覚悟
1
暫くは穏やかな日々が続いた。岡本や杉本は何ヶ月もの間全く姿を見せなかったし、マルサと思われる目つきの悪い連中も見かけなくなった。溝端は最初の頃は毎日のように通ってきたが今では週に一回、木曜か金曜に来るだけになっていた。それも毎回カウンター席に着き、ロックのウイスキー風に入れたアイスティーをチビチビ飲みながら笹原と世間話をして帰ってゆく。最初、溝端はしきりに璃子に話しかけてきたが、政子から璃子には同棲している恋人がいると聞かされると途端に璃子には話しかけなくなった。そして店に来るのも週一回になった。
璃子と龍は、あれから何日もかけて今後の事を話し合った。龍の学校の事、璃子の両親の事、そして引っ越しの事。璃子は両親に対する自分の強い思い、会って全てを正直に話せば必ず信じてもらえるという思いも正直に話した。そして龍も璃子と両親の事を最優先で考えようと言ってくれた。
二人が散々話し合って出した結論は、まず璃子の心の整理が着いたら両親に会いに行く。璃子が納得できるまで何度でも両親と会い、もう引っ越してもいいと思えた時に二人で一緒に引っ越すというものだった。結局、学校は九月入学のコースに変更する事にした。これについては最後まで意見が合わなかった。璃子は自分のために龍が入学を遅らせる事などあり得ない、龍がプロになる事は今や自分の夢でもあり夢が遠のくのは嫌だと繰り返した。しかし、最後は「俺にはプロになる事よりもお前の方がずっと大切だから、お前の気持ちに整理が着かないうちに引っ越す事なんて出来ない」という龍の言葉に押し切られた。
璃子は、ここまで自分の事を大切に思ってくれる龍の気持ちに報いるため、両親の事から逃げずにきちんと向き合い、なるべく早い時期に会いに行こうと思った。ただ、一カ月やそこらで心の整理がつけられるとも思えなかった。これまでの半年間で何度も両親に会いに行こうと思ったが、その度にタイムスリップ直後に家の前で見た若い美智子の疑うような眼差しが頭をよぎり、家に近付く事もできなかった。
璃子は現実的に考えられる最も早い時期として五月と自分で決めた。何があっても五月三十一日までには必ず両親に会うと決めた。
それから毎日両親と会った時に何をどう話すか、話す内容と順序を考えた。貴士と美智子に自分が彼らの娘だという事を信じてもらうためにはどうしたらいいのか、それはやはり彼らの娘である自分しか知るはずのない事を話す事だろう。貴士の誕生日は五月十一日、美智子は七月二十四日、二人の結婚記念日は一月九日、でもそんな事は娘である事の証拠にはならないだろう。誰かが調べようと思えば調べられる事だ。もっとプライベートな事で絶対に家族しか知るはずのない事でなければダメだ。最初璃子は簡単に考えていた。実際に自分は二人の娘で、家族しか知り得ない事をいくらでも知っているのだから。例えば、毎年夏に行くキャンプや冬のスキー。どこに行ったか、そこでどんな事があったのか、これは絶対に家族しか知らない事だろう。これらの思い出を話せば、それは自分が貴士と美智子の娘である事の明確な証拠になるはずだ。璃子は具体的にどこのキャンプ場でどんな事があったのか、冬のスキーはどうだったか、なるべく詳細に思い出そうとした。そしてはたと気付いた。璃子の記憶にあるこれらの想い出は、全て璃子が物心ついた四、五歳以降の出来事だった。つまり一九九二年の現在においては、璃子はまだ二歳であり、キャンプやスキーの思い出は全てこれから起こる未来の出来事だっだ。貴士や美智子に、まだ行った事もないキャンプやスキーの話をいくらしたところで何の意味もない。
現実に二人の娘なのだからそれを証明する事など簡単だと思っていたが、自分の記憶は何の役にも立たない事が分かって璃子は軽いパニック状態になってしまった。どうしよう、一体何を話せば二人に信じてもらえるのだろう。二歳より前の事で知っている事といえば両親の馴れ初めくらいだが、それも詳しく知っているわけではない。同じ会社で働いていて社内結婚だったとう程度でそれ以上は何も知らなかった。何か自分に特有の身体的な特徴でもあれば、例えば身体のどこかにアザでもあればそれを見せる事もできるが、そういったものも何もなかった。
いいアイデアが浮かばないまま時間だけが過ぎていった。既に三月も半ばを過ぎ、自分で決めた五月というタイムリミットも徐々に迫ってくる。璃子は段々と焦り始めた。
そんなある日の事、龍が急に墓参りに行こうと言い出した。両親のお墓が近くにあるという。初めて聞く話だった。
「実はこの近くに親父とお袋の墓があるんだ。墓といってもそんなちゃんとしたものじゃないんだけど、いつか璃子を連れて行きたいと思ってたんだ。一緒に行ってくれるか?」
璃子は嬉しかった。たぶん両親に自分を紹介するような気持ちなのだろう。もしかするとプロのギタリストを目指す事を報告したいのかもしれない。
その寺は龍のアパートから十五分程歩いた所にあった。いつの時代に建ったものか分からないが、古い門がありそこには大滝寺と書いてあった。寺に着くとそのまま中に入ろうとする龍を呼び止め、璃子は近くの花屋で花とお線香を買った。
「龍くん、お墓詣りに行くんだから、お花くらい買わなくちゃ」
「あっ、そういうもんか?」
龍は花なんてどうでもいいという様子ですたすたと中へ入っていった。そして墓地の奥まった所にある大きな納骨堂のような建物の前でとまった。そこには「永代供養塔」と書かれていた。龍は少し恥ずかしそうに話した。
「親父もお袋もここに入ってる。ここは墓を守る親族が絶えたお骨とかをまとめて供養する所なんだって。親父が死んだ時もお袋が死んだ時も墓を建てる金なんか全然なかったから、ここの坊さんの好意でタダで入れてもらったんだ。親父はここの坊さんと長い付き合いだったらしい」
「そのお坊さんって、いつか話してたお坊さん? 龍くんが子供の頃に時々お米を持ってきてくれたっていう?」
「そうだけど、俺、そんな話したっけ?」
龍はお坊さんの話をした事など忘れてしまったようだった。璃子は供養塔に花を供えてお線香に火を点け、そして龍がプロに成れるようにと願いながら手を合わせた。拝み終わって横を見ると、意外にも龍はまだ手を合わせていた。璃子の視線に気付くと直ぐに拝むのを止め、照れくさそうな顔で言った。
「さっ、帰るぞ」
「ねぇ、何ていって拝んだの? 私は龍くんがプロになれますようにってお願いしたわよ」
「別に俺は願い事なんかしてないよ。俺は、アンタ等から親らしい事は何一つしてもらわなかったけど、今はこんないい女と暮らしてるぞって自慢してやったんだ」
「相変わらずひねくれてるわね。でもまあいっか、私がいい女だって事は分かってるみたいだから」
二人が軽口を叩きながら帰ろうとした時、遠くから誰かが声をかけてきた。
「ちょっと待ちなさい! 龍じゃないのか? 今そっちに行くから待ちなさい!」
「ちぇっ、面倒くさい奴が来た」
龍は舌打ちをすると璃子の手を強く引き、反対方向から帰ろうとした。
しかし声の主はちょっとびっくりする程の速さで二人の前に回り込んで来た。
気が付くと薄汚れた僧衣をまとった老人が目の前にいた。頭頂部の尖った完全な禿げ頭で目が出目金のように飛び出している。しかし、にっこり笑った顔の血色はよく、人懐っこさが感じられた。
「やっぱり龍じゃないか、何も逃げる事はないだろう。はっはっはっ」
老人は喉の奥に何か詰まっているのかと思う程くぐもった声で言い、元気よく笑った。そして璃子の方を見て会釈するようにうなずくとまた話し始めた。
「この人が最近お前と一緒に暮らし始めたというお嬢さんだな」
「そんな事、どこで聞いて来るんだよ」
「どこでもいいだろう。ワシは何十年もこの寺にいるんだぞ。この辺の事は何でも知っとる。最近お前が真面目に働いてる事もちゃんと聞いとるぞ。はっはっはっ」
「ひで爺さんよぉー、悪いけど俺達急いでるんだ。親父とお袋をここに入れてくれた事には感謝してるけど、もう俺には関わらないでくれよ」
「そうはいかん。ワシはお前の親父さんからお前の事を頼まれておるんだからな」
どうやらこのひで爺という老人がお米を持ってきたり、両親をタダで供養塔に入れてくれたというお坊さんらしい。いかにも面倒見の良さそうな老人だったが、龍はあからさまに迷惑そうな顔をするとくるりと背を向けて立ち去ろうとした。その時、ひで爺が背後からとてつもない大声で怒鳴りつけた。
「この馬鹿者めがっ!」
いったいこの老人のどこからこんな声が出るのかと思われる程の大音声だった。さすがに龍もその場に立ち止まった。そして恐る恐る振り返るとひで爺が恐ろしい形相で睨みつけている。血が上った禿げ頭からは湯気が出ているように見えた。二人が金縛りにあったように固まっていると、老人はまた元の人懐っこい笑顔に戻って言った。
「そんなに急いで帰る事もあるまい。今日はお前にいい話をしてやろうと思ってな」
外見はただの年老いた坊さんだが、このひで爺には何か逆らい難い迫力のようなものがあった。三人は本堂のある方へ戻り、小さな池の脇にある縁台に腰をおろした。
「実はな、お前の噂を色々聞いて関心しとったんだ。最近は真面目に働いてるそうじゃないか。そこにいるお嬢さんのお陰かな」
璃子はお嬢さんといわれる事に抵抗を感じていた。
「あの、私、お嬢さんなんかじゃないです。もう三十三ですから」
「何を言うか、ワシから見れば三十三歳は立派なお嬢さんですよ。ワシはな、アンタには本当に感謝しとるんです。この出来損ないがアンタに出会ってから見違えるようになった。この男は昔から親を恨み、世の中を恨み、正業にも就かず遊び人のような暮らしをしておったのです。それがアンタのお陰でどうやら今は何か目標ができたようです」
龍はふてくされたように横を向いていたが、特に口を挟む事もなかった。
「おい、龍、何を怒っとる? ワシはお前を誉めとるんだぞ。それで今日は一つ教えてやりたい事があってな。多分今のお前なら理解できると思うから言うが、もういい加減に親や世間を恨むのはやめろ。自分の不幸を親のせいにするのは筋違いというものだ。今の自分があるのは誰のせいでもない、お前自身のせいなのだからな。人を恨む暇があったら少しでも自分で努力してみろ、きっとお前が思っているよりずっといい結果になるはず……」
その時、龍がひで爺の言葉を遮って言い返した。
「おい、ひで爺、黙って聞いてりゃ勝手な事ばかり言いやがって。親を恨むのは筋違いだと! 爺さんだってよく知ってるだろ、俺がガキの頃のうちの惨状を。親父は年がら年中飲んだくれて。親を恨むのが筋違いなら、いったい誰を恨めばいいだんよっ!」
「まあ、そう興奮せずに話を聞け。いいか、この世の中には法則があるんだ。自然の摂理といってもいい。この法則を知っているのと知らないのとでは今後のお前の人生が大きく変わってくるぞ。それはな、お前がした事はどんな事でもすべてお前に跳ね返ってくるという事だ。分かるか?」
そう言うとひで爺は足元にあった漬物石程もある石を両手で持ち上げた。
「いいか、よく見てろよ」
そう言うとひで爺は反動をつけて石を池に向かって放り投げた。石は大きな音をたてて池の中程に落ちた。水しぶきが高く上がると同時に波紋が周囲に広がっていった。
「龍、あの波を見てみろ」
波は直ぐに池の縁に到達すると跳ね返って、また周囲に広がっていった。
「お前がした事は良い事も悪い事もあの波の様に周りに伝わっていき、色々な所ではね返って最終的には全てお前自身に戻ってくるんだ。良い事をすれば良い事が返ってくる。悪い事をすれば悪い事が返ってくる。因果応報といってな、結果には必ずその元となる原因があるという事だ。原因がないのに結果だけがいきなり現れる事はない。だから今お前が置かれている状況は過去にお前がしてきた事が回りまわってお前に跳ね返ってきた結果だという事だ」
龍がひで爺の話を再び遮った。
「ちょっと待てよ! 俺が過去に悪い事をしたからバチが当たったって言ってるのか? 自業自得だって言いてぇのか! ふざけるなっ! それじゃあきくが、生まれたばかりの赤ん坊はどうなるんだ! 俺は好きであんな親の所に生まれたわけじゃないぞ! 赤ん坊の俺が一体どんな悪い事をしたっていうんだ! 教えてくれよ!」
声が震えて涙目になっている龍を見て、ひで爺は少し困った顔になった。
「何と説明すればいいかのう……」
ひで爺はそう言うと眉間にしわを寄せたまま黙り込んでしまった。かなり長い間何かを考えていたようだが、やがて決心したように話し始めた。
「お前に理解できるかどうか分からないが、説明するだけはしてやろう。いいか、よく聞けよ。もしお前が二十三年前に突然この世に生まれ出たなら、確かにお前の言う通りだ。赤ん坊がする事に良いも悪いもないからな。でも実際はそうではないんだ。お前はもっとずっと前から、何百年何千年も前から存在しているんだ。そして様々な悪行善行を積み重ねてきているんだ。それらお前のして来た事すべてが跳ね返ってきた結果、今生お前はあの家に生まれたという事なんだ。お前だけじゃない、人は皆太古の昔からこの世に存在しているんだ」
龍は怒りを通り越して半ばあきれた顔になっている。
「爺さん、前世だとか輪廻だとかそういう話だったらその辺の年寄りを集めてすればいいだろ、俺達にそんな説教してもお布施は出ねぇぞ。バカバカしい」
「まあ、待ちなさい。ちゃんと分かるように説明してやるから。そうだ、じゃあまずお前に聞くが、人は死んだらどうなると思う? こうして墓参りに来てるんだから、お前の思いなり考えなりが何かの形で両親に伝わると思っているんだろ」
「そんなわけねぇだろ。人は死んだら終わりだよ。何も感じねぇし、何もねぇ、無って事だ。天国も無けりゃ地獄もねぇ。爺さんの商売上は都合悪いだろうけどな」
「そんな風に考えとるのか……。では死ぬと我々の魂も消えてなくなるという事か? だがな、龍、よく考えてみろ。世の中にある物で消えて無くなる物って何かあるか? 落葉を集めて燃やせば落葉は無くなるが、それは本当に無くなったのか? そうじゃないだろう。落葉は燃える事で酸素と反応して熱と灰と二酸化炭素になったという事だ。つまり無くなったんじゃなくて、形が変わっただけだ。お前はガキの頃によく寺の供物のおはぎを盗み食いしておったが、お前が食ったおはぎだってけして無くなったわけではない。胃や腸で消化されて、身体の一部になったりエネルギーになったりして残りは糞として出てくる。米が異なり糞となる。はっはっは! 漢字というのは実によくできておるな」
ひで爺は自分で言って自分で笑っていたが、ニコリともしない龍を見るとまた話しを続けた。
「いいか、この世にあるもので消えて無くなるものなんて何一つないんだ。それは人も同じ事だ。人は死ねば身体は骨と灰に形を変える。そして我々の意識、魂は身体を離れて、生きていた時とは違う形で存在し続けるんだ。この世にあるすべての物と同じで、消えて無くなる事などないんだ」
璃子は、ひで爺の口から酸素とかエネルギーといった言葉が出てきた事に驚いていた。だが言われてみれば確かにひで爺の言う通り、この世に消えて無くなる物など無いのかもしれないと思った。妙な説得力を感じていた。
ふてくされた様に黙って立っている龍に向かって、ひで爺はまた詰まった喉の奥から絞り出すような声で言った。
「どうした龍、ワシの言ってる事が少しは分かるか? お前は二十三年前に母親から生まれ出るずっと前から存在していて、そのお前がこれまでにしてきた事すべてが回りまわって跳ね返ってきとるんだ。そしてそれらが今のお前を取り巻く状況を作っているという事だ。だからお前は自分の人生に百パーセントの責任があるんだ。誰のせいでもない、全てお前自身のせいなんだ」
龍は、お前自身のせいだというひで爺の言葉に我に返った。
「もう一度言ってみろ! いくらジジイでも許さねぇぞ。何で俺のせいなんだっ!」
「まあまあ、そう興奮するな。今日、ワシはお前を誉めに来たんだ。まあ、理解できないならそれでもいい。じゃあ別の言い方をしよう。お前は以前、あんな貧乏な家に生まれなければ、俺だってもっとまともな人間になってた、と言った事があったな」
「ああ、そうだ。人生なんてどんな家に生まれるかで半分は決まっちまうだろう。金持ちの家に生まれればそのまま金持ちになれるし、貧乏な家に生まれれば一生貧乏だ」
「では聞くが、金さえあればお前は満足なのか? 金さえあれば幸せになれるのか?」
「貧乏よりも金持ちの方がいいに決まってるだろう。それに貧乏にも程度ってものがあるだろう。俺の所みたいな並外れたド貧乏じゃどうにもならないだろうがっ!」
「お前の言いたい事も分からないではないがな。いいか、よく聞けよ。人はな、誰でもその人生で学ぶべき幾つかのテーマをもってこの世に生まれてくるんだ。貧困を学ぶ者は貧乏な家に生まれるだろう。愛の大切さを学ぶ者は孤独な環境に生まれるかもしれない。我々は皆、その人生で何を学ぶのか、そのために誰の元に生まれるのか、すべて自分で決めて生まれて来るんだ。誰かを助けるため、何かを教えるために悲惨な人生を承知の上で生まれて来る人もいる。我々よりもレベルの高い、より神に近い人々だ。人生はな、学校と同じようなものだ。学校には色々な授業があるだろう。国語、数学、社会……。例えば体育の授業には、鬼の様な体育教師がいて冷たい雨が降る真冬に延々と校庭を走らされるかもしれないし、音楽の授業は温かい教室で楽しく歌うだけかもしれない。しかし、今辛い体育の授業を受けている者もいつかは音楽の授業を受けるし、音楽の授業を受けている者は既に体育を終えたのかもしれない。重要な事は、人は誰でも最終的には全ての授業を受けるという事だ。人々の間の差、違いというのは、受けている授業による違いでしかない。だから人は皆同じで、誰かが誰かより偉いなどという事はない。お前は金持ちが嫌いなくせに金持ちの前にでると妙に卑屈になるが、そんな必要は全くないという事だ。もっと自分に自信をもって堂々と振る舞え。金持ちが貧乏人を笑うのはな、温かい音楽室から外を眺めて土砂降りの雨の中で体育教師のしごきに苦しむ同級生を見て笑うのと同じ事だ。そういう奴らは次に自分が体育の授業を受ける事など知りもしない無知な連中だ」
璃子はどんどんひで爺の話に引き込まれていった。若しかするとひで爺が言っている事は真実かもしれないという気がしていた。しかし、当の龍はどこまで理解しているのか今一つはっきりしない顔をしていた。
「ところで龍、『天網恢恢疎にして漏らさず』という言葉を知っておるか? 知らんだろうな。天の張る網は一見目が粗く見えるがどんな悪事も見逃す事はない、つまり悪事を働いた者は必ず報いを受けるという意味だがな、天は決して悪事だけを見ているわけではないぞ。良い行いも漏らさず見ている。そして良い行いにも必ず報いを与える。先程言った因果応報、良い行いも悪い行いも全て自分に返ってくるという事だ。これは本当の事だ。神の法則といってもいい。情けは人の為ならずといってな、人に情けをかければその善行は最終的には自分に返ってくる、人の為ではなく自分の為だという事だ」
ここでひで爺は一旦話すのを止めて龍の反応を見た。龍は半信半疑といった顔だったが何とかひで爺の話を理解しようとしている様にも見えた。
「龍、どうだ、少しはワシの言った事が分かったか? では、もう少し説明してやろう。さっき人生は学校のようなものだと言ったがな、この学校で行われる授業はお前が完全にその内容を学びきった時に初めて終わる。つまりお前が学びきるまで何度でも何度でも同じ授業が繰り返されるという事だ。お前には自分が嫌だと思ってる事が何度も繰り返し起こったという経験はないか? それはお前に与えられた授業、今風の言い方をすればレッスンというやつだ。お前が学びきるまでレッスンは何度でも続く。最近いい例があっただろう。お前はチビのチンピラどもに付きまとわれて金をたかられたりしておったな。いつも今日こそ断ろうと思っているくせに、いざチンピラどもを前にすると何も言えなかった。だからレッスンは繰り返された。しかしある日、お前はもう奴らの言う事はきかないと固く心に決めた。そこのお嬢さんが横にいたからな、多少動機は不純だったが、とにかくお前は何があっても奴らの言う事はきかないと自分で決めた。するとどうなった? チンピラどもは逃げ出しただろう、そういう事だ」
龍は、当時の自分の思いを正確に言い当てられて少し怖くなった。
(一体この爺さん何者なんだ。ただの坊さんだと思っていたが、違うのか)
「で、でも爺さん、それは少し違うぞ。あの時はたまたま刑事が後ろにいたから、岡本はその刑事に気付いて逃げただけだ。別に俺の決意を知って逃げたわけじゃない」
「いいか龍、よく聞け。この世にたまたまとか偶然とかそんな事は一切ないんだ、全ては必然、因果応報だ。お前はあの時、例え殺されても奴らの言う事はきかないと心に決めたはずだ。お前は暴力や脅しに屈せずに勇気をもって立ち向かうという事を学びきったんだ。だからレッスンは終わった。その結果奴らは逃げ出したという事なんだ」
龍も今では真剣にひで爺の話を聞いていたが、それでもまだ納得できないようだった。
「あの時は確かに死んでも岡本の言う事はきかないと思ったけど、それは岡本達に出くわした時に咄嗟に決めた事だ。でもあの刑事はあの日朝から岡本達を尾行していたんだ。つまり俺が岡本達の言う事はきかないと決心するずっと前からあの刑事は尾行を続けていたわけだから、俺の決心が奴らを撃退したというのはやっぱり違うんじゃないのか?」
「龍、お前は因果応報の法則が、どこにどう作用してああいう結果になったのか、詳細に分からないと納得できないのか? そんな事はワシにも分からんし、どうでもいい事だ。さっきの池の波紋を思い出してみろ。波は池の縁に当たって跳ね返ったが、池の縁はどんな形をしていた? 石が積まれて凸凹していたな。今お前がきいている事は、あの凸凹した石組みのどの部分でどう波が跳ね返ったのか全て説明しろと言ってるようなものだ。そんな事はお前が心配しなくても寸分の狂いもなく正確に実行される。法則とはそういうものだ。よく憶えておけ、我々はほとんど何も知らないし、我々に理解できる事など高が知れている。だからな、我々は自分が知らないという事を知らなければならない。これはとても大切な事だ。自分が全てを知っていると思っている者は何からも何も学ばない。いいか、とにかく、チンピラどもを撃退した時のあの気持ちを忘れるな、自分で決めるという事の意味を理解しろ。人間は誰でも自分で決めた通りになる能力を持っている。ワシは精神論を言っているのでも禅問答をしてるのでもないぞ。お前にその自覚があるかどうかは別として、今のお前は過去のお前が決めた通りの自分になっているという事だ」
そこまで言うとひで爺は話すのを止めて龍を見つめた。龍は相変わらず難しい顔をしている。何とか理解しようとはしているが、どうしても納得できないようだった。
璃子は「自分で決める」という言葉に聞き覚えがあった。確か千夏が似たような事を言っていた。高校を中退して荒れた生活をしていた時に弁護士になると自分で決めたと言っていた。千夏とひで爺は同じ事を言っているのだろうか、そんな事を考えていると不意に呼びかけられた。
「お嬢さん、アンタさっきから黙ってるが、ワシの言ってる事が分かるのか?」
「えっ、私ですか? はぁ、何となくですが……。あの、自分で決めるというのが、ちゃんと理解できていない気がしますけど……」
ひで爺は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうにニッコリ笑った。
「そうかっ! 分かるのか! そうかっ! お嬢さんにはワシの言った事が分かったか。なるほど、そういう事だったのか」
ひで爺は終始嬉しそうに何やら一人で話し、一人で納得していた。
「いやいや、ワシもどうも変だと思っていたんだ。普段なら龍に今日のような話などしないし、する気にもならなかったんだがな。今日はどういうわけか、ちゃんと説明しなければならないと感じたんだ。龍にこんな話をしても分かるはずないと思いながらも話さずにはいられなかった。そうか、お嬢さんだったのか!」
「どういう事ですか?」
「今日ワシがした話は龍のためじゃない、全てお嬢さんのためだったという事だ。ワシとした事が全然気付かなんだ。ワシもまだまだ修行が足らんな。はっはっは! お嬢さん、いいですか、辛い体育の授業もいつかは終わる。大丈夫、何も心配する事はない」
ひで爺はそれだけ言うと龍には目もくれずに本堂の方へ帰っていった。璃子は慌ててひで爺の背中に声をかけた。
「あの、またお会いできますか?」
ひで爺は振り返らずに歩きながら答えた。
「その必要があるならまた会えるでしょう。しかし、もう必要がないなら、会う事もないでしょう。はっはっは!」
寺からの帰り道は二人とも無言だった。璃子はひで爺の言った事を自分に当てはめて考えていた。これまでしてきた事が自分に跳ね返ってきて今の状況を作っている。この世に偶然などない、すべては必然。ならば私のタイムスリップも必然なのだろうか。だとしたら私が何かを学び終えたらこの状況も終わるのだろうか。しかし一方では、ひで爺の言った因果応報とはあくまで一般論であって、タイムスリップというとんでもない状況下では法則も何も機能しないのではないかという気もした。
部屋に戻って夕食を作ろうとした時、食料が何も無い事を思い出した。今日は買い物に行くつもりだったが急に墓参りに行く事になって忘れてしまった。
「ゴメン龍くん、買い物してくるの忘れちゃった。冷やご飯とインスタントラーメンしかないや。今から買い物行くと遅くなっちゃうし……」
と言いながら時計を見て璃子は驚いた。まだ、午後三時だった。とても奇妙な違和感があった。今日はいつものように昼過ぎに起きてパンとコーヒーで食事して、その後掃除と洗濯を終えた頃に龍がお墓参りに行こうと言い出した。それから支度をしてアパートを出たのは確か二時半位だったはずだ。どんなに早かったとしても二時前にアパートを出たという事は絶対にない。それでお寺までは片道十五分位歩き、お参りして、その後ひで爺に捕まって二時間近く話をしたはずだ。璃子の感覚ではそろそろ五時位になると思っていた。しかし、時計の針は三時を指し、外を見てもまだ陽が高々と上がっていた。
「龍くん、私達お寺に二時間位はいたわよね?」
「んー、そうだな、その位いたかなぁ」
「おかしいでしょ! 私達ここを出たの二時半頃だったはずよ。まだ三時って、どう考えても変でしょ!」
「まぁ、そうかもしれないけど、別にどうでもいいんじゃないか」
ヒステリックに怒鳴る璃子に龍は少し戸惑っているようだった。璃子はさっきから疑問に思っていた事を思い切ってきいてみた。
「大体あのひで爺さんって、何かちょっと怪しくない? 色んな事知り過ぎてるっていうか……。それに、お坊さんなのに神様の話とかしてたし……。別に悪い人だとは思ってないのよ。本当に龍くんの事を心配してくれてるんだとは思うけど……。いつ頃からの知り合いなの? あのお寺の住職さんなの? 本当の名前は何ていうの?」
矢継ぎ早に質問する璃子に龍は困り顔で答えた。
「いつ頃からって言われてもなぁ。物心付いた時にはもう知ってたからな。それに親父とは長い付き合いだったらしいけど、俺がひで爺と話をするようになったのは親父が死んでからの事だし、俺だってよく知らないんだよ。名前もはっきりとは知らないんだ。周りの大人が、ヒデさんとかヒデジィさんとか呼んでたから、俺も真似してそう呼んでるだけで、若しかすると名前がヒデジなのかもしれない」
何だか奇妙な感覚だった。ひで爺は普通に考えれば怪しいし、不思議な老人だったが、どういうわけか全く怖いとは感じなかった。それどころか璃子はまた会いたいと思っていた。ひで爺が最後に言った、大丈夫、何も心配する事はないという言葉がいつまでも耳に残っていた。そして、本当に大丈夫な気がしてきた。
2
千夏がスナックマサコを辞めてから既に半年、璃子のホステス業もかなり板について来た。まだまだ千夏には及ばないが、それでも毎週通って来て、来れば必ず璃子を指名する客が五、六人はいた。それに今では酒類の仕入れ等ホステス以外の仕事も任されるようになっていた。
つい最近までは「ここを追い出されたらその日から寝る場所にも困ってしまう」という恐怖から、常に政子や笹原の顔色をうかがい、怯えながら毎日を過ごしていたが、今では自分もちゃんと役に立っていて必要とされているという実感があった。居場所があるという事がとても嬉しかった。
唯一の心配事は両親の事。既に四月も半ばを過ぎ、自分で決めた五月いっぱいという期限も迫っていた。両親と会った時に何を話すかはもう何週間も考え続けているが一向に考えがまとまらない。多分この先いくら考えても同じ事だろう。かといって五月という期限は引き延ばしたくない。一度延ばせばそのままずるずるとなし崩しになってしまうだろう。もう考えがまとまろうがまとまるまいが会いに行くしかない。ひで爺が言ったようにこの世の出来事が自分のためのレッスンであるなら下手な小細工などせずに真正面からぶつかるしかないのではないか。その結果どのような事になろうとそれを受け止めるしかないのではないか、そんな気持ちになり始めていた。ひで爺が最後に言った「大丈夫、何も心配する事はない」という言葉が璃子を勇気づけていた。
(もう一度ひで爺に会いたい。あのお寺に行けば会えるかしら)
ある日の午後、璃子はふと思い立ち、久しぶりに並木道に来てみた。冬の間はほとんど来る事もなかったので何だか新鮮な感じがした。相変わらず人通りはほとんどない。閑静な家々の庭先には既に緑の芝生や草花が茂り始めていた。璃子は陽当たりのいいベンチを選んで腰を下ろした。吹き抜ける風はまだ冷たかったが、風が止むと陽射しの温かさを感じる事ができた。いつの間にか桜も散り、ポプラの木々には青々とした若葉が芽吹いている。気持ちのいい日だった。一週間前と比べて状況は何も変わっていないのに何故だかとても気持ちが軽い。
(こんなに穏やかな気持ちになったのはタイムスリップ以降初めてかもしれない)
ぼんやり周りを眺めていると、目の前のポプラの木の根本付近に芽吹いている一枚の若葉が目に入った。周りに葉はなく、この一枚だけが不自然にポツンと生えていた。しかもそこは太い幹の裏側で今日のように天気のいい日でも直接は陽が当たらない所だった。木の上の方には無数の葉が茂り、何に遮られる事なく存分に陽の光を浴びているのに、何故この一枚だけはこんな陽の差さない所に生えてきてしまったのだろう。璃子は、仲間と離れて一枚だけ日陰に生えてしまったこの若葉が、タイムスリップしてとんでもない状況に追いやられた自分と似ていると思った。
(この葉は私と同じだ。可哀そうに、一枚だけ離れた所で……)
しかし、この若葉をじっと見ているうちに璃子は何か違うという気がしてきた。
(何だろう? 私とはどこかが違う……)
そして気付いた。この葉は自分のいる環境を嘆く事もなく、どこまでも青々としていた。その姿は高い所で光を浴びて輝いている葉と全く同じように見えた。自分の不運を恨み、怯えている璃子とはそこが大きく違っていた。璃子はこのスペード型の小さな葉が自分に語りかけているような気がした。
「あなたは何をそんなに悩んでいるの? そんな事いくら考えても仕方ないでしょ。そんな事より、今いる所で精一杯の事をすればそれでいいのよ」
そんな風に言われているような気がした。何だか突然、気持ちが吹っ切れた。
(そうだ! 大切な事は自分がどこにいるかじゃない。そこで何をするかなんだ。例えどんな環境にいても、そこでできるだけの事をすればそれでいいんだ)
自分でも不思議なくらい急に気持ちが定まった。とにかく、悔いだけ残さないようにやるだけの事はやろう。お父さんとお母さんに会いに行こう。何だか身体の中から力が湧いてくるような気がした。璃子はもう一度、ポツンと生えたスペード型のポプラの葉をじっと見た。そして声に出して「ありがとう」と言うと、元気よく立ち上がり、帰っていった。
出勤にはまだ早い時刻だったが、気分も良いしたまには笹原の仕込みでも手伝おうと思って、店へ向かった。
店の近くまで来ると何やら人の言い争う声が聞こえてきた。声の方に目をやると空き地の所で政子が近所のオバサン三人を相手に何やら揉めていた。思わず駆け寄ろうとしたその時、ツンと鼻の奥を突き刺すような刺激臭をモロに吸い込んでしまった。
(しっ、しまった!)
この空き地にはホームレスが住み着いていて、一帯は二十四時間常に悪臭が立ち込めている。璃子はここを通る時はいつも息を止めて急ぎ足で通り過ぎる。仕方なく途中で息継ぎする場合は、最小限の空気を口から吸うようにしていた。これはずっと前からの習慣になっていてほとんど無意識のうちに実行していた。
しかし今は政子達の言い争う声に気を取られて、不用意に鼻から空気を吸い込んでしまった。それは単に臭いだけではなく、肺や気管支にダメージを受けるのではないかと思われる程の激臭だった。璃子は思わず立ち止まり、呼吸を整えた。といっても深呼吸はできないので、口から最小限の空気をゆっくり吸って、素早く吐いた。口呼吸だと臭いは感じないが、毒素を直接肺に取込むような気がして、それはそれで嫌だった。璃子が激臭に苦しんでいるそのすぐ先で政子達の言い合いが続いていた。
「政子さんがそういう事を続けているからいつまで経ってもホームレスがいなくならないんですよ。ああいうのは食べ物が無くなれば自然にいなくなるんですから」
三人の中で一番若そうな小柄な女がハンカチで口を押さえながらそう言うと、政子はその女に近づき、上から見下ろすようにして大きな声で言い返した。
「何よその言い方! ああいうのって誰の事よっ! 私はね、野良猫や鳩に餌やってるわけじゃないのよ。相手は人間なのよ。寒けりゃ凍えるし、お腹だって空くのよ。アンタ達こそあの人放ったらかしにしてよく平気でいられるわね!」
政子の迫力に圧倒されて小柄な女は黙り込んでしまった。するとその後ろから大柄な女がのそのそと出てきた。どうやらこの女がボスらしい。政子程ではないがかなりいい体格をしている。顔の大きさだけなら政子よりも大きいだろう。ただでさえ顔が大きいのにソバージュヘアのボリュームが出過ぎてほとんどアフロの様になってしまっている。パッと見では四頭身位に見えた。政子と対峙しても決して見劣りはしていない。ラスボス同士の対決といった様相になってきた。
「放ったらかしになんかしてませんよ。私達何度も市役所に相談してしてますから」
言葉こそ丁寧だがその太い声には絶対に引かないという強い意志が表れていた。
「それに市役所の人に聞いたんですけどね、あの人あんななりしてますけどまだ若いんですよ。確か五十一とか二って言ってましたよ。その気になれば働き口なんていくらでもあるのに、ただの怠け者なんですよ」
女は嫌悪と蔑みを込めてホームレスを一瞥すると、また視線を政子に戻した。これでもまだかばうのかと言わんばかりの表情だった。しかし、そんな事で引き下がる政子ではなかった。
「市役所に相談したですって? 笑わせんじゃないわよっ! ただあのホームレス何とかしろって木っ端役人に噛みついてるだけでしょ。 あのホームレスがそんなに目障りならこの辺に近づかなきゃいいでしょ! アタシにとっちゃあアンタのそのデカい顔の方がよっぽど目障りだけどね! あのホームレスの事どうこう言うならアンタもそのデカい顔何とかしてきなさいよっ! このオバタリアンがっ!」
全く理屈も何もない子供の喧嘩のような言い方だったが、アフロ女の顔はみるみる真っ赤になり、顔が更に大きくなったように見えた。連れの二人はあまりの暴言に言葉を失い、口を開けたままアフロの反応を見ていた。
「オ、オ、オバタリアンですって! 何て失礼なっ。私を誰だと思ってるのよ? 町内会をナメてるとこの辺で商売できなくなるわよ!」
「あらあら、怒ったの? オバタリアンにも怒ったり泣いたりする人の心があるんだ。でもねぇ、あのホームレスだって心を持った普通の人間なのよ。アンタ等から邪魔だの臭いのと言われればいたたまれない気持ちにだってなるのよ。とにかくアタシは自分のやりたい様にやるから、文句があるなら市役所でも町内会でも連れてきなっ!」
いい勝負になるかと思われたが、結果は政子の圧勝だった。反則気味の力業ではあったが、完全にアフロ女をノックアウトしてしまった。
政子は言うだけ言うと何も言い返せずに立ち尽くす三人に背を向けて店の方に歩きだした。その時初めて直ぐ横で呆気に取られて立っている璃子に気付いた。
「あら、リコじゃないの。何時からいたの!」
そう言いながら政子は璃子の返事も待たずに店の中へ入ってしまった。璃子は何か言葉をかけようとしたが何も言えなかった。というか言おうとした時には政子は前を向いたまま通り過ぎていた。何か政子に拒絶されたような気がした。
ついさっきまで並木道で一枚のポプラの葉をみつけてとてもいい気分だったのに、せっかく貴士と美智子に会う決心がついたのに、あのオバタリアンのせいで急に気分が重くなってしまった。笹原の手伝いをする気も失せてしまったので、一旦はアパートへ戻ろうとしたが、どうにもさっきの政子の態度が気になった。
「何時からいたの」と言っただけで璃子の方をチラリとも見ずに通り過ぎた。あんなによそよそしい政子を見たのは初めてだった。オバタリアンとやり合った後だから気が立っていただけだろうか。それとも自分に対しても何か思う所があるのだろうか。
一度考えだすとどうにも気になって落ち着かない。璃子は以前から、近いうちに政子とはきちんと話をしなければならないと思っていた。いずれ龍と一緒に引っ越す事になればスナックマサコは辞める事になる。つい昨日まで、引っ越しはいつになるのか見当もつかなかったが、両親と会う決心がついた今となっては、そう遠い未来の事ではないだろう。
(丁度いい機会だから政子さんに話してみよう)
開店まではまだ時間があったし、璃子は思い切って政子の部屋へ行った。
「あの、政子さん、ちょっといいですか?」
政子は特に驚いた風でもなく、迷惑がるでもなく、いつものように璃子を招き入れてくれた。政子の部屋に入るのは久しぶりだった。ここに住んでいた頃は毎日政子の部屋も掃除していたが、龍の所に移ってからは一度も入った事がなかった。自分が掃除していた頃と比べると部屋の中がかなり雑然としていた。
「なによ、改まって、面倒な事じゃないだろうね?」
璃子は、オバタリアンとの言い争いをずっと見ていた事や政子が自分の横を通り過ぎた時、今までに感じた事のないよそよそしさを感じた事等を正直に話した。そして、まだいつとは決めていないが、いつかは龍と一緒に引っ越すつもりだという事も話した。ただ、引っ越す時にスナックマサコを辞めるという事だけは言葉を濁した。
政子は興味無さそうに聞いていたが、璃子の話が終わった所で初めて口を開いた。
「相変わらずよく喋る子だねぇ。そんなにいっぺんに言われたって憶えてられないわよ。ええと、じゃあ一つずつ答えていくけど、まず最後の龍ちゃんと一緒に引っ越す件だけど、別にアタシはアンタの親でも保護者でもないんだから、アンタが誰と暮らそうとどこへ行こうとアタシがどうこう言う筋合いじゃないわよ。でもまあ、龍ちゃんなら悪くないとは思うわよ。それで店にはいつまで出られるの?」
「えっ? いつまでって……」
璃子は意識して店を辞めるとは言わなかったのに政子の方から言われて少し狼狽えた。
「え、じゃないわよ。引っ越したらここまでは通えないでしょ。タクシー代なんて出せないからね!」
「ああ、なるほど、確かにそうですよね……」
「何がなるほどよ、リコさぁ、面倒くさいからもうそういうのやめてくれない! アンタとアタシの仲なんだから、変な気は遣わないでちゃんと話してよ」
政子の「アンタとアタシの仲なんだから」という言葉がとても嬉しかった。政子は璃子の事を璃子が思っている以上に近い存在だと思ってくれているようだ。という事はさっき感じたよそよそしさは気のせいだったのかもしれない。
「あの、引っ越す時期はまだ決めてませんが、多分夏頃になると思います。アパート探しもこれからですから。お店は引っ越しの前日までは出るつもりです。引っ越しといっても大した荷物もないので」
「夏頃ね、分かったわよ。それから、次はなんだっけ? あ、そうそうオバタリアンの件だったわね。あの顔デカ女は町内会の副会長なのよ。副会長っていっても会長はよぼよぼの爺さんだからあの女が町内会を牛耳ってるの。昔から大っ嫌いな女だから今日はホント清々したわ。それで……、何だっけ? アタシがよそよそしかったって?」
「はい、何かそんな風に感じたんですけど……」
「そう? アタシそんな風に見えた? 確かに腹はたったのよ。無性に頭にきたのよ」
「あのオバタリアンにですか?」
「そう。だけどあのオバタリアンだけじゃない、この辺の人皆に腹が立ってるのよ」
「えっ、皆ですか? じゃあ私もですか?」
政子はじろりと璃子を見てからゆっくりうなずいた。
「そうよ。アンタにも腹がたったわ」
(やっぱり、あのよそよそしさは気のせいじゃなかったんだ!)
「でも、政子さん、私、何かしたんですか? 自分では政子さんを怒らせるような事したつもりはないんですけど」
政子は暫くの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「アンタいい加減に人の顔色ばかり気にするのやめなさい。アタシがどう思うかなんてどうでもいいのよ。アンタはアンタの思った通りにすればいいの。アタシはアンタの事嫌いじゃないわよ。っていうか、口に出すと照れ臭いけどアンタの事は好きなのよ。具体的な事は知らないけど何か抜き差しならない問題を抱えて、それでもやけにならずに必死で生きてるアンタを見てるとアタシもしっかりしなきゃって思えるしね。でもアンタは自分の事だけで一杯一杯になってしまって、普通なら見える事が見えてない。アタシにどう思われるかとかどうでもいい事ばかり気にしてるから、本当に大切な事が見えてないのよ」
人の顔色ばかり気にしてるという指摘は確かに図星だったが、政子が何を言おうとしているのか、璃子にはよく理解できなかった。
「何の事だか分からないって顔ね。少し話を変えましょうか。アンタ龍ちゃんのお母さんの事、少しは聞いてるの?」
璃子は突然話が龍の母親の事に飛んだので更に分からなくなった。
「あ、ええ、少しだけ聞いてます。何でも昔この辺でホステスやってて政子さんとも知り合いだったとか……」
「やっぱりね。全部聞いてるんでしょ。龍ちゃん何て言ってた? 私の事、恨んでるんでしょうね」
璃子は言葉に詰まった。まさか「はいそうです。凄く恨んでます。」なんて言えるはずもない。
「あまり詳しい事情は聞いてないので……」
「だから、変に気を遣わなくていいって言ってるでしょ。龍ちゃんはリリーさんが死んだのは私が見捨てたからだと思ってるはずよ。あっ、リリーさんっていうのは龍ちゃんのお母さんの事、もちろん源氏名だけどね。この辺の人達はみなリリーさんって呼んでた。姉御肌で面倒見が良くってね、この辺のホステスは皆世話になってた。でも一番世話になったのはこの私。いつも政子政子って妹みたいに可愛がってくれてね、お客さんも何人も紹介してもらったわ」
政子は遠くを見るような目で懐かしそうに話した。
「でも何を思ったのか、ある日突然飲んだくれのバンドマンと一緒になっちゃったのよ。それが龍ちゃんの父親。皆でやめとけって言ったんだけどね。当時リリーさんは売れっ子でいいお金稼いでたんだけど、そのダンナは結婚した途端に働かなくなっちゃってね。リリーさんも愛想をつかして別れようとした時に龍ちゃんがお腹にいる事が分かったのよ。随分迷ったみたいだけど子供が生まれればダンナも変わるだろうって言って、リリーさんは龍ちゃんを生んだのよ。だけどあのバカ男は働くどころか益々飲んだくれて、生まれたばかりの赤ん坊がいるのに仕事行けってリリーさんの事責め立てて。リリーさんも気が強いから大喧嘩になって、アタシは何度も仲裁に行ったけどもう見ていられないような修羅場だったわ。あんな家で龍ちゃんがグレもせずに育ったのが不思議な位よ」
「グレる暇がなかったって言ってました。とにかくお母さんが可哀そうで可哀そうで俺が何とかしなきゃっていつも思ってたって」
璃子が思わず口をはさんだ。
「えっ? ああ、そうだろうね。龍ちゃんは小学校五、六年の頃にはもうアルバイトしてたからね。あの子は本当に母親思いの子なのよ。その後、確か龍ちゃんが高校生の頃だったと思うけど、あのバカ男、酒の飲み過ぎで血を吐いて呆気なく死んじゃったのよ。アタシ、死んだ人を悪く言いたくないけど、あの時ばかりはこれでリリーさんも少しは楽になれると思ったのよ。でもそうじゃなかった。今度はリリーさんの酒量がどんどん増えて、アル中みたいになっちゃったのよ。夫婦の事は他人には分からないっていうけど、本当よね。何だかんだいってもリリーさんはあの男が好きだったって事なのかしらねぇ」
政子はここで一旦言葉を切った。
「ちょっとリコ、下行ってウイスキーとグラス二つ持ってきてよ。こっから先は何か飲まないと話せそうもないから。アンタも付き合いなさいよ」
璃子は驚いた。何事にも動じないこの政子にも酒の力を借りないと話せない事などあるのだろうか。そう思いながらも璃子は下で笹原から水割りのセットと乾き物を少しもらって部屋に戻った。政子はボトルを受け取るとグラスに一センチ程ウイスキーを注ぎ水で割らずに一気に飲み干した。
「ありがとう。あとは水割りにしてちょうだい」
璃子は言われるまま水割りを作りながら、話の続きを聞いた。
「それからしばらくして龍ちゃんが高校を卒業したんだけどね、龍ちゃん卒業するとすぐに家を出て行っちゃったのよ」
璃子はそこでまた口を挟んだ。
「違うんです! それは、お母さんが龍くんのバイト代を当てにして、お酒の量がどんどん増えていったから、自分がここにいない方がお母さんの為だと思ったんです。それに政子さん達もいるから大丈夫だろうと……」
璃子は慌てて言葉を切った。
「アタシがいるから、アタシがリリーさんの面倒を見るはずだから、大丈夫だと思った、そういう事ね? 龍ちゃんがそう言ったんだね?」
そこで政子はグラズに半分程残っていた水割りを一気に飲み干し、更にウイスキーを自分で注いで二口程ごくごくとそのまま飲んだ。
「いえ、龍くんは何も言ってませんけど」
すると政子がいきなり大声で怒鳴った。
「だからそういうのやめろって言ってんだろ!」
余りの迫力に璃子は息が止まりそうになった。
「……ごめんなさい、大きな声だして。でもねぇリコ、本当に変な気の遣い方はやめてよ。アタシ自分がどれだけ龍ちゃんに恨まれてるのかちゃんと分かってるんだから。でもねぇ、龍ちゃんが知らない事だってあるのよ。龍ちゃんが出て行った時のリリーさんの落ち込み方は尋常じゃなかった。龍ちゃんに愛想を尽かされたと思ったんだろうね。ろくに食事も取らないで酒ばっかり飲むようになって……。元々気が強くて強情な人だから、誰が何を言っても聞かないんだよ。人の面倒はみるくせに人に面倒みられるのは大嫌いなんだよね。龍ちゃんが生まれた時だって、お産したばかりで大変だろうと思ってご飯のおかずとか何度も持って行ったんだけど、そうするとリリーさん凄く怒るんだよね、施しは受けないとか言ってさぁ。うっ、うっ、うっ」
政子は下を向いたまま大きな肩を揺らして泣き始めた。璃子は政子が泣く姿を初めて見た。
「酒ばかり飲んでるうちにどんどん弱ってしまってね。アタシは二日に一回は食料を届けにリリーさんの所に行ってたんだけど……、ある日行ったら布団の中で死んでたんだよ。確かに痩せてはいたけど、普通に話もしたし、リリーさん、ちゃんと食べないと本当に死んじゃうよって言ったのよ……。でも、本当に死ぬなんて……、うっ、……思って……、うっうっうっ……」
璃子は、何と声をかければいいのか分からなかった。
いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。誰かが階段を上ってくる音が聞こえ、暫くするとドアの向こうから遠慮がちな笹原の声が聞こえてきた。
「政子さん、そろそろ七時半ですが、お店、どうします? 開けますか?」
璃子は、あれっと思った。これまで店を開けるのにいちいち政子に確認した事など一度もないのになぜ今日に限ってきくのだろう。
「そうだねぇ、悪いけど今日は臨時休業って事にしてもらおうかしら」
これにも驚いた。璃子がこの店に来てから休業など一度もした事がないのに。笹原は特に驚いた風でもなく、ただ「はい」とだけ言ってまた階段を下りて行った。その時初めて笹原がこの部屋でのやり取りの様子から気を利かせて店を開けるかどうか確認に来たのだと分かった。さすがは笹原、伊達に歳をとっているわけではない。お客の勘定はよく間違えるがこういう気の遣い方ができるのは笹原だけだった。
少し落ち着きを取り戻した政子がまたぼそぼそと話し始めた。
「だからリリーさんはアタシが殺したようなもんなのよ。正確にいうなら殺したんじゃなくて見殺しだわね」
「やめてください政子さん! 殺したとか見殺しだとか、政子さんはできるだけの事をしたじゃないですか!」
今度は珍しく璃子が大きな声をだした。
「できるだけの事をした? 見て来たような事言わないでよ! できるだけの事なんてしてないわよ! アタシは一日おきにリリーさんの所に行ってたのよ! もし毎日行ってたらリリーさん死ななかったかもしれないじゃないの! できるだけの事をしてたならこんなに苦しまないわよ!」
そう言うと政子はまたウイスキーを煽った。
璃子には目の前にいる大きな女があの政子だとは到底思えなかった。何事にも動じない、ぶっきら棒だが頼りがいのあるいつもの政子とは程遠い姿がそこにはあった。
「政子さんが二日に一回食べ物を届けていた事を龍くんは知ってるんですか? そういう話をちゃんとした事あるんですか?」
「そんな事言えるわけないでしょ。じゃあ聞くけど一体何て言えばいいのよ? アタシは二日に一回食べ物届けてたからリリーさんが死んだのはアタシのせいじゃない。リリーさんは龍ちゃんが出て行ったショックで死んだんだって言えばいいの?」
確かに政子の言う通りだった。政子に非がないならいったい誰に非があるのかという事になる。客観的にみれば、龍が家を出て行った事を悲観したリリーが自暴自棄になり、酒量が増えて死に至ったという事だろう。簡単に言ってしまえば、政子が言った通りで、龍が出て行ったショックで死んだといっても間違いではない。
「でも、それじゃあ政子さんが……。龍くんは政子さんの事誤解してますから」
「誤解も六階もないわよ。このままでいいのよ。アンタ龍ちゃんの事が好きなんでしょ。だったら龍ちゃんの身になって考えてみなさいよ。リリーさんが死んだのはアタシのせいじゃなくて自分が家を出てったからだって事になったら、龍ちゃんはどうなるの? 多分立ち直れない位苦しむわよ」
「でも、政子さんは龍くんに恨まれたままでいいんですか?」
「いいのよ。アタシはあれだけ可愛がってもらった恩人を、結果的に助ける事が出来なかったんだからね。何て思われたっていいのよ。それに、もし龍ちゃんが自分のせいでリリーさんが死んだと思って苦しむようになったら、誰よりも悲しむのはリリーさんでしょ。そんな事はアタシは絶対にさせない。ただの自己満足かもしれないけど、死んでしまったリリーさんにしてあげられる事ってそれくらいしかないでしょ。だからリコ、今の話絶対に龍ちゃんにしちゃダメだからね。分かってるわね」
そう言ってじろりと璃子を睨みつけた政子の目はもう酔っていなかった。
「ちょっと前置きが長くなったけどね、そろそろ本題に入るわよ」
璃子は政子が何を言ってるのか分からなかった。
「えっ? 本題って何の話ですか?」
「何言ってんのよ。オバタリアンの話でしょ。アンタがアタシがよそよそしかったとか言うからこの話になったんでしょ! ったく何聞いてんのよ! 人が真剣に話してるのに」
「あっ、す、すみません。でもリリーさんの話とオバタリアンが何か関係あるんですか?」
「あるわよ。それを今から話すからちゃんと聞きなさいよ。リリーさんが死んだ時ね、ガリガリに痩せたリリーさんを見て思ったのよ。一体これは何なんだって。だってそうでしょ、リリーさんは人里離れた山の中に住んでたわけじゃないのよ。このすぐ裏のアパートに居たんだから。周りには知り合いだって大勢いたのに誰もリリーさんを助けられなかった。責任転嫁するわけじゃないけど、リリーさんに世話になったホステスは沢山いたからアタシ以外にも何人も様子見に行ってたのよ。でも結局食べる物も食べないで一人っきりで死んじゃった。あの時、この飲み屋街の人達は皆思ったのよ。なぜもっと親身になって世話をしなかったのかって。アタシも心から後悔したわよ。なぜ毎日リリーさんの所へ行かなかったのかって、なぜ喧嘩してでも酒をやめさせなかったのかって。アンタ、自分のせいで人一人死なせてしまった事ないでしょ。言葉では説明できない位苦しいわよ。そして思ったのよ。こんな経験は二度としたくないって。もしまた似たような事が起こったら、その時はどんな事をしてでもその人を助けようって。アタシだけじゃない、この辺の人はあの時皆そう思ったはずなのよ。それなのに、喉元過ぎれば何とかでさぁ、時間が経てば忘れちゃうんだよね。またあの時と同じような事が起ころうとしてるのに誰も気にしてない。アタシはそこに腹が立ってるのよ!」
璃子はこの時、以前ひで爺が言っていた「レッスンは繰り返される」という言葉を思い出していた。
「それじゃあ、またどなたか具合悪い人がいるんですか? そんなに悪いんですか?」
「そうなのよ。アタシはいつ死んでもおかしくない位悪いと思ってるけどね」
「それ、大変じゃないですか! 今度こそ、その人助けないと……。やっぱりホステスさんですか? 近くに住んでるんですか?」
璃子は気持ちが焦って矢継ぎ早に質問した。ひで爺の言っていた事が本当なら、またリリーさんの時と同じような事が起こるのではないか。政子が学び切るまでレッスンは繰り返されるのではないか。
「その人はホステスじゃないんだけどね。すぐそばに住んでるのよ。リコ、ここまで言ってもまだ分からないの? アンタも知ってる人なんだけどねぇ」
璃子はびっくり仰天した。私も知ってるって一体誰だろう。璃子はかれこれ一年近くここにいるが、他の店の人とはほとんど交流がなく、スナックマサコの関係者位しか知り合いはいなかった。
(えっ、笹原さん! まさか!)
そんなはずはない。笹原にはついさっき下で水割りセットをもらったばかりだ。
狼狽えてあれこれ考えている璃子を眺めながら政子が言った。
「アンタは本当に根っからのお嬢さんだね。自分が辛い経験をした事がないから人の痛みを察する事が出来ないんだろうね。まあ、アンタのせいじゃないかもしれないけど」
「それ、どういう意味ですか?」
璃子はムッとして言い返した。政子がまたリリーさんの時のような経験をするのではないかと心配しているのに、辛い経験した事がないとか言われて頭にきていた。しかし、人の痛みが分からないという事は誰かにも言われた事があるような気がした。
(そうだ、可代子だ!)
確か以前可代子にも同じ事を言われた事がある。いつだったか、カラオケボックスで。しかしそれは途方も無く昔の出来事のように感じられた。
「アンタ聞いてんのっ!」という政子の声で璃子は我に返った。
「そもそも何でこういう話になったのか分かってるのかい? アンタが政子さんがよそよそしいとか言ったからでしょ。アタシはこの辺の人皆に腹が立ってんのよ。アンタにもよ。リリーさんの時にあれだけ辛い思いをしたのに、また同じ事を繰り返そうとしてるんだから」
「でも政子さん、私はリリーさんの事には関係無いし、今回の人も多分私は知らない人だと思うんですけど……」
政子はあきれ顔で続けた。
「アタシはさっき顔デカ女と何の件で揉めてたか憶えててるかい?」
璃子はやはり政子は酔ってるんだと思いながら答えた。
「もちろん憶えてますよ。空き地のホームレスの事ですよね……」
そこまで言葉に出して、璃子は初めて気付いた。
「えっ! まさか死にそうな程具合の悪い人って、あのホームレスの事ですか?」
「何がまさかよ! 他に死にそうな人なんてこの辺にいないでしょ」
「でも政子さん、あの人ホームレ……」
「ホームレスじゃないですか」と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。
「何よその顔は、ホームレスだったら何なのよ! アンタもそういう考え方するのかい? ホームレスなら死んでもいいのかい? アンタは確かにお嬢さん育ちで人の痛みなんか想像した事もないんだろうけど、今はどうなんだい? 自分だってかなりキツい事になってるんだろ。今なら苦しんでる人の気持ちが少しは分かるんじゃないのかい? あのホームレスだってアンタと同じように痛みを感じる人間なんだよ。ホームレスだからって痛みに強いとか寒さに強いとかそんな事全然ないんだよ」
璃子は政子にそこまで説明されて初めて全てを理解した。
あのホームレスは悪臭が酷いからいなくなって欲しいとは思っていたが、特に軽蔑したり憎いと思った事はなかった。だから空き地の前を通る人たちがホームレスに向かって空き缶を投げたり唾を吐き掛けたりするのを見る度に「何故そこまでするんだろう? そんなにあのホームレスが憎いんだろうか、何て酷い人達なんだろう」と思っていた。しかし今、自分があのホームレスに対して何の感情も持っていなかったのは、あのホームレスを人としてみた事が一度もなかったからだと気付いて愕然とした。璃子はあのホームレスを酷い悪臭の発生源としてしかみていなかった。もちろんホームレスも人間である事は頭では理解している。しかし、自分と同じように痛みや空腹を感じる人間なんだという実感をもってあのホームレスを見た事は一度もなかった。あのオバタリアンでさえもホームレスを人としてみているからこそ軽蔑もするし、憎しみも湧くのだろう。ある意味、璃子はオバタリアン達よりも酷い扱いをしていた事になる。
璃子は自分の事を良識もマナーも備えた人並以上の人間だと思っていた。仕事もスポーツも大抵の人よりできるし、高収入だし、人々のグループを大きく分類すれば自分は一流のグループに属する人間だとずっと思ってきた。そしてそんな自分自身の事が好きだった。自己嫌悪という言葉は勿論知っていたが自分で自分の事が嫌いになるとはどういう感覚なのかよく理解していなかった。しかし今、それがはっきりと分かった。
璃子はあのホームレスの姿を思い浮かべた。元々何色だったのか分からない程真っ黒に汚れたコートのような物を一年中着ていて、頭部は伸びるだけ伸びた毛髪と髭に覆われていてどちら側が顔なのかすぐには分からない。璃子は何度か顔を正面から見た事があったが、ボサボサの髪の奥に見えたその瞳からは何の表情も読み取れなかった。あの人は一体何を考えて毎日生きているのだろうか。冬の寒い日にあの空き地で夜を過ごすのはどれ程辛いのだろう。璃子はタイムスリップしたその日に公園のベンチで一晩過ごした時の事を思い出した。六月だったが夜は信じられない程寒く、そして長かった。あの時なかなか進まない時計の針を見ながら感じた絶望感は今も生々しく璃子の身体中に残っていた。璃子の場合それは一晩だけの事だったがあのホームレスはそれが毎日続いている。一年中、恐らく何年もの間。冷たい雨が何日も続く時など一体どのようにして凌いでいるのだろう。絶望の中で一夜を明かした経験のある璃子には、ホームレス生活が想像を絶する程過酷なでものであろう事は容易に想像できた。そんな人がすぐ目と鼻の先の所で苦しんでいるのに、自分はあのホームレスに何の注意を払う事もなく、今日も臭いな等と思いながら毎日過ごしていた。そんな自分が本当に嫌になった。その時ふと、こんな風だからタイムスリップという罰を受けたのかとも思った。
「アンタどうしたのよ。急に黙り込んでさ」
真っ青な顔で放心したようになっている璃子を覗き込むようにして政子が声をかけた。
「政子さん、私、ホームレスだから死んでもいいなんて思ってません! でも、でも……」
「もういいわよ。分かったわよ」
予想以上の璃子の反応に政子も少し戸惑っていた。
「アタシが何を怒ってるのかってきくからこういう話になったけど、元々アンタを責めるつもりなんかなかったんだから。それに普通に考えればあんなに臭くて汚いんだから誰も近づきたがらないのも無理ないしね。ただアタシはあのホームレスを助けるんじゃなくて追い出そうとしかしない顔デカ女達には本当に頭に来てるから、アンタにも八つ当たりみたいになっちゃったのかもね。もう気にしなくていいわよ」
「でもあの人、いつ死んでもおかしくないって……」
「それはちょっと言い過ぎたかも、勢いでさ。もちろんあちこち悪い所はありそうだけど今すぐどうこうって事はないと思うわよ。食べ物もちゃんとあげてるし」
政子の話では関沢ストアーの関沢が時々売れ残りの弁当をこっそり持って来るのだそうだ。関沢ストアーの店長がホームレスに食事を与えているなんて事になるとそれこそ町内会で問題になるから関沢は弁当を政子に渡し、政子がホームレスに渡すのだそうだ。
リリーの話をしていた時は政子が泣き出して大変な状況だったが、今は自己嫌悪に苦しむ璃子を政子がなだめている。もう政子の酔いは醒めたようだった。
「アンタがそこまで落ち込む事はないと思うわよ」
「でも……。政子さん、私に何かできる事ないですか? あの人のために、何か……」
「そういわれてもねぇ。第一アンタもうすぐ引っ越すんだろ。そんなに思い詰める事はないと思うわよ。ただホームレスといっても一人の人間なんだって事をいつも心に留めておけばそれでいいんじゃないのかしら」
あのホームレスの為に何かしたいという璃子の思いはもちろん本心だったが、一方ではこれが自分に与えられたレッスンなのではないか、この課題を学び切らない限りレッスンは終わらないのではないかという打算的な思いも頭の隅に浮かんでいた。
3
璃子はモヤモヤした日々を送っていた。ひで爺に出会い、何も心配する事はないという言葉に力付けられ、そして偶然見つけた一枚のポプラの若葉から勇気をもらい、一度は両親に会いに行く決心がついたのに、この前のホームレスの一件でまた気持ちが揺らぎ始めていた。璃子はあの時、生まれて初めて自分はダメな人間だと思った。こんな状態で両親に会いに行ってもまた同じレッスンが繰り返されるだけではないのか。そもそも自分が学ぶべきレッスンとはどんな事なのか。命の大切さなのか、相手の身になって考える事なのか、考えれば考える程分からなくなっていった。このまま不安定な気持ちで両親に会いに行っても良い結果にはならないような気がしたし、そもそも自分にとって良い結果とはどういう事なのかも分からなくなってきた。当面の具体的な目標は龍と一緒に暮らして、龍がプロのギタリストになる手助けをする事だが、元の世界に戻る事を完全に諦めたのかというとそうとも言い切れない。
ひで爺は「人は誰でも自分で決めた通りになれる」と言っていたが、今の璃子には自分がどうなりたいのかさえはっきりとは分からなくなっていた。
ひで爺に会いたいと思った。ひで爺ならきっとあの人懐っこい笑顔でやさしく教えてくれるに違いない。
璃子はひで爺と出会ったあの大滝寺に行ってみたが不在で会えなかった。二度目は予め電話してから行ったのに、急な葬儀が入ったとの事でやはり会えなかった。璃子は「会う必要がないなら、もう会う事もないでしょう」と言ったひで爺の言葉を思い出した。
(私はもうひで爺に会う必要はないという事なのだろうか)
そうこうしているうちに五月も中旬になってしまった。龍は璃子の決心がつかないなら無理に両親に会う事はないと言っているが、璃子は一度期限を延ばしてしまえば、その後もズルズルと先延ばしを繰り返し、いつまで経っても会いに行けないだろうと思っていた。
そしてある日曜日の昼過ぎ、龍が昼間のバイトに出かけるのを見送った後、今から貴士と美智子に会いに行こうと決めた。できればひで爺に会って色々助言をしてもらいたかったが、ここはひで爺の言葉を信じてみる事にした。二回も寺に行って会えなかったという事は、ひで爺が言っていたようにきっと会う必要がないからなのだろう。璃子はひで爺に会って自分のレッスンは何を学ぶためなのかききたかったのだが、考えてみればレッスンの内容を事前にきく事は試験の前に問題を知ろうとする事と同じで、それで試験結果が良かったとしても、合格にはならないだろうと思った。
璃子は控えめに化粧をして着替えようとした時、この部屋にはTシャツとジャージしかない事に気付いた。仕方なく店へ行き一番地味なスーツに着替えた。地味とはいってもホステスが店で着る衣装だから普通のOLが着る物よりはかなり派手だった。肩パットはアメリカンフットボールの防具のようだし、色も紫だった。これならジャージの方がまだマシかとも思い少し迷ったが、そのまま紫のスーツで店を出た。
璃子は急ぎ足で実家へ向かった。もう両親に会う事自体に迷いはなかった。話す内容も整理できているわけではないが、出たとこ勝負でぶつかるしかないと思っていた。そして一度実家へ向かって歩き出すと早く貴士と璃子に会いたいという気持ちがどんどん強くなり、いつの間にか小走りになっていた。
久しぶりにみる昔の我が家はやはり懐かしかった。父が自分で修理した窓や庭の隅にある母の花壇等を見ると忘れていた昔の記憶が蘇ってきた。
垣根越しに家の中を覗くと丁度昼食を終えたところらしい。ガチャガチャと食器を片付ける音が聞こえてきた。そして小さな子供が縁台の所まで出てきた。
(私だ!)
璃子は息を呑んだ。一年前にここで見かけた時よりもかなり大きくなっている。歩き方もしっかりしていた。と、その時、部屋の奥から声が聞こえた。
「璃子! また縁台から落っこちるぞ、危ないからこっちに来なさい」
それは紛れもない父、貴士の声だった。璃子は懐かしい父の声に思わず涙がでた。
(そうだ、私はなぜもっと早く来なかったんだろう、お父さんとお母さんなら必ず自分を助けてくれるのに。そうに決まってるのに)
気付くと璃子は何の躊躇いもなく玄関の引き戸をガラガラと開けて中に入っていた。奥から「どなたですか?」と言いながら出てきた美智子と鉢合わせる形になり、その時初めて我に返った。
美智子はいきなり玄関に入ってきたド派手なスーツの女を訝しげに見つめた。
「どちら様でしょうか?」
そしてすぐに奥から貴士も出てきた。胸に幼い璃子を抱いている。
璃子は二人を目の前に見た瞬間、押さえきれない様々な感情が湧き上がり、その場で泣き崩れてしまった。
貴士と美智子は何が起こったのか全く理解できなかった。ただ、玄関にうずくまって泣き続ける不審な女を呆然と見下ろしていた。
余りにも長い間泣き続ける璃子に同情したのか、貴士は部屋に通してくれた。そして美智子がいれたお茶を一口飲んだところで尋ねた。
「一体どういう事なのか説明してもらえますか? 私は里見貴士といいます。こちらは妻の美智子ですが、あなたは何か勘違いしてここに来たのではないですか?」
璃子は貴士と美智子を前にしてまた溢れそうになる涙を堪えながらゆっくりと話した。
「こんな怪しい女を家の中に入れてくれてありがとうございます」
ここで璃子は丁寧に頭を下げた。そして大きく息を吸ってからまた話し始めた。
「私がここに来たのは勘違いではありません。お二人が里見貴士と里見美智子だという事は知っています。その女の子が里見璃子だという事も知っています」
里見璃子という名前がでた瞬間に貴士と美智子は一気に警戒する表情になった。それを見た璃子は慌てて付け加えた。
「あの、最初にはっきり申し上げますが、私があなた方家族に危害を加えるような事は絶対にありませんから。心配しないでください。ただ一つだけお願いがあります。私がこれからお話する事は常識では到底信じられない事なんですが、でも事実なんです。ですから、どうか最後まで私の話を聞いてください。その上でこの話を信じるか信じないかはお二人次第です。それ以上、私は何も言いませんから、ただ私はお二人に真実を伝えたい、それだけなんです。もし私の話を聞いて私の事を気が狂ってると思うならそれも仕方がないと思っています」
璃子は自分でも気付かないうちに覚悟ができていた。もうこれは下手な小細工はせず、事実をありのままに話すしかない。口先だけの誤魔化しは貴士が最も嫌う事だ。どんな失敗や間違いをした時でも正直に話せば貴士はいつだって許してくれた。貴士が怒るのは嘘をついて失敗を隠そうとした時だけだった。
貴士は常識では信じられない事という表現が気になったが、真剣に話す璃子を見つめたまま言った。
「分かりました。とにかく聞くだけは聞きましょう」
そして璃子は最初から全てを話した。タイムスリップの事、その後すぐこの家に来て美智子と幼い自分を見た事、今は駅前のスナックマサコでホステスをしている事等全て。自分は本当に二人の娘だが、自分の記憶にある家族の想い出は全て四、五歳以降の記憶なので、今ここでそれを話しても二人の娘である証明にはならないだろうという事も話した。
璃子の長い長い話を貴士と美智子は少しも口を挟む事なく黙って聞いていた。そして話が終わった時に貴士がゆっくりと口を開いた。
「確かに常識で考えれば信じられる話ではないですね。んー、そうですね、あなたの家族の想い出を少し聞かせてもらえますか? あなたの記憶にある事、その、つまりこれから起こる事と言えばいいのかな、それで構いませんから」
貴士は落ち着いていたし紳士的だった。璃子は取り乱す事のない貴士の態度に少し安心して憶えている事を色々と話した。
貴士は璃子が小学校に上がった年に会社を辞めて独立する事、そして独立後は毎朝璃子が起きる前に家を出て帰宅は深夜だった。土日も仕事だったから貴士とは月に二、三回しか会えなくてそれがとても寂しかった事。また、そんな状況でも夏のキャンプと冬のスキーだけは毎年欠かさずに連れて行ってくれてそれがとても楽しみだった事などを話した。
「そういえば初めてキャンプに行った時の事なんですけど、お父さんはバーベキューの時なかなか炭に火が点けられなかったけど、お母さんがやったら直ぐに火が点いたんですよ。お母さんは子供の頃にガールスカウトをやってたからそういうの得意なんですよね」
璃子は話しているうちに色々な事を思い出してきた。
「それからお父さん、今は鶏肉は大好きですよね? でも独身の頃は鶏肉は嫌いだったんでしょ。お婆ちゃんの作る鶏料理はいつも皮がプルプルしてて気持ち悪くて嫌いだったけど、結婚してお母さんの鶏料理を食べてから大好きになったんでしょ」
璃子は昔を思い出しながら色々と話していたが、ふと気づくと貴士も美智子も険しい表情になっていた。そして美智子がぼそりと言った。
「一体どこでそんな事を……」
璃子は愕然とした。璃子が家族しか知り得ない事を話せば話すほど二人の表情は険しくなっていった。璃子は話すのを止めた。一体どうすればいいのか、今までどうすれば、何を話せば自分が二人の娘である事を証明できるのか、そればかりをずっと考えてきたのに、家族しか知らない事を話せば話す程、二人の不信感は強くなり、警戒されてしまう。やはり何を話してもタイムスリップなどという事は信じてもらえないのだろうか。
重苦しい沈黙が続いた。幼い璃子だけが貴士の横で無邪気に一人遊びをしていた。
口を開いたのは貴士だった。
「まだ、何かお話する事はありますか?」
貴士はどこまでも紳士的だったが、丁寧な口調が他人行儀過ぎて璃子には悲しかった。
「話の内容は大体分かりました。しかし三十年後の未来の世界から来たというのは到底信じられる事ではありません」
覚悟はしていたが貴士の口から直接信じられないと言われるのはやはり辛かった。下を向いたままの璃子の目から涙の滴が続け様に落ちた。
「ただ、あなたが今言った事が全て嘘だという気もしていません。矛盾してますがね。もし、まだ何か話していない事情があるのでしたら隠さずに話してくれませんか。何か我々に出来る事があるかも知れませんから」
どこまでも他人行儀な貴士の口調にとうとう璃子は感情を爆発させてしまった。
「あなた達にして欲しい事なんか何もありませんよっ! 私はただ信じて欲しかっただけです。私は今本当の事を隠さず全て話しました。小さい頃からお父さんに嘘をついちゃダメだと厳しく教えられて来たからです。一度嘘をつくとその嘘を隠す為にまた新たな嘘をつく事になる。そうやって何度も嘘をついているうちに嘘は必ずバレるものだといつも言われてきました。だから、本当の事を話したんです。私だってこんな馬鹿みたいな話、信じてもらえるとは思ってませんよっ!」
最後の方はほとんど怒鳴るような言い方になってしまった。そしてその勢いのまま席を立った。涙が止まらなかった。玄関で辛うじて礼を言った。
「話を聞いてくれて有難うございました。これで失礼します」
目を合わさずにそのまま出て行こうとする璃子を貴士が引き留めた。
「ちょっと……、ちょっと待ってください」
そう言うと貴士は一旦奥の部屋に行き直ぐに戻ってきた。そして持って来た財布から紙幣を全て掴み出すと無理やり璃子に握らせた。
「今持ち合わせがこれしか無いんですが何かの足しにして下さい。それから、若しどうにもならなくなったらまたここへ来て下さい。それから……、私も、嘘は大嫌いですよ」
璃子は複雑な気持ちになった。自分が二人の娘だという事は信じてもらえなかったが、自分が何か悪意を持ってここへ来たのではない、という事は分かってもらえたような気がした。ただ、母の美智子は幼い璃子を守る様に抱いたまま璃子に同情的な言葉をかける貴士を心配そうな顔で見つめていた。
そして嘘は大嫌いという言葉を聞いた時、璃子はずっと二人に隠してきたある出来事を思い出した。
「あの、あと一つだけいいですか。私一度だけ嘘をついた事があるんです。というか、中学生の時にお母さんの財布から三千円盗んだ事があるんです。ごめんなさい」
もう二十年も前の事だが当時は凄く後悔してその後何年も罪悪感に苦しんだ出来事だった。いつかは告白して謝りたいと思っていたが、大人になるといつの間にか忘れてしまった。今、貴士の嘘は大嫌いという言葉を聞いて、ここで言わないとこの先一生告白する機会はないかもしれないという気がした。
「でもそのお金は自分で使ったんじゃないんです。親友が凄く困っていたのでその子にあげたんです」
親友とは林原可代子の事だった。中学生になったばかりの頃、可代子は水泳の授業で着る水着を買ってもらえなかった。母親から小学校の時のがまだ着られるから買う必要はないと言われ、母は先生にも電話して了解を取り付けていた。
「でも、そんな事じゃないんですよ。いくら先生がいいと言ったからって……。中学校の水着は白い縁取りがあったりして見た目が全然違うんです。小学校の水着なんて着て行ったら一目で分かるんです。そんなの死ぬ程恥ずかしいんですよ。でもその子のウチは母子家庭でその子も母親が大変なのは分かってるから何も言えなかったんです。それで、水着のお金を学校に納める日に私、お母さんの財布から三千円抜き取ったんです。お父さんはいつも嘘は絶対にダメだと言ってたから、もし話したらどれだけ怒られるんだろうと思うと怖くて言えませんでした。でも、今思うと怒られるのが怖かったんじゃなくて、お父さんにこの子は嘘つきだと思われるのが怖かったんだと思います。お父さんを失望させるのが怖かったんだと思います」
貴士は璃子の話をゆっくりうなずきながら聞いていた。
「そうですか、そういう事があったんですか。でも、私だったら失望なんかしないと思いますよ。むしろ、親の言いつけに背いてまで親友を助けようとした自分の娘をきっと誇らしく思うと思いますよ」
貴士の言葉に璃子は救われた気持ちになった。長い間心の隅にずっと在った罪悪感のようなものがようやく消えた。
璃子は無言のまま二人に深くお辞儀をすると涙を拭きながら笑顔をみせた。そしてそのまま家を出た。
4
実家からの帰り道、璃子は晴れやかな気持ちになっていた。自分が娘の里見璃子だという事は信じてもらえなかったが、二人とはきちんと話ができたし、言うべき事は全て言えた。そして最後にはある意味では分かり合えた。母の美智子が最後まで不安気な表情だった事は気になるが、今日の結果には概ね満足していた。何より貴士から困ったらまた来なさいと言われたのが嬉しかった。この後どうするかはゆっくり考えればいい。
五月の空は青く晴れ渡り、所々に真っ白い雲が浮かんでいる。まるで今日の璃子の心をそのまま映し出したように清々しい日だった。璃子は思わず鼻歌を口ずさむ程浮かれた気分になっていた。
まだ明るいうちに店に着き、中に入ると笹原と政子がボックス席でビールを飲んでいた。
「あら、リコじゃないの。どうしたのよスーツなんか着てさ、どこ行ってたの? あら? アンタ何かいい事でもあったの?」
「えっ! どうしてですか?」
「どうしてってアンタ、顔にそう書いてあるわよ。相変わらず分かり易いわね」
「政子さん達こそどうしたんですか? 明るいうちからビールなんか飲んで。私も飲ませてもらおうかな!」
そう言いながらグラスを取りにカウンターの中に入った時、「ガタンッ」ともの凄い音を立てて入口のドアが開いた。そして男が一人転がり込むようにして入って来た。関沢ストアーの関沢勉だった。
「た、た、大変だ! 政子さんっ! た、助けてくれっ! けん……、けん、か……」
いつもは穏やかな関沢が興奮して何を言っているのか分からない。政子が関沢の両肩を揺さぶりながら言った。
「ツトムちゃん! しっかりしなさいよ! 喧嘩なの? どこで? 誰が?」
関沢は政子の顔を見ると一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐにまた早口で話し始めた。
「俺の店! 店にチンピラみたいのが二人入って来きて、急に怒鳴り合いが始まったと思ったら直ぐに取っ組み合いになって、今も店で大喧嘩してるんだよ。俺なんかじゃとても止められないんだよ」
政子は直ぐに外に飛び出すと関沢ストアーに向かって走り出した。政子がこれ程機敏に動けるとは誰も想像していなかった。野生の熊が時速五十キロで走るという事を思い出されるような動きだった。
関沢ストアーの周りには十人程の野次馬が集まって入口から店内をうかがっていた。外からでも一見して店内が荒らされているのが分かったが、中には誰もいないようだった。璃子達は恐る恐る中に入って愕然とした。陳列棚はほとんど横倒しになり、床は散乱した様々な商品と割れた酒瓶から漏れ出したワインやウイスキーでびしょびしょに濡れていた。チンピラが喧嘩した位でここまで酷い事になるはずはない。誰かが悪意を持って店を破壊した事は明らかだった。関沢は入口の所で腰が抜けた様にへたり込んでしまった。
その日はそれからが大変だった。パトカーが何台も来て現場検証やら刑事による周辺住民への聞き込みやらが続いた。あの溝端もやってきて関沢や政子に色々な質問をしていた。
一通り警察の調べが終わり、もう片付けてもいいと言われたのは深夜近くになってからだった。関沢はすっかり気落ちしてしまい、急に十歳位歳をとったように見えた。
「政子ちゃん、俺もうダメだよ。こんなになっちゃって……」
「何言ってんのよ。だらしないわねぇ! 別に命取られたわけじゃないんだし、しっかりしなさいよ!」
政子はいつもと変わらない口調で話していたが、内心はかなり動揺していた。これが地上げがらみの嫌がらせなのは明らかだったが、こんな事までするとは思っていなかった。
翌日朝から皆で片付けを手伝う事になった。亡霊のようになってしまった関沢を一人残して帰るのは気が引けたが、既に夜も遅かったのでその日は一旦解散した。
そしてその日の夜遅く、政子の所にあの杉本から電話があった。
「政子さん、ご無沙汰してます。お元気でしたか?」
政子は杉本のとぼけた声に腹を立て受話器に向かって大声で怒鳴った。
「元気でしたかじゃないわよっ! まさかとは思ってたけど、やっぱりアンタだったのね。いくら何でも酷いじゃないの!」
「ちょっと待って下さいよ。何ですか藪から棒に、何かあったんですか?」
「とぼけんじゃないわよ! これ以上何かしたら許さないからね!」
「政子さん、何があったのか知りませんけど、嫌な事があったならこんな街出て行けばいいじゃないですか。今ならいくらでもいい所を紹介しますよ。ここの借地権を任せてくれれば、今の二倍の土地を借地じゃなく所有権でお世話できますよ。どうですか? そろそろ真剣に考えてくださいよ。俺にも都合があってね、もう余り待てないんですよ。あ、それからもしご希望なら、お友達のコンビニの店長さんも一緒にお世話してもいいですよ」
いくら問い詰めたところで杉本が本当の事を言うはずはないだろう。政子は少し考えてから言った。
「アンタ本当に何も知らないの? アタシ、もうこんな街うんざりなのよ。杉本さんさぁ、そこまで言うなら一度こっちに来て詳しく話聞かせてよ。本当にいい所があるなら真剣に考えるから」
「おっと政子さん、その手には乗りませんよ。そっちには物騒な連中がウロウロしてるじゃないですか。それじゃあこうしましょう。すぐに土地の資料を送らせますから、まずはそれを見てください。滅多にない優良物件だから絶対に気に入りますよ。でも早い者勝ちですからね。それで気に入ったら、どこか外で待ち合わせてそこで契約しましょう。悪いけど場所はこっちで指定させてもらいますよ」
杉本を誘き出して警察に突き出すつもりだったが、やはり簡単に引っ掛かる相手ではなかった。そして成り行き上、政子は土地の資料を見てから判断するという杉本の申し出を受ける形になってしまった。
次の日、璃子は早起きして関沢ストアーに向かった。十時前に店に着いたが既に五、六人の人達が店内の片付けを始めていた。政子と笹原の他に近所の人達も来ていた。関沢は集まった一人ひとりに頭をペコペコ下げながらお礼を言って回っていた。
「……ありがとうございます。……忙しいのに悪いね。……本当に助かります」
璃子も慌てて作業に加わったが、いくらやっても片付かない。政子も大きな背中を丸めて何やらチマチマと作業をしていたが、役に立っているようには見えなかった。倒れた商品棚を起して、割れたガラス瓶を集めただけでもう昼になっていた。しかし、まだ床一面に大量の商品が散乱している。その中には袋の破れたパンやスナック菓子等廃棄するしかない物もあれば汚れただけで再利用できる物もあった。これらを全て選別しなければならないのだが、それは一日や二日では到底終わりそうもない量だった。全て片付けるには一体どれくらいかかるのだろう。そんな皆の気持ちを敏感に感じ取った関沢が力無く言った。
「もう床に落ちた商品は全部廃棄するから、一か所にまとめて、それで終わりにしましょう。後は俺一人でも大丈夫だから……」
そんな関沢の言葉に何と答えればいいのか、皆が微妙な表情で顔を見合わせている時、店のドアが開いた。そして逆光の中に黒く浮かび上がったその人影が、野太い声で言った。
「関沢さん、何言ってんですか。まだ全然片付いてないじゃない」
そしてゆっくり店内に入って来たその女は、何とあのオバタリアンだった。そしてオバタリアンの後からあの時の手下二人も入って来た。それぞれ手に持ったトレーに大量のおにぎりを乗せている。
「皆さんご苦労様です。腹が減っては戦ができませんからね。まずはお昼にしましょう」
そして、オバタリアンが関沢に言った。
「関沢さん、外に軽トラックを二台停めてあるから、一台には廃棄する物、もう一台にはまだ使える物をどんどん入れてってください。使えるものは全て町内会で買い取りますから。普通の値段でってわけはいかないけど、赤字にならない程度に値引きしてくれれば全部買い取りますよ。一人暮らしの高齢者に配りますから」
関沢はみるみる明るい顔になった。
「ほ、本当ですか? 値段なんていくらでも構いませんよ。とにかく買い取ってもらえるなら大助かりです。何か、すみません。普段町内会の仕事とかあまり手伝ってないのに……」
「何言ってんですか、町内会は町内の皆さんの為にあるんですからね。後から若いのも何人か来ますから、頑張って今日中に片付けちゃいましょう。まずは腹ごしらえして!」
関沢は涙ぐんで何度も礼を言った。今日初めてオバタリアンもいい人なんだと思った。
オバタリアンはそんな関沢にうなずきながら、政子の方を見て静かに言った。
「政子さん、これで、いいですか?」
急に振られて政子は少しドギマギした。
「えっ! アタシ? そうね、ま、いいんじゃない」
午後から作業を再開するとどんどん店内は片付いていった。オバタリアンの指示で食品だろうが生活用品だろうが袋が破れてしまった物は廃棄、多少潰れていても袋が破れていなければ買い取りというシンプルな判断基準で次から次へと選別してトラックへ放り込んでいった。オバタリアンも伊達に町内会で副会長をしているわけではなかった。大人数を指揮して的確に指示を出していく姿は身体が大きいだけであまり役に立たない政子などより余程頼りになった。そして夕方薄暗くなる頃にはあれ程メチャメチャだった店内が綺麗に片付いてしまった。
最後に皆の前で関沢がお礼の挨拶をした。店が一日で片付いて本当に助かったが、それ以上に自分のためにこれ程多くの人が駆け付けてくれた事がとても嬉しかったという話をした。その時、近所の定食屋の主人が関沢の話を遮って話し始めた。
「関沢さん、俺らが今日来たのはもちろんアンタを助けたかったからだけど、でもアンタの為だけじゃないんだ。この辺の人は皆大なり小なり地上げ屋から嫌がらせを受けてるよ。それで引っ越した人もいるけど、今残ってる人は皆ここに住み続けたいと思ってるんだ。地上げ屋の嫌がらせは日に日に酷くなるけど、アンタや政子さんが頑張ってくれてるから、俺らも何とか踏み留まって来られたんだ。関沢ストアーやスナックマサコは俺らの支えなんだよ。皆そう思ってるんだ。だからこの店を元通りにする事は俺ら皆の為なんだよ」
そうだそうだという声があちこちで上がった。
「だから関沢さん、アンタももう一回踏ん張ってくれねぇか? 皆のためによ!」
関沢は無言で頷いた。感極まって言葉が出ない。後ろからオバタリアンも声をかけた。
「町内会も全面協力しますからね。市役所を巻き込んで地上げ屋一掃キャンペーンをぶちかまそうって今話してるところだから」
オバタリアンの大きな顔も味方に付くと不思議と頼もしく思えた。
杉本は焦りすぎて墓穴を掘ってしまった。関沢ストアーを派手に潰せば皆恐れをなして逃げ出すと考えていたが、返って商店街の人達の結束を強める結果になってしまった。
そしてこの事件があってからは刑事が一日中張り込むようになった。常時二人体制で、一人が関沢ストアーの近くに停めた覆面パトカーで待機し、もう一人がスナックマサコに詰めた。以前璃子が住んでいた物置部屋は警察の秘密基地のようになっていた。もちろん溝端も毎日来た。
杉本はこの数か月間地上げが全くまとまらず金に困っていた。銀行への支払いがかなり前から滞っている事は警察も把握している。一日でも早く次の地上げをまとめたいはずだった。そして杉本が今手がけているのはこの商店街一体の地上げしかない事も警察は掴んでいた。だから杉本は必ず政子に接触してくるはずだった。警察はそこを狙っていた。
杉本が送ると言っていた土地の資料は直ぐに届いた。ここから二駅しか離れていないのに三十坪もあり、しかも所有権だという。信じられない程の好条件だった。
土地の資料が届いた日の翌朝の事だった。やっと外が明るくなり始めた頃、溝端が仮眠する物置部屋のドアが音もなく開き、誰かが入って来た。床のきしむ音で溝端が目を覚ますと目の前に人の顔があり、何か言おうとした溝端の口と鼻を分厚い手が上から押さえ込んだ。政子だった。溝端は政子に襲われると思い込み必死で逃げようとしたが腿の辺りに政子がまたがっていてビクとも動く事ができなかった。パニックを起こしてもがいている溝端に政子がひそひそ声で言った。
「何驚いてんのよ。騒いだら笹ちゃんが起きちゃうでしょ」
溝端は血走った眼を飛び出しそうな程見開いて、眼球を左右に動かした。政子はもう一度、今度はゆっくりと言った。
「誤解しないでよ。アンタに話があって来ただけだから。手を放すから、大きな声出さないでよ。隣で笹ちゃんが寝てるんだから」
溝端は頷こうとしたが顔を押さえ付けられていて全く動かず、眼球だけを上下に動かした。政子がゆっくり手を放すと溝端は堰を切ったように激しく咳き込みながら息を吸った。
「な、何するんですか! 殺す気ですか!」
「しーっ。何が殺すよ! アンタが変な想像するからでしょ」
政子は溝端の呼吸が落ち着くまで待ってから、杉本が送って来た土地の資料を見せ、杉本からの申し出について説明した。そして詳しく聞きたいからここへ来てくれと言ったが断わられた事も話した。溝端は書類に目を通しながら、政子がどうしてこの書類を自分にみせたのかを考えていた。
「それで、政子さんはどうするつもりなんですか?」
「そりゃアンタ、こんなチンケなボロ長屋の借地権より三十坪の土地の方がいいに決まってるじゃない。もしこれが本当の話ならね」
「それじゃ政子さんは、この話を信じてないんですか?」
「当たり前でしょ。アタシは土地の事はよく分からなけど、人を見る目だけはあるつもりだからね。杉本の持ってきた話にホイホイ乗るほどバカじゃないわよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました。きっと何か仕掛けがあるに決まってますよ」
「それで溝端さん、アンタはアタシにどうして欲しいんだい?」
「えっ、どうして欲しいって、政子さん断るんですよね」
「アンタ鈍いわねぇ。それでも刑事なの? 杉本はここへは来ないって言ったのよ。アンタ達杉本を捕まえたいんでしょ。向こうが来ないって言ってるんだから、こっちから行くしかないじゃない。杉本は借地権の権利書持って指定する場所まで来いって言ってるのよ」
「それで?」
「まだ分かんないの、そこにアンタ等が張り込んでれば杉本を捕まえられるでしょ!」
溝端は元々大きい目を更に大きくして驚いた。
「そ、そんな事、できるんでしょうか?」
結局、警察は政子の提案の通り、政子を囮にして杉本を逮捕する方針を固めた。そして翌日溝端が連れてきた上司の刑事は怖い顔で政子に言った。
「いいですか政子さん、杉本は追い詰められているから何をするか分かりません。くれぐれも注意してくださいよ。それから、この事は誰にも言ってはいけませんよ。秘密はどこから漏れるか分かりません。お店の人にもホステスさんにもです。いいですね」
そして警察は一年前の微罪で杉本の逮捕状まで取り付けていた。準備は全て整った。後は杉本からの連絡を待つだけだったが、杉本は土地の資料を送りつけた後、一向に連絡をしてこなかった。政子の方から何度電話してもでない。連絡がないまま二週間程たち、警察は徐々に焦り始めていた。
5
暫くの間、何も進展しないまま平穏な日々が過ぎて行った。スナックマサコは普通に営業していたし、関沢ストアーもあの襲撃事件から一週間後には店を再開していた。しかし裏では警察の張り込みが今でも続き、溝端は連日物置部屋に泊まり込んでいた。溝端は笹原や真奈ともすっかり打ち解けてしまい、今では開店前に三人でコーヒーを飲みながらおしゃべりするのが日課になっていた。
璃子はそんな状況を苦々しく思っていた。何といっても溝端には最初に警察署で会った時にタイムスリップの事を話してしまっている。溝端がその話を信じているかどうかは別として、自分があの時の変な女だと気付かれると色々と面倒な事になるような気がしていた。璃子はなるべく溝端と接触しないように注意していた。
そして、璃子はいつ引っ越しをするかで迷っていた。この前貴士と美智子に会いきちんと話ができた事にはとても満足していた。それに貴士が最後に言った「困ったらまたここに来なさい」という言葉が心の支えになっていた。これまでは両親の住むこの街から離れる事に抵抗があったが、今はむしろ引っ越した方がいいのではないかという気持ちに傾いていた。いくら貴士達が一定の理解をしてくれたといっても、一緒に暮らせるわけではない。しかし、近くに住んでいればどうしても二人の事を考えてしまうし会いたくなってしまう。貴士や美智子への複雑な思いを抱えてここで暮らすより、離れた所で自立した生活をした方がいいのではないか、そんな気になっていた。
そんなある日の事、溝端と笹原がいつものように開店前にコーヒーを飲んでいるところへ真奈が出勤してきた。そして店に入るなり溝端に声をかけた。
「溝端さん! これどうですか?」
真奈は自分の足元を指差して、派手なスニーカーを得意げに見せた。ショッキングピンクが徐々に黒に変わるグラデーションで紐にはキラキラしたラメが入っているド派手なデザインだった。
「ねっ、いいでしょ。前から持ってたんだけど、これに合うパンツが中々なくて……」
すると溝端は物凄い形相でスニーカーを凝視したまま近づいて来た。そして真奈の足元に屈み込んだ。
「これだ! この靴だ! 真奈さん、一体このスニーカーどこで手に入れたんですか?」
「な、なんですか一体! この靴がどうかしたんですか?」
「だから、どこで手に入れたかって聞いてるんですよっ!」
溝端の後ろで笹原がしきりに首を横に振って言ってはダメだと合図を送ったが、溝端の剣幕に驚いた真奈はそれに気付かない。
「リコさんです! リコさんに貰ったんですよ。もう何カ月も前ですけど」
「えっ? リコさんに?」
溝端はそう言った切り黙り込んでしまった。
「でもリコさんも誰かに貰ったって言ってましたよ。そうでしたよね! 真奈さん!」
笹原が咄嗟の判断で誤魔化そうとしたが、真奈に笹原の意図は伝わらなかった。
「笹原さん、何言ってるんですか。リコさんは通販で買ったって言ってたじゃないですか」
溝端はそんな二人の会話には全く反応せず、そのまま二階の物置部屋に戻ってしまった。どこかへ連絡でもするのだろうか。
笹原はこの事を直ぐに政子に伝えた。
「どういう事でしょう? リコさん、何かの事件に巻き込まれているんでしょうか?」
政子はどこまでも冷静だった。
「そんな事は最初から分かってるじゃない。笹ちゃんだってリコがウチに来た時の事は憶えてるでしょ。薄汚れたブラジャー一枚で、髪はボサボサでおまけに臭くて。そもそもあの子関沢ストアーでパンを万引きしたんだからね。事件に巻き込まれてないわけないでしょ。溝端さんの方はアタシが何とかするから、笹ちゃんはリコが店に来たら、直ぐに今の事を教えてあげて。リコがどんな事件に関わってるのか知らないけど、今の溝端さん達にとっては杉本逮捕が最優先だから、今すぐリコに何かするって事はないと思うわよ」
そしてその日の夜九時頃、関沢ストアーでまたちょっとした騒ぎがあった。ニート風の若い男が店に来て買ったパンに虫が入っていたと言って大騒ぎをした。男は覆面パトカーに待機していた刑事に直ぐに取り押さえられた。溝端も応援に駆け付け、二人掛かりで取り調べると男は泣きながら直ぐに白状した。
「知らない男に三万円やるからこのパン持ってあの店に文句付けて来いって言われたんです。ここの店長に恨みがあるって言ってました。それだけです。俺、逮捕されるんですか?」
そして溝端が関沢ストアーの応援に行っている間に政子の所に杉本から電話が入っていた。もちろん契約の件だった。杉本は警察が二十四時間スナックマサコに張り込んでいる事は知っていたのだろう。溝端を関沢ストアーに誘き出して、その隙を狙って政子に電話を入れたのだ。随分と念の入った事だが、まさか政子が警察に全面協力しているとまでは思っていなかったようだ。
溝端が関沢ストアーから戻ってくると、政子は直ぐに杉本から電話があった事を伝えた。明後日の朝九時に権利書と実印を持って駅前で待つようにとの指示だった。多分そこからクルマで別の場所へいくのだろう。溝端は話を聞くと直ぐに上司に電話した。
「政子さん、これから署に戻って当日の段取りを決めてきます。朝までには戻りますから、何か変わった事があったら直ぐに連絡してくださいね」
溝端が店を出るのを確かめてから、政子は璃子を自分の部屋に呼んだ。そして深刻な顔で黙っている璃子に向かって言った。
「笹ちゃんから溝端の話は聞いたんでしょ? なんでもアンタが真奈にあげた靴を見て、溝端さんの顔色が変わったそうよ。まるで容疑者の靴を見つけた刑事みたいだったって。アンタ、心当たりあるの?」
「……。」
「ま、いいわよ。ところで引っ越しの方はどうなってるの? アパートは決まったの?」
「龍くんが何件か見て回ってますけど、まだ決めてはいません」
「そう。だったらどこでもいいから決めて直ぐに引っ越した方がいいわよ。アンタがどんな事に巻き込まれてるのか知らないけど、もうあまり時間がないのよ。警察は今杉本の事で手一杯だからアンタの事まで頭が回らないと思うけど、杉本の事もあと二、三日で片付きそうなのよ。アタシの言ってる事分かる?」
璃子はてっきり政子にあのランニングシューズの事を追求されるのだとばかり思っていたが、政子は何もきかなかった。ただ、警察が何か嗅ぎつけたからここから逃げろと言っているのだ。政子の璃子に対する態度は最初に会った時から少しもブレる事はなかった。重要な事は何も話さない璃子をそのまま受け入れ、助けてくれた。
「政子さん、すみません」
「ま、いいわよ。アンタもう店の方はいいから、今から帰って荷物まとめて、明日中にはこの街を出て行った方がいいわよ。アパート決まってなくても暫くホテル暮らしする位のお金はあるでしょ」
「そんなに急にですか?」
「アンタの事だけじゃないのよ。詳しくは言えないけど、アタシも杉本の事でちょっと面倒な事になっててね。これからアタシ自身もどうなるか分からないんだよ。ここにいるとアンタにとばっちりが行くかもしれないからね」
「政子さん、まさか杉本から土地を買うんじゃないでしょうね! それだけは絶対にダメですよ。日本中の土地は一年以内に大暴落して土地を買った人は皆破産するんですよ!」
「アンタ前にもそんな事言ってたわね。でも大丈夫よ。土地を買うわけじゃないから。ただ色々と揉めててね。とにかく、アンタだけでも明日中にこの街を出るのよ。龍ちゃんとは後で合流すればいいでしょ」
余りにも急な展開に璃子は戸惑ったが、政子がそこまで言うならきっとそれだけの理由があるのだろう。それにしても今日の明日というのは急すぎる。
「それじゃあ政子さんとはこれが最後になるって事ですか? 私、政子さんに話したい事がまだ沢山あるのに……」
「別に最後ってわけじゃないわよ。暫く経ってほとぼりが冷めたら、またいつでも会えるわよ。あっ、そうそう、これ憶えてる?」
政子は一枚の古い写真を差し出した。華やかなステージでスポットライトを浴びて歌う少女の写真だった。
「あっ、この写真、もちろん憶えてますよ。娘さんですよね?」
政子は苦笑いしながら答えた。
「アタシ、娘なんかいないわよ。これはね、アタシなのよ。十二歳の頃よ」
「えっ、えええぇー!」
璃子は口を開けたままもう一度写真を覗き込んだ。
「いくら何でも驚き過ぎでしょ。アタシだって生まれた時からこんなに太ってたわけじゃないのよ。十一歳でデビューして、そこそこ売れたのよ。テレビにも何回も出たのよ。あの頃は本当に楽しかった。周りの大人達がみんなチヤホヤしてくれて、自分には何だってできるような気がしたわ。そういう時はね、全てがキラキラ輝いて見えるのよ。だけど長くは続かなかった。半年も経つと仕事が段々減ってきて。大人達がどんどん離れていって。十二歳の子供には結構きつかったわよ。それから歯車が狂い出してね……。アンタもウチに来る前は何不自由ない暮らしをしてたんでしょ。苦労知らずのお嬢様臭が身体中から滲み出てるもんね。別にけなしてるんじゃないのよ。アンタに言っておきたいのは、昔どんなにいい暮らしをしてても、今は違うんだから今のこの環境で精一杯前向きに生きて欲しいって事。一時いい思いを経験しちゃうと、人間ってのはその頃の事ばかり考えるようになるんだよね。昔を思い出す事しか出来ない人間になっちゃうのよ。そういう人間の成れの果てがこのアタシ。だからアンタにはどんな時も前を向いて足を踏ん張って生きて欲しいのよ。いいわね。じゃあもう行きなさい。龍ちゃんによろしくね」
最後に龍の名前が出ると璃子はふとひで爺の事を思い出した。政子なら何か知ってるかもしれないと思った。
「政子さん、一つ聞きたいんですけど、駅の向こう側にある大滝寺っていうお寺知ってますか?」
「もちろん、知ってるわよ。リリーさんのお墓もあるし、命日にはお墓参りにも行くからね。大滝寺がどうかしたの?」
「ひでさんとか、ひで爺さんとかいうお坊さんは、あそこの住職さんなんですか?」
「アンタ、どうしてヒデジさんの事なんて知ってるの?」
「龍くんとお墓参りに行った時、たまたまお寺で会ったんです」
「会ったってアンタ、怖い事言わないでよ。ヒデジさんはもう何年も前に死んでるわよ。今は息子が住職だけど、アンタ息子の方に会ったんでしょ。ヒデジさんはね、ギョロ目で禿で海坊主みたいなんだけど、そんな人じゃなかったでしょ。もういいから早く行きなさい」
璃子は言葉を失った。政子に押し出されるようにして部屋を出ながら、背中にゾクゾクと寒気のようなものを感じていた。ただ、どういうわけか怖いという感情は全く起こらなかった。むしろ、心のどこかで「やっぱり」と感じている自分もいた。
翌日、璃子は政子に言われた通り、街を出て行く準備をしていた。昼過ぎに起きてきた龍は荷物の整理をしている璃子を眺めながら言った。
「本当に今日出て行くつもりなのか? 政子のいう事なんか真に受けて慌てて引っ越す事はないよ。二週間もあればアパート決めて契約までできるから、一緒に引っ越せばいいだろ」
しかし、璃子は全く聞く耳を持たなかった。政子の洞察力にはこれまで何度も驚かされてきたから、政子がそこまで言うならその通りにしようと思っていた。助言を無視してここに居続けると、何かとんでもない後悔をするような気がしていた。
そして龍がバイトに出かける頃にはすっかり部屋も片付いた。
「じゃあ、俺行くからホテルが決まったらバイト先に電話してくれよ。アパートにはなるべく早く入れるようにするから」
龍が出かけた後、暫くしてから璃子も外に出た。荷物はまだ部屋に置いたままだった。ここを出て行く前に少しだけ街を歩きたかった。溝端達に見つかると面倒な事になるが、商店街の方に行かなければ大丈夫だろう。
(そうだ。久しぶりに並木道に行ってみよう。あそこならベンチもあるし)
璃子は周りの家並みを眺めながらゆっくり歩いた。タイムスリップ以降はあまり親近感が湧かなくなってしまったが、生まれ育った街を出て行くのはやはり寂しかった。
並木道に着くと近くのベンチに腰を下ろした。空はどんより曇っていたが六月の生暖かい南風が気持ちいい。いつか見たポプラの根元に一枚だけ生えた若葉を探してみたが見当たらない。根本近くに葉が生えている木は何本かあったが、どれも何枚もの葉が集まって生えていた。あの後仲間の若葉が生えてきたのかもしれない。
今こんなに落ち着いた気持ちでいられるのは、やはり貴士と美智子に会って話ができたからだろう。あの時帰りがけにふと思い出して美智子の財布から三千円盗んだ事を告白したのが結果的には良かったのかもしれない。貴士は、もし自分ならそんな娘を誇らしく思うと言ってくれた。
そんな事を考えているうちに、あの時、三千円を盗んでしまった時の光景が断片的に蘇ってきた。テーブルの上に母の財布があり、その横に千円札が三枚置いてあった。その光景に璃子は軽い違和感を覚えた。
(あれ? あの時、お母さんの財布から自分で三千円抜き取ったんじゃなかったっけ?)
そして徐々にあの朝の事を思い出した。あの日は確かお母さんが台所にいて、今手が離せないから行ってらっしゃいと声をかけられたんだ。そして母は、水着のお金はテーブルに置いてあるから忘れないでね、とも言った。
テーブルには水着代金用の封筒と財布と三千円が並んで置いてあった。そして璃子が三千円を封筒に入れようとしたら、中には既に三千円が入っていた。美智子はお金を封筒に入れたのに勘違いしてテーブルの上にも三千円を置いたんだと思った。そして美智子に「お金余計に出てるよ」と言いかけて、慌ててやめた。その時に可代子の事を思い出したからだ。この三千円があれば可代子も水着が買える、そう思った。ほんの一瞬迷ったが、すぐにお金の入った封筒と三千円の両方をカバンに入れて家を出た。そうだ、私は財布から自分でお金を抜き取ったわけじゃないんだ。それにしても母はなぜ封筒と三千円を別々に置いたのだろう、とそこまで考えて璃子はハッとした。まさかと思った。急に心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。母はわざと三千円を出しておいてくれたんだ。ついこの前、璃子は貴士と美智子に会い、中学生の時に三千円盗んだ事を打ち明けていた。母はその事をずっと憶えていて、十年後、璃子が中学生になって水着代を持っていく日にわざと三千円を余計に出しておいてくれたのではないか。そうに違いない。そうとしか考えられなかった。
という事は、美智子も貴士もタイムスリップの話を信じてくれていたという事だ。璃子は美智子の愛情を強く感じた。この前会った時に最後まで警戒する姿勢を崩さなかった美智子を恨めしく思っていたが、そんな自分を申し訳ないとも思った。
そして、これまで漠然と感じていた様々な疑問が一つずつ解けていった。小さいころからポプラ並木の道には絶対に行ってはいけないと言われ続けてきた事、そしてタイムスリップの前には貴士が強引に引っ越そうとしていた事、それらはすべて璃子を守るため、タイムスリップを回避するためだった。何時だったか引っ越しの事で貴士と言い争いになった時、貴士が「お父さん達がお前のためにならない事をするはずがないだろう」と涙目で言ったのを思い出した。
璃子は貴士と美智子にもう一度会いたいと思った。しかし、会ってどう話せばいいのだろう。璃子は、今この時になってようやく全てを理解できたが、それをどう説明すればいいのか。この前の三千円盗んだ話はお母さんがテーブルにお金を出しておいてくれたからです、と言ったところで、それはまだ十年も先に起こる事なのだから、やはり二人を納得させられるような説明はできないだろう。
風が強くなってきた。背の高いポプラの木々が静かに揺れている。低く垂れ込めた雲の隙間から所々青空が見えた。そして西の空からはオレンジ色の陽射しが差しみ、青とオレンジと紫が混ざり合った何とも不気味な空模様だった。
璃子はアパートに戻るつもりで立ち上がった。そして最後に目に焼き付けるようにポプラの並木を端から端までゆっくりと見渡した。
その時、長い並木道の中程に親子連れの後ろ姿が見えた。母親らしい女性と小さな子供が手を繋いで歩いていた。璃子は羨ましそうにその親子連れを見た。
(私はもう二度と母と手を繋いで歩く事などないのだろう……)
そんな事を思いながら眺めていると、母親の方が不意に振り向いた。
璃子は息を呑んだ。美智子のように見えた。璃子は無意識のうちに親子連れに向かって歩き出していた。もう一度、顔を見て確かめたい。璃子は思わず叫んでしまった。
「あの、ちょっと待って!」
母親がその声に振り返った。間違いない。美智子だった。
心臓の鼓動が急激に速まり、思う様に息ができなかった。璃子は小走りに追いかけたが、それに気付いた美智子は娘を抱き上げて走り出した。璃子は必死で叫んだ。
「おかあ……、さん。分かった、全部、分かったの! アタシ!」
しかし、過呼吸のようになった璃子はうまく声が出なかった。璃子は必死で走った。二人は私の事を誤解している。二人にきちんと説明しないと……。その時、美智子が転んだ。娘を両手にしっかり抱いたまま転んだ美智子は頭から地面に落ちた。それを目の当たりに見た璃子は、美智子に抱かれた幼い自分自身が急に憎らしくなった。
(アンタのせいよ!)
美智子に放り出されるようにしてトコトコ走り出した娘めがけて、璃子は走った。「待ちなさい!」と言ったつもりが、声にはならない。息苦しさに顔を歪め、長い髪を振り乱して走る璃子には、もはや自分が何をしているのかさえ分からなくなっていた。そして幼い自分自身に向かって璃子が走り込んだ時、地面に倒れていた美智子が足元に飛びついてきた。
その瞬間、璃子は我に返った。
(まさかっ! こんな事って!)
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