醒彗星

減゜

Firmament Bloom

 彼がこれ以上ない羨望と憎しみを込めて描いた調べを人々は青を透く明かりと喩えた。地に一面の花々の青。恒星の光を枠に掬う青。手を握ろうと掴めやしない吹き抜ける風の青、突き抜ける空の青。不可視の青があちこちに咲き、湧く水の様に青を溢す。頬を包む瑞々しく暖かな青だった。

 感情に因果などなく、いやあったのだろうが、微塵も覚えていないのだった。彼は——フューネラ・ロストは寮の一室で制帽を被る。何処へ行くでもなく鏡に映る緑の眼を見つめていた。虹彩の筋を指で均一に広げ、それが瞬きと共に元に戻るのを想像していた。自らの心に静かに沈殿した闇と上澄みはその境界を明瞭に、〇と一に分離していく。終わりなく降る雨の冷たさ。冷えることすらない銀色の指先。大きく息を吐きドレッサーの丸椅子を離れるとベッドの縁へ戻った。腰をかければ目の前の景色はまるで絵画の様に美しい構図を持つ。草原、池、木、そして青空。咲き誇る青空の天球の遥かから差す恒星の陽が辺りを晴れやかに照らす。水辺は風を受けその波紋に旋律を奏で、木々に茂る葉が一枚一枚光を反射したりしなかったりしてキラキラと身を震わせる。——ロストはあまりに整った絵画の中にいた。絵画の中で、絵画として、その時を止めた。あまりに静謐な空間だった。

 鏡の様な水面を乱暴に揺すったのはドアを殴る様にノックする音だった。

「どうぞ」

 ドアが開く音は返事と重なった。

「おはよう。」

 所作が乱暴なのはいつも通りだった。ガラ・サイフォニアはドアを開いたその勢いのまま、彼のクローゼットをガサガサと荒らした。

「もうそんな時間か。君は何か探しに来たのかい」

 制帽から垂れるチャームの留め具を合わせながらロストは譜面を探した。

「ああ。譜面を。その辺に失くしてしまってね」

「だと思った」

 背後の気配に振り返るサイフォニアに譜面を差し出す。振り向きざまに譜面を手に取る彼はロストへにこやかに視線を合わせた。

「だと思った。助かるよ、礼を言う」

「ああ。行こうか」


 彼ら楽団を迎えたのは波の様な拍手の畝りだった。各々が自らの席につく中、ロストは一人離れたピアノ椅子に腰掛け、正面のサイフォニアの用意が整うのを静かに待った。

 …………タクトが上がる。ピアノの流れる水の様なアウフタクトが響いた。

 観衆は正に今日の日の情景の中にいた。彼の銀の指先が導く旋律は、正に晴の日の爽快な温もりだった。頬を包む瑞々しく暖かな青だった。華々しい金管の調べが満たすこの場で、サイフォニアはロストの方を見た。二人の視線がかち合う。サイフォニアは微笑み、彼の旋律をジオラマの頂点に据えた。指揮者を捉えるロストの眼差しは何処となく、彼を睨みつけている様にも見えた。

 据えられた恒星の陽は辺りを晴れやかに照らす様だった。……水辺は風を受けその波紋に旋律を奏で、木々に茂る葉が一枚一枚光を反射したりしなかったりしてキラキラと身を震わせる。観客の心に春の日の情景が起こった。――彼がこれ以上ない羨望と憎しみを込めて描いた調べを、人々は青を透く明かりと喩えた。

 ロストの小指が奏でた最後の響きがホールを満たす。磨かれた黒のピアノに映る向こうの景色を彼は見た。彼だけが知る世界。厚く光を通さない低く暗い空から、輝きを失った銀色のガラスの雨が布の様に降り注いでいた。手を握ろうと掴めやしない吹き抜ける風の青、突き抜ける空の青。不可視の青があちこちに咲き、湧く水の様に青を溢す——いや、彼は水だった。空の色を映す「海」だった。人々は皆彼を青の絵の具で塗るけれど、彼だけが知っていた、それは自分の向こうに透けるあの「指揮者」の、爽やかでいて宇宙より深い、鮮やかな鮮やかな青色なのだと。

 それでも、本当の彼の色だって、結局何もなかったのだった。

 ——ロストはあまりに整った絵画の中にいた。絵画の中で、絵画として、その時を止めた。あまりに静謐な空間だった。数年前の、数世紀前の、あの土砂降りの雨の日から、ずっと。

 溢れる様な青の歓声が周囲に咲き誇った。

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醒彗星 減゜ @D_Gale

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