現実


スナックマサコは関沢ストアーの五軒程先、商店街の端にある小さなスナックだった。

位置的には可代子とよく行くカラオケ店の辺りのはずだが、璃子の時代、つまり二〇二一年とはかなり様子が異なっている。店先の置き看板に明かりが灯り、スナックマサコの文字がぼんやりと浮かび上がっていた。この看板が無ければここがスナックだとは分からないような地味な店構えだった。政子の大きな身体に隠れるようにして店内に入ると頭の禿げた年配の従業員とホステスらしい若い女がいた。客はいないようだ。

「あら、まだいたの? もう閉めて帰っていいって言ったじゃない。でもちょうど良かったわ。この子、今日うちに泊まるから」

政子が二人に話しかけると禿げ男と女が同時に璃子達の方に顔を向けた。カウンターの中でグラスを拭いていた禿げ男は手を止めて人の良さそうな笑顔で言った。

「そうですか。じゃあ、二階の物置部屋を片付けてきますから」

男は突然の来訪者に驚く事もなく、ひょこひょこと店の奥の方に向かって行った。こういう事はちょいちょいあるのかもしれない。カウンター席でファッション雑誌をめくっていた若い女は顔だけこちらに向けて分かりやすい作り笑顔でペコリと頭を下げたが、真っ赤なレギンスにピンクのブラジャーという璃子の格好を見て露骨に驚いた。政子は目を丸くして璃子を凝視しているホステスに向かって言った。

「マナちゃん、今日はもういいよ。後はやっとくから」

「そ、そうですか、じゃあすみません。お先に失礼します」

マナと呼ばれた若い女はもう一度璃子を振り返ってから、鶏のように頭を小刻みに下げながら政子の横をすり抜けるようにして帰って行った。

政子は、今のがホステスの真奈で顔は普通だし頭も悪いけど元気なだけが取り柄の子、部屋を片付けにいった爺さんがバーテンの笹原だと説明してくれた。バーテンといっても作れるのは水割りとハイボールくらい。カクテル等は作れないが客に出すおつまみの調理からトイレ掃除まで店の事は全て一人でやっているとの事だった。そしてもう一人、千夏というホステスがいるが彼女は週に二日しか店に来ない、というところまで話した時、政子は急に言葉を切り思い出したように言った。

「ま、アンタにはそこまで関係ないか」

今夜一晩泊まるだけの人に細かい説明は不要という意味だろう。

そんな話をしているうちに奥の階段から笹原が下りてきて遠慮がちに言った。

「荷物をよせて布団を敷いておきました。それから……、要るかどうか分からなかったんですが前にいた人が置いてったジャージやTシャツも一応出しておきました。全部洗濯してありますから」

「あら、笹ちゃん! アンタ気が効くわね。お店でもその位気を効かせてくれるといいんだけど……」

政子は冗談とも本気ともつかない事を無表情な顔で言ってから璃子の方に向き直って続けた。

「三ヶ月位前までもう一人ホステスがいたんだけど辞めて出てっちゃったのよ。残った荷物は捨ててくれとか言ってさ。ほんと頭に来ちゃうわよ。その子が置いてった服だから着たかったら着ていいわよ。シャワー浴びた後にまたそれ着る訳にもいかないでしょ」

政子はそう言いながら、眉の間にしわを寄せて生ゴミでも見るような目で璃子の薄汚れたタンクトップを見下ろした。

「あっ、分かった! 笹ちゃんが言われてもいないのに着替えなんか出してやけに気が効くなと思ったけど、アンタが臭いからだよ。アタシはもう鼻が慣れちゃったけど、最初に関ちゃんの店でぶつかられた時、すっぱい臭いがしたもん。笹ちゃんも臭いで分かったんでしょ。ねぇ、笹ちゃん、そうなんでしょ! この子相当臭いわよねぇ」

笹原は困ったような表情になり、顔の前で右手を左右に振った。

「違います違います。臭いなんかしませんよ。ただ手ぶらだったから着替えがあった方がいいのかなと思っただけですよ」

「本当? ま、いいわ。この子はね、えーと何だっけ。あっそうだ、ルリ子っていうの。アタシもう寝るから、笹ちゃん、シャワーとか教えてあげて」

そういうと政子は大きな身体を左右に揺らしながら階段を上がっていった。

政子がいなくなると笹原は璃子に向かって丁寧にお辞儀をした。「笹原正志と申します」そう言うとシャワーやトイレ、二階の部屋等の説明をしてくれた。

「階段上がって一番奥の部屋が物置部屋です。私は一番手前の部屋で寝てるので、何かあったら起こしてもらって構いませんから。真ん中の部屋は政子さんの部屋だから間違えないようにね。政子さん、寝てるところを起こされると凄く機嫌が悪くなるから。あと最後に電気だけ消して下さい。スイッチはそこですから」

そう言って部屋の隅を指差すと、笹原はまたお辞儀をしてひょこひょこと階段を上がって行ってしまった。カウンターの中には磨きかけのブランデーグラスが数個、出たままになっていた。疲れきった様子の璃子を見て早く一人にしてあげようと思った笹原の気遣いには全く気付かず、璃子は「政子も笹原も意外と冷たいんだな。若い女がこんなにボロボロな状態で転がり込んで来たんだからもう少し心配してくれてもいいのに」などと勝手な事を思いながらボックス席のソファーにどかっと腰を下ろした。そして大きく息をついた。

言われるまま政子についてここまで来てしまったが、政子を百パーセント信用している訳ではない。関沢はどう見ても悪人には見えなかったが、政子の無表情な顔には何やら計り知れないものがあった。親切そうな事を言って自分を騙そうとしているのかもしれない。それに何といっても政子の並外れて大きな身体には理屈抜きの恐さがあった。ただ、とにかく疲れていたし、野宿だけは二度としたくないという気持ちだけでついて来てしまった。少しでもおかしな動きがあれば、いつでも政子の横をすり抜けて逃げるつもりだった。ここに着いてからずっと全神経を集中して政子や笹原の動きを注視していた緊張が、今ようやく解けた。

(やはり政子も笹原も悪い人じゃない。ここなら大丈夫だ)

そう思った途端、身体の芯で張り詰めていたものが緩み、手足からどんどん力が抜けていくような気がした。そして物凄い眠気が襲ってきた。このまま眠ってしまいたかったが、あれだけ臭い臭いと言われるとシャワーを浴びない訳にもいかない。璃子は睡魔と格闘しながらなんとかシャワーを浴びると、這うようにして階段を上り一番奥の部屋に文字通り転がり込んだ。山積みなったビールケースや段ボール箱の間に敷いてある布団はカビ臭かったが、そんな事はどうでもよかった。璃子は倒れ込んだ姿勢のまま、あっという間に深い眠りに落ちていった。

直ぐに目が覚めた。何やら眩しい。まだほんの二、三分しか経っていないのに誰かが照明をつけたのかと思ってゆっくり目を開けて驚いた。カーテンの無い窓の真正面に太陽が見えた。斜めに差し込む光の中に細かいホコリが無数に漂っている。ほんの二、三分間目を閉じていただけのつもりが、もう朝になっていた。相変わらず全身の筋肉痛はあるが昨日までのような身体の重さはあまり感じない。ぐっすり寝たせいだろうか。

ドアを開けて廊下に出ると一階の店の方から人の話し声が聞こえる。政子と笹原は既に起きているらしい。そしてコーヒーのいい匂いがしてきた。

この日から璃子のこの世界での生活、一九九一年の世界での生活が始まった。

最初は一晩だけ泊めてもらうつもりだったが、政子がいつも通りの無表情な顔で言った。

「行く当てが無いなら、暫くうちにいてもいいわよ。まあ、只って訳にもいかないけどね。店の雑用とか色々やってくれれば食事は三食出してあげるけど、どうする?」

どうするもこうするもない。璃子にとっては願ってもない話だった。

「本当ですか! ありがとうございます。私、何でもしますから」

「アンタねぇ、何でもするとか軽々しく言うんじゃないわよ。まあ、とりあえず掃除はしてもらおうかしら。店とそれからアタシの部屋もね。あとは追々話しましょ。それからルリ子って名前はちょっと呼びにくいからからね。そうねぇ、リコにしようか」

「えっ! リコですか?」

「何よ! その顔、文句あるの? アタシらの世界じゃね、誰も本名なんて使わないの。その方が色々と都合がいいのよ。それにルリ子よりリコの方がアンタに合ってる感じがするけどねぇ」


一週間があっという間に過ぎた。政子に言われた通り店と政子の部屋の掃除をした。狭い店なので普通の掃除であれば一、二時間で終わってしまうが璃子は一日中掃除をした。この先ここに置いてもらうために役に立つところを見せなくちゃという気持ちもあったが、部屋でじっとしているとどうしても色々な事を考えて気が狂いそうになってしまうからだ。

一体これはどういう事なのか。タイムスリップなんて事が現実にあるのか。このままでは頭がおかしくなってしまうという恐怖と若しかすると既に気が狂ってしまったのかもしれないという不安を同時に感じていた。

最初の日に公園で野宿をした時は寒さに耐える事で精一杯だったし、翌日も疲労と空腹でこの状況をきちんと考える事なんてできなかった。あの時はただ耐え切れない程の空腹と疲労だけが現実だった。

しかし今、当面の寝床と食べ物の心配がなくなったせいか、この一連の出来事を整理して考えられる様になってきていた。そして何度考えても、どう考えても二〇二一年から一九九一年にタイムスリップして来たとしか考えようがなかった。新聞の日付もそうだし、何よりも若い母と幼い自分自身の姿が、ここが一九九一年である事を証明していた。いくら年齢が違っていても自分の母親を見間違うはずはない。あれは紛れもなく母の美智子だし、あの女の子は自分自身だった。あの子が本当の里見璃子であるなら一体この私は誰なのか。自分の事を里見璃子だと思い込んでいるただの狂った女なのか。若しかすると私は既に死んでいるのではないだろうか、ポプラ並木で通り魔に追いかけられて転倒した時に頭を打って死んでしまったのではないか。そして今、霊となった自分が過去を見ているのかもしれない。霊になっても空腹や筋肉痛を感じるのだろうか。そんな風に堂々巡りの自問自答を続けて、いつも最後には考える事を止めてしまうのだった。

物置部屋の窓を開けると下には駅まで続く商店街が見える。下を通る人々の見慣れない服装が璃子を益々暗い気分にさせた。若い女性は背中辺りまでの長い髪の人が多く、スーツの肩がやたらと張っている。もう七月だというのにサラリーマンはきちんと上着まで着ている人が多い。男性は皆大きなだぼだぼのスーツで緑や紫、中にはピンクなんて色を着ている人もいる。それは何度かテレビで見た事のあるバブル期の映像と同じだった。

そして、今自分がいるこの世界は一九九一年なんだと分かれば分かる程これまで感じた事のない孤独感、いい様のない疎外感を強く感じた。璃子は知り合いなど一人もいない三十年前の世界に無一文で放り出されてしまったという事だ。

ぼんやりと商店街を見下ろしていると派手なシャツを着たチンピラ風の二人組が駅の方に歩いて行った。両手をズボンのポケットに突っ込み不自然な程のガニ股で威嚇するように周囲を睨みつけながら歩いている。ただ粋がっているたけの若者なのか本当のヤクザなのかは分からないが、あんな連中だってこの世界で生きている事に誰も疑問も持たなければ異議も唱えない。この世界に住んでいい人間として認められている。

向かいの居酒屋のわきでゴミ箱を漁っているホームレスでさえもこの世界に住む人間として認められている。通行人は皆ホームレスとは反対側の道の端を足早に通り過ぎて行く。誰もホームレスの方は見ない。それでいて誰もがそこにホームレスがいる事を分かっている。しかし騒ぎ立てる事もないし警察に通報する人もいない。それはあのホームレスがそこにいる事を、いてもいい事を誰もが認めているからだった。しかし璃子の場合は違う。璃子は二〇二一年の世界の人間であり、この一九九一年の世界にいるべき人間ではない。もし未来から来た事が知れれば人々は寄ってたかって璃子を捕まえるだろう。警察に突き出されるかもしれないし、何をされるか知れたものではない。人間とは自分達に理解できないものに恐怖を感じ、その恐怖の元を排除しようとするものだ。政子や笹原にしても同じ事だ。今は親切にしてくれているが、もし璃子が未来から来たと知れば、きっとあの若い警察官のように璃子を化け物扱いするに違いない。幽霊でも見るような目で璃子を見て、璃子はすぐに追い出されてしまうだろう。璃子は自分が未来から来た事は絶対に知られてはならないと思った。そしてそう思えば思う程、より孤独になっていった。

そして璃子は一日中掃除をした。一週間で店の中は見違える程綺麗になった。長年のタバコのヤニで変色していた壁は本来の綺麗なベージュに戻っていたし、キッチン周りのいたる所に付着していたホコリが油で固まった小さなチリ屑の様なものもすっかりなくなっていた。ガスコンロはステンレス本来の輝きを取り戻し新品の様に見える。まるで店全体から汚れという薄い被膜を取り払い、全てが一皮むけて新しくなった様な感じがした。

見違える程綺麗になった店内を見回して政子が言った。

「リコちゃん、掃除してもらってこんな事言うのも何なんだけどさぁ、ここまでやんなくても良かったのよ。まぁ、もうやっちゃったものは仕方ないんだけど……。何ていうのかなぁ、確かにこの店は小汚い場末のスナックだけどさ、汚いなりに十五年間積み重ねて来た味っていうか歴史みたいな物があるのよ。言ってみれば壁にこびりついた油汚れ一つにも愛着があるのよ。それをアンタこんなにピカピカにしちゃったら十五年間の想い出も一緒に洗い落とされちゃったみたいでさぁ……。アタシの言いたい事分かる?」

「分かりませんよっ!」

と笹原がいきなり入って来た。

「分かりません。全然分かりません。何ですか油汚れに愛着があるって? 汚れは汚れですよ。ただのヨゴレ! 一体何なんですか、リコさんが一生懸命掃除したのに。迷惑そうに愛着がどうのって愚にもつかないイチャモンつけて、いい加減にしてくださいよっ!」

笹原が急に怒り出したので政子と璃子は驚いて笹原を見た。政子の言ってる事は確かにイチャモンだろうがそれ程強い口調で言ったわけでもないし、政子にしてみれば璃子を少しからかっただけなのかもしれない。それを笹原が凄い剣幕で食ってかかったものだから、政子は呆気にとられ、眼を丸くして笹原を見つめた。

笹原は口を少し開き眼を丸くして自分を見つめる二人の顔を見て初めて自分の声の大きさと語気の強さに気付き、今度は笹原自身が狼狽えて眼を泳がせながら言葉を継いだ。

「その……、リコさんは本当に一生懸命だったんですよ……。最初は食器用の洗剤とトイレ用の洗剤の区別もつかなかったリコさんが……、毎日一生懸命掃除して……」

政子は驚いた表情のまま黙って笹原を見つめている。

笹原が耐えかねたように大きな声で言った。

「す、すいません! 何か年甲斐もなく興奮してしまって」

政子はまだ何も言わない。そしてしばらくしてから笹原を見つめたまま静かに言った。

「笹ちゃん、アンタ、リコに惚れたの?」

「えっ! な、何て事言うんですかっ! そ、そんな訳ないでしょ!」

笹原の顔は見る間に真っ赤になった。そして禿げた頭のてっぺんまで赤くして言った。

「じょ、冗談じゃないっ! いくら政子さんでも言っていい事と悪い事がありますよ!」

笹原は何故だか右手で自分の右腿をパンパンと手で叩きながら同じ言葉を繰り返した。

「全く冗談じゃない! これは問題ですよ! 冗談じゃない!」

動揺して我を忘れた笹原は独り言のように冗談じゃないと繰り返しながら外に出て行ってしまった。

政子と璃子はしばらくの間、無言で笹原が出て行ったドアを見つめていた。そして政子が呟くように言った。

「ったく! 何ムキになってんのよ、いい歳して! マジで惚れたのかしらねぇ……」

そして璃子に向き直って続けた。

「それから掃除の事だけど、アタシが言いたかったのは掃除はもう十分って事、お陰で凄く綺麗になったから後は一日一時間かそこらで普通に掃除してくれればいいって事よ。だって何も言わないとアンタ一日中掃除してるでしょ」

「でも私掃除位しかできる事がないから……」

「別にあんな汚い物置部屋とスケベジジイの作る食事位でそんなに恩に着る事ないのよ。一通り掃除が終わったらどっか遊びに行くとか、好きにしていいんだからね。もっとも文無しじゃ遊びにも行けないか」

璃子が困り顔で下を向いていると政子がたたみかけるように言った。

「全く察しの悪い子だねぇ、あんな勢いで掃除されたんじゃ洗剤代だって馬鹿にならないって言ってんのよ。最後まで言わせんじゃないわよ」

政子はまた無表情な顔で冗談とも本気ともつかない事を言うと、のそのそと外に出て行ってしまった。

最近は璃子も政子の性格が少しは分かってきた。本当はすごく優しくて困っている人がいると放っとけないたちだが自分が優しい女だと思われるのは嫌なのだ。嫌というより照れ臭いのかもしれない。だから汚れにも愛着があるとか洗剤を使い過ぎだとか妙な理由をくっ付けて迷惑そうにしているのだ。璃子はそんな政子の優しさが嬉しかったし、笹原が自分の事であんなにむきになってくれた事も嬉しかった。まさか本気で自分に恋愛感情をもっているわけではないだろうが、好意をもってくれている事は間違いないだろう。

そして数日後、璃子は夜店の手伝いもするようになっていた。政子にあそこまで言われてしまったので、しつこく掃除を続けるわけにもいかないし、一日中物置部屋に閉じこもってるわけにもいかない。自然な成り行きで店の手伝いをするようになっていた。

璃子は自分が店に出れば政子はきっと喜ぶだろうと思っていたが、政子の反応は「でもアンタ、ホステスとかやった事ないんでしょ? まあ、やりたいならやってみれば」というもので感謝どころか迷惑がっている感じさえした。

政子からは「習うより慣れろだから、見よう見まねで適当にやって!」と言われただけでホステスの仕事に関する具体的な説明は何もしてくれなかった。そしていざ店に出てみると何をどうすればいいのか全く分からない。どの客につけばいいのかも分からないし、客から酒を注文されても酒の名前も分からない。その度に政子が「ごめんなさい、この子まだ見習いなんで! 真奈ちゃんオーダーお願いね!」という感じだ。仕方がないので最初のうちは空いたグラスを下げたり笹原の横で洗い物をしたり、そんな事ばかりやっていた。


千夏と最初に会ったのは璃子が店に出るようになってから二週間程たった夜だった。

店は夜七時から開けているが千夏は身なりのいい中年の客と一緒に九時頃店に現れた。同伴というやつだ。璃子がこの店に来て既に三週間以上経つから、少なくとも千夏は三週間ぶりの出勤という事になる。

最初、千夏は優しかった。政子が璃子の事を簡単に紹介すると親切そうな笑顔で「千夏です。よろしくね。分からない事があったら何でも聞いてね」と言った。

千夏は物凄い美人だった。切れ長の大きな目に高い鼻ととがった顎。そしてツヤのある黒髪が背中まで真っ直ぐに伸びている。黙っていると冷たい印象を受けるが、笑うと口が大きく横に開いて、歯並びのいい白い歯が見える。千夏がにっこり微笑むと冷たい無表情な顔とのギャップに大抵の男はイチコロで参ってしまう。さすがの璃子も千夏を一目見て負けたと思ったし、これ程の美人が何でこんなスナックにいるのかが不思議だった。そして千夏が優しい人で良かったと思った。

しかし、客が帰った途端に千夏の態度はガラリと変わった。璃子は最後の客を見送った後、改めて千夏に挨拶をした。

「私、今までホステスなんてやった事なかったので何も分からないんですけど、よろしくお願いします。色々教えてください」

千夏はゆっくりと璃子の方に顔を向けて低い声で言った。

「ホステスなんてってどういう意味?」

璃子はしまったと思ったが遅かった。

「ち、違います。ホステスの仕事を馬鹿にした訳じゃなくて、その……、ホステスなんて美人しかできない仕事はやった事がないっていうつもりで言ったんです」

千夏は璃子から目を逸らさず、獲物を狙う女豹の様な目つきで睨みつけた。

「美人しか出来ない仕事って何よそれ、アンタ自分の事美人だと思ってるんでしょ! ママ! この子これからずっと店に出るの? どうしてこんなド素人を雇ったんですか? 真奈の方がまだマシですよ!」

当の真奈もすぐ横にいたが、全く気にも留めていない。さっきまで客と甘ったれた声で話をしていた人とは到底思えなかった。

「チーちゃん、そんなに尖がらないでよ。アンタだって二年前初めてここに来た時は似た様なもんだったわよ。それにこの子は雇った訳じゃないの。まあ居候みたいなものよぉ。だから上の部屋に泊めて食事は出してるけど給料は払ってないのよ。アンタの給料が減る訳じゃないんだから別にいいじゃない」

そこまで言われた時に千夏はようやく璃子から目を離して政子の方に向き直った。

「別にそういう意味で言ってるんじゃないですけど……」

そして笹原が遠慮がちに迎えの車が来た事を告げると、千夏は不服そうな表情のまま店が用意した車で帰って行った。

その間、真奈は何も言わずにずっと黙っていた。千夏が出口へ向かうと真奈も無言のまま千夏の後を追うように店を出て行った。どうやら同じ車で帰るらしい。


何日か過ぎたある晩、珍しく客の少ない日だった。カウンター席でウイスキーをちびちび飲んでいたサラリーマンらしい二人組が帰ってしまうと客は一人もいなくなった。

笹原がカウンターの中でグラスを磨きながら退屈そうに言った。

「今日は一体どうしたんでしょうかね。まだ十一時なんですがね」

「本当にねぇ、今日はもう店閉めちゃおうか」

と政子が言うと真奈が嬉しそうに振り返った。

「相変わらず真奈は分かりやすいねぇ。客が来なけりゃ真奈の給料だって減るんだよ」

「今月は同伴とか結構頑張ったんで大丈夫でーす!」

「あっそ! じゃいいわよ。もう閉めましょ。笹ちゃん看板入れちゃって!」

真奈はそれを聞くとアッという間に着替えて「じゃ、まだ早いんで電車で帰りますっ!」と言いながら帰って行った。

そして、政子と笹原と璃子の三人だけになると政子が少し飲もうと言い出した。

「珍しいじゃないですか、政子さんが閉店後に飲もうだなんて」

「たまにはね、私だって商売抜きで飲みたくなる事だってあるのよ」

政子は笹原と璃子のグラスにビールを注ぐと「面倒だから後は勝手にやってね。私も勝手にやるから」

と言ってすぐに飲み始めた。

そして飲みながら真奈や千夏、常連客の事などを色々と話し始めた。

まず真奈について、彼女は天真爛漫でいい子だけど口が軽いから要注意との事だった。本人には全く悪気はないが真奈自身が隠し事を全くしないタイプなので他の人も自分と同じだと思っているらしい。いくら言い聞かせても直らない。だから真奈に内緒の話は絶対してはダメとの事だった。

「口が軽いってのはホステスとしては致命的なんだけどね。真奈の場合はお客さんももう諦めたような感じなんだよね。逆の言い方をすれば内緒だよっていった事をベラベラ喋っても許されちゃうのは真奈の人柄って事になるのかもしれないね」

笹原はほとんど口を挟まず時々うなずきならウイスキーをちびちび飲んでいる。

政子はどうやらこれから璃子がこの店で働くにあたって注意すべき事などを説明してくれるようだ。

政子は色々な話を聞かせてくれたが、驚いたのは千夏が司法試験を目指す学生だという事だった。学生といっても大学とか予備校に通っているのではなく、独学で勉強しているらしい。司法試験というのは特に学歴の規定はなく予備試験というのに合格すれば誰でも受験できるとの事だった。

「ところでリコさぁ、アンタどの位ここに居るつもりなの?」

いきなり質問されて璃子はドキッとした。

「えっ! 私ですか、どの位って言われても……。政子さん次第です。私は、できれば半年でも一年でも置いてもらえるなら嬉しいですけど……」

政子は黙ったまま何も言わない。しばらくして笹原が口を開いた。

「まあ、リコさんにも色々事情があるんでしょうけどね。でも、もし誰かと喧嘩して家を出てきたとかそういう事なら、仲直りするのは早い方がいいですよ。こういう事は時間が経っちゃうといつのまにか溝が深くなって互いに話し辛くなったりしますからね」

笹原が年長者らしい分別で諭すように話すのを政子が遮った。

「でもさぁ、この子はもうちょっと複雑な事情というか、厄介な事情があるんじゃないの? ただの親子喧嘩って感じはしないけどねぇ。まあ、その辺は話す気になったら話してくれればいいから。生きてりゃ誰だって色々あるからね」

璃子は政子の鋭い洞察に驚いた。そして自分の様な得体の知れない者を何も聞かずに受け入れようとしてくれている政子が有難かった。

「すみません。話せる時が来たら話しますから。ただこれだけは信じてください。皆さんに迷惑がかかるような事には絶対になりませんから」

大きな目を潤ませて話す璃子に政子は無表情な顔で言い返した。

「アンタ、相変わらず何も分かってないんだね! 半人前のホステスを三食昼寝付きで置いてやろうってんだから、既に十分迷惑なんだよ!」

予想外の言葉に呆気にとられている璃子をじっと見つめながら政子が続けた。

「何よその顔、冗談でしょ! いちいち本気にしないでよ! 全く面倒くさい子だねぇ」

 そこまで言ってから初めて政子は口元を歪めて笑った様な表情を浮かべた。



スナックマサコには色々な客が来る。若いサラリーマンから隠居した近所の商店主まで実に色々だ。この街は急行の停まらない小さな街だが隣街は大きな郊外都市で駅前は高いビルが並ぶオフィス街になっている。ここ十年位でどんどん新しいビルが建設され、色々な企業が移転してきた。だから昼時になると飲食店はどこも行列が出来ている。ただ、居酒屋やスナックのような飲み屋はそう多くはない。オフィス街の裏手に飲食店街があるが酒の飲める店は居酒屋や焼き鳥屋が数軒あるだけでスナックやバーの類はほとんど無い。だからこの隣街で働くサラリーマン達は夜落ち着いて酒を飲もうとしたら周辺の街まで移動しなくてはならなかった。そんな訳で木曜や金曜ともなるとマサコの様な場末のスナックにも会社の金で飲み歩く社用族が隣街から結構流れて来るのだった。マサコは狭くて小汚い店なのになぜか人気があった。二年前にホステスの千夏が来てからは彼女を目当てに通ってくる客も多いが千夏が来る前からこの店はいつも混んでいた。

マサコの客層を曜日毎に見ると、週の前半は学生や若いサラリーマン中心でカラオケボックスの様な状態になる。週の後半は社用族が多い。そして週末はご近所衆の寄り合い会場という事になるだろう。関沢ストアーの関沢勉も週に一、二回は客として飲みに来る。


水曜日。午後十一時。客は若いサラリーマンの二人連れだけ。カウンター席に真奈を挟んで座り、さっきからカラオケで歌い続けている。いくら水曜日といってもこの時間にボックス席に客が全くいないというのは珍しい。璃子はやる事がないので笹原のグラス磨きを手伝っていた。政子はボックス席に座り「気軽にできる財テクベストテン」なんて見出しの週刊誌をやや顔をしかめながら読んでいる。そこへ客が二人店に入って来た。紺のスーツを着た背の高い男とアロハシャツの小柄な男。スーツの方は璃子も何度か見た事がある男だった。短髪で頬がこけていて大きな目がやけにギョロギョロと動く。笹原の話では確か杉本とかいう不動産屋でここ一ヶ月程、週二回位のペースで通って来る。いつもは一人で来てカウンターで政子と話をしながら一時間ほど飲んで帰っていくのだが、今日は珍しく連れがいる。この連れも人相が悪いというか目つきが悪い。やせていて背が低く遠目には小学生の様に見える。大きくつり上がった目に尖った顎。耳の先も尖っていて何やら宇宙人を思わせる顔だった。璃子はどこかで見た気がするが思い出せなかった。杉本は政子のそばまで来ると肩から吊り下げた黒くて四角い箱の様な物を重そうにソファーに下ろしながら言った。

「あっ、これね、電話機なんですよ、小っちゃいでしょ。でも結構重いんだよね」

杉本は聞かれもしないのに四角い電話機の説明をした。

「そんなの持ち歩く意味あんの? 今時電話なんてどこにだってあるじゃない」

「分かってないなー政子さんは。僕らの仕事はタイミングが命なんですよ。連絡が一歩遅れて億単位の仕事を取り逃がす事もありますから。この電話は必需品ですよ。通話料も含めると年間百万位かかるけど安いもんですよ。ところで政子さん、今日は空いてるじゃないですか。 経営の方は大丈夫なんですか? お困りでしたらいつでも相談に乗りますよ」

そして政子が見ている週刊誌に目をとめ、嬉しそうに続けた。

「あれっ! 政子さん財テクですか? やっと俺の言う事を分かってくれたんですか?」

「別にアンタに言われたからじゃないわよ。たまたまお客さんが置いてった週刊誌があったから眺めてただけよ」

面倒臭そうに答える政子に構わず杉本は政子の隣に移ってきた。趣味の悪い金ピカの腕時計と太い金のブレスレットがやけに目立つ。

「でもねぇ政子さん、そんな週刊誌の記事なんて嘘ばっかですよ。株なんかいつどうなるか分かったもんじゃないからね。素人が手ぇだすと痛い目見るよ。それより投資するなら土地だよ土地。この日本じゃね、土地の値段ってのは絶対に下がらないんだよ。そういう仕組みになってんだ。銀行だって土地購入ならいくらでも融資してくれますよ。買った土地はどんどん値上がりするから銀行に利子を払ってもお釣りがくるって事だよ。小学生でも分かる理屈だ。でもね、土地なら何でもいいって訳じゃないんだ。場所によっちゃ妙な条件が付いてたりするからね。ま、その辺は俺らプロに任せてくれればいいからさ」

政子は週刊誌を手に取りパラパラとページをめくりながら言った。

「だからさぁ、この財テクとかの記事は何となく眺めてただけで別に興味がある訳じゃないって言ってるでしょ。アタシはね、今のままで十分なの」

「政子さん、アンタはもっと儲けていいんだよ。こんなスナックやめちまってさ。ここの借地権を俺に任せてくれれば悪いようにはしないからさ」

政子はページをめくる手を止め、初めて顔を杉本の方に向けた。

「あら、やっと本性を現したわね。結局アンタはここの借地権が欲しいだけなんでしょ。ただの地上げ屋じゃない!」

「嫌だなぁ政子さん。地上げ屋なんて言い方は止めてくださいよ。なんか世間じゃ我々の事をまるで詐欺集団か何かのように言ってますけど全くおかしな話ですよ。だいたいジアゲヤって響きがなんか悪徳っぽい感じで嫌だよね」

杉本はソファーに座り直し、政子を覗き込む様にして続けた。

「いいですか政子さん、俺はね、今の日本の国際競争力は我々不動産業者が支えてると思ってるんですよ。とにかく日本は土地の区画が狭すぎる。例えば二百坪の土地を確保しようとすると五、六人の土地所有者と交渉しなくちゃならないんだよ。それに所有者は土地を売りたいと思ってもそこに住んでる借地人、借家人が立ち退きを拒否する場合が多くてね。あっ、これは失礼、別に政子さんの事を言った訳じゃないですよ」

政子は表情を変えずに黙って聞いている。

「とにかく今あっちこっちにビルがボンボン建ってるのは俺らみたいな業者が駆けずり回って地主や借地人の承諾を取って来るからなんだよ。何回も足を運んで頭の固い地主を説得するのは骨の折れる仕事ですよ。そういう面倒な事は大手の企業はやらないからね。言ってみりゃ俺らは社会のために人の嫌がる面倒な仕事を引き受けてるって事ですよ。それを地上げ屋とか諸悪の根源みたいに言われて全くやってられませんよ」

ここで璃子が遠慮がちに杉本のボトルと水割りのセットを持って来た。いつの間にかカウンターの二人組は歌うのを止めている。杉本の話に興味があるのか、ガラの悪い二人組に気付いて酔いが覚めたのか分からないがボックス席に背を向ける形で黙って水割りを飲んでいる。そして二人の間の真奈だけはくるりと椅子を回して杉本達の方に顔を向けて無遠慮に話を聞いていた。

「アンタ社会のためとか言ってるけどただ金儲けがしたいだけでしょ。暴利をむさぼるからそんな時計やブレスレットが買えるんでしょ」

「あっ、これ? お目に留まりました? これはね二四金。柔らかいから傷が付きやすいけどね。やっぱり色がいいでしょ。この位太いとかなり重いんだけどね」

杉本はブレスレットを一度外してまた付け直した。その時真奈がスルスルとやって来て杉本の向いに座った。カウンターの客は急に席を移った真奈を見て一瞬「えっ!」という表情をしたが何も言えなかった。真奈は目を輝かせて杉本のブレスレットを覗き込んだ。

「凄いですねー。これ全部純金なんですか。いくらするんですか?」

「おっ、お姉ちゃんはこういうの好きかい? これは二百万位だったかな。こっちの時計は金無垢のケースで三百万だよ」

杉本は自慢げに左手を差し出して時計を見せた。

「へー」と言ったまま口を半開きにして時計を凝視する真奈に政子が声をかけた。

「真奈ちゃん、ヨダレが垂れてるわよっ」

真奈は慌てて口を押さえた。

「嘘よ。でもアンタ凄く馬鹿っぽい顔してたわよ。全くみっともないわね。大体アンタ何でここに居るのよ。お客さん放ったらかして。いい加減にしなさいよ」

真奈はそこまで言われて初めて「あっ」という顔をしてカウンターに戻っていった。

真奈が戻ってしまうと杉本は璃子に話しかけて来た。

「お嬢さんはどうだい? こういうの好きなら今度買って来てやるよ。ま、二百万ってわけにはいかないけど女物なら二、三十万も出せばそこそこのがあるから、その位はプレゼントさせてもらいますよ。他ならぬ政子さんとこのお嬢さんだからね」

璃子は急に話を振られ反射的に首を横に振った。

「私は、そういうのはちょっと……」

この言葉に店内の全員が振り向いた。杉本はギョロギョロと動く目を止めて璃子を見た。

「えっ! いらないの? 買ってやるって言ってんだよ?」

この時代、客からどれだけ高価な物をもらったかでホステスの価値が決まるような風潮があった。クルマをもらったとかマンションを買ってもらったなんて話もチラホラあった。しかし客がやると言ってるのを断るホステスなんて日本中に一人もいなかった。

「はいっ! はいっ!」

カウンター席から真奈が勢いよく手をあげて叫んだ。

「私、いります! いります!」

「お姉ちゃんに言ったんじゃねぇよ!」

杉本は真奈の方は見ずに憮然として言った。

それにしてもこの時代の人はとにかく値段ばかり気にする。店に来る客の会話も給料がいくら上がったとかボーナスがいくらだったとか、いくらのクルマを買ったとか土地をいくらで売ったとか。全てが金額で評価されるような時代だった。

しかし、今の璃子にとっては、金も宝石も何の意味もない。璃子の望みはただ一つ「元の世界に戻りたい。元の家に帰りたい。お父さんとお母さんの元に帰りたい」これだけだった。確かにお金があれば当面の生活には困らなくなるだろう。それはそれで助かるが、元の世界に戻る手助けにはならないだろう。璃子にはこの時代の人達がとても気楽そうに見えた。物事を深く考える事もなく、ただどれだけ儲かるか、どれだけいい生活ができるか、それしか興味がない彼らがうらやましくもあり、腹立たしくもあった。

(こんなレベルの低い連中が何不自由ない暮らしをしてるのに、何で私だけがこんな酷い目にあわなければならないのか、一体私が何をしたというのか……)

杉本は璃子の素っ気ない返事にムッとしたが、気を取り直すように政子に向き直った。

「政子さんは金は嫌いですか? 私もね、若くてカネのない頃は真っ金金の時計とか趣味悪りぃなーと思ってましたよ。でもね、収入が増えて今まで買えなかった高級品に手が届くようになるとその良さが分かってくるんですよ。政子さんだって何千万って現金を手にしたら金の良さもきっと分かりますよ」

政子は杉本の話など聞こえないという風に週刊誌に目を戻し芸能人のゴシップ記事を眺めている。

「ま、いいか。今日はちょっと挨拶に寄っただけだから」

「挨拶?」と政子が怪訝な顔を向けると杉本は隣のボックス席で退屈そうにしていた宇宙人を顎でしゃくる様にして言った。

「コイツは俺が面倒みてる岡本っていいます。これからはコイツがちょくちょく来ますから飲ませてやってください」

岡本は薄笑いを浮かべながら政子を値踏みするように見ている。

「アンタ岡本っていうの? 商店街でよく見かける顔だけど杉本さんとこにいるんだ。アタシゃてっきりどっかの組関係の人かと思ってたけど、ただのチンピラなんだ」

政子のこの一言で場が凍りついた。

岡本の顔から薄笑いが消えた。目が段々大きくなり、益々宇宙人の様になってきた。血走ったその目から光線でも出しそうな勢いだった。杉本は振り返り「やめとけ!」と小声で岡本を制したが宇宙人の尖った耳には届いてないようだ。

政子がゆっくりと立ち上がり、のそのそと岡本の方に歩きだした。岡本も立ち上がったが背丈は政子の顎くらいまでしかない。正しく大人と子供の体格差だった。相撲取りの様な政子に圧倒される様に岡本はゆっくりと後退りした。帰ろうとして腰を浮かせていたカウンターの客も店内の異様な空気を感じてかまた席に戻ってしまった。

政子は無表情な顔のまま岡本にジリジリと詰め寄り、壁際まで追い詰めた。岡本は何やら必死の形相で政子を見上げている。血走った目は若干涙目になっている様にも見える。店内の全員が政子の次の行動に注目していた。一喝するのか、殴りつけるのか、それとも踏み潰すのか。杉本もこの政子の圧力に岡本がどう対処するのか興味深そうに黙って見ていた。一同が息を飲んで注目する中、政子が最後の一歩を踏み出そうとした正にその時、バタンと音を立てて入口のドアが開いた。皆一斉に入口の方を見るとそこには一人の男が立っていた。ギターを持った若い男。そしてその男は戸惑った様子で尋ねた。

「あの、どうかしたんですか?」

長い前髪の間から少しだけ見えている目には驚きと戸惑いの表情が浮かんでいた。その男を見た途端、ほとんど半泣きだった岡本の顔に一瞬嬉しそうな表情が浮かんだ。そして「テェメェー! リュウじゃねぇーか! 一体いつんなったら金払うんだ、 ウルァ!」と大声で怒鳴りながら素早く政子の横をすり抜けた。岡本は男に近づくといきなり顔を平手で打った、つもりだったが背の低い岡本の手は反射的にのけぞった男の顔には届かなかった。

「テェメェー、よけるんじゃねーよ!」

今度は両手で男の胸を突いた。大声で怒鳴ってはいるが顔には政子との勝負から逃げる事ができた安堵の表情がはっきりと浮かんでいた。

「なんでアンタに金を払わなきゃならないんだよ」

リュウと呼ばれた男はうんざりするようような表情で言った。

「テェメェー先月分払ってねぇーだろーが。今月分と合わせて十万、早く払えや!」

言いながら不意に平手打ちを繰り出した。今度は当たった。

「ふざけんじゃねーぞ、ボケッ!」と言いながら今度は拳で殴りつけようとした時、背後からその手を掴まれた。政子だった。岡本は政子の手を振り払おうとするが万力のような政子の手はビクともしない。

「アンタさぁ、カツアゲならよそでやってよ。アタシの店で変な事したら許さないわよ」

政子は右手で岡本の腕を掴んだまま左手で襟首の辺りを掴んだ。岡本は少しの間抵抗する様にもがいていたが、やがで首の皮を掴まれた猫の様におとなしくなってしまった。政子はそのまま岡本を店の外に押し出すと今度は杉本の方を向いて言った。

「杉本さん、アンタ、アタシを脅すつもりならもうちょっとマシなやつ連れて来たら! 何よあのヘナチョコは! あんなチンピラでアタシがビビると思ったら大間違いよ!」

「い、嫌だなぁ政子さん、そんなつもりじゃないですよ。また来ますから。あ、そうだ、これ今日の勘定とお騒がせしたお詫び、皆で飲み直して!」

そう言うと杉本はポケットから無造作に一万円札を数枚つかみ出しテーブルの上に置くと慌てて出て行った。


政子はカウンターで相変わらず息を潜めている客の所へ行き声をかけた。

「ごめんなさいね騒がしくて。これで暫くはおとなしくなると思うから懲りずにまた来てくださいね。今日はアタシのおごりだから」

「それからリュウちゃん、このお客さん達歌が好きだら何曲か弾いてあげて」

そう言うと杉本が置いて行った一万円札を一枚取りリュウと呼ばれた男に渡した。

「あっ、それからね、この子はリコっていうの。まだ半人前だけどお店に出てるから、よろしくね」

政子が紹介するとリュウは真っ直ぐに璃子の顔を見ながら無言で軽く頭を下げ、そのままカウンターの客の方へ歩いて行った。璃子は間近にリュウの顔を見てビックリした。長い前髪の下から覗く寂しげな瞳。スラリとした鼻と先の尖った顎。滅多に見た事のない、ほぼド真ん中のドストライク顔だった。リュウの顔に見とれて挨拶をするのも忘れていた璃子の耳元で政子がささやいた。

「彼はね、西門龍っていうの。西の門って書いてニシカド。リコさぁ、アンタ考えてる事が顔に出るタイプだから気をつけた方がいいわよ。挨拶した時、わーっ、すっごいイイ男、モロ私のタイプ! とか思ってたでしょ。思いっきり顔に出てたわよ」

「な、何言ってるんですか! 違いますよ。ちょっと、その……、し、知ってる人に似てたから、それで……」

言いながら顔がどんどん赤くなってくるのが自分でも分かった。

「でも龍ちゃんはやめといた方がいいわよ。この辺じゃ結構モテモテで色んなホステスさんと遊んでるって噂だから。それにリコより大分歳下だしね」

「何言ってんですか、関係ないって言ってるじゃないですか」

政子がしつこいので席を立とうとした時、龍のギターが始まった。流れるような美しいイントロがフロアに響くと、店内はスーッと静かになり、皆が龍の方を見た。璃子はギターの事は何も知らないが、まるで二人か三人で弾いているように聞こえた。ちょっとびっくりする位龍のギターは上手かった。

「本当に龍ちゃんのギターはプロ級よね」

政子がぼそりと言った。



八月になると毎日暑い日が続いた。スナックマサコは古い木造建てなので外の暑さがそのまま中に入って来る。エアコンは一階の店と政子の部屋にしかないから、笹原の部屋と璃子の物置部屋は信じられない位暑くなる。特に璃子の部屋は南向きなので日中は強い日射しをもろに受ける。部屋の中でじっとしていても汗が出て来るのでまだ外の方が過ごしやすい。しかし外に出てもお金がないから電車には乗れないし、少し歩くとすぐ汗が出て来るから遠くまでは行きたくない。近場で日陰があり腰を下ろして休める所というと二箇所しか思い当たらない。あの一夜を明かした公園とポプラの並木道だ。最初は少し抵抗があったが、公園も並木道も来てみればどうという事はない。ただ公園は夏休みなので昼間はいつもボール遊びやセミ捕りをする小学生達が大勢いた。一方、並木道はいつ来ても人通りが少ない。

璃子は日陰になっているベンチを選んで腰を下ろした。座ってからそこがタイムスリップしたあの日に座っていたベンチだと気が付いた。正面には広い芝生の庭の家が見える。あの時は梅雨時で確かアジサイが咲いていたが、今はヒマワリや朝顔が沢山咲いている。午後二時。強烈な日射しが乾いた路面に先の尖ったポプラの影をくっきりと映している。人気のないこの道にあちこちから響くセミの鳴き声だけが聞こえている。それは、かえって深い静寂を感じさせた。

璃子はこれから先どうすればいいのかを考えていた。もちろん二〇二一年の世界に戻れればそれが一番いいのだが、どうすれば戻れるのか皆目見当がつかない。ただ、もし戻れるとしたらそれはこの並木道で起こるのだろうという気がしていた。毎日この道に来ていればいつか何かの拍子でまた元の世界に戻れるかもしれない。しかし、一方ではタイムスリップなどという極めて稀な事が一人の人間に二度も起こるはずがない。このままこの世界で暮らす覚悟を決めるしかないという気もしていた。また、一度は貴士と美智子に会ってきちんと話をするしかないとも思い始めていた。タイムスリップした日の翌日、家に行って美智子を見た時には気が動転して声をかける事もできなかった。しかし、二人に直に会って誠心誠意心を尽くして話をすれば必ず自分を信じてくれるはずだという思いがあった。それに理屈抜きに二人に会いたかった。ただ、話をどう切り出せばいいのか分からい。いきなり「私は三十年後の里見璃子です」などと言えば二人を驚かせて怪しまれるだけだろう。それに二人を目の前にして取り乱さずに話をする自信もなかった。

(二人に会う時は、きちんと準備してからじゃないとダメだ。何をどう話すかちゃんと決めて、精神的にももう少し落ち着いてからにしよう。でないと全てをぶち壊してしまう)

セミの鳴き声以外何も聞こえない。ここでこうして座っていると何もかもが夢の中の出来事のような気がする。自分が二〇二一年の世界にいたという事も今となっては夢のようだし、この一九九一年の世界も現実とは思えない。一体現実とは何だろうか。璃子はベンチに仰向けに横たわった。風が吹き抜けるので日陰はそれ程暑くはない。目を閉じるとセミの鳴き声だけが幾重にも重なって頭の中で反響している。今、背中に硬いベンチの板を感じている。だから背中の下にはベンチがある、と思う。しかし、それは自分がそう感じているだけではないのか。目を開ければポプラの木が見える。手を伸ばせば触る事もできるだろう。しかし目に見えるからといって、触れるからといって、それがそこに実在していると言い切れるだろうか。若しかしたらポプラの木の映像も硬いベンチの感触も自分の頭がそう感じているだけではないのか、脳が勝手に作り出した幻覚ではないのか。人の五感なんて所詮はその人だけの主観的な感覚でしかない。いくら目に見えてもそれが客観的に実在している事の証明にはならないだろう。世の中の出来事はすべて自分の脳、自分の意識が作り出した幻覚なんじゃないか。そして全てが幻覚なら、恐れる事など何もない。

璃子はよく夢をみる。夢の内容は現実にはあり得ないヘンテコなものが多いが、これまで夢の中でこれは夢だと自覚した事は一度もない。いつだって夢の中ではそれを現実として感じて驚いたり怖がったりしている。そして目が覚めた時初めて今のは夢だったと気付く。という事は、今起こっている事はやはり全て夢なのではないのか。降るようなセミの声に包まれて、この世界には自分とセミの声しか存在しない様な感じがした。

「全ては夢」それは素晴らしく魅力的な考えに思えた。きっといつか夢から覚める。そしていつかみたいに体中汗びっしょりで「なんだ! 夢だったのか!」ってそう思うんだ。そうに違いない。きっと、そうに違いない。


「……つべこべ言ってねぇーで……」

「……さっさと出せや……」

「……痛てぇ! やめろ……」

何やら人が言い争う声で目が覚めた。いつの間にかうとうと寝ていたようだ。全てが夢だという魅力的な妄想に浸っていた璃子はいきなり現実に引き戻されて目を開けた。そこは璃子の見慣れた古い家々が建ち並ぶ並木道ではなかった。どの家も新築したばかりの新しい家だったし、数軒先に見える洋館には蔦など全く生えていなかった。自分が座っているベンチも真新しい。やはりタイムスリップは夢ではなく現実だという事か。

(あー。何で私だけがこんな酷い目にあわなければならないのか)

失望してため息をつきながら声のする方に目をやると三人がかりで一人の男を小突き回している。三人組は遠目にもガラの悪さが目立った。一人はパンチパーマでもう一人はリーゼント。この二人はかなり若い。高校生位だろうか。そして三人の中で一番背の低い男がボスのようでしきりに二人をけしかけている。どこかで見た顔だと思ったら宇宙人の岡本だった。相変わらずつり上がった目と尖った耳は異様だった。この前は政子に圧倒されて泣きそうになっていたくせに、今日は手下を二人連れて随分と威勢がいい。全く嫌な場面に出くわしたものだ。璃子はトラブルに巻き込まれたくないから黙って帰ろうとした。気付かれないように立ち去ろうとしたその時、視界の端に腹の辺りを抱えてうずくまっている男の顔が映った。龍だった。つい先日政子に紹介された流しの西門龍だった。

「エッ!」

璃子はてっきりチンピラ同士の抗争か何かだと思っていたので、ここに龍がいる事に驚いた。そして無意識のうちに男達に向かって走り出していた。

「アンタ達っ! 何してんのよっ!」

走りながら叫んだその声の大きさに自分でも驚いた。

近づくと手下の二人も璃子より背が低い。岡本も含めてまるで子供ギャングのようだ。

(なんだ子供じゃないか)

思いっきり叱りつけてやろうと思って息を吸い込んだ瞬間にリーゼントとパンチパーマが振り返った。リーゼントは手にナイフを持ち、パンチには眉毛が無かった。確かに顔にはまだ幼さが残ってはいるが見るからに凶暴そうだ。璃子が言葉を飲み込んで黙っているとリーゼントがナイフを顔の高さまで持ち上げて近づいて来た。

「よく聞こえなかったからもう一回言ってみろよ。オバサン!」

「……」

目が据わっていた。何かの薬でもやっているのだろうか、常識の通じる相手でない事は直ぐに分かった。コイツなら本当にナイフで顔に斬りつけて来るかもしれない。璃子は恐怖ですくんだ足に力を入れて一歩後ろに下がった。するとリーゼントも一歩間合いを詰めながらゆっくりと腰を落とした。次の動作で璃子に飛び掛かるつもりだろうか。その時、男達の後ろからかすれた声が聞こえてきた。

「やめろ! その人には関係ないだろ!」

龍が立ち上がっていた。左手の辺りを怪我しているようでかなり出血している。白いTシャツの腹のあたりが左手からの出血なのか真っ赤に染まっていた。

「オメェーは黙って座ってな!」と言いながらリーゼントが龍の方へ歩き出した。璃子は回り込むようにしてリーゼントと龍の間に割って入った。通せんぼをするように両手を広げてリーゼントの前に立ちはだかった。足が震えた。

(この馬鹿は本気で顔に斬りつけて来るかもしれない)

リーゼントはもう何もしゃべらなかった。ただナイフを顔の高さにかざしてゆっくり近づいてきた。璃子が両手を広げたまま後ずさりしたその時、後ろから声がした。

「やめとけっ! もうその辺でええやろ!」

岡本だった。

「その女は政子んとこのホステスや。その辺にしときっ」

リーゼントとパンチが何故だ?という不服そうな顔で振り返った。璃子もなぜ岡本が止めたのか分からなかったが、とにかく助かった。

岡本は三人から注目されてやや口籠りながら言った。

「政子んとこは色々面倒な事があんだ。お前らには分からんだろうけど……」

そして龍から取り上げていたらしい財布にもう札が入っていない事を確かめてから、その財布を放り投げた。

「今日は二万しか入ってなかったから後三万、明日までに用意しとけよ!」

岡本は吐き捨てるように言うと不服顔の手下二人を促して帰って行った。璃子は暫くの間両手を横に広げた通せんぼの格好のまま動けなかった。セミだけが何事もなかったかのように鳴き続けている。

今まで夜の盛り場などでヤンキーに絡まれた事は何度かあるが、ナイフをあんな至近距離で突き付けられたのは初めてだった。璃子がぎこちなく手を下ろし、呼吸を整えていると、後ろから息を詰まらせたような妙な声が聞こえて来た。

「クッ、クッ、クー」

振り返ると龍は左手の甲を右手で押さえながら腹の辺りに押し付け、また地べたに座り込んでしまった。上体を前後に揺すりながらうめいている。まだ出血が止まらないのか手を押し付けた腹の辺りは血で真っ赤に染まっていた。

「クックー、クックー」

泣いているように見えた。璃子は恐る恐る龍に近づいて声をかけた。

「大丈夫?」

「……」

「ねえ、血、まだ止まらないの?」

「クッ、クー」

かなり痛いようだ。相変わらず上体を一定のリズムで前後に揺すりながらうめいている。

「ねえ、ちょっと見せてよ。ちゃんと手当しないと……。いい? 見るわよ!」

言いながら璃子が覗き込むと龍は怪我をした左手から右手をゆっくりと離した。すると左手の甲の辺りから指にかけて皮膚がペロンとむけていて、細かい砂や土の付着した傷口からはまだ出血していた。璃子は想像以上の傷の酷さに絶句した。

「こ、これは……、早く手当しないと……」

「あのバカ、革靴のかかとで思いっ切り踏みつけやがった」

龍はつぶやくように言いながらまじまじと血の止まらない自分の手を見つめた。そして唐突に奇声をあげた。

「ぐぁぁぁーっ!」

龍は血の滴る左手を強く握り締め、いきなり高く振り上げたかと思うとそのまま地面に打ち下ろした。一回、二回……骨がアスファルトにぶつかるにぶい音がした。三回目の拳を振り上げた状態で一瞬動作を止めたかと思うと今度は左手を押さえて地面を転がり回った。

「がぁーっ!」

皮膚がぺロンと剥けた拳を思いっ切りアスファルトに打ちつけたのだから痛いに決まっている。璃子は龍の突然の奇行に呆気にとられ黙って見ている事しかできなかった。龍は暫くの間大声を出しながら地面を転がり回っていたが、やがて動かなくなった。左手を腹の辺りに押さえつけ、膝を抱えるようにして倒れたまま小刻みに震えている。璃子はどうすればいいのか分からなかった。

「だ、大丈夫?」

近づいて龍の震える背中をゆっくりとさすってみた。汗びっしょりの龍の背中から心臓の鼓動が伝わって来た。龍はウーウーと唸るだけで反応しない。

「とにかく、その傷は早く手当てしないと……。ばい菌が入ると大変だから……」

どうすればいいのだろう。璃子は途方に暮れて震える龍の背中をさすり続けた。



そこは所々モルタルの壁が剥がれ落ちた古いアパートだった。狭い部屋には敷きっぱなしの布団の周りに雑誌や洗濯物、ビールの空き缶やカップ麺の容器などが散乱している。璃子の物置部屋より酷い。そして大きなギターケースが2つ、狭い部屋を更に狭くしていた。璃子は今この部屋で龍と向かい合って座っている。狭くて汚くて暑くて、そして少し臭い。普通なら一秒だってこんな所には居たくないのだが、今の龍を放ったらかして帰る事はできなかった。それに璃子は顔さえ良ければ何でも許せてしまうところがあって、鼻をつく部屋の異臭も苦にはならなかった。

あの後、途方に暮れた璃子が救急車を呼んでくると言ってその場を離れようとすると龍は怪我をしていない方の右手で璃子の腕をギュッと掴んだ。意外なほど強い力に璃子は妙にドキドキした。そして急に起き上がると家はすぐそこだから帰ると言って左手からダラダラと血を流したまま歩き出した。龍は無言で歩き続け、アパートに着くとそのままスルスルと部屋の中に入ってしまった。璃子は少し躊躇ったが怪我の状態が気になったし、傷の手当てをするつもりで部屋に入った。手当てといっても救急箱も包帯もない。水道で傷口を洗って、いつ買ったのか分からない様な消毒液を垂らし、包帯代わりに切り裂いたTシャツをぐるぐる巻いただけだった。健康保険に入ってないから病院には行けないといっていた。一通りの手当てが終わって二人が腰を下ろすと文字通り膝を突き合わせる位の近さになった。さっきは生身の拳をいきなり地面に打ち付けて気でも狂ったのかと思ったが、今はかなり落ち着いている。手当ても終わったし、そろそろ帰るべきかもう少しいた方がいいのか迷っている時に龍が話し始めた。怪我をした左手を見つめたままぼそぼそと話すので最初は独り言なのかと思ったが、話しながらチラチラと上目遣いに璃子の方を見る。どうやら璃子に話しているらしかった。

龍は、岡本と初めて会った時の事や金をたかられるようになった経緯などを長々と話し始めた。岡本と初めて会ったのは一年程前でその時はまだ流しの仕事はしていなかった。気が向けば行きつけのスナックでギターを弾いたりしていたが、ある日龍のギターを聞いた岡本が近づいて来て言った。

「兄ちゃん、ギター上手いなぁ。びっくりしたわ。それ、銭取れるで、マジで」と言った。その時はそれ切りで岡本ともしばらく会う事はなかった。その後段々と龍のギターはこの飲屋街で評判になり、千円だすから一曲聞かせてくれとか二千円で歌の伴奏をしてくれなどという客がチラホラ出て来た。龍もギターでお金が稼げるなら何よりだと思い、ごく自然な形で流しを始めるようになった。そして本格的に流しを始めてみると龍のギターはすぐに評判になった。何と言ってもバブルの絶頂期、酔って気分の良くなった客は二、三曲歌うと気前よく五千円とか一万円をくれた。だから木曜や金曜ともなると一晩で数万円の稼ぎになった。

その話を聞きつけて岡本がまた近づいて来て、流しの商売は俺のアイデアだからアイデア料を払えと言い出した。確かに岡本は「ギター上手いな、銭取れるで」とは言ったが、ただそれだけで流しという具体的なアイデアを出した訳ではない。それなのにアイデア料アイデア料と毎日付きまとうので龍は面倒臭くなって一万円渡してしまった。それが悪かった。岡本は毎週金をせびりに来るようになり、今では毎月五万円と自分で勝手に決めて金を取り立てに来るようになった。

「だから俺はあいつから金を借りてる訳でもないし、あいつに金を払ういわれなんかないんだ。あいつが勝手に言ってるだけで、俺とあいつは元々何の関係もないんだ」

龍は自分と岡本は関係ないという所で初めて璃子の方を真っ直ぐに見て言った。璃子は、龍がほとんど初対面の自分になぜ岡本との関係をくどくどと説明するのか分からなかったし、そんな事に興味はなかった。それより龍の左手が骨折してるんじゃないか、それがさっきから気になっていた。

「分かったわよ。そんな事よりやっぱりその手、病院で診てもらった方がいいんじゃない? 保険がなくてもお金出せば診てもらえるでしょ。あんなに強く地面にぶつけたんだから骨が折れてるかもしれないわよ」

すると龍は急に険しい表情になったかと思うと外まで響くような大声で叫んだ。

「畜生っ! 畜生っ! 畜生ぉぉぉ!」

そして包帯代わりのシャツでぐるぐる巻きにした左手を高く振り上げた。また拳をどこかに叩きつけようとしたらしいが余程痛いのか、うーと情けないうめき声をあげると散乱した雑誌の山に倒れこんでしまった。

「畜生ぉぉぉ……。クックック……」

今度はメソメソ泣き出した。血のにじみ出ている左手を腹の辺りに押し付けて身体をくの字に曲げたまま泣いていた。情緒不安定なんて生易しいものではない。璃子は恐る恐る龍に近づいて震える背中をさすった。

「大丈夫だよ……、きっと何とかなるから……」

何がどう大丈夫なのか自分でも分からなかったが、そう言うしかなかった。

「そうだ、私が一緒に行ってあげるから病院に行こうよ。早く治療すればちゃんと治るから……。今は他の面倒な事は考えないで、手をちゃんと治す事だけ考えようよ」

「……」

「あのチンピラの事なら政子さんに相談してみようか。きっと力になってくれるから」

背中をさすりながら話す璃子の目に散乱した雑誌が目に入った。ギターや音楽関係の雑誌が多い。ROCKとかMUSICという文字が見えた。

「その手ちゃんと治さないとギターだって今までみたいに弾けなくなるかもよ」

すると璃子の言葉に龍が反応した。急に泣き止むと璃子を睨みつけて言った。

「この手は骨折してた方がいいんだよ。元々骨を折ろうと思ってやった事だしな」

「えっ!」

「もう岡本みたいなクズにつきまとわれるのはうんざりなんだよ。この手が折れてギターが弾けなくなれば岡本だって諦めるだろ。それに、ギターなんかもうどうでもいいんだ。元々大して好きでもないし……」

そう言いながらすぐそばにある音楽雑誌を眺めている目は悲しそうだった。改めて散乱した雑誌を見てみるとほとんど全てが音楽関係の物だった。中には英語の物もある。

「でも、これ全部音楽やギターの雑誌なんでしょ。大して好きじゃないなんてそんな……」

璃子は途中で言葉を切った。ギターが好きじゃないなんて本心でない事は明らかだった。

「もういいよ」

「えっ! 何が?」

「心配かけたみたいだけど、もう大丈夫だから。そろそろ店始まるんじゃないのか?」

龍との話に夢中になっている間に辺りはすっかり暗くなっていた。もう七時は完全に過ぎている。

「あっ! ホントだ。ヤバっ! もうお店始まってる! じゃあ私帰るから」

璃子が慌てて立ち上がろうとした時、痺れた足が散乱した雑誌で滑って目の前であぐらをかいている龍の方に倒れ込んだ。乳房を龍の顔にもろに押し付ける形になり、「ご、ごめん!」と言いながらとっさに離れようとして今度は龍を突き飛ばしてしまった。

「痛ぇ!」

「あっ、ごめん!」

もう璃子は何が何だか分からなくなってしまった。こんな年下の男相手に自分は何を狼狽えているんだろう。ドアの所まで行き、なんとか平静を装って声をかけた。

「ねぇ、必ず病院に行ってよ! あと、あのチンピラの事は政子さんに相談した方がいいわよ。 きっと力になってくれるから」

「そうだな、考えとくよ……。それから……、お前さぁ……、意外と胸デカいんだな!」

(はぁ?)

こんなに年下の男からお前呼ばわりされたのは初めてだし、意外と胸がデカい? 「意外と」とはどういう事か。外からは胸が無いように見えるという事か。(胸なら人並み以上にはちゃんとあるわボケ)、と思ったが口には出せず、怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして叩きつけるようにドアを閉めて外に出た。

なんて生意気なやつだろう。人が親切で介抱してやったのに。全く腹が立つ。つい今の今まで泣いたりわめいたりしていたくせに。そもそもなんでタメ口なんだ。二十歳そこそこのガキが。あんな風だから岡本みたいなチンピラに付け込まれるんだ。心配していた自分が馬鹿らしくなってきた。



あれから何日か経つが龍は一向に顔を出さなかった。あれだけ酷い怪我をしたのだから二、三日は出歩けないのだろう。若しかすると傷口からばい菌でも入って酷い事になってるんじゃないだろうか。やはり骨折していたのか。ちゃんと病院には行ったのだろうか。璃子はそんな事ばかり考えていた。そして龍の部屋から帰る時に足を滑らせて胸を龍の顔に押し付けてしまった事を思い出していた。あの時龍はどんな気持ちがしたのだろう。璃子の左の乳房には龍の口の辺りが強く押し付けられた感触がはっきりと残っていた。龍にも私の乳房の感触が残っているのだろうか。胸が意外とでかいとか言っていたけど本当にそう感じたのだろうか。あの時タメ口でからかわれた事に対する怒りはほとんど消えていた。

(どうして店に来ないんだろう、見舞いにでも行ってみようか?)

日を追うごとに龍への気持ちはどんどん大きくなり、自分でも抑えられなくなってきた。そして、いつしか龍への思いは怒りに変わっていった。何で龍は全然店に来ないのか。流しはもうやめたから店に用はないという事なのか。仮にそうだとしても私があれだけ看病してやったのだから一度位は挨拶にくるべきだろう。

(全く、何て常識のないヤツだろう)

璃子は自分では気付いていないが思っている事がすぐ顔に出る。だから最近はいつもイライラしていて店の客に対しても不愛想な対応が目立つようになってきた。店のドアが開く度に振り返り、入ってきたのが龍ではないと分かると溜息をついた。そんな時に事件は起きた。とうとう千夏と大喧嘩をしてしまった。これまで璃子は色々努力して店での接客もまあまあ出来るようになってきた。それに何とか千夏に認めてもらおうと最大限の気を遣ってやってきたが、千夏はいつまで経っても璃子を毛嫌いしている。

ある日の閉店後、何時ものように迎えのクルマが来て千夏と真奈は帰って行った。璃子が最後まで客がいたテーブルを片付けようとすると、ソファーに千夏の財布があった。直ぐに財布を持って外に出た。クルマは丁度走り出したところだったが何とか間に合った。後部座席の窓がスーッと開くと千夏は怪訝な顔で言った。

「どうかしたの?」

璃子が財布を見せながら「これっ、ソファーに置きっ放しでしたよ」と言うと千夏は一瞬ハッとした表情を浮かべ、引ったくる様にして璃子の手から財布を奪い取った。すぐに中身を見て何も無くなっていない事を確認すると小さな声で「どうも」と言って窓を閉めてしまった。しかし後部座席に深く身を沈めたまま口籠るように言った千夏の「どうも」は璃子には聞こえなかった。これで璃子はキレた。閉まったクルマの窓をドンドンと叩きらながら大声で叫んだ。

「アンタいい加減にしなさいよ。ありがとうの一言くらい言えないの!」

窓は直ぐに開いたかと思うと中から千夏の鋭い声が飛んできた。

「うるさいわね! アンタに財布持って来てって頼んでないでしょ!」

この言葉に反射するように璃子も大声で言い返した。

「何よその言い草はっ! 少しばかり顔がいいからって図に乗ってんじゃねぇぞ、このクソ女!」

璃子の大声と男のような言葉遣いに運転手は振り返り、笹原が驚いて店から飛び出してきた。しかし千夏も負けていなかった。

「私はね、アンタみたいな甘ったれを見てるとムカムカして腹が立つのよ! 夫婦喧嘩だか親子喧嘩だか知らないけど、気まぐれに家出して、それでのうのうと生きていける程世の中甘くないのよ! それにここ二、三日のアンタの接客は何なのよ。ろくに客の話も聞かないでボーッとして。何が気に入らないのか知らないけど、遊び半分で仕事されたら迷惑なのよっ! ここはアンタみたいなお嬢様の来るとこじゃないんだから、とっとと家に帰んなさいよっ!」

璃子は接客の事を言われてギクッとしたが、一旦火が付いた怒りはもう抑えようがなかった。何も知らない千夏に甘ったれと決め付けられた事が悔しかった。

「ふざけんじゃないわよ! アンタに私の何が分かるっていうのよ! 甘ったれはアンタの方でしょ、中年の金持ちたぶらかして金巻き上げて。アタシはね、親子喧嘩とか夫婦喧嘩とかそんな生易しい事じゃないのよ! 私だって好きでこんな所にいるわけじゃないわよ、帰れるものならとっくに帰ってるわよ! アンタなんか……、アンタなんか……」

そこまで言うと涙が溢れてもう言葉にならなかった。これがただの親子喧嘩だったらどれ程幸せか……。

璃子は走り出したクルマに向かってもう一度「ふざけんな! クソ女っ!」と叫んだ。


璃子にはここを追い出されたら路頭に迷ってしまうという恐怖が常にあったので、政子や笹原の言う事は何でもはいはいと聞いてきた。千夏に対しても何とか気に入ってもらおうとして卑屈な程の態度で接していた。しかし、今日はこれまで溜まりに溜まったものが一気に爆発してしまった。

部屋に戻り、暫くして頭が冷えてくると段々と事の重大さが分かってきた。何といっても今のスナックマサコは千夏の売上げでもっている。千夏は週に二、三日しか店にでないが、それでも千夏の客は皆羽振りのいい小金持ちばかりだから毎回店には結構な金を落としていく。千夏は正面切って逆らってきた自分を絶対に許さないだろう。クビにするよう政子に迫るかもしれない。ここを追い出されたらその日から寝る場所にも困ってしまう。璃子の頭には公園で夜を明かした時のあのどうしようもない寒さと絶望的な夜の長さが今も強烈に焼き付いている。仕事を探すにしても璃子には免許証や保険証など身分を証明するものが何もないからまともな仕事には就けないだろう。お金もないし保証人になってくれる人もいないから部屋を借りる事もできない。

(何てバカな事をしてしまったのか、今までずっと我慢してきたのに、どうして今日は我慢できなかったのだろう。そうだ、今日は龍の事が気になっていたから……。そうだ、龍のせいだ、全部龍のせだ! あのバカがもっと早く店に来てお礼の一つも言っていればこんな事にはならなかったんだ。とにかくここはどんな事をしてでも、土下座してでも謝ってここに置いてもらうしかない)

翌日、璃子は心を決めて政子の部屋に謝りに行った。どんなに怒られようが謝り倒してここに置いてもらうしかないという覚悟だった。政子の部屋に入るなり璃子はいきなり土下座し、額をすり切れた畳に押し付けたまま言った。

「政子さん、昨日は本当にすみませんでした。私、昨日は少し飲み過ぎちゃったみたいで……。もう二度とあんな騒ぎは起こしませんから。千夏さんにもちゃんと謝りますから、だから、だから……。これからもここに置いてください。お願いします」

政子は興味のなさそうな口調で言った。

「昨日の事ってなあに? お店閉めた後に外が騒々しかったみたいだけど、あれ、アンタなの?」

「あの、笹原さんから何も聞いてないんですか? 千夏さんと喧嘩になってしまって……」

「それで?」

「あっ、そのぉ、千夏さんをすごく怒らせちゃったので……。若しかしたら千夏さん、もう私とは仕事出来ないとか言うかも知れません」

「それで?」

「えっ? ですから、私、千夏さんにもちゃんと謝りますけど、多分許してもらえないと思うんです。でも、私ここを追い出されたら行く所がないんです。ですから……」

「ちょっと待ってよ。そんなホステス同士の喧嘩なんていちいち知らないわよ。それに千夏はアンタと仕事できないとかそんな事言う子じゃないわよ」

「でも……、私、千夏さんにこのクソ女って言っちゃったんです」

「あらそう、それは困ったわねぇ。ま、とにかくアンタ達の問題なんだからアンタ達で解決してよ」

政子は璃子と千夏の喧嘩を大きな問題とは考えていないようだし、どうやら笹原からも昨日の事は伝わっていないらしい。そして、少しほっとした表情の璃子を見て政子が言った。

「でもさぁ、さっき多分許してもらえないとか言ってたけど、アンタ、人に謝る時に許してもらえそうだとか許してもらえなさそうだとかそういう事考えながら謝るの? そんな風じゃ謝っても伝わらないわよ」

「……」

そもそも璃子は今回の事について自分に非があるとは全く思っていない。自分は悪くないが、ここを追い出されると困るから不本意だけど謝るしかないと思っているだけだ。そして、そんな璃子の気持ちを鋭く見抜いた政子は璃子に向き直ってまた話し始めた。

「アンタ、千夏の事を小金持ちのジジイ達に気を持たせるような態度で大金使わせる悪どいホステスだと思ってるんじゃないの?」

(えっ! やっぱり昨日の話聞いてたの?)

「でもそれがホステスの仕事だからね。千夏の客は皆千夏の相手が自分一人じゃない事をよく分かってる。それでも千夏と二人で飲んでいる時だけは千夏が自分の彼女になったような錯覚を感じられる。客は千夏の言ってる事が半分嘘だと知りながら酒を飲み、お金を払って帰っていくのよ。そういう意味じゃ千夏はホステスとして真っ当な仕事をしてると思うわよ。客が本気になりそうになるとちゃんと抑えるしね。ここは本気で色恋をする場所じゃないですよ、色恋気分でお酒を飲むだけの場所なんですよってね。客を怒らせないように、客に恥をかかせないようにその辺を分からせるテクニックは一流だと思うわよ」

「千夏さんがホステスの仕事をちゃんとやってる事はよく分かりました。でもこの際言わせてもらいますけど、千夏さんの私に対する態度、ちょっとエグくないですか?」

「えっ? えぐい?」

「あっ、その、酷くないですかっていう意味です。お客さんがいる時はまだいいですけどお客さん帰ったらマジ最悪ですよ。話しかけてもガン無視されるし。政子さんだって知ってるじゃないですか。大体私の事なんか一ミリも分かってないくせに、お嬢さんとか決め付けてクソムカつくんですけど。お客さんが帰ると後片付けもしないで秒で帰ってくし……」

璃子は話しているうちに感情が高ぶり言葉遣いに気を遣う余裕がなくなっていた。

「……一ミリも……分かってない? ビョウで……帰る? アンタさぁ、前からきこうと思ってたんだけど本当にこの辺の生まれなの? アンタの言葉遣いちょっと変わってるよね。アタシ北海道から沖縄まで全国に知り合いがいるけどアンタみたいな方言は聞いた事ないんだよね。アンタ本当はどこから来たの?」

「どこから来たの」と言われて璃子は息が止まりそうになった。心臓がバクバクして急に汗が出てきた。

「いえ、あの、私、興奮すると、その……、言葉が何かヘンになるんです。む、昔からなんです。それが癖なんです」

咄嗟に口から出た言い訳は自分でも嫌になる程の下手な嘘になってしまった。政子は璃子の動揺ぶりに驚きの表情を見せたが、それ以上言葉遣いを追及する事はしなかった。

「ま、別にアンタがどこから来ててもそんな事はどうでもいいわよ。とにかく、千夏はアンタが思ってる程悪い子じゃないから、何とかうまくやってってよ。それから、アンタ昨日自分のは夫婦喧嘩でも親子喧嘩でもないとか言ってたみたいだけど、もうちょっと具体的に説明できないの? アタシもこの商売長いから色んな知り合いがいるし、何か力になれるかもしれないわよ」

「ありがとうございます。でも……」

「でも何よ?」

「私の状況は、その……、かなり複雑な状況だし、何というか、政子さんや千夏さんみたいな普通の人にはたぶん理解してもらえないと思うんです」

「普通の人ねぇ。じゃあ聞くけど、千夏がどれだけ大変な経験をしてきたのか、アンタは知ってるのかい?」

「えっ? 千夏さんが? 何かあるんですか? 週に二、三日しかお店に来ないのに高いお給料もらって、何に使ってるのか知らないけど。それに頭も良くて司法試験を目指してるんですよね。私に言わせれば千夏さんの方がよっぽどお嬢さんですよ」

「千夏はね、小さい頃にお母さんが病気で亡くなって、お父さんが小さな町工場をやりながら男手一つで育ててくれたんだけど、悪徳地上げ屋の詐欺に引っ掛って工場を取られちゃったんだって。裁判までしたけど結局ダメで、お父さんそれから体調崩してみるみる弱ってあっという間に亡くなってしまったって。それが千夏が高校生の時」

璃子は驚いた。千夏がそんな大変な経験をしてきたとは思ってもみなかった。何といっても顔は上の上ランクの美人だし、話し方や立ち振る舞いも少なくとも客の前では上品だし、どこから見ても社長令嬢が気まぐれでホステスをやっているようにしか見えなかった。

「どうしたの? 驚いた? お父さんが亡くなった後、千夏は自分を責め続けたそうよ。高校生にもなってたのに何一つお父さんの役に立てなかったって。それから暫くは自暴自棄になって学校も中退して荒れた暮らしをしてたんだけど、ある時突然思ったんだって。こんな事しててお父さんが喜ぶはずない。お父さんが喜ぶような生き方をしなきゃダメだって。それで悪いやつらに騙されて困ってる人達を助ける弁護士になるって決めたんだって。いい? 弁護士になりたいとか、なれるように頑張るとかじゃなくて、弁護士になるって自分で決めましたってはっきり言ってたわよ。並みの覚悟じゃ言えないわよ、そんな事。その後アルバイトしながら夜間高校を卒業して、ホステスしながら独学で法律の勉強続けて、やっとあともう少しってところまで来たのよ。今、試験の真っ最中なのよ。何でも司法試験ってのは筆記とか口述とか三回位試験があるらしくて、この前二回目が終わったって言ってた。アンタ千夏のアパートに行った事ないでしょ。ここと同じ位のボロアパートよ。あの子はね、当面の生活費を稼ぐともう店には来ないでずっと図書館に通って勉強してるのよ。ホント凄いわよ、あの子」

人は見かけによらないとはいうが、璃子は本当に驚いた。千夏がそんな覚悟をもって日々を生きているなどとは、あの優雅な外見からは全く想像もできなかった。

「じゃあ、真奈の事はどうなの? 少しは知ってるの?」

「えっ? 真奈ちゃんも何かあるんですか?」

「彼女ね、お婆ちゃんと一緒に暮らしてるんだけど、もうかなりボケてるのよ。真奈は小さい頃に両親が離婚したんだけど、父親にも母親にも引き取ってもらえなくてお婆さんに育てられたのよ。あの婆さんも昔はしっかり者だったんだけどね、今はもう真奈の事もあまり分からないらしい。トイレも一人じゃできないみたいで、かなり大変みたいよ」

これにも驚いた。真奈の普段の軽薄な様子からは悩み事など全くない、稼いだお金は流行りの服と遊びに全部使ってしまうような子だとばかり思っていた。

「あの子、お店が終わるとアッという間に着替えてすぐに帰るでしょ。あれは同じクルマで帰る千夏を待たせないためじゃないのよ。急いでるのはお婆ちゃんが心配な真奈の方。千夏は事情を知ってるから真奈に合わせて早く帰ってあげてるだけなのよ」

政子は驚いた表情の璃子を見据えながら続けた。

「アンタさぁ、さっきアタシ達の事を普通の人って言ってたけど、アンタのいう普通の人ってどういう人? 大した悩みもなくて生活の心配もなくて、ただのほほんと生きてるような人の事? でもね、そんな人たぶんどこにもいないわよ。人はね、皆何かしら問題を抱えてるのよ。全て放り投げて逃げ出したくなる時だってあるのよ。それでも何とか自分の気持ちと折り合いつけて、ギリギリのところで一日一日を生きてるのよ。まあ、皆が皆そういう状況じゃないかもしれないけど、人生長いからね、誰にでも二度や三度はそういう時が来るのよ。アンタも今そうなんじゃないの? ただ、普通の人はそんな事いちいち人に言わないし顔にも出さないの。アンタみたいに世界中の苦労を一人で背負ってますみたいな顔、普通の人はしないのよ。あら嫌だ、そうするとアタシ達はやっぱり普通の人って事になっちゃうわね。ま、いっか。とにかく、大変なのはアンタだけじゃないんだから、自分だけが苦労してますみたいな顔は止めなさい。それから、アタシにしても千夏にしても別にアンタの敵じゃないんだからね。まあ、仲間って事でもないかもしれないけど、同じ所で同じ仕事してんだから、仲良くやっていきましょうよ」

確かに千夏の話も真奈の話も璃子には驚きだった。そういう事を顔にも出さず、グチも言わずに毎日仕事をしている二人は確かに大したものかもしれない。

(でも、千夏さんや真奈ちゃんと私では問題の質が全然違う。私だって、元の世界での苦労なら人並み以上には耐えられる)

まだ不服そうな表情の抜けない璃子を見て政子が続けた。

「アンタさぁ、いったいどんな問題を抱えてるのよ? 手助けができるかどうか分からないけど、一緒に考える事くらいはできるわよ」

「……」

璃子は下を向いたまま考えていた。ここで政子に全てを打ち明ける事ができたらどんなに楽だろう、どんな事にも動じない政子なら璃子がタイムスリップして来たと知ってもこれまで通りに接してくれるかもしれない。相談にも乗ってくれるかもしれない。しかし、もしいつかの警察官のような態度を取られてしまったらと考えると、恐ろしくて本当の事を話す気にはなれなかった。

「ま、無理に話さなくてもいいけどね」

そう言いながら政子は一枚の写真を璃子に差し出した。それは古い写真でステージの中央に立つ一人の美しい少女が写っていた。きらびやかな衣装を着てスポットライトを浴びながら歌っている。少しやせたその可愛らしい少女は目と眉の辺りが政子にとても似ていた。

「あれぇ? この子、もしかして政子さんの娘さんですか? 政子さんにそっくりだけど、すごく可愛いですね」

「何よその言い方! そっくりなのに可愛いってちょっと引っ掛かるわね」

「あっ、いえ、そういう意味じゃないですけど……。やっぱり娘さんなんですよね?」

「まっ、その辺はまた今度、ゆっくり話すわよ。アタシが今アンタに言いたかったのは、アタシだって色々あるって事。それから、くどいようだけど千夏はアンタが思う程意地悪じゃないわよ。確かにきついけどね。アンタが自分で壁を作ってるんじゃないの? これ以上近寄るなって言われてるみたいに感じる事あるわよ、アタシも」

 政子はそれだけ言うと話はこれで終わりという感じでのそりと背を向けてしまった。


 その後、璃子は千夏がどんな態度にでてくるのかビクビクしていたが、特段変わった事はなかった。別に千夏が優しくなったわけではないが、この前の喧嘩を蒸し返す様な事はなかった。これまで同様、普通に意地悪だった。そして璃子の周りでちょっとした変化があった。例の喧嘩の翌日、真奈は出勤するなり璃子に近づいてきて言った。

「リコさん! 昨日はスッキリしましたよ」

最初、璃子は真奈が何の話をしているのか分からなかった。

「千夏さん、リコさんにクソ女って言われて凄い顔してましたよ。千夏さんのあんな顔初めて見ましたよ。あー気持ち良かった! リコさん、私、一生ついていきますから!」

「えっ! 何言ってんのよ? 真奈ちゃんは千夏さんと仲いいんじゃないの?」

「やめてくださいよ。そんな訳ないじゃないですか。ただ、千夏さんを怒らせると後が怖いから大人しくしてるだけですよ」

意外だった。真奈はいつも千夏の言う事はハイハイと聞いていたし、千夏も真奈にちょっとした用事を頼んだりして可愛がってる様に見えたが、どうやらそうでもないらしい。

真奈も話してみれば見かけほどバカではないし、政子から真奈の身の上話を聞いてからは璃子も真奈の事を見直していた。話を聞くと真奈も千夏には色々と不満があるらしい。二人で千夏の悪口で盛り上がっていると、そこに笹原が入ってきた。

「確かに千夏さんは言い方きついけど、別にリコさんにだけきついわけじゃないですよ。私だって怒られる事ありますからね」

「えっ、千夏さんが笹原さんに怒る事なんてあるんですか?」

「そりゃ、ありますよ。お酒間違えたり、お勘定間違えたりした時ですよ。もちろん私が悪いんですけどね。でもそんな言い方しなくてもいいでしょって思っちゃう時もありますよね」

「へぇー、笹原さんでもそうなんですか? こう言っちゃ悪いですけど、何だかちょっと嬉しいですね。だっていつも私ばっかり怒られてると思ってたから」

璃子は本当に嬉しそうな顔を笹原に向けて言った。怒られているのが自分だけではないと分かった事も嬉しかったが、それ以上に、笹原や真奈とこんな話ができる関係になれた事がとても嬉しかった。笹原も何やら嬉しそうな表情で言った。

「私はリコさんが千夏さんと喧嘩した時、この店へ来てからリコさんが初めて本音を言ってくれたような気がして、それが嬉しかったですよ。何だか今までのリコさんはガードが堅いっていうか、絶対に自分の内側を見せようとしなかったじゃないですか。私はそれがずっと気になっていたんですよ。何か私達信用されてないのかな? みたいな気がしてね。だから今日こうやってお互いに本音で話ができたのがとても嬉しいんですよ」

そう言いながら笹原は冷蔵庫からビールを出してきた。

「たまにはいいでしょ。お客さん来るまでちょっと飲みましょうよ。政子さんはさっき出かけちゃったから」

酒が入ると三人ともよく喋った。気を遣わずに飲む酒はとても美味しかった。

「……でも、千夏さんはすぐ怒るけど決して悪い人じゃないですよ。試験の結果がそろそろ出る頃だからきっと気が立ってたんだと思いますよ。大目にみてあげましょうよ」

笹原が年長者らしく千夏をかばっているその横から真奈が全く関係のない話を始めた。

「ところでリコさん、前からききたかったんですけどリコさんの靴、あれどこで売ってるんですか? いくらなんですか? 珍しいデザインですよね!」

いきなり質問されて璃子は少し狼狽えた。真奈が言っているのはタイムスリップした時に璃子が履いていたランニングシューズの事だ。ピンクから黒に変わるグラデーションで紐にはキラキラしたラメが入っている。大して珍しいデザインではなかったがこの時代では全く見ないデザインだった。

「あの靴ってどれの事?」

「何言ってるんですか! リコさん靴なんてあれしか持ってないじゃないですか! ピンクが段々黒になってるやつですよ。あんなの見た事ないんですけど、どこで買ったんですか? 高いんですよね?」

「あっ、あれね! あれは通販よ。ネット通販」

「えっ? ねっと通販? ねっとって何ですか?」

「いえ、その~、ただの通販よ。ググれば直ぐに出てくるから…… あっ!」

しまったと思ったが遅かった。気を許して話しをするとこの時代では通じない言葉や表現が次々と出てしまう。

「えっ? ぐぐる? やっぱリコさん何かヘンですよね。そもそも初めてここに来た時、何でブラジャー一枚だったんですか? あれは水着なんですか?」

「あれはブラジャーじゃないわよ。それに私が言ったのは、ぐぐるじゃなくて、そのぉ、ぐる……、ぐるぐるっていうのよ、あのデザインの事を。ピンクがぐるぐるして黒になるみたいな……」

「でも、ぐぐれば直ぐ出るって言いましたよ。出るって何が出るんですか?」

 今度は横から笹原が口を挟んだ。

 「そうじゃなくて、あっ、真奈ちゃんあの靴あげるわよ。私それ程好きじゃないから」

「えっ、本当ですか? でも一文無しのリコさんから靴をもらうなんて何だか悪いですね」

 と言いながら真奈は満面の笑みを浮かべ全く遠慮する風ではない。「じゃあ、ちょっと足を合わせてみますね」と言い奥の靴箱の方に走っていった。

 「わー。リコさんサイズピッタリです!」

 真奈が食いついてくれたので助かったが、璃子は脇の下から冷たい汗が幾筋も流れて行くのを感じた。

 (ヤバい。真奈や笹原も私の言葉に疑問を持ち始めている。この前政子さんにもどこから来たのと言われてしまったし。もっと注意しないとダメだ)

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