雨と入浴剤

塩キャベツ太郎

第1話

 今晩、東京が梅雨入りした。

 何と憂鬱なことだろうか。思えば今日は朝から運がない。南西から押しあがってきた低気圧のせいで、目が覚めた瞬間から頭が痛い。カーテンを開けて外を見る。雲は薄灰色で、風は湿気を帯びている。ニュースを見れば「傘を持て」とキャスターは脅かす。余計に外に出るのが億劫になる。

 高い傘は持たない。去年の今頃、6月の中旬、梅雨の頃、社会人なりたてを脱しようと背伸びして新宿の百貨店で傘を買った。そしてあっけもなく梅雨も明けないうちに中野のコンビニで盗られた。それ以来、雨に降られるたびにコンビニで視界が良好になる傘を買い足している。今、玄関には数本しかないけれど。

 今日は傘を持って出よう。あのキャスターは新人で、雨の予報をだした次の日はたいてい傘を干す話題だ。よく乾きそうだとか、黄砂がつきそうだとか。明日もおそらくその話題だろう、これは私の予報。そろそろコンビニで傘を盗まれない方法を教えてほしい、これは私の希望。

 カフェで友人と待ち合わせ。コーヒーの匂いもしないほど、ホイップクリームで蓋をされたウインナーコーヒー。なんとはなしにカロリーを調べたら、さらに頭痛が増した。これなら焼肉でウインナーを食べた方がいくらかマシだったかもしれない。次は焼肉店で待ち合わせにしようと冗談で私が言うと、鳩がホイップクリームをかけられたような顔をして、いいねと友人は言っていた。

 悩み事を聞くのは好きではない。何のために呼び出されたかと思えば、なんのことはない、いつも通りの仕事の愚痴、彼氏への不満、最近の出来事。言いたいことだけ言って、無雑作に放置された感情を私というフィルターを通して整理されていく。私のフィルターの掃除は誰がしてくれるのだろう。そうだ、離れて暮らす父を呼んでエアコンの掃除をしてもらおう、梅雨が来るまえに。

 雲が黒く重く横たわる。今にも雨粒が落ちてきそうだ。足早に家路を辿る。もう少し、あともう少し。ふと傘の存在を思い出す。あのカフェに忘れてきたこと、もう途中にコンビニもないということ。それ以上の思い入れも思い出もない、いつ買ったのかすら思い出せない。祈りに似たような焦り。鼻先にあたった、一粒の雨垂れ。諦めと疲れ。帰ったらお風呂に入ろう。


濡れてまとわりついてくる服を脱衣所に脱ぎすて、タオルに包まり、湯船にお湯を張る。溜まっていく様子をぼんやりと眺め、早く溜まれとおもむろに水面をつついてみる。しがないアパート暮らしでは、浴槽が小さく普段は貯めることもない。日々掃除をするだけのスペース。外から換気扇を伝って雨音が聞こえてくる。蛇口から溜まる太く均一な水の音と、不均一で小さな雨音が冷える体を慰めてくれる。

一袋だけ余っていた入浴剤を入れる。固形石鹸のような形をした入浴剤が細かい泡をあげながら溶けていく。ほのかに香り始めた匂いはラベンダー。そのまま肌をゆっくりと染め上げていきそうな薄紫色の湯船いっぱいの水が、体躯をゆっくりと翻すたびに少しずつ溢れ出していく。浴室全体がラベンダーの香りに満たされた頃、脱衣所においたスマホから通知音が響く。後で見なければ、でもあと十分、あと三十分……。


のぼせ気味な体を冷やすためベランダに出る。風はなく、雨は降り込んで来なかった。しゃがみこんで下から雨が降る様子を眺める。しばらく耽っていると、まだ乾ききらない髪からラベンダーの香りとすこし雨の匂いがした。


 通知をみると、今晩、東京が梅雨入りしたらしい。

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雨と入浴剤 塩キャベツ太郎 @Saltedcabbage

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