レッスン

小谷地康夫

不安


 彼女は逃げた。必死で走っていた。

(もっと、もっと速く走らないと、捕まっちゃう)

もうどれ位走り続けているだろう。

全力で走っているつもりが思うように前に進まない。まるで水中を走っているように足が重い。

(ダメだっ、追いつかれちゃう)

必死で前に進もうとするが足が回らない。鈍い足の動きとは対照的に心臓の鼓動は早鐘を打つような激しさだった。

彼女には、それがすぐ後ろまで迫って来ている事がはっきりと分かった。

恐ろしくて振り返る事もできないが、その悪意に満ちた凶暴な息遣いが背後にはっきりと感じられた。

(苦しい。もう走れない。息ができない。どうしよう。捕まっちゃう。もうダメだ)

と思った瞬間、後ろから肩を掴まれた。

「あー」

と大きな声をあげて彼女は目覚めた。

一瞬、何が何だか分からなかった。息が詰まって苦しい。意識してゆっくりと息を吸い込んだ。

(大丈夫だ、息はできる)

自分に言い聞かせるように二回三回と深呼吸をした後、初めて今のが夢だったのだと気付いた。身体じゅう汗でぐっしょり濡れている。

(よかった。夢だった……)

 里見璃子、三十二歳。

汗で濡れたパジャマ代わりのTシャツが背中にペッタリとくっ付いていた。

(またこの夢か、何で同じ夢ばかり見るんだろう)

時計を見るとまだ六時前。起きるには少し早い。

五月の朝の光がベッドまで斜めに差し込み、窓の隙間から流れ込んだ風がレースのカーテンを静かに揺らしていた。いつもと同じ朝の風景。

璃子はベッドの上に身体を起こしてしばらくじっとしていた。呼吸はようやく落ち着いてきた。冷たい空気が火照った身体には気持ちいい。

璃子は前にこの夢を見たのがいつだったのか考えてみたが、はっきりとは思い出せない。一週間前だったか、一か月前だったか。いや、もっと前だったような気もする。半年前とか一年前とか。ベッドの上でしばらく考えていると段々分からなくなってきた。本当に前にも同じ夢を見たのかさえ自信が無くなってきた。若しかすると前にも見たというのは気のせいで、実は今日初めて見た夢なのではないか。

(目が覚めた時は確かに「またこの夢だ」と感じたのだけれど……)

もう一度大きく深呼吸をすると璃子はシャワーを浴びるために一階へ下りて行った。


璃子は大企業に勤めるいわゆるキャリアウーマン。性格は勝気でやや自己中心的。子供の頃から勉強も運動も良くできた。学校ではずっとクラスの委員や生徒会の役員等をしてきたせいか、何事も自分で仕切りたがる。逆に、自分が中心になれない事には直ぐに飽きてしまう。顔は自分ではかなりの美人だと思っている。大きな瞳やきりりとした濃い眉など確かに人目を引く顔立ちではあるが、自分で思っている程の美人ではない。

シャワーを浴びて部屋に戻り、着替えを済ませた頃には、さっき見た夢の生々しさも消えかかっていた。

一階のダイニングでは父の貴士が新聞を読みながらトーストをかじっていた。庭に面した広いリビングとダイニングには朝の光と爽やかな風が吹き込んでいる。カウンターキッチンの中から母の美智子が声をかけた。

「おはよう! トースト焼けてるわよ!」

「ありがとう」

璃子は、母がカウンターに置いたトーストとコーヒーをテーブルに運びながら、父に向かって尋ねた。

「ねえ、お父さん。私って前に何かに追いかけられた夢の話をした事ある?」

 キッチンにいた母の表情は分からなかったが、父は何かに追いかけられたという言葉にピクッと反応したように見えた。

 「ねえ、そういう夢の話、前にしたかなぁ? 今朝そういう夢を見たんだけど、何だか前にも同じ夢を見た気がするの。何度も繰り返し同じ夢を見てるような気がするんだけど……」

璃子は大した事じゃない、という口調でサラッと話した。本当は死ぬ程怖い夢で目が覚めた時は頭から水をかぶったように全身汗でびっしょりだったけど、そういう言い方はしたくない。心配をかけたくないというのではない。強がりというか、璃子は何事も「これ位大した事じゃない」という態度をとりたがる。そういう璃子の性格は、恐らく父の貴士から受け継いだものだろう。この親子は、顔はあまり似ていないが性格はよく似ていた。

少し間をおいてから貴士は新聞を置き、璃子の方に向き直って言った。

「そんな夢の話は、父さんは聞いた事ないけどな……」

貴士は璃子とは対照的な細い目を更に細くして一点を見つめた。考え事をする時の貴士の仕草だ。そしてしばらくしてからボソッと言った。

「小さい頃、並木道で不審者に追いかけられた、あの事件の記憶と混同してるんじゃないか?」

「あっ! そっか……。そうかもね」

璃子は大きな目を更に大きく見開いて父を見つめた。言われてみれば確かにそういう事かという気がした。その二人のやり取りを美智子はカウンターの向こうで黙って聞いていた。


それは、璃子が二歳の時に起こった。美智子が璃子を連れて買い物に出かけた帰り道、いつも通るポプラの並木道を歩いている時だった。二人が並木道のちょうど真ん中位に差し掛かった時、後ろの方で人の叫び声のような声が聞こえた。美智子が振り返ると、遠くの方から誰かが近づいて来る。最初は早歩き位の速さだったが、直ぐに駆け足になり、あっという間に全力疾走で向かって来た。よく聞き取れないが、何やらぶつぶつ独り言のようにしゃべっている。不審者などというものではなく、明らかな狂人だった。美智子は怖くなり助けを求めて周囲を見回したが、この長い並木道には美智子達母娘の他には誰もいなかった。狂人の狙いが自分達である事を悟った美智子は璃子を抱きかかえて走り出した。しかし、全力で走ろうとした途端、足がもつれて璃子を抱いたまま転倒してしまった。顔面を地面に強打して出血し、血が目に入った。

「璃子っ! 逃げなさいっ!」

璃子の背中を突き飛ばすように押し、後ろを振り返った時、想像以上に近くまで迫っていた狂人と目が合った。髪を振り乱し、口を歪めながら何かを叫んでいる。その眼は恐怖におののいているように見えた。そしてその狂った眼差しは璃子を狙っていた。狂人が美智子の横を走り抜けようとした時、美智子は全身を投げ出して狂人の両足に飛びついた。足を取られた狂人は走ってきた勢いのまま転倒し、美智子と絡み合って路上を転がった。美智子は頭や背中に強い衝撃を受けたが、もはや痛みも恐怖も感じなかった。ただ、(この二本の足は死んでも離さない。何としても璃子は守る)という強い思いだけがあった。薄れてゆく意識の中で美智子は繰り返した。(何が何でも、この子だけは……)

美智子は、病院へ向かう救急車の中で意識を取り戻した。たまたま通りかかった学生が頭から血を流して倒れている美智子を見て救急車を呼んだのだった。学生が通りかかった時、美智子は失神していて、その横で璃子がわんわん泣いていたという。学生の話では他には誰もいなかったとの事だった。

璃子は当時まだ二歳で、この事件の事はほとんど憶えていない。ただ、何かに追いかけられてもの凄く怖かった事だけは今でもはっきりと憶えていた。ずっと忘れていたが、父に言われてあの時の恐怖が蘇ってきた。そしてその恐怖は今朝の夢ととても似ていた。

この件で美智子が受けた恐怖と衝撃は大変なものだった。頭の傷も何針も縫う大怪我だったが、それ以上に精神的なダメージの方が遥かに大きかった。事件後しばらくの間、美智子は一人で外出ができなくなってしまった。また、外を歩く時に何度も後ろを振り返る癖がついてしまった。癖というより、どうしても後ろが気になって仕方がない。美智子が、普通の生活ができる程度に回復するまで数か月がかかった。

この事件以来、里見家ではその並木道を一切通らなくなった。駅へ行く時は少し遠回りをして別の道を通る。そしてその習慣は今でも続いていた。美智子にとってこの通り魔事件は、思い出したくもないおぞましい出来事だった。


カウンターの中で放心したように立ち尽くしている美智子に気付いた貴士が、努めて明るい声でいった。

「ごめん、ごめん。変な事言っちゃって。璃子、ただの夢なんだから、あんまり気にするな。美智子も、今日はテニス教室がある日だろ、早く支度しないと遅れるぞ! 今日はイケメンの先生が来る日なんだろ?」

 貴士の言葉に我に返った美智子は、気を取り直すように明るく返した。

「あっ! うん。そうね。で、でもあの先生璃子と同い年よ。まあ、イケメンはイケメンだけどね。あなた達もそろそろ行く時間よ」

璃子も元気よく立ち上がり、もう夢の話はこれで終わり、という感じで言った。

「私も行こっと。お父さん一緒に行こうか。今日もいい天気だし。仕事がんばろっと!」

貴士も立ち上がり、チラッと美智子の方を見てから言った。

「ところで璃子、あの並木道は今も通ってないだろうな?」

「もちろん、あの事件以来もう何十年も通ってないよ。どうして?」

「いや、通ってないならいいんだ。最近また不審者が出没してるような話を聞いたもんだから。それから璃子は今週は忙しいのか? 早く帰れる日があったらちょっと相談したい事があるんだ。前から言ってる引っ越しの事なんだけど」

璃子はびっくりしてふり返った。

「えっ! 引っ越しって、あの話まだ生きてんの? ずっと何も言わなかったから、もう引っ越すのはやめたのかと思ってた」

「やめた訳じゃないよ。引っ越すって決めた訳でもないけど……。だから、引っ越しするかしないかも含めて、ちゃんと相談したいんだよ」

貴士はそこでまたチラッと美智子の方を見た。

「俺と美智子は……、やっぱり引っ越した方がいいと思ってるんだけどね……」

璃子の反応を見ながら話しているせいか、段々声が小さくなって最後の方はよく聞きとれなかった。

 璃子はあきれたような表情をして見せ、ぶっきら棒に、「分かった。じゃー行ってきます。お母さん、イケメンの先生によろしくね!」と投げ捨てるように言うと一人で先に出て行ってしまった。

璃子は駅までの道を急ぎ足で歩いた。貴士と同じ電車には乗りたくなかったからだ。今まで貴士と何度か引っ越しの事で話をしたが、いつも最後は喧嘩になってしまう。

駅に着くとちょうど電車がホームに入ってきた。璃子はスカートの裾を気にする事もなく階段を一段飛ばしで一気に駆け上がった。後ろの方で璃子を呼ぶ貴士の声が聞こえたような気がしたが、璃子は振り返らずにドアの閉まりかけた電車に飛び乗った。


この辺りは高架になっているので街が一望できる。走り出した電車のドアにもたれかかって(本当に引っ越す事になるのかな)などと思いながら外の景色を見ていると、自分がどれ程この街が好きなのか、どれ程あの家が好きなのかを改めて強く感じた。そして、やはりいくら考えても貴士や美智子がなぜ引っ越したいと考えているのか、どうしても理解できなかった。

最初に引っ越しの話がでたのは二年前、ここからでは貴士の会社まで一時間以上かかるから、もっと事務所に近い都心に引っ越したいというのが理由だった。しかし、通勤がそれ程大変だとはどうしても思えない。

貴士の会社には璃子も何度も行った事があるが、家を出てから会社に着くまで一時間とちょっと。確かに距離はあるが乗り換えなしで行ける。それに、ここ数年貴士の帰宅はそれ程遅くはない。確かに璃子が小学生の頃は、ほぼ毎日、璃子が起きる前に家を出て、帰宅は璃子が寝た後の深夜。だから週に一回か二回しか父には会えなかった。しかし、この家を建てた頃、璃子が中学へ上がる頃にはようやく貴士の会社も軌道に乗り、帰宅時間も人並みのレベルになった。今はせいぜい週に一回か二回、接待等で遅くなる程度だ。それを理由に引っ越さなければならないようなレベルではない。

 そして、璃子が納得できない最大の理由は「お父さんもお母さんもこの家が大好きなはずなのに」という事だった。もちろん璃子もこの家が大好きだ。小学六年まで住んでいた建て替える前の家は木造の平屋建て。貴士が生まれ育った家だったから、たぶん築六十年か七十年位だったはずだ。貴士の両親は既に亡くなっていたので部屋数は足りていたが、何といっても建物が古かった。周りには新しくてオシャレな家も多かったので、この家の古さはかなり目立っていた。小さい頃は何も気にならなかったが、小学生も高学年になってくると自分の家の古さが気になり始め、友達が家に遊びに来る時などは気の引ける思いがしていた。(うちは家建て替えないのかなー?)といつも思っていた。

貴士もそんな璃子の思いは察していて早く家を建て直したかったが、当時は仕事がとにかく大変で家の新築どころではなかった。


貴士は璃子が小学校に上がった年に大手総合商社を辞めて独立していた。会社が軌道に乗るまでの四、五年は本当に大変で、貴士は朝から晩まで土曜日曜も関係なく働いた。そして独立から五年程経った頃ようやく会社も安定し、従業員を雇える程度の利益も上がるようになってきた。そして璃子が中学に入学した年に長年の夢をかなえて家を新築した。

家が完成して、仮住まいから引っ越して来た日の事を、璃子ははっきりと憶えている。洋風の白い壁にオレンジがかった薄茶色の洋瓦。太陽が白い壁に反射してまぶしかった。そして二階の自分の部屋に入ると、今までの倍以上の広さ、高い天井、新築の木材のいい香り。ベランダに出て南向きの広い庭を見下ろすと、まだ根付いていない植えたばかりの四角い芝生が一面に敷き詰められていた。まるでどこかの別荘にでも来たような気分だった。璃子は当時中学生になったばかりだったが、(こんな家建てちゃってお金は大丈夫なのかな)と思った事を憶えている。

璃子だけでなく、貴士も美智子もとても嬉しそうだった。美智子は元々お嬢さん育ちで、家の古さとかをあまり気にしないところがあるが、貴士はそうではなかった。貴士自身も昔から自分の家の古さにコンプレックスがあり、家の新築は長年の夢だった。家が完成して心から喜んでいた。そして何より、璃子が喜んでいる事が、貴士には一番嬉しかった。

璃子が分からないのは、(お父さんもお母さんも家が建った時あんなに喜んでいたのに、何をどう考えたらここから引っ越そうなんて考えになるのかしら?)という事だった。


あれから一週間が過ぎた。璃子が勤める会社は工業用のハイテク機器等を扱う専門商社で、その分野では名の通った大企業だった。璃子は入社十年目のベテラン社員。少し前までは皆から璃子ちゃんと呼ばれチヤホヤされていたが最近はそうでもない。気が付くといつの間にか周りは年下ばかりで、同年代の女子社員は退職や転職でほとんどいなくなっていた。

毎日を忙しく過ごすうちに何かに追いかけられた怖い夢の事はいつの間にか忘れていた。しかし引っ越しの事は頭から離れない。この一週間、璃子は貴士とまともに顔を合わせていない。無理に仕事を作って残業したり、同僚を誘って食事に行ったりして、わざと遅く帰った。貴士と引っ越しの話をしたくなかったからだ。そして今日も幼馴染みの可代子とカラオケに行く約束をしていた。可代子と会う時はいつも地元の駅前にあるカラオケボックスと決まっていた。

林原可代子とは幼稚園から高校まで一緒で、家が近い事もありずっと仲良しだった。高校卒業後に可代子が就職してからは大学へ行った璃子とは時間が合わず、あまり会う事もなかったが、最近また頻繁に会うようになっていた。月に一回か二か月に一回、お酒を飲みながら仕事の愚痴を言ったり男の話をしたり、ここ一年程そんな関係が続いている。

可代子は昔と変わらず小柄で小太り。いつも元気でよく笑う。ノリのいいタイプで、璃子の大して面白くない冗談にも「ケッケッケ!」と息を詰まらせながら笑ってくれる。璃子はそんな可代子が大好きだった。可代子にならどんな事でも相談できた。

璃子は駅に着くと急いで家とは逆の南側の出口に向った。この街は線路の北側と南側とで大きく雰囲気が異なる。璃子や可代子の家がある北側は高台で大きな家が多く道幅も広い。一方、線路の南側は道が狭くアパートやワンルームマンション等が多い。特に駅前の商店街は細い道路の両側にラーメン屋、八百屋、居酒屋などがごちゃごちゃと乱立している。二階にはスナック等の飲み屋も多い。商店街というよりも飲屋街といった方がいいかもしれない。

璃子はこの商店街を通るのが嫌いだった。以前、たちの悪い酔っ払いに絡まれた事もあるし、商店街の中程の狭い空き地にはホームレスがいて、その一帯には酷い悪臭が立ち込めている。璃子はいつものように空き地の少し手前で大きく息を吸い込み、止めた。悪臭を吸い込まないためだ。空き地の方を見るとホームレスはいつもの定位置に横たわっていた。背を向けていたので顔は見えないが、まったく動かない。肩の辺りまで伸びた白髪混じりの髪が風に吹かれて僅かに揺れている。璃子は、どこか他の場所に行ってくれないかな、などと思いながら息を止めたまま通り過ぎた。ここを通るほとんどの人がそうであるように、璃子もこのホームレスを酷い悪臭の発生源としてしかみていなかった。ただいなくなって欲しいと思うだけで、それ以外には特段何の関心もなかった。

璃子は空き地を通り過ぎてもできるだけ息を我慢し、十メートル程歩いてから初めて大きく息を吸った。三回程大きく深呼吸をしてから直ぐ先にあるカラオケ店に入って行った。


金曜日のカラオケは満室だった。ドアを閉めていても周りからけたたましい歌声が壁伝いに響いてくる。

最初の生ビールがくると可代子は喉を鳴らして一気に半分以上飲んだ。

「クァーッ! うまいっ! さあ、今日はガンガン歌うからね!」

いつもの事だが可代子は酒が入ると一段とテンションが高くなる。立て続けに三曲歌い、四曲目を入れようとした時、さっきから何も話さずじっとモニターを見つめている璃子に気づいた。考えてみれば今日は璃子の方から誘ってきたのに、全然歌おうとしないし、何か様子がおかしい。

「どうしたの? 歌わないの? 自分から誘ったくせに遅れて来てさ、来たと思ったらムスッと黙ったままで。何かあったの?」

「……」

「アンタね! あんないい家に住んでて、一流企業に勤めて、イケメンの彼氏がいて、いったい何が不満なの! 私なんか、親は離婚、家は雨漏り、彼氏いない歴三十二年なのよ! 贅沢いってるとバチが当たるわよ! 全く! あ、改めて口に出したら、自分が可哀想過ぎて嫌になって来た!」

 もちろん本気で怒ってるわけではない。

「そんな事言わないでよ。私だって色々あんのよ」

 可代子は璃子を見てちょっと考えてから、また元気のいい大きな声で続けた。

「あ、分かった。孝太朗くんだっけ? 彼の事で悩んでるの? イケメンのお坊っちゃま上司。やっぱり結婚するんでしょ! 早く会わせてよ。私、孝太朗くんの友達に期待してるんだから。ケッケッケッ!」

 可代子は一人で喋って一人で笑っていたが、璃子の様子がいつもと違うので「アレ?」という顔で、今度は静かに話しかけた。

「何なの? そんなに考え込むなんて、璃子らしくないじゃない。どういう事?」

 璃子は、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干してから話し始めた。引っ越しの話がまた持ち上がっている事。自分は引っ越したくない事。両親も引っ越したいはずがない、何か自分に隠し事をしているような気がする事などを全て正直に話した。

 二年前、初めて引っ越しの話がでた時も可代子に相談していたので、可代子はこれまでの経緯は大体知っている。それに可代子と璃子は幼稚園の時から仲良しだったので、可代子は貴士の事も美智子の事もよく知っていたし、家を新築した時の里見家の三人の喜びようも目の当たりにしていた。そして貴士と美智子がどれ程璃子の事を大切にしているかもよく知っていた。特に貴士は、璃子に対して色々と細やかな気遣いをするのだが、璃子はそれをうっとうしそうにあしらう時がある。父のいない可代子には、それは羨ましくもあり、璃子の態度があまりに酷く、腹立たしく感じる事さえあった。

可代子は璃子の話を一通り聞いたが、貴士や美智子が璃子に嘘をつくとは思えなかった。仮にもし何かを隠しているとしたら、それは璃子のためを思っての事に違いなかった。


 二人は引っ越しの理由について色々と想像してみた。

若しかすると、貴士の会社は倒産寸前で、家を売って会社の運転資金を捻出しなければならないのではないか、と可代子が言った。しかし、美智子は最近自分用のクルマを買い替えたばかりで、とても父の会社の経営が苦しいとは思えない。

いや、逆に会社では空前の利益が出ていて、税金対策等のために都心の不動産を購入する必要があるのではないかというのもでた。可代子も璃子も不動産の購入がどう税金対策につながるのか、そのあたりの理屈は分からなかったが、可代子がテレビの二時間ドラマ等から得た知識によれば十分にあり得る事なのだそうだ。

主に可代子が「こういう事じゃないの?」と思いついた考えを披露し、それを璃子が検証し、合理的な理由付けで否定するという形が続いた。

生ビールの大ジョッキを三杯飲み終えた頃には二人ともかなり酔いが回り、まるでテレビドラマのストーリーでも考えているようなノリになっていた。そして可代子が唐突に手を叩き、いいのを思いついた、という口調でまた話し始めた。

「ねえ、こういうのはどう? 実は貴士と美智子は離婚寸前で、別居の準備としてもう一軒家を買おうとしてるのよ。もちろん離婚の原因は不倫ね。それしかないわ」

 いつの間にか可代子は貴士と美智子を呼び捨てにしていた。璃子は少し怒った表情で言った。

「何よそれ! 大体不倫って、どっちがしてるのよ!」

 可代子はわざとらしく眉間にしわを寄せて考え込むような表情をしていたが、急に顔を上げ、にっこりとして言った。

「やっぱダメか。璃子んとこの親はラブラブだもんね。不倫はないね。失礼しましたっ!」

と言って、ペコリと頭を下げた。

「でも、これだけ考えて思いつかないって事は、やっぱ璃子の考え過ぎなんじゃない?」

酔いもまわり二人とも段々考えるのが面倒くさくなってきていた。そして、可代子が話題を変えようという感じで言った。

「隠し事だなんて璃子の考え過ぎよ。この話は終わり! じゃー次は孝太朗くんの事聞かせてよ。うまくいってるんでしょ。やっぱり結婚するの? あっ、ちょっと待って飲み物頼むから……、璃子は何にする?」

可代子はインターホンでグレープフルーツサワー二つとピザを注文すると「さあ、じっくり聞かせてもらうわよ」という感じで璃子に向き直った。

「それで、孝太朗くんとはどんな感じなの?」

璃子は嫌な顔をして上目遣いに可代子を見た。

「何よその顔? えっ、そっちもうまくいってないの?」

「……もう三週間デートしてない……」

璃子は不機嫌な顔のままボソボソとしゃべった。

「何で?」

「知らないわよ。忙しいんじゃないの! 全然連絡してこないんだから」

「何よそれ、他人事みたいに。連絡してこないって璃子から連絡はしてるの? 」

「しないわよ。そんな事」

可代子は璃子の態度にムッとしながらも諭すようにいった。

「アンタ全然変わってないわね。そんなんじゃダメだよ。璃子は男は向こうから寄ってくるものだと思ってるでしょ。高校の時のユージくんだって本当に璃子の事が好きだったんだよ。でも璃子からデートに誘う事が一回もなかったから、璃子は本当に自分の事が好きなのかなって悩んじゃって……」

璃子は上司でもある小林孝太朗と付き合い始めて一年になる。璃子にしては長続きしている方だ。これまでも四、五人と付き合った事があるが、どれも長続きしなかった。付き合い始めてしばらくすると、どちらからともなく連絡を取り合う頻度が減っていく、そしていつの間にか自然消滅しているというのがいつものパターンだった。璃子の方から関係維持のために何か対策をとるといった事はこれまでした事がない。可代子の言ったユージとは高校時代に最初に付き合った彼氏の事。璃子もユージの事は好きだったが、何度かデートしただけで終わってしまった。璃子は決してユージが嫌いになった訳ではない。璃子の言い分は「だって全然連絡して来なくなったんだもん。しょーがないじゃない」というものだが、では璃子の方から連絡したのかというと、それは皆無である。誘われれば行くが自分から誘う事は絶対にない。プライドが高いというのか、女の自分からデートに誘うなどという事は恥と考えている節がある。付き合っている時にユージから「璃子ってホント男らしいよね」と言われた事がある。よく言えばさっぱりした気性、悪く言えば女らしさに欠けるという事だろう。璃子はこれまで本気で誰かを好きになった事がないのかもしれない。恋愛だけでなく本気で何かに取り組んだ事は多分一度もないかもしれない。

可代子は珍しく真面目な顔になり璃子を睨むようにして言った。

「璃子、マジでそういうところ変えていかなきゃダメだよ。自分の気持ちをもっと相手に伝えなきゃ。璃子だってユージくんの事好きだったんでしょ。ユージくんは璃子の事が本当に大好きだったんだよ。璃子がもっと自分の気持ちを正直に伝えてれば、璃子とユージくんはきっと今でも続いてたと思うよ。美男美女でお似合いだったのにな」

「……。何よそれ」

「それに、この際だから言っちゃうけど、璃子は自分がどれだけ恵まれてるのか、よく自覚した方がいいよ。何でも当たり前だと思ってるんじゃないの? 両親が優しくしてくれるのは当たり前、彼氏がデートに誘ってくるのも当たり前。でもね、世の中璃子みたいに大した苦労もなく生きてる人なんて滅多にいないんだよ。まあ私みたいに親が離婚してド貧乏の中で育ったっていうのは少数派かもしれないけど、皆大抵は人には言えない悩みや苦労を抱えて生きてんのよ。それにね、今まで当たり前だったものがある日突然なくなっちゃう事だってあるんだよ。失いたくないなら自分で努力しなきゃ。しっかり捕まえてないとダメなんだよ」

両親が離婚している可代子の言葉には説得力があった。確かに自分はかなり恵まれてる方だとは思う。ただ孝太朗については自分でも分からなくなり始めていた。

「はいはい、よく分かりました」

 璃子はぶっきら棒に言ってから、真面目な口調で続けた。

「でもさ、孝太朗の事は最近自分でもよく分からないんだ。本当に好きなのかどうか。最初に会った頃は仕事ができて頼りになる優しい先輩って思ってたんだけど、全然違ったの。仕事だって本当は大した事ないのよ。彼のお父さんが取引先の重役だから部長とか周りが気を使って孝太朗の手柄みたいにしてくれてるだけなのよ。でも孝太朗はそれに全然気付いてなくて全部自分の実力だと思ってる。なんか、最近は頼りになる先輩じゃなくて、ただの呑気なお坊ちゃまにしか見えなくてさ。デートしてても前みたいに楽しくないんだ」

「私に言わせりゃアンタもただの呑気なお嬢様だけどね。でもどうすんの? またこのまま自然消滅? 孝太朗くんは璃子の上司でもあるんだし、今までみたいに放ったらかす訳にはいかないわよ」

「うん、それは分かってる。ただ時間をかけて考えてみたいだけ……」

可代子はグレープフルーツサワーをゴクゴクと飲んでからまた話し始めた。

「私には分かんないな。孝太朗くんみたいなイケメンエリートの彼氏を振るなんて理解できないけどね」

「本当にそう思う? お金持ちだとか顔がいいとかいう事とその人を好きになるかどうかって全く別の事じゃない?」

「だけど孝太朗くんは璃子の事が好きなんでしょ。あんなイケメンエリートに好きだって言われたら、私ならもうメロメロになっちゃうと思うけどな」

「それは可代子がそういう状況に慣れてないからそう思うだけよ……」

言ってしまってから璃子はあわてて否定した。

「あっ、……っていうか、そういう意味じゃなくて……」

「そういう意味じゃないって、じゃあどういう意味なのよ! アンタ可愛い顔して結構酷い事言うわね。いくら幼稚園からの親友でもマジムカつくんですけど」

そう言いながらも可代子はそれ程怒ってる風でもない。璃子は慌てて話題を元に戻した。

「だけどさ、可代子はどう思う? 私、このまま孝太朗と付き合ってていいのかな?」

「それ、どういう意味?」

「何というのかな、毎日会社行って仕事して、週末には孝太朗と映画やドライブ。夏休みには海外旅行。そんな事してるうちにどんどん時間が過ぎてっちゃう気がして、これでいいのかなって思うんだけど。私たちもう三十二よ。何か他にやらなくちゃいけない事があるような気がするというか……。私の言いたい事分かる?」

「何なのよそれ、私への当て付け? 私は彼氏もいないし、海外旅行も行った事ないんですけど。璃子が何を言いたいのか全然分かんないよ。彼氏がいて、毎週デートして、休みには旅行に行って、楽しくていいじゃない。なにが不満なのよ!」

「不満ってわけじゃないのよ。映画みたり旅行したり、それなりには楽しいんだけど……。何ていうのかな……、大学を卒業してからアッという間に十年経っちゃったし、こんな調子でいったら四十歳なんて直ぐだし、このままいくと四十歳五十歳になった時、何か大きな後悔をするような気がするというか……」

「別にいいじゃない。時間が経つのを早く感じるのは充実してるって証拠じゃないの? 第一そんな事は孝太朗くんと何の関係もないじゃない。孝太朗くんに不満があるんじゃなかったの? 何か今日の璃子は何が言いたいのかよく分かんないよ」

璃子は自分でもよく分からなくなってきていた。孝太朗に付き合い始めた頃のような魅力を感じなくなっているのは事実だった。自分では孝太朗とうまくいってないから最近何をやってもあまり楽しくないのだろうと思っていた。海外旅行の計画をしても以前のように夢中になれない。もちろん引っ越しの事も璃子をイライラさせる原因の一つではある。しかし、改めて考えてみると逆なのかもしれない。孝太朗との関係がうまくいかないから全てが楽しくないのではなくて、全てが楽しくないから孝太朗とのデートも楽しくないのかもしれない。そもそも孝太朗との関係がうまくいかないと他の全てが楽しくなくなる程、璃子の中で孝太朗の存在は大きくないし、その辺は璃子自身もよく自覚していた。

では全てが楽しくない原因は何なのだろう。可代子がいうように自分はかなり恵まれていると思う。いい家に住み、両親から愛されていて、一流企業に勤めて、イケメンの彼氏がいる。そして何より自分自身がかなりの美人だし、と璃子は本気で思っている。ただ何となくこのままじゃいけないような気がしている。何年も経った時にふと気付いて大きな後悔をするような漠然とした不安を感じていた。何かもっとやるべき事があるような。しかしそれが何なのかは分からない。

可代子は半分程残っていたグレープフルーツサワーを一気に飲み干してからいきなり大きな声で言った。

「分からん分からんっ! 全く分からーん! 璃子の言ってる事は呑気なお嬢様のたわ言にしか聞こえない。やん事無い高貴なお方の悩みなんて私には分からなーい! 璃子、もっと私にも分かるように説明してよ。でもそれは次回でいいや。次回までの宿題。そろそろいい時間だし、今日はこの辺にしとこうか」

そう言うと可代子はさっさと帰る仕度を始めた。



 二人は店を出ると駅前からまっすぐのびる上り坂をゆっくりと進んだ。星が綺麗だった。

「こんなに星が出てるの、珍しいね」

璃子は星空を見上げたまま声をかけたが太っている可代子には上り坂は少しきつそうで、星空を見上げる余裕はなさそうだった。五月の夜の風は少し冷たくて、酔った身体には気持ち良かった。坂を上りきったところで道が左右に分かれている。可代子は左の道に進みかけて足を止めた。

「あ、ごめん。こっちじゃなかったね」

左の道を進む方が二人の家には近い。しかし、左に進むとそこには例の並木道、璃子が二歳の時、通り魔に襲われたポプラの並木道がある。可代子は自分だけの時はいつも並木道を通って帰る。その方が近いからだ。可代子だけではなく、可代子や璃子の家の近所の人達も駅に行く時は皆並木道を通っていた。それが普通だった。しかし、璃子の家ではあの通り魔事件以来、この並木道は通らなくなった。そしてその事を可代子もよく知っていたから、璃子と一緒に駅から帰る時は、璃子に合わせて並木道を避けて帰るのが習慣になっていた。

可代子が右の道に進みかけた時、璃子が呼びとめた。

「ねえ、あの道通って帰ろうか? ポプラの並木道」

「えっ! 大丈夫なの?」

「うん。たぶん」

 璃子はあの事件の後、ずっと「あそこはもう通っちゃだめ」、「あそこで遊んじゃだめ」と言われ続けてきたし、自分自身も怖い思いをしたので、あの道を通ってみたいなどと思う事は全くなかった。けれど考えてみれば、かれこれ三十年もあの道を通っていない。あの通り魔事件は当時地元ではちょっとしたニュースになったので、暫くは「あそこは変質者がでる」とか「不審者がいた」とかの噂もあり、「暗くなってからあの道を通っちゃダメ」という家庭も多かった。しかし、あれから何十年も経ち、今そんな事をいう人はいない。

並木道を通ってみようというのはほんの気まぐれだったが、考えてみれば三十二歳の大人が小さい頃の怖い体験のために何十年もその場所に近づかないというのは少し異常にも思えた。それに未だに並木道に近づくなという貴士に対する反発もあった。今日は可代子と一緒なので心強いし、少し酔っているせいか全然怖いという感じがしなかった。

「ねえ、行ってみようよ、ポプラの並木」

「でも大丈夫かな、最近またヘンな人が出没してるって噂もあるみたいだけど……」

「えっ! やっぱりそうなの? 誰から聞いたの?」

「ウチのお母さんが何かそんな事言ってたわよ。サングラスかけた怪しい人があの並木道の辺りをウロウロしてたって。どうする? 行ってみる?」

「んー、どうしようか。でも可代子はもし一人ならあの道を通って帰るんでしょ? じゃあ、やっぱり行ってみようよ、可代子が一緒なら安心だし」

「何よそれ、私が一緒だと変質者も寄ってこないって事? 失礼しちゃうわね!」

二人は冗談を言い合いながら並木道へ入って行った。


三十年ぶりに見るポプラの並木は意外と小さかった。そもそも璃子にこの並木道の記憶はほとんどない。ただ、この近くまで来た事はあるので遠目にポプラの木立を目にする事は何度もあったし、高架の電車からも緑色の真っ直ぐな線が僅かに見える。そして璃子の中で形成された並木道のイメージは、道幅がとても広く両側に天を衝くような先のとがったポプラの木々がそびえ立ち、道の端からもう一方の端は見えない位に遠い、というものだった。しかし今目の前にある道はせいぜい幅十メートル。長さはたぶん百五十メートルから二百メートルといった所だろうか、確かに長いが端から端まではっきりと見渡せる。

(なんだ、普通の道じゃないか)

璃子は拍子抜けした。ここに来たらあの時の恐怖が蘇るんじゃないか、もしかしたらパニックになってしまうかもしれないと心配していたが、全くそんな事はなかった。むしろ何か新鮮な感じがした。ここは道幅が広いのにクルマはほとんど入って来ない。この並木道に通じる道がどこも細くて曲がりくねっているからだろう。そういう点でこの道は不思議だった。閑静な住宅地の真ん中にいきなり百メートルを超える幅の広い直線の道路がある。そして立ち並ぶポプラはどれも巨木で樹齢百年以上はありそうに思われた。だがこの道がどこかへ通じているという事でもない。一見すると神社とか寺の参道のようにも見えるが近くには神社も寺もないし、そもそも参道にポプラというのは聞いた事がない。

背の高いポプラの木々に区切られた細長い夜空には沢山の星が輝いていた。璃子は可代子をふり返って言った。

「なんか、いい感じだね。この道」

「そうだね。今日は星が沢山見えるからね。でも璃子、大丈夫?」

「うん。全然平気。何だか今までこの道を怖がってた事が馬鹿みたい。こんなに気持ちいいのに」

二人は並木道をゆっくりと歩いた。道の両側には大きな屋敷ばかりが並んでいた。広い庭のある家、レンガ造りの煙突のある家、壁一面が蔦に覆われた洋館など、どの家も大きくてお洒落だった。そして歩道の所々に木製の古いベンチがあった。この並木道沿いの一帯だけは周りとは違った高級で落ち着いた雰囲気があった。璃子は今日ここへ来て良かったと思った。また、もっと早く来ればよかったとも思った。

(こんなに気持ちいいなら、また来てみよう、でもお父さんとお母さんには今日ここへ来た事は黙っておこう)

自分が平然とこの並木道を通れた事で何だか貴士の鼻を明かしたような気がして気分が良かった。並木道を抜けると急に道幅が狭くなり、丁字路にぶつかる。璃子の家は右、可代子の家は左だ。

「可代子、今日はありがとう。今日、可代子と話ができてよかった」

「何よ、改まって。別に大した話してないじゃない」

「何だか自分でもよく分かんないけど、とってもスッキリしたの」

「なら良かった。じゃー貸しイチって事で、今度、孝太朗くんの友達呼んで合コンよろしくね! じゃーまたね!」

可代子は元気よく手を振ると細い路地に入っていった。


翌日の土曜日、昼間は夏のような日射しだったが、夕方になって涼しい風が吹き始めた。午後七時を過ぎて外は薄暗くなり始めている。庭に面したガラス戸は開け放たれ、どこからかピアノを弾く音が微か聞こえている。外にはのどかな初夏の夕暮れが広がっていたが、家の中には重苦しい空気がどんよりと充満していた。貴士と璃子はリビングのソファーに向かい合って座り、美智子は少し離れたダイニングの椅子に腰掛けていた。明かりもつけず、皆黙っていた。長い沈黙の後、貴士がたまりかねたように口を開いた。

「どうして璃子は分かってくれないのかな。さっきから何度も言ってるようにお父さんの会社も大きくなって来て、家がここだと色々と不便なんだよ」

璃子は貴士を睨みつけて言い返した。

「だから私だってさっきから何度もきいてるでしょ。何がどう不便なのか具体的に説明してよ。会社が大きくなって取引先が増えてるのは分かるけど、お父さん自身はそんなに忙しくないじゃない。今は八時とか九時には家に帰って来てるじゃない。もっと早く帰って来たいの? そのために引っ越しをするの?」

昨日、久しぶりに可代子と話をして何だか吹っ切れたような気持ちになれた。逃げてばかりいても問題は解決しないし、今日は貴士とちゃんと話をしようと思って璃子の方から声をかけた。納得のいく説明さえあれば引っ越す事もやむを得ないと思い始めていた。しかし、いざ話を始めてみると直ぐにいつものような言い争いになってしまった。

「璃子は何でお父さんの言う事がきけないんだ。お父さんやお母さんが璃子のためにならない事をすると思ってるのか! そんなに俺が信じられないのか!」

貴士は大声で怒鳴ると手でガラスのリビングテーブルを力任せに叩いた。

貴士の剣幕に驚いて璃子は貴士を見た。貴士がこんなに怒ったのは初めてだし、貴士に怒鳴られたのも生まれて初めてだった。驚いて見開いた璃子の目には見る間に涙が溜まり、こぼれ落ちた。

「お父さん! いったい何を隠してるの? 本当の事を言ってよ。私もう子供じゃないのよ。三十二歳の大人なのよ! もし本当に引っ越さなければならない理由があるなら、きちんと説明してくれれば私だって理解できるし、我慢だってできるわ。どうして本当の事を言ってくれないの? お父さんの方こそ、私を全然信用してないじゃない!」

貴士は璃子の涙を見た時、初めて自分の出した声の大きさに気付いて狼狽えた。

「ごめん、大きな声出して。でも違うんだ。何と言うのかな、確かに今は八時とか九時には帰って来てるけど……。丁度……、これから……、そのー、大きな取引が始まるところなんだ。その仕事が始まるともっと忙しくなるんだよ……。そうそう新規の取引が始まるんだよ」

今まで新規の取引先の話などした事なかったのに、貴士は急に新規取引を強調し始めた。貴士は自分で自覚している以上に嘘が下手だ。話してる間に新規取引という言い訳を思い付いたのでこれで押しまくろうという考えが見え見えだった。

「確かに璃子の言う通り、今は大丈夫なんだ。だけど来月から新しい仕事が始まると本当に忙しくなるんだよ。お父さんの会社がもう一段階大きくなる絶好のチャンスなんだ。だからこの仕事は絶対に失敗したくないんだよ。璃子が引っ越したくないのはよく分かってるけど、協力してくれないか?」

貴士の嘘は可哀想になるほど下手だった。時折庭から吹き込む爽やかな風の中で、貴士だけが汗ばんでいた。必死に嘘をつき通そうとする貴士を見ていて璃子は悲しくなった。

「お父さんはこの家が出来た時の事もう忘れちゃったの? お父さんもお母さんもあんなに喜んでたじゃない。私はこの家ができた時の事、今でもはっきり憶えているわ」

貴士は璃子の眼差しを避けるように下を向いて額の汗を拭いながらボソボソと話した。

「もちろんお父さんだってこの家が大好きだよ。だけど仕事なんだから仕方ないだろ」

璃子は貴士には言葉を返さず、今度は美智子に話しかけた。

「お母さんはどうなの? さっきから黙ってるけど、この家に愛着はないの? この家に知らない人達が住んでも平気なの? この前クルマ買い替えた時、想い出が沢山あるクルマだから手放したくないってあんなに迷ってたじゃない。この家には想い出はないの?」

美智子は苦しそうな表情で助けを求めるように貴士の方を見た。

「ねえ、例えばだけど、ここは売らずに都心に小さなマンション借りて週末だけこっちに戻るっていうのはどうかしら……」

貴士が美智子の話を遮って、また大きな声を出した。

「それじゃー意味がないだろっ!」

美智子と璃子は貴士の大声に驚き、はじかれたように貴士の方を見た。璃子は今までに貴士と美智子がまともに喧嘩しているのを見た事がない。璃子には貴士が何かに追い詰められているように見えた。

「お父さん、意味が無いって、それどういう意味なの? 都心に住む所を確保するだけじゃ意味が無い、この家を売らないと意味が無いっていう事なの?」

「そ、そうじゃないよ。何を訳の分からない事言ってるんだよ。ここを売らなくちゃ都心にマンションなんか買うお金があるわけないだろ。そういう意味だよ」

貴士の説明には釈然としないものがあった。貴士もあまり喋り過ぎるとボロが出るとでも思ったのか、その後は黙り込んでしまった。いつの間にか陽はすっかり落ちていた。三人は灯りもつけずに薄暗いリビングのソファーに黙ったままいつまでも座っていた。


三週間程が経ったが璃子は未だに貴士と引っ越しの話をする事を避けていた。貴士からは何度か話を持ちかけられたが、璃子はその都度話題をそらし、はぐらかして来た。

璃子は父への不信感が日に日に大きくなっていく自分を抑えきれなかった。「父さんや母さんが璃子のためにならない事をするわけないだろう」と言ったその言葉に嘘はないだろう。でも何か隠し事をしている事は間違いない。それにあんなに興奮し、狼狽えた父をこれまで見た事がない。一人娘の自分とあんな言い争いをしてまでつかなければならない嘘とは一体どんな事なのだろう。

璃子はこの三週間の間、週末は必ず並木道に行っていた。朝三十分程ジョギングをした後で並木道に寄った。

最初に可代子と一緒に来た時は夜だったので暗くてよく分からなかったが、意外とカラフルな家が多い。白い板張りの壁に窓枠だけ青く塗られた家や海外のリゾートホテルを思わせるようなピンク色に塗られた家もあった。古い家が多かったが、どの家も手入れが行き届いていて、落ち着いた上品な雰囲気があった。璃子はこの一帯が益々好きになっていった。そしてこの並木道を好きになればなる程、ここから引っ越したくないという思いが強くなっていった。

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