第24話 今日依存からの脱却
離婚後10年目にして達也が家庭裁判所に訴えた親権者変更の申し立ては、いとも簡単に決着を見ることとなった。調停が始まってわずか二回目にして調停員の口から告げられた言葉は、
「当家庭裁判所の方針は、親権者の変更は認めないということですでに決まっています。このまま平行線をたどって合意に至らない場合は裁判官が一切の事情を考慮して審判することになりますが、今後のお父さんと麻奈美さんの関係を良好に保つためにも申し立てを取り下げることをお勧めします。」
裁判所の結論が出ている以上、これ以上争っても無駄なことは10年前の離婚裁判でいやというほど思い知らされている。
加えて親権者の変更を諦め、引き下がる大きな理由が達也にはあった。それは今年から施行される成人年齢の引き下げである。2018年の民法改正により、成人年齢がそれまでの20歳から18歳に引き下げられることになったのであるが、法律が施行されるのが2022年、つまり当年の4月からなのである。
麻奈美は現在17歳、今年9月の誕生日には18歳となり成人扱いとなる。つまり現時点でエリカが単独親権制度の下で行使している親権が、麻奈美が成人となった時点で効力を失うことになる。
そして達也が最も関与を望んでいた麻奈美の高校卒業後の進路についても、エリカが再び滞納して学校から催促されていた三学年目からの学校納付金を全て肩代わりしたことで、進路を決めるための三者面談を含め、実質的に達也の側に主導権が移っていた。高校卒業後の進学に関して誰がその多額の学費を負担するのか、それを考えればエリカが蚊帳の外に置かれるのは当然の成り行きであった。
達也が家庭裁判所での申立て取り下げの同意書に署名してから四ヶ月ほどが過ぎた夏休み前、ようやく麻奈美の担任の先生を交えた三者面談が実現した。それまでは電話で話しただけで文字通りの初対面であったが、実際に会ってみるとやはり若さが際立つ女性教諭であった。
初回面談の当日は具体的な進路相談というよりも、麻奈美の学校での普段の様子などについて担任の口から初めて話を聞くことができた。
「麻奈美さんはクラスの他の子とのコミュニケーションも良好で人気者です。勉強もがんばって、成績でいつも上位をキープしていますよ。」
中学時代の成績は常に下位グループに甘んじていたことを考えれば、多少はホッとできる状況ではあるが、それだけ周囲のレベルが低いとも言えるわけで、手放しで喜んでよいものかどうか微妙なところではある。
しかし大学入試センター試験で振り分けられるような国立大学や有名私大を目指しているのであればともかく、麻奈美の進路は競争率の低い三流どころに落ち着くことが妥当なところなので、高校での成績は重要である。それらの進学先の選抜方法は入学試験よりも学校推薦入学が大半を占めるので、高校からの推薦を受けられるかどうかが重要な分岐点となるのである。
麻奈美自身は、千葉県の片田舎にある某四年制大学の看護学科を希望しているようであった。達也もあまり耳にしたことがない大学名であったが、一つだけ達也の思惑と一致している点があった。それは進学先として地元仙台ではなく、敢えて遠方の学校を選ぶということである。その理由は麻奈美が母親エリカの元から離れて暮らすのに、大学進学は絶好の機会になると達也は考えたからである。
母子家庭という閉ざされた環境の中で、エリカと麻奈美はある種の母子共依存関係にあるのではないかと達也の目には映っていた。子供が自立しなければならない年齢に達しても、我が子が幼なかった時分と同じように依存関係を継続しようとして自立を阻んでしまう。これは麻奈美の将来にとって決して好ましい環境ではない。
三者面談の後、麻奈美の志望する大学のオープンキャンパスに行くことになった。そのための旅費を求められたのであるが、エリカもついて行くと聞かされた達也は嫌な予感がした。もしかしたらエリカは麻奈美の進学を機に仙台のアパートを引き払い、また二人で生活することを考えているのではないだろうか。
そんな懸念を抱き始めた達也に麻奈美からのLINEメッセージが届いた。
「私、千葉の大学じゃなくて仙台の学校に志望先を変更しようと思っているから。」
と言ってきた。何があったのか?
「突然の進路変更で驚いているけど相談に乗るから、一緒にご飯食べよう。」
宮城県は亘理地方の郷土料理に秋鮭とイクラを炊き込んで作るはらこ飯があり、旬の9月から11月末にかけて食の名物となっている。そのはらこ飯を食べながら麻奈美が語ったところによると、驚いたことにエリカは来年から東京で働くことになり、そのための研修で今は仙台を離れているのだという。仕事もやはり英語教育の関係で正社員待遇の仕事らしく、二人で住むアパートも契約したらしい。
「私が関東の大学に進学するのに合わせて、ママも仙台から引っ越そうとしているらしいの。そんなの絶対嫌だから進学先を仙台の学校に変更するつもりなの。」
母子の共依存関係、いやそれ以上にエリカは一生、麻奈美から離れようとしないのではないだろうか?まるで我が子が自立しようとするのを妨げる、毒親の所業そのものではないか。麻奈美にはこの先、進学、就職、そして結婚と親から離れて自立して生きていかなければならない将来があるのというのに。
「やっぱりそうか、ママは何があっても麻奈美から離れようとしないのではないかと想像はしていた。これから麻奈美の将来のことはパパが一緒に考えるから、心配しないで。」
日本で暮らす外国籍のエリカにとって、将来の年金受給などあてにできるわけもなく、我が子は唯一の社会保障であるに違いない。麻奈美が将来看護師の職に就けば、母子で暮らしたとしても安定した収入が期待できる。
エリカは六人兄弟の末っ子として母親と暮らす期間が長かった。亡くなった母親も晩年は一緒に暮らしていたエリカに生計を依存し、達也と結婚して日本に渡ってからも末娘からの仕送りに頼っていたはずだ。親子の歴史は繰り返すというが、同様のことをエリカも麻奈美に対して強く期待しているのではないだろうか。
しかしここは日本である。麻奈美もいつかは結婚し所帯を持つ日が来るだろう。もし結婚相手の妻側に生活費を無心してくる身内がいたとしたら、配偶者はそれを何も言わずに見過ごすだろうか。よほど経済的にゆとりのある伴侶でもない限り、そんなことは許されないはずだ。日本で生まれ育った麻奈美にも、あり得ないこととして映るだろう。
もしこのままの母子関係が続けば、将来必ずや葛藤に苦しむことになる。麻奈美にそんな思いをさせるわけにはいかない、達也はそう心に刻んだ。一方でエリカは志望校を仙台に切り替えた麻奈美に対して怒り心頭らしく、電話口でかなり激しくやりあったらしい。自立しようとしている我が娘が、幼少時代の濃密な母子関係に戻ることなどないという自然の摂理を、エリカは悟ることができないままなのだろうか。
もしこの国の共同親権制度があの頃に実現していれば、達也は改めて振り返るのである。
エリカとの離婚が避けられないものであったとしても、親権を争う必要がないとわかっていれば、家庭裁判所の調停の場で麻奈美にとって何が最善かを冷静に話し合うことができたはずで、高等裁判所まで6年間も争う必要はなかったはずだ。
そして別居が必然だったとしても、入学した小学校の学区内でアパーとを借りれば転校もせずに済み、達也の目の届く範囲で麻奈美の日常を見守ることができたのではないだろうか。風邪をひいたときや腹痛で学校を休んだことも幾度もあったが、仕事を休めないエリカに替わって達也が自宅で看病することもできたはずだ。
麻奈美が最も影響を受けた貧困による生活困窮に際しても、近くに住んでいればいつでも手を差し伸べることができたと思う。しかし、月2回の面会交流だけでは断片的に聞かされる麻奈美の話から想像するしかなかったのであって、その分かわいそうな思いをさせてしまったことは間違いない。
シングルマザーなる呼称がすっかり定着し、女性の新しいライフスタイルでもあるかのようにもてはやされることが多くなったとしても、子どもの幸福という観点からすれば、やはり父親という重要な存在を欠いた環境であることに変わりがあるはずもない。
子どもにとって最も深刻な事態は、両親の離婚をきっかけとして片方の親との絆が途絶してしまい、事実上の生き別れとなってしまうケースである。幸いにも麻奈美の場合は、達也との定期的な面会交流によってそのような最悪の事態は免れることができた。しかしこれまで、この国では長く続いた単独親権制度の下、数多くの父親、母親が我が子と会うこともできずに悲痛な叫びを上げ続けているのである。
遅すぎた共同親権 おおたき たつや @sennri
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