絶望


六月下旬のある日曜日、璃子は木製のベンチに腰掛けてボーッと空を眺めていた。梅雨入りしてからずっとはっきりしない天気が続いていたが、今日は珍しく晴れている。目に入るのは青い空と白い雲、緑に茂ったポプラの若葉が風に揺られて静かな葉音をたてていた。

璃子はいつものように三十分程のジョギングをしてからこの並木道にやって来た。光沢のある赤いレギンスに上はショッキングピンクのタンクトップ。タンクトップといってもスポーツブラの様な物で、お腹の部分は広範囲に露出している。シューズはピンクと黒のグラデーションで、ヒモにはラメが入っている。トライアスロンとかの選手のようでかなり目立つ。これらは昨日、ふらっと入った店で見つけて思わず買ってしまった物だ。聞いた事のないメーカーだったが、三年程前にできたばかりの新しいブランドだと店員が言っていた。派手好みの璃子はこのピンクと赤の色合いが気に入って迷わず買ったのだが、実際に着てみるとしっくりこない。

(やっぱりレギンスが赤だからタンクトップは黒にすれば良かったかな)などと考えていた。

朝の陽射しは既に暖かくて気持ちが良かった。生暖かい南風に吹かれてぼんやりポプラの木立を眺めていると、この街から引っ越す事が到底現実とは思えない。璃子はぼんやりしながら、昨日の貴士との話を思い出していた。

何週間か前にリビングで言い合いをしてから貴士とは全く話をしていなかったが、昨日貴士は夜遅く帰ってくると感情を抑えた事務的な口調で一方的に言った。

「マンション決めて来たから。この家も売りに出す。当面必要な荷物だけまとめて二週間後に引っ越す。間に合わない荷物は後で取りに来ればいい。買い手が決まるまで出入りはできるから」

璃子はあまりの事に驚いて咄嗟には言葉が出なかった。辛うじて「そんなに急に引っ越さなくても……」と言いかけると、貴士の突き放すような言葉が返ってきた。

「もうお前と議論するつもりはない。二週間後に引っ越す。決めた事だ」

そして最後に、誰に言うでもなく、独り言のように呟いた。

「絶対に、これが一番いいんだ」


今、全身に暖かな陽射しを受けてポプラの樹々を眺めていると、昨日の貴士とのやり取りが夢の中の出来事のように思えてきた。この街から引っ越すなど全然実感が湧いてこない。しかし、貴士があそこまではっきり言い切ったからには絶対に引っ越すのだろう。

日曜の朝のこの道は人通りがほとんどない。今日も少し前に新聞配達らしきバイクが通り過ぎていっただけで他には誰もいない。聞こえてくるのは風に揺れるポプラの葉音だけ。正面の家には広い芝生の庭があり、洋風の格子門の脇には沢山のアジサイが見事な花を咲かせている。隣は煙突のあるレンガ造りの家、そしてその向こうには白壁に青い窓枠の家や建物全体が緑の蔦に覆われた洋館等が見える。璃子はここの街並みが大好きだった。最近は引っ越しの件での父とのいさかいや会社でのわずらわしい出来事が色々あるけれど、週末の朝ここで過ごす一時だけはリラックスできた。

(どうしよう、この近くにワンルームマンションでも借りて私だけここに残ろうかな)

璃子はかなりいい給料をもらっていたし、ずっと実家暮らしだったので貯金は十分にあった。その気になればすぐにでも一人暮らしを始められる。しかし璃子だけここに残っても大好きなあの家に住めないならあまり意味はない。それどころか、ここであの家に知らない人達が住むのを見るのは何より辛いだろう。

璃子は考えがまとまらないまま、そろそろ帰ろうかと思い何気なく右の方に目を移すと並木道の端に人影が見えた。こちらに歩いて来てきいるようだ。この辺りの住人だろうか、などと思いながら璃子は何となくその人影を眺めていた。近づくにつれて輪郭が見えてきた。男だ。キャップを深くかぶり、サングラスをしている。見るからに怪しい。むこうも璃子に気付いているようだ。こちらを見ているように見える。貴士や可代子が最近また不審者がでると言っていた事を思い出した。璃子は不安になって立ち上がり男とは反対方向に急ぎ足で歩き出した。すると男も小走りになり、遠くから声をかけてきた。

「すみません! ちょっと……」

振り返ってみると男は璃子から二十メートル程の所まで来ていた。サングラスをしているので男の顔や表情は見えない。璃子は走った。走り出した璃子を見て男も走り始めた。そして、走りながら今度は大声で叫んだ。

「待てっ!」

璃子は何が何だか分からないまま男に背を向けて全力で逃げた。

(一体何なの!)

頭の隅を後悔が過った。

(やはりこの道には不審者がでるのか、こんな所に来なければよかった)

しかし、それも一瞬の事で何かを考えるような余裕はなかった。とにかく必死で走った。しかし男は絶望的な速さでぐんぐん近づいて来る。もうダメだと思った時、「待つんだっ!」という大声がすぐ後ろで聞こえたかと思うと璃子の肩に男の手が掛かった。

「ぎゃーーーっ!」

(あの夢と同じだ!)と思ったのが最後の記憶だった。



頬にあたる冷たくゴツゴツとした感触で璃子は目を覚ました。地面に顔を押し付けた形で路上に倒れていた。徐々に焦点が合ってくると視界の正面に横倒しになった大きな木の根元が見えた。ポプラの木だ。直ぐに横に倒れているのは木ではなくて自分の方だと気付いた。立ち上がろうとすると頭がガンガンと痛んだ。どうやら気を失っていたらしい。何とか上体を起こしたが左の側頭部が割れるように痛い。触ると指先にベトッとした血がついた。かなり出血したようだが今はもう止まっているようだ。(一体どうして……)と思った瞬間、気を失う前の状況を思い出した。璃子は頭の痛みも忘れて素早く周囲を見渡した。誰もいない。静かだ。不審者はどこかに行ってしまったらしい。助かった、と思った途端にまた頭がガンガン痛み出した。

(ったく、あの不審者は一体何なのよ!)

璃子は足に力を入て何とか立ち上がり、一番近くにあるベンチに向かって歩きだした。

(あれぇ?)

璃子は何か違和感を感じた。何かが違う気がする。なんだろう。璃子は立ち止まってもう一度周囲を見渡した。そこは気を失う前にいたポプラの並木で特に変わった様子はなかった。そして空を見上げた時に気が付いた。

(そうだっ! 天気だ。天気が違うんだ!)

さっきまでは気持ちのいい晴天で陽射しがまぶしい程だったのに、今はどんよりとした灰色の雲が一面に垂れ込めている。

(一体どれ位の間気を失っていたんだろう)

しかし、どう見てもまだ昼にはなっていないはずだ。人通りも全くないし、とても静かでいつも通りの日曜日の朝の感じだった。若しかしたら一時間位気を失っていたのだろうか。そうするとそろそろ八時位になるのだろうか。それにしても一時間やそこらであんな晴天がここまで曇りになるものだろうか。璃子はそんな事を考えていた。

(まあいいや、とにかく少し休んでから帰ろう)

璃子は痛む側頭部を押さえるようにしてベンチに腰をおろした瞬間、「えっ!」と声を出して立ち上がった。そして振り返って今自分が座ったベンチをまじまじと見下ろした。それは木目の綺麗な真新しいベンチだった。璃子はこのところ毎週ここに来ているが、ベンチは全て古い木製で茶色のペンキが所々はげていた。中には木が腐って壊れているベンチもあった。新品のベンチなど見た事がなかった。

(何かが変だ。あっ、そうか、若しかしたらこのベンチがボロボロになったから新しくしたのかな?)

得体の知れない不安がどんどん大きくなるのを感じながら、璃子は十数メートル先にある隣のベンチまで走った。やはり真新しいベンチだった。(何なの、これ!)璃子は更にもう一つ先にあるベンチを見た。不審者に追いかけられる前に座っていたベンチだ。璃子はそのベンチを見つめたまま走り始めて、すぐに立ち止まった。そのベンチが新品である事が遠目にもはっきりと分かったからだ。

(さっきは特に注意してなかったけど、こんな新品じゃなかったはずよ)

「何よこれ!」

璃子はヒステリックな声を出した。何かとんでもない事が起こっているような悪い胸騒ぎがした。璃子は恐る恐る周囲の家並みに目を移した。目の前にある広い芝生の庭の家も何か雰囲気が違っている。同じようにアジサイが咲いてはいるが、花の数がさっきより少ないような気がする。そして全体的に庭が綺麗になったような気がする。まるで庭師が手入れしたばかりのように。母屋に目をやった時、さっきから感じていた違和感の理由が分かった。家が、新しい。よく見ると新築したばかりのようだ。その隣のレンガ造りの家も新しい。新しいのはベンチだけではなかった。周りの全てが気を失う前とは変わってしまっているような気がした。心臓の鼓動がどんどん激しくなった。その時、目の前の家の格子門に新聞が挟んであるのが見えた。今朝配達された新聞だろう。璃子は駆け寄るとまず紙面の上端の日付を見た。

一九九一年六月三十日。

その瞬間、呼吸と思考が同時に停止した。意味が、よく分からない。

(一九九一年六月三十日?)

さっきまで感じていた漠然とした不安が恐怖に変わった。璃子は隣の家へ走り新聞を探した。無い。次の家にも無い。三軒目でようやく郵便受けに新聞を見つけて日付を見た。

一九九一年六月三十日。

「何なのよ、 これはっ!」

璃子は大声で叫びながら新聞を郵便受に叩きつけた。そして改めて周囲を見渡した時、目の前に太い木組みの柱と真っ白い漆喰の壁の洋風の家があった。見覚えのない家だった。璃子は一瞬(こんな家見た事ない)と思ったが、直ぐにその意味を悟った。それは、ついさっきまでは家のほとんどが蔦に覆われていた家だった。璃子は不審者に追いかけられる前にベンチに腰掛けて、その建物を眺めていた。しかし、今目の前にある家には蔦など少しも生えていない。璃子は自分自身に言い聞かせた。

(落ち着くのよ。とにかく落ち着いて。これは絶対に何かの間違い、勘違いに決まってる。若しかしたら、転倒して頭を強打したショックで記憶が錯乱しているのかもしれない)

璃子は必死で考えようとしたが、気持ちばかりが空回りして何を考えればいいのかも分からない。璃子はその場にうずくまり、動けなくなってしまった。

どの位時間が経ったのだろう。璃子はベンチの背もたれに顔を埋め、目をつむったままじっとしていた。頭の芯がジーンとしびれたような感じで考える事ができない。

(私は……、たぶん……、夢……)

(そ、そうだ。これは夢だ。悪い夢だ。それしか考えられない)

(きっと、次に目を開けた瞬間に夢から覚める。そしていつかみたいに身体中汗びっしょりで、あー夢でよかったって思うんだ。きっとそうだ。きっと……)

璃子は、思考力のほとんど無くなった頭で必死に考え、これが夢であると自分に言い聞かせた。そして、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開け、蔦だらけの家を探した。しかし、目に映ったのは真っ白い漆喰の壁の大きな家だった。蔦など全く生えていない見慣れない家だった。

(なんで……。夢じゃないの……)

璃子はしばらくの間放心したように宙を見つめていたが、唐突に立ち上がった。

(そうだ! とにかく家に帰ろう)

(このポプラの並木は何かおかしい)

一体今が何年なのか、自分の頭がおかしくなったのか、それとも周りの世界がおかしくなったのか、もうそんな事はどうでもいい。とにかく家に帰りさえすれば必ずそこには我が家があり、貴士と美智子がいるはずだ。そして貴士と美智子に会えれば、必ず何とかしてくれる。必ず私を守ってくれる。いつだってそうだった。璃子の貴士と美智子に対する信頼は揺るぎないものがあった。ここ一ヶ月程は、引っ越しの事で貴士と言い争いもしたが、この三人家族の絆はその程度の事でどうにかなるような弱いものではなかった。璃子は身体の中から力が湧いてくるのを感じた。

(そうだ。とにかく家に帰ろう。そうすれば何とかなる。必ず、必ず、お父さんとお母さんが何とかしてくれる)

璃子はもうろうとする頭で、「家に帰りさえすれば何とかなる」と呪文の様に繰り返した。そして取り憑かれたように走り出した。並木道を外れて細い道に入り、自宅へ向った。途中道端に郵便ポストが見えた。外形は見慣れた四角い形だが朱色がかったような色で、なんとなく古臭い感じがした。璃子はあまり深く考えないようにして先を急いだ。

そして角を曲がって少し広い道路に出た時、二人組の男と出くわしてぶつかりそうになった。二人とも酔っているようでかなり酒くさい。おおかた昨日の夜から一晩中飲んで、今から帰宅するのだろう。璃子は彼らの服装を見てふと我に返った。

二人ともダブルのスーツを着ているが、サイズが大き過ぎてだぼだぼ。ズボンも長過ぎて足元でだぼついている。まるで七五三の子供のようだ。スーツの色は一人が薄い緑色、もう一人は紫色。まるで年寄り向けの演芸番組に出てくる漫才師のステージ衣装の様だった。そして髪型は二人そろって肩までの長髪。璃子は気味の悪い生き物でも見るように二人組の後姿を見つめた。前にどこかで見た事があるようなファッションだった。

(確か……、 テレビで見たような気がする。 二、三十年前の……。バブル景気の頃だったかな? トレンディードラマとかいったっけ)

そう思った途端にまた不安と恐怖がどんどん大きくなってきた。璃子はそれ以上何も考えないようにして家へと急いだ。



璃子は走って家へ向った。恐ろしい考えが頭に浮かんでくる前に、我が家に着いて早く安心したかった。次の角を曲がったら家が見える。家に着けば貴士と美智子がいてきっと何とかしてくれるはずだ。今の璃子には細かい事を考える余裕はなかった。ただ家に帰れば全てが解決するのだというこの素晴らしいアイデアにしがみついていた。璃子はためらわずに角を曲がった。そして二十メートル程先にある我が家を見つけた途端、璃子の微かな望みは打ち砕かれ、再び思考が停止してしまった。璃子の目に映ったのは白い壁のお洒落な家ではなく、とても古い木造の平屋建て、璃子もはっきりと憶えている小学校六年生まで住んでいた家だった。璃子は何も考えられないまま無意識に少しずつ家に近づいていった。訳が分からない。今起きている事の意味も分からないし、考える事も出来ない。頭が真っ白になるとはこういう事かともう一人の自分が第三者的に感じていた。 璃子は家に近づくと電柱の陰から様子をうかがった。所どころ壊れた垣根や父が自分で修理した窓など、全て璃子の記憶にある建て替える前の家そのものだった。

璃子は無意識のうちに一歩二歩と近づき茫然と家を見つめた。その時ガラガラと玄関の引き戸が開き、中から人が出て来た。母だ。若い。そして後ろから小さな子供も出て来た。二歳位だろうか、よちよち歩きの小さな女の子。璃子は息が止まった。それは紛れもなく自分だった。めまいがした。唇がビリビリと痺れて視界が狭くなり、気を失いそうになった。不思議な感覚だった。以前、父が撮影した小さい頃のビデオを見た事があったが、その時の映像を生で見ているような気分だった。呆気にとられ二人を凝視する璃子に美智子が気付いた。璃子は助けを求めるような眼差しでじっと美智子を見つめた。「お母さん」と呼びかけたつもりだったが声にはならなかった。美智子はほんの数秒間、何かを思い出そうとする様な表情で璃子を見返していたが、急に我に返ったように目をそらし曖昧に会釈する様な動作をした。そして小さな璃子をかばう様にして家の中に入ってしまった。それきり誰も出てこなかった。璃子はその後いつまでも家の前から離れる事が出来なかった。


日曜日の公園は家族連れや子供達で賑わっていた。ついさっきまでどんよりと曇っていた空もようやく雲が切れ始め、所どころに初夏の爽やかな陽射しが差し込んでいた。

しかし、今の璃子はそんな天気の変化など感じるどころではなかった。家の前で若い母と二歳位の自分自身を見た後、どこをどう歩いてこの公園まで来たのか全く憶えていない。気が付くとここのベンチに座ってぼんやりと人々を眺めていた。ここは小さい頃からよく遊んだ公園で昔とほとんど変わっていない。テニスコートなら四面程だろうか、広くはないがクヌギやコナラといった広葉樹が何本もあり、中央部は芝生の広場になっている。

璃子はベンチに座り、自問自答を繰り返していた。どうやら今が一九九一年である事は間違いなさそうだ。新聞の日付が一九九一年だった。どこの新聞社かまでは見なかったが、二つ見て二つとも一九九一年六月三十日だった。そして何よりついさっきこの目で見た若い母と二歳位の自分、あれはどう見ても三十年前の母と自分だった。という事は、私が二〇二一年の世界から一九九一年の世界にタイムスリップして来たという事なのか? そんな事が本当にあり得るのだろうか。 それともタイムスリップなんかじゃなく、さっき転んで頭を打ったせいで、頭がおかしくなったのだろうか。二〇二一年の記憶は狂った頭が作り出した有りもしない幻覚なのだろうか。

しかし二〇二一年の記憶は詳細かつ鮮明であり、とても幻覚や妄想とは思えない。それに記憶にあるのは二〇二一年だけではない。さっき見た二歳の自分がこれから小学校、中学校、高校、大学とどういう経験をしていくのか、どこの学校へ行き、どういう友達ができるのか、詳細で鮮明な記憶、想い出が沢山ある。これらの全てが幻覚であるはずがない。絶対にない。璃子はふと今自分が着ているタンクトップとレギンスに気が付いた。これを買ったのはつい昨日の事だ。

(そうだっ! 確かできて二、三年のブランドだと言ってたっけ!)

璃子は履いているレギンスをずり下げて内側にあるタグを見た。思った通り、そこにはブランドのロゴに続いてSINCE2018の文字がはっきりと印刷されていた。それはこのブランドが二〇一八年に立ち上がった事を示すものだった。

(私の頭はおかしくなんてなってない。私は正常だ!)

頭が狂ってなかった事は喜ぶべきかもしれないが、たった一人で三十年前の世界に放り出されるくらいなら、狂ってしまった方がましだったかもしれない。

気がつくと周りはもうかなり暗くなってきた。昼間は多くの人がいた公園もいつの間にか数える程しか人がいない。園内に何本か設置されている常夜灯が瞬きながら点灯した。最後までキャッチボールをしていた小学生達もそろそろ帰るようだ。

璃子には困った時に助けてくれる友人は何人もいる。親友の可代子はもちろんだが、可代子以外にも頼めばしばらくの間部屋に泊めてくれそうな友人が五、六人はいる。しかし、それはあくまで二〇二一年の世界での事だ。今、この一九九一の世界では、友人どころか璃子の事を知っている人など一人もいない。璃子は途方に暮れてしまった。

(もう今日はここで朝を待つしかないか……)

夜になると一気に気温が下がり、風も強くなってきた。おまけにパラパラと雨まで降ってきた。レギンスとタンクトップ一枚だけの璃子にはかなりの寒さだった。せめてTシャツでも着てくれば良かったと心の底から思った。

璃子はたまらず近くのコンビニへ行き大きめのダンボールを三つ程もらってきた。もらってきたといっても黙って持って来ただけだ。駅前商店街にいるホームレスが冬になるといつもダンボールにくるまっているのを思い出したからだ。

璃子は公園に戻ると雨に濡れないように大きく枝の張り出した木の下のベンチを選び、早速ダンボールを試してみた。一番大きな一枚を敷布団のようにベンチの上へ敷き、残りの二枚をそれぞれ胴体と腰の部分に巻き付けてみた。筒状に丸めたダンボールから頭と足先だけを外に出した、みの虫のような格好だ。雨や風が直接当たらないのは助かるが決して暖かくはない。璃子はダンボールの中で身体をくの字に曲げて、ガタガタ震えながら早く朝が来る事だけを願った。涙が出てきた。

(いったい私は何をしてるんだろう。こんな所で。ダンボールにくるまって)

涙が止まらない。

(いったい私がどんな悪い事をしたというのだろう)

これまで何不自由なく暮らしてきた璃子にとっては、公園でダンボールにくるまって夜を明かすなど想像もできない事だった。芝生広場の中央に設置してある大きな時計は午後八時を指していた。夜が更けるにつれ風も強くなり、雨の混ざった冷たい風が容赦なく吹き付けてきた。死にそうな程寒い。

もう今が一九九一年だろうが二〇二一年だろうがどうでもいい。とにかく今は早く朝になって欲しい、それだけを願っていた。しかし丸いだけで飾り気のない時計はまるで悪意でもあるのかと思われる程に進みが遅い。段ボールの中でガタガタ震えながらもう三十分位は経ったかと思って時計を見るとまだ十分しか経っていなかった。そんな事を何度も何度も、何度も繰り返した。この時期の日の出は朝五時頃だろうか。この寒さをあと七時間も八時間も耐えなければならないと考えると気が遠くなりそうだった。夜は、このまま永遠に続くのではないかと思われる程長く続いた。



翌朝、首の痛みで目が覚めた。

起き上がろうとすると、首だけではなく、腰や背中にもひどい痛みがあったし、少し身体を動かすだけで腕や腹筋など全身のあらゆる所が痛む。寒さに耐えるため一晩中全身に力を入れてガタガタ震えていたせいかもしれない。昨夜は寒くて到底眠れそうもなかったが、いつの間にか眠ってしまったようだ。すでに陽は高く昇り、風は暖かくなっていた。

(助かった。生きてる。このまま凍死するのかと思った)

公園の外から登校する小学生らしい元気な話し声が聞こえてきた。時計を見ると八時を過ぎていた。さっき目が覚めた時、ほんの一瞬(あっ、やっと目が覚めた。やっぱり夢だったんだ)と思ったが、直ぐにダンボールにくるまってベンチで寝ている自分に気付き、状況が何も好転していない事を悟った。璃子は全身の痛みに耐えながらぎこちない動きで立ち上がり水飲み場で顔を洗った。しばらくすると少しずつ痛みにも慣れ、何とか動けるようになってきた。璃子はかなり長い間ベンチに座ったまま目を閉じて動かなかった。やがてゆっくりと目を開けて立ち上がり、大きく息を吸った。そして自らを奮い立たせるように「よしっ!」と声を出し、公園を出て行った。


「だから、さっきから何度も言ってるでしょ! 」

璃子のヒステリックな怒鳴り声が広いフロア全体に響き、何人かがその声に驚いて振り返った。

「昨日はどこにも行く所がなくて公園で寝たんです! 今日も行く所がないんです。だから助けて欲しいんです! 困ってる人を助けるのが警察じゃないの?」

「総合案内」と書かれた窓口の婦人警官は興奮して怒鳴る璃子にも全く怯まない。アイロンの効いた制服を着て背筋をぴんと伸ばし、まるで顔にもアイロンをかけたのかと思う程無表情な顔で言った。

「ですから、どのような被害にあわれたのか、もう少し具体的に説明してください。内容によってお取り次ぎする部署も変わってきますので。被害届けを出したいという事でいいんですよね?」

「だから被害届けとかそういう事じゃなくて……。困ってる人を助けるのが警察なんじゃないの? 私は帰る家がなくて困ってるってさっきから言ってるでしょ!」

婦人警官は表情こそ変えないが、明らかに怒気を含んだ声で言い返した。

「ですから先程から何度もお話してるように生活の支援ですとか生活保護のご相談でしたら警察ではなく市役所に行ってください」

言葉こそ丁寧だかその敵意剥き出しの目は「このバカ女、月曜の朝からブラジャー一枚で警察に来て一体何を言ってるんだ!」といっていた。

暫く無言の睨み合いが続いたが、やがて二人のやり取りを少し離れた所で聞いていた若い男が近づいてきた。制服ではない。くたびれたダブルのスーツを着ているが警察官らしい。璃子に向かってニッコリ微笑んで声をかけてきた。

「私がお話を伺います。生活安全課の溝端と申します。さ、こちらへどうぞ」

溝端と名乗った男は、何か言おうとした婦人警官を手で制して璃子を促した。

璃子は無言で婦人警官を睨みつけてから溝端の後について行った。

案内されたのは会議室のような小さな部屋。ドアには応接室というプレートがあったがソファーなどはなく、薄っぺらな細長いテーブルにパイプ椅子が数個あるだけの殺風景な部屋だった。まるで刑事ドラマに出てくる取調室のようだ。部屋に入ると溝端はまず、受付の婦人警官の対応を詫びた。

「先程はすみませんでした。彼女はまだ受付業務に慣れていないものですから」

言いながら溝端は白い歯を見せて笑った。この溝端という男、よく見るとなかなかのイケメンだ。歳も若い。璃子と同年代位だろうか。璃子は初対面で男に会うと、その男が恋愛対象となり得るか否かを瞬時に判断する、というか感じ取るのだが、その習性はこんな時でも変わらなかった。そして溝端は合格だった。警察に来た事を後悔し始めていたが、溝端を見て少し希望が出てきた。

(この人なら力になってくれるかもしれない)

璃子はややうつむき加減で自分が一番綺麗に見えるはずの角度を作り、溝端の言葉を待った。

「ではまず、お名前から聞かせていただけますか?」

「えっ、あっ、名前ですか? あのー。ハ、ハヤシバラ、リコといいます」

璃子はいきなり名前をきかれて狼狽し、とっさに嘘をついてしまった。

名前をきかれた瞬間に昨日家の前で見た二歳児の自分の姿が頭をよぎった。里見璃子という名前はどちらかといえば珍しい方だろう。ここで本名を言ったら警察は直ぐに照会して二歳児の里見璃子にたどり着いてしまうに違いない。それは困ると思った。なぜ困るのかは自分でもよくは分からないが、本当の事など言えるわけがないと思っていた。

溝端は璃子の動揺に気付いた風でもなく、質問を続けた。

「ハヤシバラ リコさんですね。リコはどういう字ですか?」

「瑠璃色のリに子です」

「素敵な名前ですね。では次に住所をお願いします」

「えっ! じゅ、住所も言うんですかっ!」

璃子は驚いて大きな声を出した。動揺して顔が赤くなるのが自分でも分かった。璃子は貴士よりもはるかに嘘が下手だった。璃子の狼狽ぶりを見て今度は溝端の方が驚いた。

「住所ですよ。現住所。お住まいの場所です。この辺に住んでらっしゃるんですよね?」

溝端は璃子が何か勘違いをしたのだと思い、住所の意味を説明した。

「はい。あー、あのー、住所ですか。それが……、その……、よく思い出せないんです」

璃子は目を泳がせながらまた嘘をついた。しかし、今度はさすがに溝端も疑問を持った。溝端はメモをとる手を止めて、璃子を真っ直ぐに見据え、大きく息を吐いてから言った。

「林原さん、住所が思い出せないってどういう事ですか? 記憶喪失にでもなったと言うんですか?」

溝端も警察官なので職務質問等は嫌という程してきた。少し話せば相手が嘘をついているかどうかくらい直ぐに分かる。

「いいですか、林原さん、本当の事を言ってくれないと助けようがないんですよ。あなたは今、凄く困ってるんですよね。私はその事に嘘はないと思っています。ですから何とかしてあなたを助けたいんです。でも、あなたがどこの誰なのか、どういう理由で帰る家も無くなってしまったのか、その辺をきちんと説明してもらわないと助けようがないんですよ。警察は秘密は守りますよ。あなたが秘密にして欲しい事は決して他へは漏らしませんから、本当の事を話してもらえませんか」

「……」

璃子は下を向いたまま返事もしない。

溝端は、まず璃子を落ち着かせるために話しやすい事から話させようと思った。

「それじゃ、少し話を変えましょう。昨夜の状況を説明してもらえますか? 公園で野宿したんですよね。その時の事を聞かせてもらえますか?」

璃子は最初面倒臭そうに話していたが、溝端が色々と質問するので、それに答えて話しているうちに段々と感情が高ぶってきた。そしていつの間にか、この時期は深夜になるとどれだけ寒くなるのか、硬いベンチの上で一晩過ごすとどれだけ身体が痛くなるのか等を身振り手振りを交えて夢中で話していた。溝端は「そうなんですか」とか「そりぁ大変だ」などと時折相槌を打ちながら話を聞き続けた。そして璃子は夢中で話しながら、いつの間にか少しだけ気が楽になっている自分に気が付いていた。

溝端は最初に璃子を見た時、恐らく父親に叱られたか旦那と喧嘩したかで家を飛び出してきたんだろう位に考えていた。適当に話を聞いた後、誰か家の人に迎えに来てもらうつもりだった。しかし真っ直ぐに自分を見つめ、大きな目に涙を溜めて必死で話す璃子を見ているうちに、この人はもっと大きな問題を抱えているのではないかという気がしてきた。若しかしたら親子喧嘩などというレベルではなく、家庭内暴力を受けているかもしれない。溝端は何とかしてこの綺麗な女性を助けてあげたいと思い始めていた。

 「林原さん、じゃーそろそろ本題に入りましょうか。なぜ家に帰れなくなったのか、その理由を教えてもらえますか?」

 「……」

 話が肝心な所になると璃子は黙ってしまう。ふて腐れたように横を向いてしまった。その時、溝端は璃子の横顔を見て髪に黒い粉のようなものがこびり付いている事に初めて気付いた。

 「林原さん、ちょっといいですか」

溝端は手を伸ばして黒い粉を指に取って確かめるといきなり大きな声で言った。

 「林原さん、これ、血じゃないですかっ。乾いて固まった血だ! あなた怪我をしてる。なぜ早く言わないんですか!」

 「ああ、それですか、昨日転んでぶつけたんです。もう血も止まってるから大丈夫です」

 璃子は大した事じゃないという言い方をしたが血が付いていたのは左の側頭部、向かい合った相手に右手で殴られると丁度当たりそうな位置だった。溝端はこの傷を見て璃子が家庭内暴力の被害者だと確信した。それなら璃子が住所を言いたがらない事も理解できる。溝端は立ち上がってテーブル越しに璃子の肩に手をかけ、揺さぶる様にしながら言った。

「林原さん、この傷は殴られたんじゃないんですか? 本当の事をいってください。今、家庭内暴力というのは社会問題になっているんです。こういう事はきちんと対処しないと繰り返されますよ。誰にやられたんですか?」

溝端の推測は的外れだったが、本気で心配してくれている事だけは伝わってきた。それは今の璃子にとってはとても嬉しかった。

「本当に殴られたとかじゃないんです」

 「じゃあなぜ住所が言えないんですか? 加害者が家族だから警察沙汰にする踏ん切りがつかないんじゃないですか? でもこういう事は第三者を交えてちゃんと話し合った方がいい。警察は民事不介入という決まりがあって傷害事件にでもならないと中々立ち入れないんだけど、そういう問題に詳しい弁護士もいますから。何なら私が紹介してもいい。私が必ず力になりますから」

璃子は小さい頃、迷子になってお巡りさんに助けられた事がある。泣きながら母を探して歩き回っている時、その警察官は「もう大丈夫だよ。お巡りさんがすぐにお母さんを見つけてあげるからね」と言ってその言葉通り、直ぐに美智子を見つけてくれた。そのお巡りさんはとても優しくて頼もしかった。あの時のお巡りさんの姿が溝端に重なっていた。

(この人ならきっと力になってくれる、この人に本当の事を話してみようかな)

「あのー、今言った事、本当ですか?」

「えっ? 今言った事?」

「必ず力になってくれるって、本当ですか?」

「ああ、もちろんですよ。だから心配しないで本当の事を話してください」

璃子は探るような目つきで溝端を見つめながら言った。

「じゃあ、話します。あの、これら話す事はちょっと信じられないような事なんですけど、でも本当の事ですから、ちゃんと聞いてくださいね」

「分かりました」と言いながら、溝端は姿勢を正すようにパイプ椅子に座り直した。

璃子は大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと話し始めた。

 いつものようにジョギングをした後、ポプラの並木で休んでいる時にいきなり不審者が追いかけて来た事。走って逃げたが追いつかれて捕まりそうになった時に転倒して気を失った事。そして頭の怪我はその時にできた事等を話した。

 溝端は眉間にしわを寄せ、真剣な表情で璃子の話を聞いていた。

 「気が付いた時には不審者はもういなかったんですよね? そこまでは分かりました。それで、どうして家に帰れなくなったんですか?」

 璃子はそこでまた黙り込んでしまった。溝端は辛抱強く璃子が話し始めるのを待った。

 どれ位時間がたっただろう。璃子は顔を上げ、大きく息を吐いてから、感情を抑えた抑揚のない声で再び話し始めた。

 「家には帰ったんです。でも中には入れなかった」

「どうしてですか?」

「家には母がいるはずでしたが、そこには違う人がいたんです」

「どういう事? 誰かが家に侵入してたという事ですか?」

「そうじゃないんです。母は居たんですが、私の知ってる母ではなかったというか……」

「はぁ? もう少し分かりやすく話してもらえませんか?」

「私の母は五十九歳なんですが、家にいた母は凄く若くて……。多分三十歳位で……、でも間違いなく私の母で……」

「ちょっと、林原さん、何を言ってるんですか?」

璃子はずっとうつむき加減でテーブルの一点を凝視しながら話していたが、突然顔を上げると今度は叫ぶようにして言った。

「私は……、私は一九八九年生まれの三十二歳なんです。私は二〇二一年の世界に住んでいたんです。それが、ポプラの並木で変な人に追いかけられて、転んで気を失って、気が付いたらこの世界にいたんです」

溝端の表情が一変し、「一体この女は何を言ってるんだ」という顔になっていたが、璃子は構わずに続けた。

 「本当の事なんです。私は二〇二一年から来た事を証明できます」

そうは言ったがどうやって証明すればいいのか分からない。でも事実なんだから必ず証明できるはずだ。スマホでも見せられればいいのだろうが持ってない。財布も現金も持っていなかった。ほんの二、三十分家の近くを走るだけなのでジョギングの時はいつも手ぶらだった。

璃子は何か一九九一年頃の重要な出来事を思い出そうとしたが、この時代について知っている事といえばバブル景気という事とトレンディードラマが流行っていたという事位だった。落ち着いて考えれば何か思い当りそうなものだが焦れば焦るほど何も浮かんで来ない。

(ああ、こんなのスマホで調べればすぐなのに)

璃子はスマホを持って来なかった事を後悔したが、仮に璃子がスマホを持って来たとしても電話会社がまだサービスを始めてないのだからネット検索ができる訳ではないし、ストリートビューが見られる訳でもない。多分使えるのはカメラ機能位のものだろう。それでもこの時代の人達を驚かすには十分かもしれないが。

しばらく考えていた璃子は唐突に叫んだ。

 「そうだ! 総理大臣! 総理大臣なら大体分かります。この時代は小泉さんでしたっけ? あれ、橋本さん? 今の総理大臣は誰ですか? 私、この後誰が総理大臣になるのか分かります。確か、橋本さん、小渕さん、小泉さん、それから……」

 溝端は璃子の言葉を遮って静かに言った。

「今の総理大臣は海部さんですよ」

「えっ? カイフ? そんな人いましたっけ? で、でも、これからはさっき言った橋本さんや小泉さんが総理大臣になるはずです」

今璃子が将来の総理大臣の名前を挙げたところでそれが事実なのかどうかはこの時代の人には分からないし、璃子が未来から来た事の証明になど全くなっていない。しかし、興奮した璃子にはその事が分からない。何かに取り憑かれたように橋本だの小泉だのと繰り返す璃子の姿は異様で無気味だった。

「ほらっ! これから誰が総理大臣になるか分かるって事は未来から来たって証拠でしょ! どうよっ!」

溝端は呆気にとられて、口を半開きにしたまま璃子を見ていたが、無意識のうちに上体が少しのけ反っていた。璃子はそんな溝端の変化を敏感に感じ取り、またヒステリックに叫んだ。

「本当の事なのよっ! 信じてよっ! もうどうすればいいのか分かんないのよっ!」

璃子の目から涙がポロポロとこぼれた。璃子はとうとう耐え切れなくなり「お願いです! 助けてください」と言うなり、両手で溝端の手を掴んだ。

溝端は反射的に掴まれた両手を振り払い、飛び退くようにして立ち上がった。パイプ椅子が後ろに倒れて大きな音をたてた。

 「し、失礼しました!」

溝端は直ぐに表情を取り繕ったが、かなり取り乱している。右手を璃子の方にかざし、押し留めるようにして「大丈夫。大丈夫ですから、落ち着いてください」と言ったが、それは自分自身に言い聞かせているように見えた。

 溝端は何度も大丈夫と繰り返しながら後ずさりすると、直ぐに戻るからと言い残して部屋を出て行ってしまった。

 璃子は溝端のあまりの変わり様に驚いて言葉も出ない。あんなに優しかった溝端が未来から来たという話をした途端にまるで化け物か妖怪でも見るような目で自分を見た。あんな顔で、あんな目で人から見られた事は生まれてこの方一度もない。何ともいえない、恐怖と嫌悪と哀れみの入り混じった悲しい目だった。

溝端は自分の事を精神異常者だと思ったのだろう。確かに月曜日の朝にこんな格好で警察署に現れて未来から来たなどとわめき散らす女は気が狂ってると思われても仕方ないかもしれない。しかし、あんな目で見られる事は璃子には耐えられなかった。

 (本当の事なんか言うんじゃなかった)

やっと見つけた希望の糸はあっけなくプツリと切れた。

 璃子は溝端が出て行ったドアを少し開けて、様子をうかがった。奥の事務所の方から「係長! 係長!」と慌てた様子で上司を呼ぶ溝端の声が聞こえてきた。

璃子は音を立てないように廊下に出ると事務所とは反対側にある非常口と書かれたドアに向かって走って行った。


警察から逃げ出した後、またあの公園に戻って来た。月曜日の日中なのであまり人はいない。昨日と同じベンチにたどり着くと倒れ込むようにして腰を下ろした。後ろの草むらには今朝璃子が放り投げたダンボールがそのまま放置されていた。

ベンチに座ると一気に疲労と全身の筋肉痛が甦ってきた。

警察で溝端と話している時は気を張っていたせいかあまり痛みは感じなかったが、今こうしてベンチに腰を下ろすと全身が痛くて重い。璃子はボーッとした頭でこれからどうすればいいのか考えた。とにかく野宿だけは二度としたくない。あの寒さと絶望的な夜の長さは思い出しただけでも気が遠くなる。こんなにクタクタに疲れた状態でまた野宿などしたら本当に死んでしまうかもしれない。

考えは全くまとまらないのに時間だけはどんどん過ぎて行く。もう陽が傾きかけてきた。

ふと気付くと少し離れた所に杖をついた老婆が立ち、正面から璃子を凝視している。

璃子が「何か用ですか?」という顔で見返すと老婆は表情を変えずに回れ右をしてヨボヨボと帰って行った。ボケているのだろうか。

 (何よ、あの婆さん!)

首を傾げながらベンチに座り直すと今度は数人の小学生が集まって璃子の方をチラチラ遠巻きに見ながら何やら話している。中にはニヤニヤしている子もいる。小学三年生か四年生位だろう。また一人が璃子を見ていやらしい笑みを浮かべている。璃子はてっきりレギンスにヘソ丸出しのタンクトップという自分の格好を見て騒いでいるんだと思った。

(このませガキがっ! ジロジロ見てんじゃねーよ!)

璃子は心の中で悪態をつきながら小学生達を睨み返した。

 (……、あれっ?)

小学生の中にどこかで見たような顔があった。

「あっ!」

璃子はハッとした。小学生の一人は昨日ここでキャッチボールをしていた子だ。きっと璃子が昨日からこの公園にいる事に気付いたに違いない。考えてみれば真っ赤なレギンスにピンクのタンクトップという璃子の格好はかなり目立つ。この格好で二日も同じ公園にいたら人目につくに決まっている。「あの女の人昨日もいたぜ。昨日と同じ服だよ」などと話しているのだろうか。

それに、璃子は陸上選手のような格好をしてるのにダッシュもストレッチもせず、ただ難しい顔をしてじっとベンチに座っているだけだ。周りの人から見れば璃子はかなり変な人に見えた事だろう。不審者といってもいいかもしれない。

璃子は大きくため息をついた。疲労と筋肉痛でもう一歩も歩きたくない。出来る事ならこのままこのベンチで寝てしまいたかったが、そうもしていられないようだ。「公園に変な女が住み着いている」みたいな噂になっても困るし、通報でもされたら最悪だ。璃子は疲れた身体を奮い立たせて立ち上がり、トボトボと公園を出て行った。

取り敢えず公園を出てはきたが、行くあてがある訳ではない。一箇所に立ち止まっているのも目立つと思い、さも行き先が決まっているかのように歩いているつもりだったが、疲れきった様子でトロトロと歩く璃子の姿は余計に目立った。

見方によっては、どこかのマラソン大会を完走出来ずに途中棄権したランナーが落胆して家に帰る姿に見えなくもない。

辺りは薄暗くなってきた。もうこれ以上歩きたくない。さっきの小学生達ももう帰った頃だろうから、一旦あの公園に戻ろうかなどと考えながら歩いている時、すぐそばの家からジューっという何かを炒めるような音と共にカレーの香ばしい匂いがしてきた。

音のした方を見ると明かりの灯ったキッチンの小窓からガチャガチャと食器を運ぶような音が聞こえてきた。

璃子は急に激しい空腹を感じた。考えてみれば昨日の朝起きてから二日間何も食べていない。公園の水飲み場で水ばかり飲んでいた。

昨日からずっとパニック状態で空腹など感じるどころではなかったが、今カレーの匂いを嗅いだ途端にどうしようもない程の空腹感が襲ってきた。

さっきまでは今夜どこで寝るかで頭が一杯だったが、一度空腹を感じるともうそれどころではない。とにかく何か食べたい。何でもいいから今すぐ食べたい。どうにも我慢できなくなってきた。その時、家の中から母親らしい声が聞こえて来た。

「もう出来るから、テーブルの上片付けてちょうだいっ!」

つい二日前まで璃子の家でも同じような会話が交わされていた。それは普通の家庭の当り前の会話だったが、今の璃子にとってはどこか別世界の出来事のように思えた。

とにかく何か食べたいが、現金もクレジットカードもない。お金を貸してくれる友人もここにはいない。どうすればいいのか見当もつかない。極度の空腹と疲労がまともな思考をする力を奪っていた。璃子はフラフラしながらすっかり暗くなった長い下り坂を駅の方に向かって歩いて行った。

 璃子はなんとか駅前商店街にたどり着いた。午後八時位になるだろうか、細く曲がりくねった商店街は帰宅するサラリーマン等でかなりの人通りがあった。璃子は目立たない様に路地の影からラーメン屋、定食屋、牛丼屋などの食べ物屋を物色していた。お金など持っていなかったが、もうそんな事はどうでもいい。とにかく何か食べられればそれでいい。その後警察に突き出されてもかまわない。なるようになればいい。もう破れかぶれだった。

 最初は、注文後直ぐに出てくる牛丼屋にしようかと思ったが、入口の所にある食券の販売機を見て諦めた。お金がないから食券は買えない。やはり定食屋がいいだろう。この定食屋には入った事はないが老夫婦が二人でやっている事は知っている。食べるだけ食べてからお金がないと言えばいい。あの老夫婦なら見逃してくれるかもしれない。最悪、二人を突き飛ばして逃げれば逃げ切れるだろう。

 璃子は狙いを定食屋に定め、斜め向かいの細い路地に身を潜めて機をうかがった。電車が着く度にサラリーマンの集団が駅からぞろぞろと出てくる。「この集団が通り過ぎたら行こう」、「次の集団がいなくなったら行こう」と思いながらもう十回以上集団を見送っている。なかなか店に入る踏ん切りがつかない。心のどこかに無銭飲食に対する躊躇いがあった。次こそはと思いながら帰宅者の集団を見送っていると定食屋から主人らしい男が出て来てのれんを外して店内に引っ込んでしまった。閉店したのだ。

(もうそんな時間なの?)

躊躇っているうちに二時間近くが経ってしまった。駅からの人通りも少なくなってきた。

(どうしよう、牛丼屋はだめだし、ラーメン屋しかないか)

そんな事を考えながらラーメン屋に目を向けた時、隣の酒屋の店先に並んだ自動販売機の列が見えた。ビールやジュース類、煙草等の販売機が七、八台並んでいる。

 (そうだっ!)

 璃子は以前、小学生位の子供が自動販売機の釣銭返却口に指を入れて小銭を探しているのを見た事がある。幸い酒屋は既に閉店している。璃子は人通りが途切れたところで自動販売機に近づき、端から釣銭返却口を確認していった。販売機は全部で八台あったが、小銭は全く見つからなかった。

(そうだ! 販売機の下側に転がり込んだ小銭があるかもしれない)

自動販売機の前にしゃがみ込んだ時に駅の方から人が歩いて来る気配がした。璃子は直ぐに立ち上がり、販売機の前でジュースを選んでいるようなふりをした。通行人が行ってしまった事を確かめると、璃子は顔を地面につけるようにして一台一台自動販売機の下を確認していった。五台目の販売機の奥の方に丸いコイン状の物が見えた。暗くてよく見えないが硬貨かもしれない。璃子は夢中になって手を伸ばした。背後に人が通る気配がしたがもう気にならなかった。自動販売機の前に這いつくばって、赤いレギンスの尻だけ突き出した格好で販売機の下に肩まで突っ込んでモゾモゾしている。

通りかかったサラリーマン風の男が暫く眺めていたが、遠慮がちに声をかけた。

「あのー、何か落としたのですか?」

璃子が聞こえないふりをしていると男はさっきよりも大きな声で、「あのー、手伝いましょうか?」と言った。璃子は頬にくっ付いた砂を手で払いながら睨むように男を見上げて、「大丈夫です」とぶっきら棒に言った。それからしばらくしてようやくコインらしき物が指先に触れた。大きさから五百円玉でないらしい事は分かったが、百円玉か十円玉かは分からなかった。祈るような気持ちで手元に引き寄せてみると、それは百円玉だった。

(やった。百円だ!)

自動販売機の飲み物はほとんどが百十円だったが中には百円のものもあった。

璃子は温かい缶コーヒーを買った。見た事のないメーカーで璃子が知ってる普通の缶コーヒーよりも背が高かった。量が多いのはありがたい。璃子は温かい缶を両手で包むように持ってからその場で缶を開けて飲んだ。温かいコーヒーが空っぽの胃の中に吸い込まれてゆく。甘い。美味しい。何て美味しいんだろう。甘くて温かいミルクコーヒーが胃の中に染み渡っていった。胃で吸収されたコーヒーが指先や足の先、そして脳にまで行き渡る感じがした。コーヒーはすぐに無くなってしまったが何だか少しだけ力が出てきた気がする。璃子は残りの販売機の下も急いで確認したが、それ以上硬貨は見つからなかった。


それから暫くして璃子は商店街の端にあるコンビニの前に立っていた。缶コーヒーを飲んだ時、身体の奥から力が湧いて来たような気がしたが、それもほんの一瞬の事だった。直ぐにまたどうしようもない空腹が襲ってきた。コーヒーを飲んだ事でむしろ空腹感が増したような気さえする。そして頭にはまた白いモヤがかかったような感じがしていた。とにかく何か食べたい。おにぎり一個でも、パン一個でもいい、何でもいい。璃子は混濁した頭で必死に考えて一つの結論に達した。

それは、今はとにかく何か食べなくてはならない。お腹がへったからとか、美味しいものが食べたいとかそういうレベルではない。もう何か食べないと体が動かない。そして自分に言い聞かせていた。こんな事になったのは私のせいじゃないし、私は今何か食べないと倒れてしまう。これは緊急避難的な行動だ。食べなければ倒れてしまう、だから食べる。それを非難する事なんか誰にもできない。生きるために食べる事は基本的人権だ。そうだ。基本的人権は憲法で保障されている。今からこのコンビニに入ってパンを掴んで、走って逃げる。これは万引きでも何でもない、基本的人権だ。

璃子は意を決して大きく一回深呼吸をしてからゆっくりとコンビニに入っていった。真っ直ぐに調理パンの棚に向かった。そこにはコロッケパン、卵サンド、カレーパンなどが並んでいた。ちょうどレジからは死角になっている。店には店長らしい人の良さそうな中年男が一人いるだけだ。

璃子は、パンの棚の前で立ち止まった。三分、五分、かなり長い間璃子はパンの棚の前で身じろぎもしなかった。店長がこの動かない客に気づいて気にし始めた。こちらに向かって来る。その時出入口の方で自動ドアが開く音がした。その瞬間、今まで銅像の様に動かなかった璃子が目の前のパンを二つ三つ鷲掴みにすると身をひるがえして開いているドアに向かって全力で駆け出した。その時、急に視界が遮られたかと思うと、璃子は何か大きな柔らかい物にぶつかって跳ね返され、そのまま床に叩きつけられて気を失ってしまった。璃子が最後に見たのは目を真ん丸く見開いて驚いている太った女の顔だった。



璃子は頭の痛みで目を覚ました。気付くとそこは応接間のような部屋で、璃子はソファーに横たわっていた。徐々に焦点が合ってくると、色白で太った大きな女とコンビニの制服を着た小柄で人の良さそうな男がソファーに並んで座っていた。男の方はどうやらこの店の店長らしい。胸に「店長 関沢」と書いた名札が見えた。目を覚ました璃子に気付いた大女が無表情な顔のまま言った。

「大丈夫? アンタが悪いのよ。いきなりぶつかってきたんだから」

男の様な太くて低い声だった。璃子が何か言おうとすると今度は店長が話し始めた。

「良かった。良かった。大丈夫? さっき頭を打ったようだったから心配したよ。血は出てないみたいけど、痛むかい?」

璃子が無言でうなずいて、ソファーの上にゆっくりと身体を起こした。それを見た店長が璃子にかけより、身体を起こすのを手伝いながら言った。

「無理しないで、もうちょっと寝てればいいよ。ここで暫く休んでいけばいいよ」

それを聞いた大女が目を丸くして言った。

「アンタどこまでお人好しなの? この女は万引きしたんだよ。バカじゃないの!」

そこまで言われて璃子は我に返った。

(そうだった。私はパンを万引きして出口に向かって走り出した瞬間何かにぶつかったんだ。そうか、この相撲取りのような大女にぶつかったんだ)

大女がまた言った。

「アンタ、何とか言いなさいよ。アンタはね、この店でパンを万引きして逃げようとして、アタシにぶつかって気を失ったの。それが証拠」

そう言ってテーブルの上に置かれたコロッケパンと焼きそばパンをアゴでしゃくった。コロッケパンの方はビニール袋が破れて中からつぶれたコロッケがはみ出している。璃子は何も言わずにコロッケパンを見つめていた。大女と店長はじっと璃子を見つめ、言葉を待った。どれ位時間が経っただろう、しびれを切らした大女が何か言いかけた時、璃子がコロッケパンを見つめたまま、小さな声でボソボソと言った。

「あのー、このパンもう売れませんよね」

間髪入れずに「当たり前でしょ!」と大女が言った。

「じゃー、このパン、食べてもいいですか?」

大女も店長も全く予想してなかったこの一言に言葉を失った。そして店長が言った。

「こ、これは食べられないよ。潰れて中身が出ちゃってるもん。食べるなら新しいのを持ってくるよ」と言って腰を浮かせた時、大女が張り裂けるような大声で怒鳴った。

「ふざけんじゃないわよ!」

店長に言ったのか璃子に言ったのか分からなかった。二人に言ったのかもしれない。

「アンタねえ、自分が万引きしてダメにした商品を食べてもいいですかって、どんだけ図々しいのよ!」

「ツトムちゃん、アンタもアンタよ。万引きした犯人に何で新しいパンをあげるのよ。お人好しを通り過ぎて、ただのバカじゃないの。全くイライラするわね」

怒鳴られた店長はばつが悪そうにその場に立ち止ったまま、ぼつぼつと言った。

「だ、だけどこの人、おなか減ってるんじゃないのかな。具合も悪そうだし、何か事情があるんじゃないの? ねえ、どうなの? 何か困った事があるなら言ってごらんよ。若しかしたら力になってあげられるかもしれないし」

大女があきれ顔で店長の話を遮った。

「そういうのを盗人に追い銭っていうのよ。ちょっと位可愛いからって鼻の下伸ばしちゃってみっともない。もういいから、早く警察呼びなさいよ!」

「警察っ!」

店長と璃子が同時に叫んで大女を振り返った。

「冗談じゃないよ、警察なんて。たかがパンの一個や二個で。うちはここで三十年商売してんだよ。警察沙汰なんて御免だよ。それにいくら政子ちゃんだって、さっきからちょっと言い過ぎだろ。人の事をバカだとか鼻の下伸ばしてるとか……」

店長は段々声が小さくなって最後は口籠ってしまった。政子と呼ばれた大女は目をまん丸く見開いて店長を睨んでいたが、視線を璃子に移して言った。

「アンタ、パン食べていいですかじゃなくて、もっと他に言う事があるんじゃないの?」

「……」

「黙ってりゃ済むと思ったら大間違いだよ。何とか言いなさいよ!」

璃子はしばらくの間うつむいたまま黙っていたが、大きく息をすうとゆっくりと顔を上げた。そして口を開けて何か言いかけた時、璃子の大きな目から涙があふれ出た。そして消え入りそうな声で話し始めた。

「すみませんでした。昨日の朝から何も食べてないんです。お腹が減ってしまって……、警察だけは勘弁してください」

璃子は今朝警察から逃げ出してきている。もしまた警察に連れて行かれたら今度は徹底的に調べられてしまうだろう。璃子は取り調べで嘘をつき通す自信もないし、警察はもう懲り懲りだった。政子はヘソ丸出しの璃子を頭の先から足の先までもう一度観察するように眺めて言った。

「何でそんな事になったの? どこかから逃げて来たとかそういう事? 面倒に巻き込まれるのは御免だよ」

「そんなんじゃないです。説明するのがちょっと、難しいんですけど……」

その時、いつの間にか席を外していた店長が戻ってきて、サンドウィッチと缶コーヒーを璃子の前に置いた。卵サンドとツナサンド、缶コーヒーはさっきのと同じ物だった。

「これ、食べて。お金はいらないから。足りなかったらまだあるけど、昨日から食べてないなら、一度に沢山食べない方がいいよ」

店長はそう言ってにっこり笑った。店長は笑うと目が三日月のようになる。政子はまた呆れた顔をしていたが何も言わなかった。璃子は無言で頭を下げるとゆっくりと卵サンドに手を伸ばし、食べ始めた。美味しい。卵の味とマヨネーズの味がちょうどいい塩加減でまとまっていた。卵サンドってこんな味だったかなと思ったのは一瞬の事で、その後は夢中で食べた。

「慌てると喉に詰まっちゃうよ」と店長が微笑みながら声をかけた。

璃子は無言でうなずき、食べ続けた。食べながらポロポロポロポロと涙が止まらなかった。一昨日の朝家を出てから訳が分からないまま、食べる物も寝る場所もなく、相談できる友達も、助けを求める家族もなく、一人っきりでずっと気を張ってきた。今店長からやさしくされて、これまでの疲労と絶望と怒りと、そして少しの安堵が混ぜこぜになって胸の奥から大粒の涙となって溢れてきた。璃子は涙で濡れた卵サンドを食べ続けた。

璃子がサンドウィッチを食べている間、店長は一人で話し続けた。相槌も打たずに泣きながらサンドウィッチを食べ続ける璃子に向かって自分達の自己紹介や自分と政子の関係などを話し続けた。自分は関沢勉、父の代まで酒屋だったこの店をコンビニに改装して今年で五年になる事。アルバイトを雇える程儲かっていないし、自分は独身なので一人で店をやっている。だからコンビニといっても夜中は店を閉めている事などを説明した。もう一人は田村政子、関沢とは二十年以上の付き合いで、この近くでスナックをやっている。店の名はマサコ。小さな店だけど昔からの常連さんも多く、繁盛してる。酒類はこの関沢ストアーから仕入れてもらっているので、政子は自分の顧客なんだとも言った。関沢の話しぶりから何とか璃子を助けてやりたい、力になりたいという気持ちが伝わってきた。璃子がサンドウィッチを食べ終え、関沢の話も一段落したところで、それまで黙っていた政子が話し始めた。相変わらずぶっきら棒ではあるが、最初のように攻撃的ではなく、諭すような口調に変わっていた。

「アンタさー、こっちがこれだけ話してるんだから、アンタも何か言ったらどうなの。何も話さないんじゃ相談にも乗りようがないじゃない」

「……」

関沢が続けた。

「警察なんて呼ぶ気はないから心配しなくていいんだよ。ただ事情が分からないと、こっちも何をしてあげたらいいのか分からないんだよ。言いたくない事もあるんだろうけど、言える事だけでいいから説明してよ」

璃子は、しばらくの間下を向いて固まっていたが、ゆっくり深呼吸をすると顔を上げて政子と関沢を見つめた。大きく見開いた両目が潤んで今にも涙がこぼれそうだ。関沢が思わずもう何も言わなくていいと言いかけた時、璃子が口を開いた。

「昨日から何も食べてなかったんです」

政子の目が、それはさっき聞いたわよ、といっていた。

「帰る所が無いんです。昨日は公園のベンチで寝たんです」

「お金も全然持ってません」

「凄く、困ってるんです。た、助けてください」

政子が少しイライラした口調で言った。

「アンタが凄く困ってるのは分かってるわよ。だから、どうしてそうなっちゃったの?」

「例えば親とケンカして家を追い出されたとか、家出したとか、何か理由があるでしょ」

「……」

「はっきりしないわね。だって一昨日までは食べる物も寝るところもあったんでしょ。どこに住んでたの? この近くなの?」

「それは、ちょっと説明しにくいんです。信じてください。決してあなた方を騙そうとか、そんなんじゃ無いんです。でも、自分でも何が起こってるのかよく分からないんです」

関沢がたまらず口をはさんだ。

「分かった分かった。もういいよ。とにかく今は疲れてるんだし、もう夜中だし、今日はもう寝た方がいいよ。ウチは部屋は沢山あるんだ。まずシャワーでも浴びて、ぐっすり眠った方がいい。後の事は明日考えよう」

璃子は関沢の優しい言葉に涙があふれた。ありがとうございますと言いたかったが、息が詰まって言葉にならなかった。

ここでまた政子がまた口を挟んだ。

「アンタ、この子をここに泊めるつもり? アンタ一人者なんだし、そんなのダメに決まってるじゃない」

そして璃子に向き直って言った。

「ツトムちゃんだって男だからね。こんな優しい顔してるけど二人っきりになったら何するか分かったもんじゃないよ」

「ひ、酷いなー。政子ちゃん。俺がそんな事する訳ないだろ」

「どーだかね。大体この男はね。この年まで結婚もせずに一人なんだよ。女がいたって話も聞いた事ないし。よっぼど変わってるんだよ。あっちの方の趣味が」

 関沢のなまっ白い顔がみるみる真っ赤になった。

「バ、バ、バカな事言うなよ。お、おれはあっちの趣味だって普通だよ!」

「あらあら、何マジんなってんのよ。ただの冗談でしょ」

「……」

「悪かったわよ。ごめん、ごめん。でもさマジな話、世間体だってあるでしょ。関沢ストアーのオヤジが二階に若い女住まわせてるなんて噂になったら面倒だよ。この辺は噂好きのおばさん連中が沢山いるんだから」

怒りが納まらずに黙り込んでいる関沢に目もくれず、政子は璃子に話しかけた。

「アンタ、うちに来る? うちはね、すぐそこでスナックやってんのよ。小さな店だけどね。今日はうちに泊まったら? 女所帯だから安心でしょ」といって横目でいたずらっぽく関沢を見た。

「女所帯じゃないだろ、笹原の爺さんがいるじゃないか。ササ爺だって男だろうが」

「アンタ何ムキになってんのよ。ササちゃんはもう七十過ぎよ。七十の爺さんと張り合ってどうすんのよ」

「は、張り合ってなんかないだろ……」

政子は関沢を無視して璃子に向かってまじめな顔できいた。

「ところでアンタ、名前は何ていうの?」

「なっ、名前ですか? その……、は、林、ルリ子です」

「ルリ子って瑠璃色の瑠璃?」

「あっ、いえっ、るりはカタカナです」

「へー! 何か芸能人みたいな名前だね。それ本名なの?」

「えっ! ええ……」

「まっ、いいわ。じゃあルリ子、行くわよ。アンタ、店に着いたら先ずシャワー浴びなさいよ。気付いてないみたいだけど、アンタかなり臭いからね」

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