希望
1
相変わらず今日も暑い。かれこれ三十分も経つだろうか。璃子は龍のアパートを遠巻きに見ながら、直射日光の照り付ける道を行ったり来たりしている。
いつまで経っても店に顔を出さない龍に腹を立て、もうあんな奴は顔も見たくないと思いながらも、店のドアが開く度に淡い期待と共に振り返っている自分に気付き、璃子は戸惑っていた。このままではどうにもこうにも落ち着かない。龍と縁を切るにしても説教の一つもしてやらないと気が収まらないという気持ちでここまで来たものの、いざ部屋の前まで来るとドアをノックする勇気が出ない。それは、龍に説教するとか怪我の具合を確かめるとか色々と理由を付けてはみても、何よりもう一度龍に会いたいというその気持ちに璃子自身が気付き始めているからだった。
(私は龍なんかに恋愛感情など少しももっていない。あんな十歳も年下のバカをこの私が好きになる訳がないし、ましてや自分の方からモーションをかけるなどあり得ない)
炎天下を行きつ戻りつしているうちに、ふと気付くと出がけにビシッとアイロンをかけたTシャツは汗にまみれてヨレヨレになり、ブラジャーの輪郭がくっきりと浮き上がってしまっている。
(何よこれ! 折角アイロンまでかけたのに!)
璃子はヨレたTシャツにも煮え切らない自分自身にも腹が立ってきた。そしてもうどうにでもなれという気持ちでツカツカと龍の部屋に近づくとドアを勢いよく叩いた。
「龍くん! 居るの? リコだけど!」
「……」
ドアノブを回してみると、簡単にドアは開いた。中を覗くと流し台の奥に見える散らかった部屋に人の足が見えた。龍だ。
「龍くん、居るんなら返事くらいしてよ。入るわよ」
部屋に入るなりムワッとした暑さと共に異臭が鼻を突いた。それは前に来た時よりも強烈で商店街の空き地にいるホームレスの臭いに通じるものがあった。中はまるで空き巣にでも入られたのかと思うほどの散らかり様で、脱ぎっ放しのシャツやビールの空き缶、ビリビリに破られた音楽雑誌、丸めたテッシュ等が散乱していた。そして龍はイライラする程ゆっくりとした動作で起き上がると真っ赤な目で璃子を見た。死んだ魚のようなトロンとした目だった。
「り、龍くん、何やってんのよ……」
龍は何も答えない。
「具合でも悪いの?」
「……」
璃子はしばらく探るように見つめていたが、いきなり立ち上がると窓を開け放った。外からは暑いが乾いた風が勢いよく入ってきた。璃子は努めて明るい声で言った。
「こんな部屋に居るから具合が悪くなるのよ」
璃子はそう言うと勝手に部屋を片付け始めた。そして無言の龍の腕を引っ張って立ち上がらせると勢いよく龍の尻を叩いた。
「しっかりしなさいよ! だらしがないわね! 私が部屋を片付けるからアンタは顔でも洗ってきなさいよ」
出来の悪い息子を叱る母親の様な言い方だったが、龍は意外にもおとなしく外へ出て行った。そして間もなく開けっ放しのドアの向こうから勢いよく水を出す音が聞こえてきた。ドアの横に置いてある洗濯機用の水道で顔を洗っているらしい。
龍が戻るまでの五分程で部屋の中はあらかた片付けた。何しろ璃子はこっちの世界へ来てから掃除だけは上達している。こういう時に短時間で片付けるコツは邪魔な物は迷わず捨てる事。雑巾なのか洗濯物なのか分からないものがいくつかあったが、璃子は構わず片っ端から捨てた。そして最後に薄いのにやたらと重い敷布団を窓に干し終えたところに龍が戻ってきた。上半身は裸。頭から水をかぶったようで長い髪が濡れていた。
「あれ、この辺に脱いだTシャツなかった?」
「知らないわよ、そんなの」
「そうか」
龍は力なく言うと引き出しから別のTシャツを取り出して顔を拭いた。そしてそのままそのTシャツを着た。さっきは寝ぼけた顔をしていたが、こうしてちゃんと顔を洗うとやはり龍はイケメンだった。璃子はうっかり龍に見とれている自分に気付き、誤魔化すように勢いよく龍を責め立てた。
「アンタ、何で店に来ないのよ。やっぱり骨折してたのかとか色々考えて心配してたのよ」
見ると龍の左手にはまだ痛々しいかさぶたが残っていたが、包帯もしていないしどうやら順調に治っているようだった。
「……」
「何とか言いなさいよ」
「……どうして俺に構うんだよ。もう放っといてくれよ」
「な、何よその言い草は! あれだけ人に世話をかけといて、ありがとうとか、助かりましたとか言えないの?」
「……ありがとう、助かりました。これでいいのか?」
龍のあまりの変わり様に璃子は言葉を失った。
「ねえ、一体どうしたの? 怪我は治ってきたんでしょ?」
龍は面倒くさそうに立ち上がると部屋の隅から何やら紙の束を持ってきた。札束、それは一万円札の束だった。パッと見でも五、六十万円はありそうだった。龍はそれを璃子の前に無造作に放り出すと覇気のない声で言った。
「色々と世話をかけたな。そこから好きなだけ持っていってくれ。そして、俺にはもう構わないでくれ」
「ちょっと待ってよ。私、別にお礼が欲しい訳じゃないわよ。大体こんな大金一体どうしたのよ! まさかアンタ岡本達と一緒になって……」
龍は璃子の言葉をさえぎって大声で否定した。
「違う違う! その金は別に悪い事した訳じゃない。流しで貯めた金だよ」
龍は初めて真顔で璃子を見た。
「アンタがお礼なんて欲しくないのは分かってるけど、俺、他に何もできないから……。せめてこれを受け取ってくれないか。俺、もうここを出て行こうと思ってるから」
「えっ、どういう事? 出て行くってどこへ行くの?」
龍は大きく息をつくと璃子の前に座り、ゆっくりと話し始めた。そして怪我は順調に治ってきているが、岡本達には相変わらず付きまとわれていてる事。ギターが弾けない間は仕事を手伝えと言われて、岡本達が地上げ工作の脅しや嫌がらせをする時の見張りのような事をさせられている事を話した。一度見張りを断って帰ろうとすると手下のリーゼントとパンチパーマがいきなり飛びかかって散々殴られたとも言った。
「もう岡本の手先みたいな事はしたくないけど、ここにいる限りヤツらに付きまとわれるんだ。だから俺はここから逃げ出すんだよ」
そこまでいうと龍は一旦言葉を止めた。そして少し恥ずかしそうな顔でまた話し始めた。
「本当は俺、プロのギタリストになりたかったんだ。皆は俺のギターをプロ級とか言って褒めてくれるけど、どこまで行っても俺のは自己流でまだまだなんだよ。恥ずかしいけど楽譜もまともに読めないんだ。だから俺、ちゃんと音楽の勉強したくて……。そういう学校があるんだよ。そこで一から勉強して、ある程度基礎が身についたら作曲の勉強もしようと思ってさ……」
学校の話をする時、龍は俄かに元気を取り戻した様に見えた。しかしそれはほんの一瞬の事で自嘲的な笑みを鼻先に浮かべるとまた元の覇気のない口調に戻ってしまった。
「それは学費のつもりで流しで貯めた金だから、決して悪い事した金じゃない。先月までは百万位あったんだけど、岡本に取られたりヤケになって飲み歩いたりで大分減っちまった……。でももういいんだ。プロのギタリストなんて夢みたいな事言ってたってそうそううまくいくはずないからな。どこか遠い街へ行ってちゃんとした仕事を探そうと思ってるんだ。今は人手不足で仕事なんていくらでもあるからな」
「ちょっと待ってよ! もういいってそれどういう事よ! 何でアンタが岡本なんかのために夢を諦めなくちゃならないのよ! 冗談じゃない! それにアンタのギターはアンタが自分で思ってるより凄いから。絶対に! 皆言ってるわよ」
「そんな事ないんだよ。一流といわれるプロの演奏と俺なんかのギターは比べ物にならない程の差があるんだよ。それは自分でよく分かってるんだ。ただ俺は素人受けする派手なアレンジとかが結構得意だから、それでうまく聞こえるだけなんだ。言ってみれば誤魔化しがうまいだけなんだよ」
璃子は全てを悟った様に諦め顔で話す龍に段々腹が立って来た。夢があってしかもその夢は手を伸ばせば届く所にある。本気で取り組みさえすれば十中八九実現できる、周囲の誰もがそう思ってるのに本人だけが無理だと思っている。
「岡本みたいなチンピラに脅されたくらいで、何人生終わったみたいな顔してんのよ! 情けない! アンタ男でしょ! 殴られたんなら、何で殴り返さないのよ! そんな風だから付け込まれるのよ!」
「そう簡単に言うなよ。殴り返せって言うけど三対一なんだぞ。勝ち目ねぇーだろ」
「勝ち目が有るとか無いとかじゃないわよ! やられっ放しで黙ってたら増々図に乗るだけだって言ってるのよ!」
「他人事だと思って勝手な事言うな! それに素人がギターの事でごちょごちょ言うな! 自分の腕は自分が一番分かってるんだ」
それだけ言うと龍はふてくされた様に横を向いてしまった。
「他人事って何よ! 他人事ならこのクソ暑い中こんな臭い部屋までわざわざ見舞いに来ないわよ! それにプロだの素人だのって言ってるけど、演奏を聴きに来るお客はほとんどが素人なんだから素人が聞いてどう感じるかが一番大事なんじゃないの? 全くアンタみたいなじれったい人は見た事ないわ。あと少し努力すれば夢が叶うのに、当の本人だけが自分の才能を信じてないなんて。とにかくアンタがギターをやめるなんて私が認めない。本当にギターが嫌いになってやめるなら何も言わないけど、岡本なんかのせいでやめるなんて絶対に認めない。アンタがどうにも出来ないなら私が何とかするから」
璃子は興奮して過激な言葉でまくし立てている自分に驚きつつも、なぜだか身の内に沸々と力が湧いて来るのを感じていた。それは不思議な感覚だった。
「アンタに説教してたらなんだか元気が出てきたわ。今から帰って政子さんに岡本の事相談してみるから。それから明日も掃除に来るからね。夜逃げみたいな事したら承知しないわよ!」
璃子は一方的にまくし立てるとそのまま部屋を飛び出した。
2
気持ちが逸っていつの間にか小走りになっていた。政子なら絶対に力になってくれるし、政子が本気で動けば岡本なんてもう店にも近づけなくなるだろう。璃子はとにかく早く龍を安心させてやりたかった。さっきの感じでは本当にアパートを引き払って出て行ってしまうかもしれない。そんな事を考えながら店に飛び込むと誰もいないと思っていた店内に数人の人がいた。そして皆がいっせいに璃子の方を見た。そこに居たのは政子と笹原、関沢、そして白いTシャツにジーンズというラフな格好をした女性がいた。ゆっくりと振り返ったその人は、よく見ると千夏だった。これまで上から下までブランド物で固めた夜の姿しか見た事がなかったから、すぐには千夏と分からなかった。キョトンとしている璃子に向かって笹原が言った。
「千夏さん、お店辞めるんですって」
「えっ! どうしてですか?」
驚き過ぎて、とんでもなく素っ頓狂な声になってしまった。
「千夏さん、今年は絶対に司法試験に合格したいから、お店は辞めて勉強に集中したいんですって」
笹原がそう説明すると、千夏は璃子の方に向き直ってゆっくりと話し始めた。
「司法試験っていうのは、筆記と論文、口述の三回の試験があるんだけど、最初の二つはもう終わっていて、あとは来月の口述試験だけなのよ。今年は筆記と論文の手応えも良かったし、今年こそ何が何でも合格したいから、最後の口述試験には全力で集中したいと思ってね」
Tシャツ姿で穏やかに話す千夏はまるで別人だった。今度は政子が千夏にきいた。
「それでお店にはいつまで出るの?」
「その事なんですが、出来る事なら今週いっぱい位でと思ってるんですけど」
「あらそうなの。そりゃまた随分と急だわねぇ」
「すみません。今年は最後のチャンスだと思っているので、できる事はすべてやっておきたいものですから……」
「まあ、仕方ないわねぇ。でも、その口述試験とやらが終わったら、またお店にも出られるんでしょ?」
「そうもいかないんですよ。口述試験の翌月には合格発表があって、合格すると今度は司法修習生として弁護士になるための本格的な勉強が始まるんです。ですから、もうお店には戻れないと思います」
「あらそう、弁護士になるのって大変なのね。でも分かったわよ。店の事もお客の事も気にしなくていいから。これまで随分稼いでもらったしね」
政子はそう言うと急に璃子を見て言った。
「ところでリコ、アンタ今やけに慌てて入って来たけど、何かあったの?」
相変わらず政子は鋭いなと思ったが、笹原や関沢も居るこの場で龍の事を相談するのは憚られた。
「いえ、大した事じゃないんですけど、政子さんにちょっと相談したい事が……」
「あらそう、じゃあ後で聞くわ。私達もうちょっと千夏と話があるから……」
「はい。分かりました」
璃子は千夏に向かって軽く頭を下げると自分の部屋に上がっていった。
それにしても驚いた。千夏が司法試験を目指している事は政子や笹原からも聞いてはいたが、あと少しで合格するところまで来ているとは思ってもみなかった。それに今日の千夏はいつものピリピリした感じが全くないし、服装のせいもあってかまるで別人だった。
璃子は、千夏の身の上話を聞いてからある意味尊敬していたが、どうしても好きにはなれなかった。確かに千夏が経験して来た事は大変な事だし、それにめげずに司法試験の勉強を続けてきたのは凄いと思う。でも千夏はあまりにも大変な経験をし過ぎたために性格がひねくれてしまったのだろう。そうでなければ自分のような弱い立場の人間にあんな態度を取れるわけがない。でも今日の穏やかな千夏を見ていると、若しかするとそこまで悪い人ではないのかもしれない、という気もしてきた。そんな事を考えているとコンコンと誰かがドアをノックした。
「千夏だけど……」
「あっ、はい」
慌ててドアを開けると千夏は「少しいいかしら」と言いながら部屋に入って来た。そして狭い部屋を見回しながら言った。
「ああ懐かしい」
「えっ?」
「知らなかった? この部屋の最初の住人は私なのよ。そこの押入れのフスマ、枠が折れてるでしょ。あれは私が二度目の司法試験に落ちた時に頭にきて蹴飛ばしたら折れちゃったのよ」
千夏はいたずらっぽく笑った。
「今、政子さん達と話して決めて来たんだけど、私、もうお店には来ない事になったの。十年かけてやっとあと少しってとこまで来たんだから、最後は店の事なんて気にしないで試験の事だけ考えなさいって言ってくれてね」
「えっ、そんなに急に?」
「どう? ほっとした?」
「いえ、そんな事ないですけど」
「いいのよ。本音で話しましょうよ。私はどうせ居なくなるんだし。あなた、私の事、性格の悪い意地悪女だと思ってるんでしょ?」
「……」
「まあ、そう思われても仕方ないけど……」
千夏は一旦言葉を切ると大きく息を吐いた。いつの間にか穏やかな表情は消え、いつもの尖った顔つきになっていた。千夏はいったい何を言い出すのだろう。璃子は思わず身構えていた。
「私はね、アンタを見てるとイライラするのよ。最初はホステスの仕事を甘く見てる態度に腹が立っただけだった。でも段々とアンタが何か問題を抱えていて、それが抜き差しならないところまで来てるらしいって事が分かってきた。私が頭に来てるのは、アンタが問題解決のために何もしてない事。バカみたいに朝から晩まで掃除して、クソまじめにホステスの仕事覚えようとしたりして。そんな事してる場合じゃないでしょ!」
千夏は段々興奮していつかの大喧嘩の時のような勢いになってきた。
「私には、アンタが目の前の問題から目を逸らして掃除やホステスの仕事に逃げ込んでるようにしか見えなかった。それに凄く腹が立ったのよ」
確かに、掃除やホステスの仕事に集中している間だけは余計な事を考えずにすんだ。それを「逃げ」だというなら確かにそうかもしれない。でもこんな問題と正面から向き合ったら気が狂ってしまうかもしれないし、そもそも千夏にどうこう言われる筋合いではない。
千夏は少し自分を落ち着かせるように間をおいた。
「おかしいわよね。別にアンタなんか私に何の関係もないんだから、放っとけばいいのに。でも、自分でも不思議なくらいアンタの事が気になったし、問題から逃げ回ってるアンタの姿に腹が立ったのよ。それはね、たぶんアンタが昔の自分と同じに見えたからだと思う」
璃子には千夏が何を言いたいのか全く分からなかった。
「それ、どういう意味ですか?」
「私の実家の事は聞いてるでしょ。私はね、父親が死んでしまった時、死ぬ程後悔したわ。何で自分はもっと力になれなかったのかって。もちろん、私だって出来る事はやったわよ。父が裁判に集中できるように炊事、洗濯、掃除、家の事は全部やってたし、役所に書類を取りに行ったり弁護士との打合せに同席したり。でも心のどこかにこれは父の仕事で私は手伝ってるだけ、みたいな気持ちがあった気がするの。騙されて工場とられてしまったのは父なんだから取り返すのも父の仕事なんだ、みたいな。でも父が死んでしまうと、私は自分で自分が許せなくなった。父が必死で工場を取り戻そうとしていたのは私のためだと分かっていたのに……。私はどこか他人……、ぐぉ~、と~、た、他人事……のよう……」
千夏は話の途中で突然声を詰まらせて泣き始めた。そして璃子に言い訳するように大声で叫んだ。
「だって、あんなに……、呆気なく死んじゃうなんて……、思ってなかったのよ! そんなに悪かったなんて……、知らなかったのよ。もし分かってら私だって……、私だって……」
璃子はあの千夏が目の前で泣いている事が信じられなかった。しかし泣いていたのは少しの間だけで、直ぐに呼吸を整えるとまた話し始めた。
「ごめんなさい。格好悪いところ見せちゃったわね。でもね、後悔先に立たずってよくいうけど、口で言う程生易しいものじゃないわよ。アンタを見てると、あの時の自分と重なるのよ。手遅れになってからあの時ああしておけば良かったと思っても遅いのよ。今出来る事、考えられる事はとにかく全部やってみるのよ。出来る事を全力でやり切ったなら、どういう結果になっても後悔だけはしなくて済むから」
璃子は驚いた。これまでの千夏との関係から、千夏がそんな事をわざわざ言いに来てくれるとは到底思えなかった。
「千夏さん、わざわざそれを言いに来てくれたんですか?」
「私はね、別にアンタの事は嫌いじゃないのよ。ただ腹が立っただけ。それも多分アンタにじゃなく、昔の自分に腹が立ってたんだと思う。そしてアンタを見てると、あの頃の自分を思い出すからアンタに八つ当たりをしてたんだと思う。アンタがどんな問題抱えてるのかは知らないけど、このまま何もしないと私みたいに死ぬ程後悔する事になるかもよ。それが言いたかっただけ」
「千夏さん……。わざわざ、ありがとうございます」
璃子は思い掛けない千夏の優しさに涙が出そうになった。璃子を見つめる千夏はまた元の穏やかな表情に戻っていた。
「それからもう一つだけ。もしアンタが何か目標とか、こうなりたいっていう希望とかがあるなら、それを実現するのに一番大切な事は、多分、最終的にどうなるのかを最初に自分で決める事。分かる? 私は十年前に弁護士になると自分で決めた。そして来年、必ず弁護士になるわ。私、弁護士になるって決めた時の事は今でもはっきり憶えてるけど、固く決意したとか何が何でも弁護士になってやるとかそういう感じじゃなかったんだよね。ただどうすれば父が喜ぶかって考えた時、スッと、そうだ、弁護士になろうって思ったんだよね。高校中退の私が弁護士になるって事がどれだけ大変なのか全然分かってなかったわよ。でも自分の中ではもう弁護士になるって決めたの。それからは大変だった。自分で言うのも何だけど、そこら辺の人とは比べ物にならない位の努力をしたわ。でもね、最初からそんな覚悟があったのかというと全然そんな事はないの。何というのかな、最初に結果を決めちゃうと覚悟とかやる気とかは後から自然に湧いてくるのよ。うまく言えないけど、多分、順番が違うのよ。まず最初に結果を自分で決めちゃう事が一番大事なんだと思う。アンタ、流れ星の話は聞いた事あるでしょ。流れ星を見た時に願い事をすると必ず叶うっていう、あれ。あれはね、単なる子供だましじゃないのよ。流れ星っていつ出るか全く分からないでしょ。しかも、見えたと思ったら一秒か二秒で直ぐ消えちゃう。だから流れ星が見えた時に願い事をするなんて普通はできないのよ。それができるのは、その人が朝から晩までいつもその願い事を考えているような場合だけ。逆に言うと、その位強い気持ちで思い続ける事ができれば、その願いは必ず叶うって事なんだって。私、その話聞いた時、何だかすごく納得しちゃってさ……。だからアンタもどうなりたいのか自分で決めて、思い続ければきっといい方向に行くわよ」
千夏は言いたい事だけ話すと直ぐに帰ってしまった。自分で最初に結果を決めるという千夏の言葉は、璃子には今一つピンと来なかった。それよりも「問題と向き合わずに掃除やホステスの仕事に逃げ込んでる」という言葉が突き刺さった。図星だった。
千夏は問題から逃げずに向き合えと言うが、それはどういう事なのだろう。未来には戻れない、この世界で生きるしかないという事を受け入れろという事なのだろうか。千夏はやれる事を全てやり切ったなら後悔は残らないとも言った。しかしこの状況でやれる事なんて何があるのか、未来に帰る方法が分からない以上、やれる事なんて何もない。ただ、このままだと後々後悔を残すかもしれないと思う事が一つだけある。それは今この世界で貴士と美智子に会う事。会って全てを正直に話せば貴士なら理解してくれるかもしれない、いや、理解してくれるに違いない。しかし、貴士が璃子の話を信じてくれたとしても、それが何になるのだろう。いくら貴士でも璃子を未来に送り返す事はできないだろう。いや、そういう問題ではない。もし、貴士が璃子の話をちゃんと聞いて、そして信じてくれたなら、璃子のために涙を流してくれたなら、それだけでどれ程救われるか分からない。
(そうだ、やっぱりお父さん達に会いに行こう。ちゃんと準備して、何をどういう風に話すかしっかり考えて。龍の事が落ち着いたら、必ず行こう……)
3
千夏が帰って暫くすると政子に呼ばれた。
「さっき言ってた話ってなあに? 面倒な事はゴメンだよ」
璃子は龍が岡本に付きまとわれて金をたかられている事や地上げの手伝いをさせられている事などを正直に話した。
「もう岡本とは縁を切りたいんですけど、何かいい方法ないでしょうか?」
「なるほどね。龍ちゃんが全く店に来なくなったから、どうしたのかなとは思ってたけど、そんな事になってたんだ」
政子は驚いていたが、岡本の事は快く引き受けてくれた。
「あのチンピラ共は最近図に乗ってるから、アタシも何とかしなきゃと思ってたのよ。あいつ等がうろちょろするようになってから店に来なくなったお客さんも結構いるからね。でもさー、何でアンタがそんな事に関わってるの?」
「えっ! 私ですかっ、そのぉ……、龍くんが岡本達からボコボコにされてる所にたまたま出くわしちゃって、それで行き掛り上、知らん顔できない感じになっちゃって……」
いきなり質問されてドキッとした。嘘はついてないつもりだが、政子にじっと見つめられると何だか後ろめたい気持ちがした。
「ふーん、行き掛り上ねぇ……、まっ、いっか。分かったわよ。岡本なんかどうにでもなるけど、最近たちの悪い連中とつるんでるみたいだから、杉本さんから釘刺してもらうのがいいだろうね」
流石は政子、何でも知っている。たちの悪い連中とはきっとリーゼントとパンチの事だろう。
「でも杉本さん、そんな事してくれますか?」
「大丈夫よ。杉本さんはここの借地権が欲しくてたまらないんだから、ちょっと気を持たせるような事言えばチョロいもんよ」
やはり政子に相談して良かった。ボスの杉本の命令なら岡本も従わざるを得ないだろう。
しかし、璃子には少し気になった事があった。
「政子さん、あの、ここの借地権を杉本さんに売るつもりなんですか?」
「今のところ売るつもりはないけど、結構な金額を提示して来てるからね、正直ちょっと迷ってはいるんだよね」
璃子はバブル崩壊について詳しくは知らなかったが、一旦崩壊が始まると土地も株価も急激に値下がりして不動産会社は軒並み倒産したという事は知っていた。
この当時、土地の価格は高騰し続け、山手線の内側の土地を全部売ればその金でアメリカ全土の土地が買えるなんて事までいわれていた。そして土地は絶対に値下がりしないという土地神話の元、銀行も不動産会社にどんどん融資をした。不動産会社はその金で土地を買い漁り、高値で転売して莫大な利益をあげていた。誰も地価が下がる事など考えなかった。
「土地価格ってのは値下がりしない仕組みになってるんですよ。少し考えれば分かるでしょ。銀行だって土地を担保に融資してるんだし、この国じゃ土地の価値が全ての基本なんですよ。第一、もし土地価格が下がったら日本経済はめちゃくちゃになっちゃいますよ。そんな事は絶対ありませんから」
名の知れた評論家でさえも、こんな理屈の通らないコメントをしていたし、それを見聞きした人達もその言葉を鵜呑みにしていた。自分の目で世の中を見て、自分の頭で考える事が出来る人はほとんどいなかった。皆浮かれたように金儲けの事ばかり考えて、波に乗り遅れて損をする事を恐れていた。しかし、現実には評論家達の言うあり得ない事が起こり、日本経済はその言葉の通りめちゃくちゃになってゆく。璃子は、もし政子が杉本にそそのかされて土地購入を考えているなら、何とかして思い留まらせなければと思った。
「政子さん、借地権を売った場合、代金は現金でもらうんですか? それならいいんですけど、もしそのお金で別の土地を買えとかいう話なら絶対にやめた方がいいですよ」
「えぇ? どうしたの急に、アンタに不動産売買の事なんか分かるのかい?」
「いえ、私じゃないんですけど、知り合いに詳しい人がいて、その人から聞いたんです。今は凄く景気がいいけど、この好景気ももう直ぐ終わるって。そうなると土地の価格が下がり出して土地を買った人は皆破産するって、そう言ってました」
「そんな事誰がいったの? お客さんかい? でもね、確かに最近杉本さんも元気ないんだよね。何かいつもイライラしてて、商売で問題抱えてるみたいでさぁ。ここの借地権の事も早く決めろって急かしてくるんだよね。もしかすると本当にこの好景気が終わるのかしら? まっ、いずれにしても今すぐここを売る気はないから。あら、何で借地権の話になったんだっけ? あ、そうそう龍ちゃんの事だったわね。杉本さんには話通しとくけど、龍ちゃんにもしっかりしろって言っといてよ。岡本なんかにビビってんじゃねぇって」
璃子は安心した。これで岡本の事は大丈夫だし、借地権の事もあれだけ言っておけば軽率に土地を買ったりする事はないだろう。
璃子はそれから毎日龍の部屋へ行った。昼前に龍の部屋へ行き、簡単な朝食を一緒に食べてから二人で掃除をした。
「これからはちゃんとお昼前には起きるのよ。そしてご飯もちゃんと食べるの。規則正しい生活を身に付けないと学校行ったって何も頭に入って来ないわよ」
璃子は龍に何と言われようと暫くの間は部屋に押し掛けるつもりだった。
「こんな汚い部屋にいるからそういう青白い顔になるのよ。全く世話が焼けるわね。暫くは私が来て掃除してあげるから、アンタももう少しシャンとしなさいよ!」
璃子は毎日龍の部屋に来るのが楽しかった。もちろん龍に会える事も嬉しかったが、ここで龍に説教していると不思議と元気が出てきた。タイムスリップ以降、なぜ自分にこんな事が起こるのか、なぜ私なのか、私がどんな悪い事をしたというのか、このままここで暮らすしかないのか、住民票も戸籍さえもないこの場所で、一体どうやって生きていけというのか、そんな事ばかり考えていた。夜店に出ている時はまだ気が紛れるが、一人になると悪い方悪い方へと考えてしまい絶望的な気持ちになっていった。でもこの部屋へ来て龍を叱りながら掃除をしているとなぜだか元気が出た。体の中から力が湧いてくるのを感じた。
しかし、困った事に夢中で掃除をしていたら龍の狭い部屋は三日程で隅から隅まで綺麗になってしまった。
(どうしよう。ここへ来る口実が無くなっちゃった)
それでも璃子は次の日もそのまた次の日もやってきた。そして龍が行こうとしている学校のパンフレットを確認したり、龍が新たに始めたバイトの説明をさせたり、そんな事をしていた。龍は日に日に元気を取り戻し、もう一人で十分やっていけるように見えた。璃子は、いつ「もう大丈夫だから来なくていいよ」と言われるのか毎日ハラハラしていた。
その日は九月も下旬だというのに真夏に戻ったような暑さだった。いつもの様に掃除が終わると蒸し返すような暑さに耐えかねて二人で外へ出た。こんな日に暑さを凌ぐにはあのポプラ並木が丁度いい。いつ行っても人が少ないし、日陰が多く風もよく通る。二人はベンチに腰を下ろした。緑に茂ったポプラの木々と青い空、そして真っ白い入道雲が見えた。
いつもなら璃子が色々と説教を始めるのだが、今日は何も言わない。龍もいつもと様子の違う璃子に少し戸惑っているようだった。
(そろそろ潮時かもしれない)
少し前から、璃子は自分は龍が好きなんだという事をはっきりと自覚していた。好きで好きで仕方がない。こんなに誰かの事を好きになったのは、多分高校生の時に初めて付き合ったユージ以来だろう。でもどうすればいいのか、いくら好きでも自分は龍より十歳も年上だし、いつか岡本の手下のリーゼントにオバサンと言われた事があるが、龍から見ても自分は多分オバサンなのだろう。自分が二十二歳の新入社員の頃、三十歳の先輩は紛れもないオジサンだった。このまま龍を追いかけ回したところでどうなるものでもない。それに龍はお金が貯まったら都会へ出て音楽の学校に行くと言っている。そうなればまさかついて行く事もできないだろう。この辺でフェードアウトするしかないだろう。璃子はそんな事を考えていた。そして璃子は小さな声で話し始めた。
「龍くんさぁ、龍くんには色々と振り回されて来たけど、最近やっと元気になって来たみたいだし、そろそろ私の役目も終わりかな!」
龍は目を丸くして璃子を見た。
「それ、どういう意味だ?」
璃子は龍の質問には答えずに、また話し始めた。
「そういえばまだ話してなかったけど、岡本の事は政子さんに頼んでおいたから。杉本さんから手を回して、もうアンタには近づかないようにしてくれるって。それからね、龍くんはプロのギタリストになりたいんでしょ。だったら自分でそう決めるのよ。自分で決めれば必ずそうなれるんだって。これは私もよく意味が分からないんだけど、千夏さんがそう言ってた。あの人、今年は司法試験に合格できそうなんだって。凄いよね。十年前に弁護士になるって自分で決めたって言ってた。だから龍くんも自分で決めればきっとプロになれるから」
「ちょっと待てよ。璃子の役目が終わったってどういう意味だってきいてんだよ!」
璃子は泣いてしまいそうになるのを何とか堪えて言った。
「どういう意味って、言葉どおりの意味よ。もう私がいなくても大丈夫でしょ。私、もう行くから」
「ちょっと待てよ」
龍は大声を出して立ち上がったが、そのまま固まったように動かない。璃子が見上げると龍は遠くの方を見つめている。その視線の先にはゆっくりとこちらに近づいてくる三人組がいた。岡本だった。向こうも龍と璃子に気付いたようで、三人横並びになって近づいて来てた。そして少し離れた所で立ち止まると岡本が声をかけてきた。
「龍、何しとんねん、仕事行くぞ! お前はまた見張りだ」
璃子はえっと驚いた顔で叫んだ。
「アンタ何言ってんのよ! 杉本さんから何も聞いてないの? これ以上龍くんに関わると杉本さんから怒られるわよ!」
「お前こそ何言っとんのや! 暑くて頭イカレたんちゃうか、おら龍、早よ来いや!」
璃子はびっくりして一瞬状況が飲み込めなかった。政子は確かに杉本に話をつけると約束してくれたし、あれから何日も経っている。しかし考えてみれば政子から「杉本さんに話しつけたから」と言われたわけでもない。璃子は政子に話をした時点でこの件は終わった気になっていたが、政子はまだ杉本に話しをしていないという事なのか。手下の二人は前にも増して狂暴そうだ。リーゼントの方が近づいて来た。相変わらず焦点の定まらない目をしている。
「おやおや、いつかのオバサンじゃねぇーか。お前は一体龍の何なんだ、ママなのか? あぁ?」
璃子は怖くなって助けを求めるように振り返ると、龍がこれまで見た事もないような険しい顔つきで岡本を睨みつけている。そして静かだがはっきりとした口調で言った。
「岡本、もうお前達の言う事は聞かない。これ以上俺に関わるな」
「何言ってんだお前、また袋叩きにされてぇーのか!」
岡本達はゆっくりと近づいてきたが、龍は口を真一文字に閉じて、一歩も引かないといった様子だった。龍は何があってももう岡本の言いなりにはならない、例え殺されても岡本の言う事はきかないと固く心に決めていた。この時龍の頭にあったのはギタリストになりたいからとか、悪事の片棒を担ぎたくないとか、そういう事ではなかった。ただ、璃子に臆病者と思われたくない、その一心だった。そしてこの前みたいにリーゼントとパンチが殴りかかってきたら今日は死ぬ気で反撃してやると覚悟を決めていた。いつか璃子に言われた事が龍の心に突き刺さっていた。勝ち目が有るとか無いとかじゃない。なぜいつもやられっ放しで黙っているのか。そうだ、勝ち負けじゃないんだ。戦おうとしない事が問題なんだ。やるだけやってそれで負けてもそれは臆病者ではない。負けてもいいと思ったら何やら気が楽になった。龍は両手の拳を力一杯握りしめて三人の前に立ちはだかった。岡本達はこれまでと様子の違う龍に少し戸惑いながらも近づいて来た。そして龍のすぐそばまで来た時、不思議な事が起こった。
突然岡本が叫んだ。
「やめろ! 帰るぞ」
岡本はキョトンとする手下二人を置いて回れ右して走り出した。呆気にとられた手下二人も訳が分からないという顔で岡本の後を追って行ってしまった。璃子は咄嗟に後ろを振り返った。岡本が自分たちの後ろにある何かを見て逃げ去ったように感じたからだ。しかし、一瞬早くポプラの大木に隠れた男を璃子は見つける事ができなかった。
璃子と龍は顔を見合わせた。何が起こったのか分からない。しかし、とにかく三人は行ってしまった。これは岡本を撃退したという事になるのか。ついさっきまでの極度の緊張が一気にほぐれて二人とも妙にふわふわした気持ちになっていた。
「あいつ等、どうしたんだろう。何か様子が変だったけど」
「アンタの気迫にビビッたんじゃないの、さっきの龍くんは何か凄味があったわよ」
そうかなといいながら龍は照れ臭そうに笑った。龍はあまり笑う事がない。たまに笑う時でもどこか一歩引いた感じで自嘲的な笑みを浮かべるだけの龍が、これまで見せた事のないはにかんだ笑顔だった。
龍もこんな顔して笑うんだと思った時、ポツポツと雨が落ちてきた。気が付くとまだ昼間だというのに辺りは薄暗くなっていて、黒い雨雲が手を伸ばせば届きそうな程低く垂れこめている。遠くでゴロゴロと雷の音がした。
「ヤバいな、降って来るぞ」
降り出した雨はアッという間にバケツをひっくり返したような大雨になった。二人はあわててポプラの木陰に逃げ込んだ。しかし雷は徐々に近くなり、横殴りの雨は強くなる一方で一向に収まる気配がない。
「どんどんひどくなるから、とりあえず俺の部屋へ戻ろう」
二人は出来るだけ濡れないようにポプラの木から木へ急いで移動した。しかし、強烈な風に押し返されて速く進めない。ほんの数メートル移動するだけで頭から水をかぶったようにびしょ濡れになってしまった。そして二人とも走るのをやめてしまった。もう下着までびしょ濡れだった。ここまで濡れたらもう関係ない。南風の匂いと共に打ち付ける雨は生ぬるくて、何やら気持ち良くさえ感じられた。岡本を撃退できた事もあってか、ふたりはどちらからともなく笑い出した。璃子はこれ程雨に濡れた経験はなかったが、とても開放的な気分だった。もうどうにでもなれ、なるようになれといった気分でとても気持ちが楽になった。この激しい嵐が璃子を取り巻く面倒な問題の一切合切を洗い流してくれるような気がした。そして龍の部屋に着いた時、二人は頭の先から靴の中までびしょ濡れだった。
「龍くん、タオル持ってきてよ。これじゃ部屋に入れないから」
さっきまで雨に濡れながら楽しそうにしていた龍が急に怒ったような顔になったかと思うと、不意に璃子の腕を取り強く引っ張って部屋の中へ引き込むなり、その勢いのまま強く抱きしめた。
(エッ! どういう事?)
龍があまりに強く抱きしめたので二人のシャツから水が音を立てて流れ落ちた。璃子はあまりに突然だったので何が何だか分からないながらも息が苦しい程強く抱きしめられ、頭の芯がしびれる様な喜びを感じた。そして龍が璃子の耳に口を付けるようにしてささやいた。
「俺、お前が好きだ。初めて会った時から、ずっと」
「嘘っ! だって私、あなたより……」
歳がすごく上だしと言おうとした璃子の口を龍の唇がふさいだ。荒々しく不器用な口づけだった。璃子は何も考えられないまま、言葉が口からついて出ていた。
「私も……、龍くんが、好き……」
そして二人は、びしょ濡れのまま敷きっぱなしの布団の上に倒れ込んだ。
4
あれから暫くたち、季節はすっかり秋めいて朝夕は肌寒く感じる日も増えてきた。そして、璃子と龍は半同棲のような生活を始めていた。璃子は店が早めに終わった日はそのまま龍のアパートへ行き泊まってしまう。政子は何も言わなかった。
「アンタもいい歳した大人なんだから誰と付き合おうとどこに泊まろうとかまわないけどさぁ、鍵かける都合があるんだから、泊まるなら泊まるって言ってってよね!」
そんな調子で、いつしか璃子と龍の関係は周知の事になっていた。そして自分でも不思議な位、小林孝太朗の事は頭に浮かばなかったし、孝太朗に対する罪悪感も全く感じなかった。それどころかタイムスリップ以降、自分が孝太朗の事を一度も思い出していなかった事に気が付いて愕然とした。つい数ヶ月前までは孝太朗と結婚するつもりだったのに。やはり孝太朗を愛していたわけではないという事なのか。
(それとも私は根っからの悪女なのだろうか?)
龍は付き合ってみると意外と真面目な男だという事が分かってきた。政子からはこの辺のホステス何人もと遊んでるプレイボーイだと聞いていたが、そんな事はないらしい。それとなく聞いてみると過去に一度そういう事もあったらしいが、龍がまだ十代の頃の事のようだ。今は毎日真面目に居酒屋のバイトに行き、店が終わると真っ直ぐ帰ってくる。流しをやればいい稼ぎになるのだが岡本の事もあるので流しは暫くやらない事にしていた。
ただ、龍は思った以上に屈折しているというか、どこか世間を恨んでいるようなところがあった。そして物事を悪い方に受け取る癖があった。人の好意にも素直に感謝できず、裏に何かあると勘繰るようなところがあった。今回の岡本の事もそうだった。璃子が岡本の件を政子に確かめると、杉本のあのバカでかい携帯電話に何度電話してもつながらない。それで杉本とは話ができていなかったという事だった。
「全く、一瞬の遅れで数億の取引を逃すとか言ってあんなに自慢してたのに……。何回電話しても出ないんだから。大事な時につながらないんじゃ意味ないわよね」
璃子がその話をそのまま龍に伝えると、龍の反応は意外なものだった。
「政子も結局は口先だけなんだよ。いざとなったら信用できねぇよ」
璃子は政子の事を悪く言われて少し頭に来た。
「ちょっと、政子さんの事悪く言うのは止めてよ。私は政子さんの事、命の恩人だと思ってるんだから」
「璃子は政子と知り合ってせいぜい半年位だろ。俺はガキの頃から知ってるんだよ。俺のお袋は昔この辺でホステスやってたから。政子は璃子が思ってる程いい人じゃないぞ。あまり信用しない方がいい」
そして龍は自分の生い立ちや母親の事を話し始めた。
龍の父親はナイトクラブなどで演奏するバンドのギタリスト。腕は一流だが稼ぎを全部酒代に使ってしまうような人だった。若い頃に一度テレビの歌番組で演奏した事があり、それが唯一の自慢で酒を飲むとその話ばかり繰り返していた。家にはいつも金がなく、その日の食べ物にも困る有様で父と母はいつも喧嘩していた。なぜうちにはいつもお金がないのか一度母親にきいた事がある。すると母は言った。
「お前の父さんは悪い人じゃないけどお金を稼ぐのが下手なんだ。もっとお金があれば毎日喧嘩なんかしないで済むのに」
そして小学校へ行くようになると自分のうちだけが特別に貧乏なんだという事が分かってきた。普通の家ではその日の夕飯に困って隣家に米を借りに行く事などないらしい。そしてある日学校で先生から凄い話を聞いた。その女の先生は、人は皆助け合って生きていくものだと言った。
「いいですか、例えば今、あなたがおにぎりを一つ持っていたとします。でもあなたのお友達はおにぎりを持っていません。そしてあなたもお友達もとてもお腹が減っています。あなたならどうしますか? おにぎりは一つしかありませんが、それはあなたのおにぎりです。一人でそのおにぎりを全部食べてしまいますか? どうしますか?」
手を挙げて答えようとする子はいなかった。そして先生は続けた。
「もし、そのおにぎりを二つに分けて半分ずつ食べたら、お友達はとても喜ぶでしょうね。そして、お友達におにぎりを半分あげたあなた自身もきっと嬉しく感じるはずですよ。人は皆助け合わなければなりません。いいですか、これはとても大切な事で、大人でも同じ事です。大人も皆助け合って生きているのですよ」
これは小学一年生にとっては衝撃的な話だった。なぜ自分の家だけいつもお金がないのか、なぜうちの親は喧嘩ばかりしているのか、その疑問が全て解けたと思った。
(知らないんだ。誰も知らないんだ、うちがこんなに困っている事を。先生は大人も助け合って生きてると言った。確かに言った。うちがこんなに困ってるのに誰も助けてくれないのは、うちが困っている事を誰も知らないからなんだ)
その日は走って家に帰った。早くこの事を母に教えたくて、学校から家まで駆け通しに駆けて家に飛び込むなり母親にその話をした。
「母ちゃん分かったよ。今日先生から聞いたんだ……。うちが助けてもらえないのは……、知らないんだよ。困ってるって……、言えばいいんだよ」
息を切らして途切れ途切れになった話はなかなか通じなかった。そして、ようやく言わんとする事が伝わった時に母が言った。
「それで、お前はそれを母ちゃんに教えるために学校からずっと駆けて来たのかい? お前は優しい子だねぇ。ありがとうよ」
母は力なく笑ったきり黙り込んでしまった。その様子から自分が聞いて来た話が何の役にも立たない事が子供ながら直ぐに分かった。
その辺りまで話したところで龍は一旦言葉を切った。そして相槌も打たずにじっと話を聞いている璃子の方をチラッと見るとまた話し始めた。
「俺はガキの頃、自分は日本一不幸な子供だと思ってた。実際俺みたいな酷い経験をしてる子供はそうそういないと思うよ。今でも忘れられない事があるんだけど、ある日家に食べる物が何もなくてさ、お袋が途方に暮れた顔で外に出て行ったんだけど、暫くするとパンの耳ばかり沢山持って帰って来たんだ。多分どこかのパン屋で余ったのをもらってきたんだろう。これが食ってみると意外と旨くてさぁ。お袋が残ってた牛乳に少し砂糖を入れてくれて、それにパンの耳を浸して食べたら凄く旨かった。お袋と二人で旨い旨いって食ってるところに酔っ払った親父が帰って来たんだ。そしてパンの耳を見ていきなり怒り出したんだ。お前らは乞食か、みっともない事するなと言って、せっかくもらってきたパンの耳を全部捨てちまったんだ。この時ばかりはお袋も怒ったよ。みっともないのはアンタの方だって。腹すかせた息子と女房を放ったらかして飲み歩いてるアンタが一番みっともないって。その時俺は涙が止まらなかった。腹が減ってたからでも親父が憎かったからでもない。ただ、お袋が可哀想で可哀想で……。俺は早く自分で金を稼いでお袋に楽させてやりたいとずっと思ってた」
「それで、お母さんは今どうしてるの?」
「三年前に死んじまった。俺が高校生の時に親父が酒の飲み過ぎで血を吐いて死んだんだ。その頃には俺も色々バイトをしていたから食べ物に困るような事はもうなかったんだけど、親父が死ぬと今度はお袋が酒を飲むようになったんだ。あんなに親父の酒を嫌がってたのに、自分もアル中みたいになっちまって。俺はそんなお袋が嫌になって高校を卒業すると直ぐに家を出た。俺がいると俺のバイト代をあてにして酒を飲むからお袋とは離れた方がいいと思ったんだ。それに当時この辺にはお袋のホステス仲間も何人かいたから俺がいなくなっても大丈夫だろうと思ったんだ。当時一番仲が良かったのが政子だよ。お袋は若い頃結構政子の面倒を見てたらしい。だから俺がいなくても何とかなると思ったんだ。でも一年後に帰ってきた時、お袋は半年前に死んだと言われた。最後はガリガリに痩せちまって別人みたいだったって……。政子は若い頃お袋の世話になってたんだ。だからお袋の食い扶持くらい面倒見たってばちは当たらないんだ。それなのに……」
龍は話しながら段々感情が高ぶってきていた。璃子は龍をあまり刺激しないように言葉を選びながら恐る恐るきいてみた。
「それで龍くんは政子さんを恨んでるの? 政子さんに当時の話をちゃんときいた事あるの? 私にはあの政子さんがお世話になった龍くんのお母さんを見捨てるなんて、ちょっと信じられないんだけど……」
「信じられないんなら本人にきいてみろよ。政子とお袋は俺が生まれる前からの付き合いらしいけど、政子が何か手土産持ってうちに来たなんて事は一度もないぞ。一度もだ。政子だけじゃない、誰も何もしてくれなかったんだ。親父の知り合いの坊さんが見かねて米や味噌を時々持ってきてたけど、その他は本当に誰も何もしてくれなかった。だから皆同じだよ。皆敵だ。いつか必ず思い知らせてやる」
璃子は話を聞いているうちに悲しくなってきて、思わず本音を言ってしまった。
「ちょっと、その敵とか思い知らせるとか大袈裟じゃない? もう過ぎた事なんだし……」
この言葉に龍が反応した。
「大袈裟? 過ぎた事? 何言ってんだお前。お前みたいなお嬢さんにはいくら説明したって分かりっこねぇんだよ。俺のガキの頃がどんなに悲惨だったか。それに俺にとっちゃ過ぎた事じゃねぇ。早い話が俺だって普通の家に生まれてりゃ普通に大学行って今頃は普通にサラリーマンやってるよ。だけどあんな家に、あんな親の所に生まれちまったらどうしようもないだろう。バイトで忙しくてろくに学校にも行けやしねぇ。学歴がねぇからろくな仕事にも就けねぇ。全部あんな家に生まれちまったからだ。この世の中、貧乏人はもっと貧乏に、金持ちはもっと金持ちになるように出来てんだよ。全くクソみてぇに不公平な世の中だよ。おまけに隣の家がどんなに困ってたって関係ねぇ、自分達さえ良けりゃそれでいいって連中ばかりだ。この世の中に満足してる奴らは皆敵だ!」
龍は興奮してまくし立てていたが、悲しそうに目を潤ませている璃子を見て我に返った。
「ご、ごめん。別にリコに怒ってるわけじゃないんだ。話してるうちに昔の事を思い出しちまって……」
それだけ言うと龍は背を向けて黙り込んでしまった。璃子は龍の背中に頬を寄せ、後ろからそっと抱きしめた。そして可哀そうな少年時代の龍を慰めるようにゆっくりと背中を擦り続けた。
凄いイケメンでいつもクールな龍がこんなに酷い環境で育ったとは思ってもみなかった。父親が亡くなった後に高校を中退してしまった千夏や、両親が離婚してどちらにも引き取ってもらえなかった真奈の話を聞いた時も驚いたが、龍もまた大変な少年時代を送っていた。全くこの時代の人達は何でこんなに酷い経験ばかりしているのだろう。場末の飲み屋街という場所柄のせいなのだろうか。璃子はいつだったか、親友の林原可代子に言われた事を思い出していた。
「アンタみたいに何の苦労もなく生きてる人なんて滅多にいないのよ。皆色々な悩みや苦労を抱えて生きてるの。自分がどれだけ恵まれてるのかよく自覚した方がいいわよ」
確かそんな意味の事を言っていた。全く何から何まで可代子の言った通りだった。今は当時の自分がどれ程恵まれていたのか痛いほど分かるが、それも今となってはどうでもいい事に思えた。いくら後悔してもいくら反省してもそれで元の世界に戻れるわけではないだろう。それに、当時の自分は確かに恵まれていたかもしれないが、今は誰よりも辛い日々を送っているのだから。
5
岡本や杉本は全く姿を見せなくなった。岡本が地上げの嫌がらせをやり過ぎて相手に怪我をさせてしまい、警察に追われているらしいという噂が流れていた。そして、岡本達とは別の目つきの悪い男達が店の周りをうろうろするようになった。早速別の地上げ屋がこの辺の土地を狙っているのだろうか。
ある日の午後、開店前に目つきの鋭い年配の男が一人店に入ってきた。璃子が応対すると私はこういうものです、といって見せたのは警察手帳だった。
「ここは田村政子さんのお店ですよね。田村さんはいらっしゃいますか?」
「あっ、はい。今呼んできます」
璃子はピンときた。この男は岡本や杉本を追いかけてる刑事に違いない。早く捕まればいいのにと思いながら階段を上りかけた時、後ろでさっきの刑事が怒鳴る声が聞こえた。
「おいっ、溝端! 外はもういいからお前も中に入って来い!」
(ミゾバタ?)
どこかで聞いた事がある名前だなと思いながら階段を上り切ったとき、思い出した。
(溝端! そうだ、あの時の若い刑事だ。タイムスリップの直後、途方に暮れて警察署に行った時の若い刑事だ。どうしよう)
璃子は溝端を信用してタイムスリップの事を全て正直に話している。そして溝端に化け物扱いされて、警察署を飛び出してきていた。もし溝端が自分の事を憶えていたらどうしよう。いや、憶えているに違いない。月曜日の朝っぱら、真っピンクのスポーツブラ一枚で警察署に現れて大声で怒鳴り散らし、挙句の果てに未来からタイムスリップして来たと言って泣き出した女を普通の記憶力の持ち主なら忘れるはずがない。
政子は直ぐにおりて来て二人の刑事とボックス席に座った。璃子はお茶を出す時も終始うつむき加減で顔を見られないようにしていが、溝端がのぞき込むようにして礼を言った。
「ありがとうございます。直ぐに帰りますのでお構いなく」
璃子が顔を背けるようにして無言でうなずきながら奥へ引き返そうとした時、不意に溝端が呼びとめた。
「あの! 若しかするとこの前ポプラ並木にいた人じゃないですか? 若い男の人と二人で、岡本達三人に絡まれてた人ですよね? 実は私、あの時あそこに居たんですよ。あの時はまだ逮捕状がでていなかったから、岡本が少しでも違法な事をしたら即しょっ引くつもりで尾行してたんですよ。あの時ももしあなた達に手を出したらその場で現行犯逮捕するつもりだったんですけど、なんか気付かれちゃったみたいで……」
璃子は自分の顔からみるみる血の気が引いていくのを感じた。
(そうか、あの時岡本が急に逃げ出したのはこの溝端に気付いたからだったんだ。しかしどうしよう、この溝端という男、一体どこまで気付いているのか。岡本を尾行してたとか言って、本当は私の事を調べているんじゃないのかしら?)
璃子は本気でそんな事を心配していた。
「それにしてもあの岡本という男、チビのくせに逃げ足だけはホント早いんですよ。あの短い足が凄い速さで回転するんですよ。あなたも見ましたよね! あの足の回転!」
溝端はその場を和ませようとしているのか少しおどけた感じで話していたが、璃子には溝端の言葉が全く頭に入って来ない。ただ真っ白い顔を不自然な程下に向けたまま黙って座っている。そんな璃子の異変に気付いた政子が声をかけた。
「リコ、アンタ大丈夫? なんか顔が真っ青だけど……」
「あ、ええ。何か急に気分が悪くなってしまって……。すみませんが失礼して部屋で少し休んでます」
そう言い残すと璃子は下を向いたままするすると奥の階段を上がっていった。溝端が小声で「私、何か気に障るような事言いましたか?」と言ってるのが聞こえた。気分が悪くなったのは事実だし本当に部屋で横になりたかったが、どうしても刑事達の話が気になった。璃子は階段の途中に腰をおろして下をうかがいながら聞き耳を立てた。狭い店なので下の話声は璃子のいる階段の所でもはっきりと聞こえた。
「先ほども言いましたが今は岡本に逮捕状がでてますので、もし本人が店に来たり、電話してきたら直ぐ警察に知らせてください。あと、溝端が週に二回か三回はこちらに来ますので不自然じゃない程度に相手してやってください。もちろん飲み物は水だけで結構ですから」
「何ですかそれ? お客さんの体で店で張込むって事ですか? でも岡本みたいなチンピラ捕まえるのに刑事さんが三人も四人も動いて、しかも何日もかけて、警察ってそんなに暇なんですか?」
溝端が何か言いかけたのを年配の刑事が手で制してゆっくりと言った。
「今、刑事が三人も四人もって言いましたが、我々の他にも刑事が来たんですか?」
「店には来てないけど、いつも外でウロウロしてるのはあなた方のお仲間なんでしょ。アンタ方と同じ眼つきしてるし……。」
「やっぱりあいつ等だ、畜生! 素人みたいな張込みしやがって……」
「おいっ、溝端!」
年配の刑事にたしなめられて溝端はしまったという顔をした。そして話題を変えるように年配の刑事がまた話し始めた。
「今逮捕状が出てるのは岡本だけなんですが、我々の狙いは岡本じゃないんですよ。詳しくは言えませんが、もし杉本から連絡があったらやはり直ぐに教えてくださいね。やつは用心深い男だから店に来る事はないと思いますが、必ず田村さんに連絡してくるはずですから」
「どうしてそんな事分かるんですか? 杉本さんはもう何週間も店に来てないし、携帯電話に何度電話してもでないのよ。アンタ達が下手な張込みするから気付かれたんでしょ。もうここには来ないわよ」
「杉本は、ほとぼりが冷めるのを待ってるだけですよ。これまでだって何ヶ月も姿を隠していて、警察が監視を緩めた途端に現れた事がありますから。今回も必ず田村さんに連絡してきますよ。ヤツの商売は最近うまくいってないんでね。銀行への支払いも滞ってるし。でもこの商店街一帯の地上げがあと一息という所まで来てるんです。土地の所有者とはもう話がついていて後は立ち退きに応じない借地権者が二、三人残ってるだけなんですよ。そのうちの一人が田村さん、あなたなんですよ。そしてもう一人の借地権者は田村さんが立ち退かないなら自分も立ち退かないと言ってるそうでよ。すぐそこのコンビニの主人ですけどね。関沢ストアーでしたっけ? 逆に言えば田村さんが立ち退けばコンビニの主人も立ち退くって事ですよ。この一帯の地上げがまとまれば最低でも十億位にはなるから、杉本にも一億やそこらは入るはずですよ。杉本にとってはここの地上げは最後の命綱なんですよ。そこでお願いなんですが、杉本から連絡があったら、条件次第で立ち退いてもいいとか何とか言って杉本をおびき出して欲しいんです」
「ちょっと待ってくださいよ。そんな事アタシ絶対にしませんから。杉本さんが何したのか知りませんけど、アタシにとってはお客さんですからね。いくら何でもお客さんをハメるような事できませんから。それに溝端さんが店に来るってのも、はっきり言って迷惑なのよね。うちは見ての通りの狭い店だから溝端さんが店に居たら、一席分お客さんが入れないって事になりますからね。それも一週間や二週間じゃないんでしょ? さっきの話だと杉本さんは何ヶ月も姿を隠すんでしょ。その間ずっとなんて無理ですから」
正論だった。警察にとって杉本は犯罪者かもしれないが、政子自身は杉本に何か悪さをされたという事はない。店の売上げを減らしてまで警察に協力する義理は無かった。年配の刑事は何か苦いものでも飲み込んだような顔をした。
「田村さんの仰る事はごもっともです。しかしですね、実はこのヤマは単なる傷害とか恐喝事件じゃないんです。杉本の背後にはある組織があって、そのまた後ろに組織を動かしている黒幕がいる。我々の最終的な狙いはこの黒幕なんです。何が言いたいのかといいますと、我々警察は本気だという事です。もし田村さんに協力していただけないという事になると、我々は全力で田村さんが我々に協力するしかない状況に持っていく、という事になります。そういう強引な事はしたくないんですがね」
「何ですかそれ、脅しですか? 警察が善良な市民を脅すんですか?」
「脅すなんてとんでもない。ただ田村さんが善良な市民かどうかは調べてみないと分からないと思いますがね。それに我々以外にこの辺をうろついてるってヤツ等、あれは警察じゃないですよ。田村さんにとっては多分警察より始末の悪い連中ですよ。我々もヤツ等に先を越される訳にはいかないんでね。本気ですよ」
結局政子は折れるしかなかった。政子も飲み屋稼業を長くやっているので警察に知られたくない事の一つや二つは無い事もない。警察に義理は無いが、杉本に義理立てする必要も全くなかった。刑事達が帰ると政子は大声で璃子を呼んだ。
「リコっ! もういいわよ! そこに居るの分かってるんだから下りてらっしゃい!」
(えっ! バレてたの?)
「アンタさぁ、盗み聞きするならちゃんと隠れなさいよ。階段の途中に座ってるから両足が丸見えだったわよ」
「そ、そうですか? その、何のお話かと思って……」
政子は睨みつけるように璃子を見て言った。
「全部聞いたんでしょ?」
「あっ、はい」
「そういう事だから。あの溝端とかいう刑事が来たら適当に相手してやってちょうだい」
「えっ、私がですか?」
「当たり前でしょ! 千夏が辞めてアンタと真奈しかいないんだから。真奈に刑事の相手なんか務まる訳ないでしょ」
確かにそうかもしれないが、よりによって溝端の相手をする羽目になるとは、全く厄介な事になってしまった。
「あっ! 分かった!」
政子が唐突に大声をあげた。
「警察より厄介な連中ってきっとマルサの事よ。そうだわ、マルサに違いないわ。杉本さんならマルサが動いても不思議じゃないからね」
「何ですか、そのマルサって?」
「だからマルサよ。ほら、テレビとかでもよくやってるじゃない。マルサ!」
「えっ? お醤油ですか?」
「はぁ? 何言ってんのアンタ? マルサ知らないの? そりゃアンタにはマルサなんて関係ないでしょうけど。聞いた事くらいあるでしょ! 国税局査察部よ! 査察のサでマルサっていうのよ」
「あっ、ああぁ、そっちのマルサですか、ちょっと勘違いしてたので……」
勘違いとか言ってとぼけたつもりだが、璃子の表情には丸っきりピンと来てない事がありありと浮かんでいた。
「なんか怪しいわね。アンタ本当はマルサ知らないんじゃないの?」
「し、知ってますよ。そんな事よりあの刑事、龍くんの事は何か言ってませんでした? 岡本達に何度か見張りみたいな事させられたって言ってたんですけど」
「アンタさぁ、話全部聞いてたんでしょ。龍ちゃんの話なんて全然なかったでしょ。何言ってんのよ。相変わらず変な子だねぇ」
璃子はマルサの話から話題を変えようとしてかえって墓穴を掘ってしまった。
「ところでリコさぁ、アンタあの溝端とかいう刑事の事知ってるの? 並木道で会ったとか言ってたけど……」
「知ってる訳ないじゃないですか! 政子さんこそ変な事言わないでくださいよ」
璃子は不意を突かれて自分でもびっくりする程大きなな声を出してしまった。政子は暫く黙ったまま璃子を見つめていたが、やがて無言のまま自分の部屋へ戻ってしまった。
正しく一難去ってまた一難だった。岡本に付きまとわれる事はなくなったが、今度は警察がうろちょろするようになった。しかも担当刑事がよりによってあの溝端だ。これからは溝端が週に二、三回客のふりをして店に張込みに来るとの事だった。全く面倒な事になった。溝端と接触する機会が増えればいつか璃子の事に気付くかもしれない。若しかすると既に気付いているのかもしれない。
璃子は別に悪い事をしたわけではないから、仮に溝端に気付かれたとしても警察に捕まるような事にはならないだろう。しかしここで溝端にタイムスリップの話など蒸し返されたらたまったもんじゃない。もし璃子が未来からタイムスリップして来た事が知れれば、必ずここには居られなくなってしまう。あの時の溝端のように、政子や笹原も手の平を返したように璃子を化け物扱いし始めるだろう。いくら政子がいい人だといってもそれは相手が普通の人間であれば、という事だ。未来からタイムスリップして来た人間は決して普通の人とはいえないし、ここの世界に居るべきではない存在なのだから。
璃子は、タイムスリップの事だけは絶対に誰にも知られてはならないと改めて思った。
6
龍の部屋へ通うようになって数か月が経ち、季節はもう秋から冬へと移りつつある。ポプラ並木も今はすっかり葉が落ちてしまった。そして季節の深まりと共に璃子と龍の関係もより深く、強いものになっていった。璃子は、ほぼ毎日龍の部屋に泊まり、そこからスナックマサコに出勤するようになっていた。
ある日、いつものように璃子が出勤すると、政子が珍しく興奮ぎみに話しかけてきた。
「リコ、今日は遅かったじゃない。ついさっきまで千夏が来てたのよ。とうとう司法試験に合格したんだって。アンタに会いたいってしばらく待ってたんだけどね、これから人と会う約束があるからって、さっき帰っていったのよ」
「えっ、本当に! 合格したんですか!」
あれ程大嫌いだった千夏だが、今となっては懐かしい気もする。そして璃子は千夏の言葉を思い出していた。
「出来る事を全力でやり切ったなら、後悔だけはしないで済む」
千夏の司法試験合格は璃子にも力を与えた。千夏のように、全力を出し切って取り組めば大抵の事は実現できるのではないか、そんな気がしていた。
璃子の中では、この先何をどうしていくのか、おぼろげにだが考えがまとまりつつあった。まずは龍にきちんとした規則正しい生活を身に付けさせ、二人でお金を貯めて龍を学校に入れる。そして自分自身も両親の事とちゃんと向き合い、気持ちを整理して二人に会いに行く。
璃子と暮らすようになってからは、龍も毎日決まった時刻に起き、バイトを掛け持ちして人が変わったように働いていた。
そしてバイト代が入る度に貯まったお金を数えるのが、二人の楽しみになっていた。今では璃子も月に十万程の給料をもらっているので二人合わせると三十万以上の収入がある。それに二人ともほとんどお金を使わなかったから毎月二十万以上の貯金ができた。
龍は「必ずプロのギタリストになる」とはっきり口に出すようになり、それが二人の明確な目標になっていた。龍は璃子にとってこの世界でただ一人の心を許せる人間になっていた。
ただ、この一週間程は龍の様子がどうもおかしい。どことなく不機嫌であまり笑顔を見せない。今日だって久しぶりに店が休みになったと言っても笑顔ひとつ見せなかった。璃子はいつものように給料袋のお金を数え終えてから努めて明るく言った。
「貯金、今月分で百二十万になったわよ。もういつでも引っ越せるね!」
「……」
返事もせずにギターの手入れを続けている龍を見て、璃子は遂にキレた。
「一体どうしたのよ! 一日中ブスッとして。何か気に入らない事があるならはっきり言ってよ!」
龍はギターを磨く手を止めずに言った。
「金が貯まるのがそんなに嬉しいのか?」
「何言ってんのよ。当たり前でしょ。都心に引っ越して音楽の学校に行くんでしょ! そのためにバイト頑張ってるんでしょ。この前まで龍だって一緒にお金数えてたじゃない」
「確かに百二十万あれば部屋も借りられるし、引っ越しもできる。当面の生活費にも困らないだろうな。でも……、でも……」
「でも何なのよっ! はっきり言いなさいよ!」
「でも、俺が引っ越したら、お前はどうするんだ? 一緒に来てくれるのか? 一緒に来られるのか?」
璃子は「あっ」と思った。今までお金を貯める事ばかりに気を取られ、貯まった後具体的にどうするかまで考えていなかった。龍が引っ越してしまえば、これまでのように龍の部屋に通う事はできなくなるだろう。ここから都心までは一時間以上かかるが、店が終わる深夜に当然電車は動いてない。政子が都心までのタクシー代を出してくれるはずもない。始発を待って電車を使うとしてもバカにならない電車賃がかかる。龍が引っ越した後はせいぜい週一回、店が休みの日曜に会いに行く位しかできなくなるだろう。
「なあ、どうなんだよ。一緒に来られるのか?」
理子は直ぐには返事ができなかった。
「……一緒に行くのは、ちょっと難しいかな……。だって遠すぎてここまでは通えないでしょ。お店が終わる時間にはもう電車動いてないし……」
「マサコは辞めて向こうでバイトをすればいいじゃないか。今時バイト先なんかいくらでもあるんだから」
「そう簡単にはいかないのよ……」
璃子は二つの理由から引っ越しを躊躇っていた。一つは戸籍も住民票もない自分がまともな仕事に就けるとは思えなかったし、バイト探しの過程で自分に戸籍がない事を龍に悟られるのではないかという不安もあった。そしてもう一つは両親の事。龍と一緒に引っ越してしまえば実家からも遠く離れてしまう。璃子は心の整理がついたら必ず貴士と美智子に会いに行く決心をしていたが、引っ越してしまうと貴士達に会う日もどんどん遠ざかってしまうような気がしていた。璃子の煮え切らない態度に龍がしびれを切らした。
「じゃあ、どうすんだよ。俺達はもうこれっきりって事なのか?」
「違う! そんな事誰も言ってないでしょ!」
龍は璃子の肩に両手を置き、真っ直ぐに目を見ながら話した。
「リコ、よく聞いてくれ。本当は俺、ガキの頃からずっと親父みたいなギタリストになりたいと思ってたんだ。でも夢なんか見たってどうせ叶うわけないって、自分の気持ちにふたをしてきたんだ。その心のふたをお前が開けてくれたんだ。いつか言ってただろ、勝ち目が有るとか無いとかじゃないって。俺はガキの頃から何かを望んでそれが叶った事なんてほとんどなかった。だから期待して後でがっかりするくらいなら最初から期待しない方がいいって考え方が染みついちまったんだ。それに、何かを実現するために必死になって、それでダメだったら格好悪いとも思ってた。でも本当はそうじゃないんだ。挑戦もしないで諦める事の方がずっと格好悪いんだ。それをお前が教えてくれたんだ。俺は必ずプロのギタリストになってみせる。だからお前には俺のそばにいてそれを見ていて欲しいんだ」
璃子はいつの間にか涙が止まらなくなっていた。龍の言葉は心の底から嬉しかった。どこまでも龍について行きたいという気持ちと、このまま龍と一緒にいたらいつか戸籍も住民票も無い事がばれるのではないかという不安がせめぎ合っていた。璃子はどうすればいいのか自分でも分からなくなっていた。
「なあ、何とか言ってくれよ。俺はお前が好きだ。だから一緒に来て欲しい。お前はどうなんだ? もう俺には飽きたのか?」
璃子は激しく首を振った。
「飽きたなんて、そんな事あるわけないでしょ!」
「じゃあどうして一緒に来れないんだ! その理由を教えてくれよ」
璃子は黙り込んでしまった。龍も何かを考え込むように下を向いたまま動かなくなった。いつの間にか日は沈み、照明を点けていない薄暗い部屋には重苦しい沈黙だけが横たわっていた。
暫くすると龍は何かを決心したように立ち上がり部屋の明りをつけた。そして璃子の正面に座り直すと視線をそらす璃子を真っ直ぐに見て話し始めた。
「なあリコ、お前、何か俺に隠してる事があるんじゃないか?」
璃子はハッとした。急激に脈拍が上がるのを感じた。
「隠してる事なんて、ないよ」
龍は下からのぞき込むようにして璃子の眼を見た。そして一呼吸おいてから言った。
「リコはマサコに来る前はどこで何をしてたんだ?」
璃子は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。とうとう来るものが来てしまった。龍が私の過去について疑問を持ち始めている。
「そ、そんな事、どうだっていいじゃない。私だって十九や二十歳の娘じゃないんだから、人に言いたくない事情の一つや二つはあるわよ」
「人に言いたくないって、俺にも言いたくない事なのか?」
璃子は困った。龍に隠し事があると思われたくない。しかし、タイムスリップの事など言えるはずがない。璃子が下を向いて黙っていると、龍がたたみかけるように言った。
「俺さぁ、前から思ってたんだけど、お前、もしかすると未来から来たんじゃないのか?」
璃子は心臓が飛び出しそうな程驚いた。そして反射的に龍を見返したその顔は驚愕と絶望の入り混じった何とも恐ろしい表情になってしまった。
「どうしてわっ……」
どうして分かったのと言いそうになったが、辛うじて言葉を飲み込んだ。しかし目の玉が飛び出しそうな程驚いている璃子を見て、龍は推測が図星だという事を悟ってしまった。
「やっぱり、そうだったのか……」
璃子は腰が抜けたようになってしまった。
(どうして、どうして分かっちゃったんだろう。もう終わりだ。何もかもおしまいだ!)
そう思った途端にまた涙がとめどなく流れてきた。璃子はそのまま畳に突っ伏して泣き続けた。最近はすぐ涙がでるようになってしまった。以前は人前で涙を流した事など一度もなかったのに、それが自慢だったのに。
そして、璃子は泣きながら考えていた。ばれてしまった以上もうここにはいられない。
(そうだ、泣いてる場合じゃない。早く帰らなきゃ。ここから出て行かなくちゃ)
璃子は龍の視線を感じながらも、怖くて龍の方を見る事ができなかった。龍が今どんな顔で自分の事を見ているのか、想像するだけで恐ろしかった。璃子には、以前警察署で未来から来た事を話した時の溝端の変貌ぶりが頭に焼き付いていて離れない。あの時の溝端のように化け物を見るような目で龍に見られるのかと思うと耐えられなかった。龍にあんな目で見られるくらいなら死んだ方がましだとさえ思った。璃子は何とか呼吸を整え、手をついて体を起こした。直ぐ横にいる龍に背を向ける格好で、このまま龍の方は見ずに、何も話さずに帰ろうと思っていた。
その時、龍が背中から抱きついてきた。後ろから回した手を璃子のお腹の辺りでしっかりと組み、もう離さないと言わんばかりの強さで抱きしめた。そして耳元でささやいた。
「まさかとは思ったけど、やっぱりそうだったのか。何で今まで黙ってたんだ」
「えっ、何でって、だってそんな事言えるわけないよ……」
と言いながら、璃子は戸惑っていた。龍の反応が予想していたものと全く違っていたから。もし未来から来た事を知られたら、溝端と同じように手の平を返したように突き放されるものと思っていたし、それが普通の人の反応なのだろうとも思っていた。
(若しかすると龍は何か誤解してるのか? さっき確かに「未来から来たんだろ」と聞こえたけど……。それとも私が何か誤解してるのかしら)
璃子は龍の腕を振りほどき、そして恐る恐るきいた。
「龍くんさぁ、ちょっと確認したいんだけど、さっき龍くんは、私が未来から来たんだろって、そう言ったの?」
「ああ、そうだよ。そうなんだろ?」
「まあ、そうなんだけど……。あのさ、私の事、何ていうか、気持ち悪くないの?」
「気持ち悪い? どういう意味?」
「だって未来からタイムスリップして来たなんて、普通あり得ない事でしょ。人間技じゃないっていうか……。だから何ていうのか、私の事、化け物とか怪物とか、そういう風には思わないの?」
「そんな事思うわけないだろ。リコが未来から来ようが過去から来ようが、化け物だろうが怪物だろうがそんな事俺には関係ない。俺はただ今目の前にいるリコが好きなだけだ」
そう言うと龍はまた璃子をまた抱き寄せた。あまりにも強く抱き締めるので息が詰まりそうだった。そして璃子は気になっていた事を思い切ってきいてみた。
「でも龍くんさぁ、何で私が未来から来たって分かったの?」
「リコさぁ、お前、自分が結構寝言を言うって事分かってる?」
「えっ! 寝言を言うの、私が?」
「ああ、それもかなりはっきりしゃべるんだよ。だから最初にお前の寝言を聞いた時は起きてるのかと思った程だよ。この部屋に泊まりに来るようになってから直ぐの頃だけど、いきなり布団の上に起き上がって『私は一九八九年生まれの三十二歳ですっ』って大きな声で言ったんだ。俺が『何だって?』と聞き返すとまたバタンと倒れてグーグー寝ちまった」
「本当に?」
「それだけじゃない。ついこの前だけど明け方頃にいきなり『タイムスリップって現実に起こるのよ』って言ったんだ。それで俺が『えっ?』って聞き返したら『だからタイムスリップだって言ってるでしょっ!』って怒鳴られたんだぞ。最初は変な夢でも見てるんだろうと思ったんだけど、お前の話す言葉も何か変だしな、若しかしたら本当に未来から来たのかもしれないと思い始めたんだ」
龍は、璃子が未来から来た事などあまり気にかけていないように見えた。それどころか璃子の秘密を自分だけが知った事、璃子が正直にすべてを打ち明けてくれた事を喜んでいるようにさえ見えた。龍はいたずらっぽい目で璃子を見つめながら言った。
「これでもう俺から逃げられないぞ! 逃げたら秘密をばらすからな」
「いいわよ。逃げる気なんてないから」
璃子も微笑みながら返した時、龍が急に怖い顔で言った。
「ただ、一つだけききたい事がある」
「えっ、何?」
璃子は身構えた。一体何をきかれるんだろう。
「リコは、いつかは未来に帰るのか? いつかはこの世界からいなくなっちまうのか?」
「それは……、そんな事、私にも分からないよ」
「もう俺にはリコのいない生活なんて考えられないんだ。だからずっと俺と一緒にいてくれよ」
「もちろん私だってずっと龍と一緒にいたいけど……」
その日、璃子は朝までかかってタイムスリップから今日までの事を話した。あの悪夢のようなタイムスリップから既に半年、これまで誰にも言えずに抱え込んできた恐怖、不安、怒り、悲しみの全てを洗いざらい龍にぶちまけた。
龍は時折質問をしながら、璃子の長い長い話を辛抱強く聞いた。そして璃子が話し終えた時、静かに、優しく言った。
「一人っきりで辛い思いをしてきたんだな。でもこれからは俺がいるから。俺が半分持つから……」
璃子は「俺が半分持つ」という龍の言葉にまた涙が出た。自分はもう一人じゃないんだという実感と共に身体の奥から何やら力が湧いてくるような感じがした。龍と二人なら何だってできるような気がしていた。
気付くと外はすっかり明るくなっている。カーテンの無い窓から朝日が低く差し込み、逆光の中に気持ちのいい冬の青空が見えた。璃子は久しぶりに空を見たような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます