付いて璃子は愕然としだ。何という事か、璃子は人生で初めて心の底から愛し合えた人を失ってしまった。

もちろん、璃子自身にとっても龍を失った事は計り知れない程大きな事だったが、龍の悲しみと戸惑いを想像すると、璃子は居ても立っても居られなくなり、そわそわし始めた。喜んだり落ち込んだりを繰り返す璃子を見て、貴士と美智子は心配になった。

「璃子、お前、大丈夫か?」

「ええ、大丈夫、多分。でもね……。お父さん達にとっては、私は今朝ジョギングに出て、お昼過ぎに戻ってきたんでしょ。でも私は、三十年前の世界で一年間生きてたのよ。一年間そこで生活してたの。だから向こうの世界で友達も出来たし、沢山の人達にお世話になったのよ。そういう人達にさよならも言えずに、何の前触れもなく突然いなくなったのよ。皆きっと心配してるわ……」

「そうか、お父さん達は何もしてやれなかったけど、色んな人がお前の事を助けてくれたんだな。出来る事ならその人達一人一人にお礼を言って回りたい気持ちだよ。あの時はお前の事を信じてやれなくて済まなかったな」

「いいのよ。戻って来られたんだし、それに実際に体験した私自身もタイムスリップした現実を受け入れるのに何日もかかったんだから、お父さん達が信じられなかったのも無理ないと思ってる。それに、あの時、お父さんは若しどうにもならなくなったらまたここに来なさいって言ってくれたの、憶えてる? 私はあの言葉に本当に救われたのよ」


貴士とも相談して、璃子は暫く会社を休む事にした。今の精神状態では到底仕事が出来るような状態ではないし、第一、タイムスリップ前に会社でしていた仕事など全く憶えてない。璃子にしてみればもう一年間も出勤してないのだし、今はあの会社の社員でいる事に何の魅力も感じなくなっていた。このまま会社は辞めてしまいたいという気持ちさえあった。そして、小林孝太朗との結婚話は改めて考えるまでもなく、断る事に決めていた。

翌日朝食を済ませると貴士達が引き留めるのもきかずに璃子は家を出た。そして商店街に行ってみた。そこには一年ぶりに見る、ある意味懐かしい景色があった。スナックマサコがあった場所はやはりカラオケボックスになっていた。関沢ストアーはワンルームマンションになっていて、全体的に三十年前のような賑わいはない。見慣れていたはずの景色が懐かしいという妙な感覚だった。

この世界に戻れた興奮が落ち着いてくると考えるのは龍の事ばかりだった。龍は璃子が初めて本気で好きになった人だった。今から思えば、それまでに経験した恋愛はいつも心のどこかに打算的な考えがあったような気がする。地位や収入の低い男は私に相応しくないとか、背の低い男だと並んで歩くのが恥ずかしいとか。璃子自身が嫌だというのではなく、そういう相手と付き合っている自分が周囲からどう見られるのか、そんな事ばかり気にしていたような気がする。そういう余計な事を何も考えず、ただ単にこの人が好きだから、という理由だけで付き合ったのは龍が初めてだった気がした。

龍は今頃どうしているのだろう。自分が龍の前から突然いなくなってしまった時、龍はどれ程苦しんだ事だろう。ちゃんと立ち直れたのだろうか。それとも龍の事だからまたやけを起こして、自堕落な生活に逆戻りしてしまったのだろうか。璃子にとっては、最後に龍に会ったのはつい昨日の事だった。出かける時に「ホテルが決まったらバイト先に電話を入れてくれ」と言ったのが最後の言葉だった。しかし今はあれから三十年が経ち、龍は五十三歳になっているはずだ。龍はあの後どんな三十年を過ごしたのだろう。プロには成れたのだろうか。結婚はしたのだろうか、そんな事を考えていた。

龍が璃子に会うために三十年間待ち続けた事など知る由もなかった。自分が過去から戻ったその時、ほんの数時間前まで同じ場所に龍がいた事など想像する事もできなかった。



璃子は、その後何度か商店街に立ち寄り、政子や龍の消息を訪ねて回った。しかしバブル期以前からの住人はほとんど残っていなかった。何人か政子や関沢ストアーの事を知っている老人もいたが、消息までは分からなかった。

あんなに辛かったスナックマサコでの生活も今となってはある種の懐かしささえ感じられた。皆、自分の貪欲さを隠そうともせずにいつも金儲けの話ばかりしていた。お金をどれだけ持っているかで人の価値が計られるような時代だった。しかし、それは人間の正直な本性を隠さず曝け出しているという点ではある意味好感が持てた。今の世の中は皆上辺は上品なすまし顔をしているが、心の中では何を考えているか知れたものではない。これは現在とバブル期という時代の違いなのだろうか、それとも場末のスナックという場所柄のせいなのだろうか。

いずれにしても三十年前の世界で一年間過ごした事で、璃子の価値観、人生観は大きく変わってしまった。これまで璃子が価値があると考えていた事、当たり前と考えていた事が全て根底から覆ってしまった。

タイムスリップの前までは、自分はこのまま小林孝太朗と結婚するのだろうと思っていた。家柄もいいし、高収入だし、イケメンだし、普通に考えれば申し分のない結婚相手だった。そして結婚後は子供を一人か二人産み、年に一度か二度は家族で海外旅行に行く、そんな生活になるのだろうと思っていた。特にエキサイティングではないが、まあ、こんなものだろうと納得していた。

しかし、龍と出会った事で孝太朗への気持ちが愛でも恋でもなかった事にはっきりと気付いてしまった。孝太朗とはもう別れるしかない。そして孝太朗と別れる以上、会社も辞める事になるだろうと思っていた。孝太朗にも会社にも何の未練もなかった。ただ、これからどう生きていけばいいのか、漠然とした不安を感じていた。


何度商店街へ来てみても龍や政子の事は何も分からなかったし、昔のような人々の賑いもない。ただシャッターが閉まったままの店が並んでいるだけだった。いつまでもこの商店街に縛られていても仕方ないと思い始めた時、ふと政子の言葉を思い出した。

「昔を思い出す事しかできない人間になっちゃダメ、どんな時も前を向いて生きるのよ」

一体、このタイムスリップの一年間は自分にとってどんな意味があったのだろうか。ひで爺は言っていた、「世の中の事はすべてが必然、因果応報。学びきるまでレッスンは続く」と。私は三十年前の生活の中で一体何を学んだのだろうか。

様変わりした商店街の中で今も変わらないのはあの空き地だけだった。今もホームレスが住み着いていて、周辺には悪臭が立ち込めている。まさか三十年前と同じ人物ではないだろうが、ここにはいつもホームレスが住み着いていた。璃子は政子にホームレスの事で説教された事を思い出しながら、空き地を眺めた。

遠目にホームレスを見ると今も段ボールにくるまって動かない。顔はこちら側に向いているが、目をつむっているように見える。寝ているのだろうか。三十年前は政子や関沢が食事を差し入れたりしていたが、今はどうなのだろうか。

璃子は近くの店で温かいミルクコーヒーを二つ買った。大きめのペットボトルで甘そうな物を選んだ。空き地の前で暫く佇んでいたが、やがて意を決したように中へ入って行き、ホームレスの前にしゃがみ込んだ。そして思い切って話しかけた。

「あの、すみません!」

ホームレスは直ぐ近くで声がした事に驚いて目を開けた。そして、少し狼狽えたような表情で、ゆっくりと上体を起こした。

璃子は出来る限りの笑顔を作ったつもりだったが、内心ではいきなり怒鳴られたらどうしよう、などと心配していたのでかなりぎこちない笑顔になってしまった。

「脅かしちゃってごめんなさい。あの、これ、間違って二つ買っちゃったんで、もし良かったら一個貰ってください」 

自分でも随分と変なこじつけだと思いながらペットボトルを差し出した。

そのホームレスは璃子の言っている事が理解出来ないと言った表情で、黙ったまま璃子を見つめている。

璃子はホームレスの目を真っ直ぐに見た。その目には不安と戸惑いと共に、璃子に何か問い返すような表情がはっきりと表れていた。言葉は発していないが、「本当に貰っていいんですか?」と言っているように見えた。

璃子は、ホームレスの無言の問いかけに、ゆっくり頷きながら言った。

「そうです。これ、貰ってください。甘くて美味しいんですよ」

そう言いながら、璃子は自分でボトルのキャップを開け、ホームレスの手を取って渡した。

「ほら、まだ温かいでしょ」

そしてホームレスの真っ黒に汚れた手を両手で包むようにしてペットボトルを口元に持っていった。

ホームレスは更に驚いたように目を見開き、璃子を見つめたままコーヒーを一口だけ飲んだ。暫くはコーヒーを口に含んだままだったが、やがて飲み込むと直ぐに二口目を飲んだ。今度は璃子の手を借りず、自分の手でちゃんとペットボトルを持って飲んだ。

「ねっ、美味しいでしょ!」

ホームレスは何度も頷きながら、その度に顔をしかめる様な仕草をした。多分彼は笑ったつもりなのだろう。きっと何年間も笑った事などないに違いない。何とも奇妙な表情だったが、この突然のプレゼントを喜んでいる事は確かだった。

璃子はホームレスがズルズルと音を立てながら少しずつコーヒーをすする姿を見て、とても嬉しくなった。たった一本のコーヒーだけで、人をこんなにも喜ばせる事が出来るというのは新たな発見だった。

「あの……、やっぱりこっちもどうぞ」

璃子はそう言いながらもう一本のコーヒーも置いて立ち上がった。

「じゃあ、私帰ります。あの、また来てもいいですか?」

ホームレスは黒く汚れた顔をしかめたまま何度も頷いた。

政子の言った通りだった。ホームレスも何も変わらない普通の人間だった。ちゃんと意思の疎通もできたし、温かいコーヒーを飲んで、嬉しそうな顔もしていた。どういうわけか、臭いはそこまで気にならなかった。

何か、とても清々しい気持ちだった。空き地から出る時に、丁度通りかかった数人が怪訝な顔で璃子を見ていた。

璃子は見られて恥ずかしい気がしたが、それよりもあのホームレスが喜んでくれた事が嬉しかった。そして、この嬉しさと恥ずかしさの入り混じった様な感覚はどこかで感じた事のある感覚だった。


家への帰り道、璃子はポプラの並木を通った。穏やかな風に吹かれて揺れるポプラの樹々が静かな葉音を立てていた。ここでは色々な事があったが、不思議と恐怖感や嫌悪感は全くなかった。やはり璃子はこの道が好きだった。そして、ポプラの木立を眺めながらゆっくりと歩いている時、璃子は不意に思い出した。

(そうだ! 思い出した。あれは小学生の時、電車で初めてお婆さんに席を譲った時だ! あの時感じた嬉しさと同じなんだ)

それは長い間忘れていた感覚だった。確か小学二年か三年の頃、璃子が初めて一人で電車に乗って少し離れた街まで行った時の事だった。

車内はそこそこ混んでいたが、璃子は運良く座る事が出来た。そして電車が次の駅に着いた時、一人のお婆さんが乗って来た。品のいい年寄りだったが髪の毛は真っ白だった。そのお婆さんは車内を見回して空いている座席がないと分かるとすぐそばの吊革につかまった。璃子の斜め向かい側で璃子に背を向ける形で吊革につかまっていた。璃子の位置からはお婆さんの正面に座っている人達がよく見えたが、皆目をつむっていた。この状況に璃子は少なからず驚いた。学校では日頃お年寄りには席を譲りましょうと教えられていたし、お年寄りが立っていたら席を譲るのが当たり前だと思っていた。しかし、誰一人として席を譲ろうとする人はいない。璃子は迷った。お婆さんに席を譲りたい気持ちはあるが、大人達が誰も何もしないのに、子供の自分が席を譲って大丈夫なのだろうか。自分が席を譲ったらお婆さんの前に座っている人達はどんな風に感じるのだろうか、璃子はそんな事を考えて中々動けなかった。その時、電車がガタンと音を立てて大きく揺れた。お婆さんは片手で吊革を持ったままバランスを崩して隣の人にぶつかってしまった。

それを見た時、璃子は思い切って立ち上がり後ろから声をかけた。そして振り向いたお婆さんに向かって言った。

「座ってください」

そのお婆さんは一瞬驚いた顔をしたがすぐに明るい笑顔で答えた。

「いいんですか? ありがとうございます」

そして座席に座ると、嬉しそうに微笑みながら「助かりました。ありがとうございます」と小学生の璃子に敬語でお礼を言って丁寧にお辞儀をした。璃子はあの時、周りの人達の視線を感じてとても恥ずかしかったが、同時にこれまでに感じた事のない嬉しさを感じた。自分のちょっとした行いで、これ程人を喜ばせる事が出来るという事が驚きでもあった。あの時感じた感覚は大人になっていく過程でいつの間にか忘れていたが、さっきホームレスにコーヒーを渡した時、長い間忘れていた感覚が何十年ぶりかに蘇った。

そして、これまでずっと感じていた漠然とした不安や迷いが霧が晴れるように一気に消え去り、視界が開けたような気がした。

(そうだ、これだ! この気持ちだ! 私はこういう事がしたかったんだ!)

この年になって初めて本当にやりたい事に気が付いたような気がした。とにかく、私は困っている人を助けたい。人の喜ぶ顔が見たい。誰かの役に立ちたい。

自分に出来る事など高が知れているだろう。この世の中に困っている人は数え切れない程いる。この街だけでも誰かの助けを必要としている人は何十人、何百人といるだろう。自分が一人で頑張って仮に二人、三人を助けられたとして、それに一体どれ程の意味があるのだろう、以前の璃子ならきっとそんな風に考えていただろう。しかし、今は違う。人の喜ぶ顔を見た時の嬉しさを思い出した璃子にとっては、何人を助けたとか、それに意味があるとかないとか、そんな事は全然関係がなかった。ただ困っている人を一人でも二人でも助けたいから、自分にできる事をやるだけ。必要な事全てはしてあげられなくても、自分にしてあげられる事が必ず何かある、そんな風に感じていた。

具体的な事はまだ何も分からない。でも、今のこの気持ちを大切にして、自分に何ができるのか、考えてみよう。きっと方法は見つかるはずだ。

いつの日か龍や政子にまた会う事ができたなら、私は今こういう事をしていますと、自信をもって話せるように、出来るだけの事をやってみよう。

タイムスリップなどという事がなぜ自分に起きたのか、そこから学ぶべきレッスンとは一体何だったのか、璃子には未だに分からない。しかし、あの一年間の経験で自分の価値観や人生に対する考え方が大きく変わったのは確かだった。ひで爺が言っていたように、きっとすべてが自分にとって必要な事だったのだろう。

この先もきっと色々な事が起こるのだろう。様々な授業を受ける事になるのだろう。しかし、どんな授業であっても、どんな教師が現れても、自分はきっと乗り越えていけるだろう。

(だって起こる事は皆、私に必要な事なのだから)

璃子は、真っ直ぐに続くポプラの並木を歩きながら、そんな事を考えていた。いつの間にか空は青く晴れ渡り、西の方は薄っすらとオレンジ色になり始めている。もうすぐ梅雨も明けるのだろう。

そしてその時、ふと耳元でひで爺の声がしたような気がした。喉の奥に何か詰まったような、あの懐かしいくぐもった声が聞こえたような気がした。

「大丈夫、何も心配する事はない」


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レッスン 小谷地康夫 @oyajiyasuo

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