妖精の国に魔法の歌を取りに行った男
のいげる
竪琴弾きの青年は天才だった。それゆえに飢えることは無かった。その竪琴の調べを聞くために人々は喜んで食物を恵んだから。
一たび竪琴の弦に彼の指が触れれば、その調べに逆らえる者はいない。彼が演奏するままに、楽しみ笑い泣き喜ぶ。辛い浮世を忘れさせる楽しき歌も、止めることなき涙を誘う悲しき歌も自由自在。
それらの音楽と共に、彼は竪琴弾きの運命に従い、村から村へと渡り歩いた。
とある村で彼はそこの領主の娘に恋をした。そして彼の竪琴の調べは見事に彼女の心を奪った。娘は美しく、それに釣り合うほどに彼の竪琴の調べは美しかったから。
釣り合わなかったのはその日暮らしの彼の地位。ただそれだけ。
その辺り一帯の領主である彼女の父親が、この恋を許すわけが無かった。しかし領主が竪琴弾きを殺すのを、その娘が許すわけも無かった。
そこで領主は一計を案じた。
「娘が欲しいならば、婚礼の贈り物として、そなた達の結婚式で歌うに相応しい歌を持って来て貰いたい」領主はそう言った。「よいな。これが条件だ」
竪琴弾きの青年は飛び上がらんばかりに喜んだ。これが罠とも知らずに。
「たやすいことです。お義父さん」
この言葉を聞いて、領主の眉がひそめられたが、有頂天の青年は気付かなかった。
「それもわしの娘とあれば、普通の歌では体面が保てない。誰もが感心するような歌で無ければ」
「お任せ下さい」
青年が自信ありげに答えるのも道理。彼は諸国を遍歴してあらゆる歌に精通していた。この国もあの国も、この世に存在する歌ならばすべて聞き覚えている。
そんな彼に取って、この申し出がどれほど簡単に見えたことか。
ダマース国のエキゾチックな歌にしようか?
それともカルデアの村の祝い歌では?
青年の心ははずんだ。
続けて領主は言葉を繋いだ。
「わしが望むのは妖精の国の歌だ。それを持って来て貰いたい」
それを聞いて初めて青年は、何かがおかしいことに気がついた。
「この土地の西に妖精の森と呼ばれる場所がある。そこには妖精の国があり、妖精の国の中には大事に守られている魔法の歌が三つあると聞いておる。三つ全部を持ってこいとは言わん。その内の一つを持って来て貰いたい」
竪琴弾きが困惑する。
妖精の国?
そんな噂を旅の途上で聞いたような気もするが。もしや、この領主は自分にありもしないものを探せと言っているのでは無いか?
「魔法の歌はどれも魔法の力を持っておるそうだ。偽の歌を歌っても無駄だぞ。わしの言うことはそれだけだ。歌を手に入れたら、娘を貰いに来るが良い」
そこまで言うと領主は配下の護衛兵を呼んで青年を館の外に追い出した。
もしも青年が手ぶらで戻って来たら追い返すつもりであったし、妖精の森に行けば行ったでそれも好都合。今までに、あの森に入って戻って来た者はいなかった。
もし妖精の歌を持って帰りましたとくれば実際に歌わせて、それみろ魔法など起きないではないか。偽の歌で騙そうとするなど怪しからんと言って首を刎ねればよい。
いずれにしても自分の目論見通りになるだろう。領主はほくそ笑んだ。
青年は悩んだ。自分が不可能な難題を押し付けられたのは判っていた。そして薄々こういうことになるだろうとも覚悟はしていた。いったいどこの領主が自分の愛娘を貧乏な旅の竪琴弾きに渡すものか。
青年とてそこまでウブではない。この恋を諦めてしまえばいい。そして別の村に行き、新しい恋を探せばいい。領主の娘ほどの女性は二人とはいないにしても、他にも女性は星の数ほどもいる。しかしどうしても青年は諦めきれなかった。そこで彼は愛用の竪琴一つだけを持ち、西にある妖精の森へと旅だった。
妖精の森へはわずか1日の道のり。少なくとも行きは。帰りの道のりは知らず。帰り来たる者無ければ。
百年に一度は帰ってきた者はいると伝えられる。その者たちはみな大金持ちになったり、国の王になったりしたと言う。そういったことがあると我も我もと妖精の森に入る者が出始めるが、そうなると今度は誰も戻って来ない。そうして噂は今の形へと落ち着いた。
妖精の森には魔法の歌がある。幸運な者はそれを手に入れられる。残りの者はみんな帰って来ない。妖精の森には近づくな。命が惜しければ。
寒い夜の囲炉裏端で古老たちが語る世迷い話。それが妖精の森の噂。
色とりどりの花咲く野原を越え、穏やかなる風に誘われて、小さき川にかかる小さき橋を渡ればそこは妖精の森。光溢れる美しい光景はそこまで。
妖精の森は風も無いのにざわめく暗い森であった。その木々の間に蟠る闇の中に何が潜むかは誰も知らず。
果してこの森には妖精達がいるのだろうか?
不安と恐怖が手を携えて、青年の背中にべったりと張り付いた。
それでも勇気を奮い起こして、青年は妖精の森へと足を踏み入れた。元より森の中には道など通っておらぬ。苦労して木々をかき分けていくしかない。
いや、妖精には居て貰わなくては困る。もし彼らが居なければ、青年にはもう恋人に会えるすべは無くなるのだ。
どんな恐ろしい妖精でもいい。居てくれ。そして魔法の歌を持っていてくれ。
青年は祈るような気持ちで歩みを進めた。吟遊詩人としての旅の間に各地で妖精の話はたくさん聞いていた。彼らは人に危害を加えることは滅多に無い。ただ、そう、ほんのちょっとだけイタズラを仕掛けるのだ。
そのイタズラがしばしば人を殺す。
武器は役に立たないだろうと判断して、青年は丸腰だった。いや、もし、武器を持っていたとしても、使うすべを知らなかった。彼がただひとつ学んで来たのは竪琴弾きの技のみ。
暗い森の中を苦労して進むと、やがて前方から何かのうなり声が聞こえて来た。
それが狼のうなり声だと気づいて青年の肝が冷えた。
この展開は予想していなかった。どういうわけか妖精の森に野獣がいるとは思っていなかったのだ。
丸腰では狼と戦えるわけも無い。竪琴は相手を叩くには繊細すぎる楽器だ。しばしば張ってある糸が切れてしまうほどの。また楽師がこれほど良く調律された楽器を、そんな乱暴なことに使えるはずも無かった。
他に成すすべも無かったので、青年は竪琴を引き始めた。死ぬなら自分のたった一つの存在理由を叶えてから死にたい。
そんな青年の悲壮な思いが篭ったのか、竪琴の調べは高く低く、無上の音楽を生み出した。それは死を超越し、澄み切った音階の中に世界の様相を反映していた。
涼し気な風は花びらを舞わせ世界を巡る。海原では船が帆を上げその風を捉え、海の上を滑るが如く進む。春の訪れを告げる風は優しく穏やかに世界を包んでいく。それらすべては天上の無窮の音楽。尽きることなき喜びの源。
どれぐらい経っただろうか?
青年が竪琴を弾き終えて見ると、目の前に人よりも大きな狼が一匹座っていた。風雨に磨かれた毛皮を着た、巨大な尾をした狼だった。鋭く立派な牙がその口元から覗いている。青年の曲が終ると、狼は腰を上げて青年に踊りかかり、頬を一嘗めしてそのまま背後の森の中に消えた。
「良い曲であったぞ」消え去る前に確かに狼はそう言った。
自分が妖精の森の中にいるのだと、青年は改めて実感した。
次に青年が妖精にあったのは、森の中の空き地であった。
赤い靴を履いた小柄な妖精は空き地の中央に生えた一本の木の上で足をぶらぶらさせていた。
「嗅ぐ者が人を通すとは珍しい。あんたで十年ぶりのお客だ。ここを通るならおいらと歌合戦して貰うよ」
そう言って、その妖精は小さな体に似合わぬ声量の良く通る澄んだ声で歌いだした。
雷鳴の閃く夜に関する歌だった。その歌が進むにつれて、すでに午後も遅く暗くなりつつある空に、より黒々と渦を巻く雷雲が現れた。
妖精が歌い終ると、その雲の中央から稲妻が一つ青年へと走り、すぐ横に落ちた。落雷を受けた立木が裂け燃え上がる。
轟音と閃光が納まって見ると空の雲は消え去り、空き地にはやはり青年と妖精がいた。まだくすぶる木だけが今のが幻ではないことを物語っていた。
「次はあんたの番だよ」妖精はにたにた笑いながら言った。
笑う口の端から牙がのぞいた。青年は妖精の座っている木のまわりに散らばるものが枯れ枝では無くて、おびただしい古い骨であることに気が付いた。そして自分は今、死神の前にいるのだということも。
青年は気を取り直して歌い始めた。竪琴に指が触れると、身体の震えも納まった。
青年の今度の歌も、命の燃える様を歌った素晴らしい歌だった。太陽の光に世界が輝くとき。月の出にほの白く光る野原。風のそよぐ草原。そこに紡ぎだされる光景には、いかなる化物でも感激の涙を流したことだろう。
この妖精以外ならば。
「なかなか素敵な歌だね。でもおいらの歌の方が力がある」
妖精はそう言うと、また、先程と同じ歌を歌った。
ふたたび空に渦巻く雷雲が現れると青年を襲い、今度の稲妻はさっきより青年に近い所に落ちた。草むらが弾け、燃え上がる。
妖精はカン高い声で笑うと言った。
「歌合戦はおいらの勝ちさ。今までも、そしてこれからもずっとね。どんな人間も雷に打たれて死ぬ。あんたの歌じゃあ、おいらを負かせることなんて出来やしないさ」
確かにそうだ。先ほどの歌でも、この妖精には効かない。狼の姿を取った妖精は感動してくれたのだが。
そこまで考えて、この妖精は元から魂を持っていないのだと気が付いた。だとすれば何を聞こうが感動などするわけがない。
次の雷は青年に当るだろう。妖精は青年をなぶっているのだ。
青年の歌では妖精を負かすことなどできはしない。青年の歌では。
ふと、思いついた時にはすでに竪琴の上を指が流れていた。
耳に聞いたままに、青年は妖精の歌ったフレーズをそっくりそのまま繰り返した。
空に渦巻く雷雲が生じたのと、妖精が叫び声を上げて逃げ出したのとは同時だった。
妖精が逃げ込んだ森の奥に強烈な雷が落ち、耳をつんざく悲鳴が上がった。そしていつ切れるとも知れない長い長い静寂。
青年は空き地を離れて、再び森の小道へと分け入った。
暗くなった森の中は不気味な有様だ。急ごしらえの松明など何の役にも立たない。周囲の木々がまるで手を伸ばしてくるかのように感じ、恐ろしい。だから前方に建物の明りが見えた時には青年はとても安堵した。例えその中に何がいるにしても、この暗い森の中で夜を過ごすよりはましだ。そう考えて躊躇うことなく、青年はドアをノックした。
「ほいほい」
ドアを開けて現れたのは緑の靴を履いたやはり小柄な妖精だった。靴以外の姿形は先ほどの妖精にそっくりだった。
「おお、これは皆の噂に出ていたお客さんだな。まあ、お入り」
気さくそうな妖精は青年に椅子を勧めると、自分はもっと小さな椅子に座って話し始めた。
「ここまで人間が辿りついたのは本当に久しぶりじゃ。あんたの事はすでに妖精たちの噂で聞いておるよ。妖精の国では噂は何より速く伝わるでな」
そこで口にパイプをくわえると、長々と煙を吸った。それを吐くと、妖精の頭上に驚くほど大きな煙の雲がたなびいた。
「あんたがどうやって、あの性悪な赤の妖精をやっつけたのかもな。なかなかの機転じゃった。あやつもちっとは懲りたじゃろう」
また、パイプを吸った。
「物は相談じゃが、あんたの歌をこのわしにも聞かせて貰えんかね?」
「喜んで」
一言答えると青年は竪琴を引いた。彼の指は恋する男の苦悩と妖精の森への旅立ちを語った。いかに恋人を愛しているかを。寝ても醒めても脳裏に浮かぶその美しき面影について歌った。彼女との間に立ちはだかる大きな障壁について歌った。領主の理不尽な要求とそれに答えて旅立つ自分を歌った。妖精たちの善と悪について歌い、これから得られる思いやりへの期待について歌った。
歌が終ると、しばらくの沈黙が続き、やがてぼそりと妖精がつぶやいた。
「それはあんた自身の歌じゃな。確かに、あんたはいいところを突いたよ」
またしばらくの間考えこんで、妖精は言った。
「本当なら、ここであんたを騙してひどい目に合わせるのがわしの役目じゃが、気が変わった。今までここに来た者達は皆が皆、己の胸に燃え盛る欲の炎に焼かれてやって来た者達じゃ。魔法の歌を盗んで偉くなろうとしてな。あんたも自分の情熱の炎に焼かれてここに来たようじゃが、ことそれに関しては、今さらあんたを責める気はわしにはせんのじゃ」
ふむ、とパイプをテーブルに置いて妖精は続けた。青年の困惑した視線の中を。
「妖精の歌は魔法の歌。正しく歌えば不可能なことは何も無い。とは言うものの、妖精の歌はいわば道具じゃ。道具というものは普通は決して感動を生み出すことは無い。
わしらが今必要としているのは感動じゃ。そしてあんたの歌は芸術じゃ。あんたならばわしらの王を救えるかも知れん」
「王を救う?」
青年は眉をひそめた。もしや、また、とんでもない役目を押し付けられるのでは?
例えば、ドラゴン相手に竪琴ひとつで戦うとか・・。
「王に歌を歌って貰いたい。先頃、とても愛していたお妃様を亡くして、ひどく落胆して居られるのじゃ。慰めて欲しい。妖精の王が悲しめば妖精の森は悲しむ。森に棲む妖精であるわしらにはそれがとても苦しい」
「それは、歌ならばいくらでも歌います。それが私の仕事ですから。ですが、報酬は頂けるのでしょうか?」
勇気を出して青年は尋ねた。命が助かるだけでは駄目なのだ。歌を持って返らなければ。
「貰えるだろう。妖精王を見事慰めれば」
「私が欲しいのは妖精の歌そのものなのです。妖精の国の妖精王が大事に秘蔵すると言う歌を、私が貰えるでしょうか?」
この妖精に目的を隠す気は何故か起きなかった。青年の目的を最初から何もかも知っているのではないかと思ったから。
「それは問題ない。なぜならば・・」
「なぜならば?」
「先ほど、歌った稲妻の歌をもう一度歌ってご覧」
「え!?」
何故、と言おうとして、青年は歌が思い出せないことに気付いた。どんな歌でも一度耳にすれば、たちまち覚えてしまうはずなのに。
その様子を見て妖精は大きく頷いた。
「ほらね。正しく所有者となれなかった妖精の歌は、使えるのはただ一度のみ。歌が道具と言うのはそういうことなのだ。あの悪意の妖精は歌合戦の規則に従って、お前さんに歌の権利を一度譲り渡していたのさ。もっとも、うまくその事に気付かなければ、あんたはあそこで死んでいたよ。まあ、ここまで来たのだから、妖精王は秘蔵の歌を貸して下さるだろう。一度だけな」
「一度で十分です」青年は希望に燃えてそう言った。
「では、明日、宮殿に連れて行ってやろう。今日はぐっすりお休み。すべては明日だ。嬉しいことにいつでも未来には希望がある」
奇妙な物の言い方をすると思いながらも青年は頷いた。一日の間に色々なことがあって、疲れ切っていたのだ。
「ああ、それから」寝室へのドアを開きながら妖精は言った。
「妖精王に歌を貰うことになったら、三番目の歌にしなさい。他の二つもとても魅力的だが、三番目の歌こそがあんたに一番役立つだろうからな」
やがて、朝の光が射すとともに青年は宮殿へ連れて行かれた。妖精の国では噂こそが何より速い。青年の到着はすでに宮殿中のゴシップとなっていた。
宮殿は森の深いところに鎮座ましましていた。大地の奥から掘り出した花崗岩を精緻に削り上げくみ上げてある。壁という壁はタペストリーで飾られ、ところどころに怪奇な怪物の彫刻が並んでいる。はい回るツタと、無数の松明と、飾られている何かの宝石が宮殿全体を見事なコントラストで埋めている。金をあしらった大扉の向こうは広間になっていて、そこには大勢の妖精たちが詰めかけていた。
妖精たちの好奇の目が青年に集中する。興奮で騒めいていて、その中の何人かは空中に跳び上がっては何かを叫んでいる。
玉座には妖精の王が座っていた。他の妖精よりも体が大きく、豪華な衣装に身を包んでいる。その衣装は金銀の糸で織られていて、王冠には色とりどりの宝石と月桂樹の葉が飾られている。そして妖精王の眼光はひどく鋭かった。
「皆の者。好奇心が満たされたならば退去せよ。余とこの者だけに成せ」
妖精王がこの命令を下すと、不満の声があちらこちらで上がった。それに対する答えは妖精王の一睨み。これは何より効いた。やがて王座の周りには青年と妖精王の他には誰も居なくなった。
「そなたは腕の良い楽師と聞いておる。余を存分に楽しませてみよ。余の憂いを晴らしてみせよ。さすれば褒美を与えよう。人間には過ぎたる褒美を」
妖精王の目がぎらりと光った。
「ただしそれができぬ場合には死を賜ることとする」
青年の体を怯えが走った。だが恋人なしにこのまま生き続けるつもりは無かった。そのために妖精の森に足を踏み入れたのだから。
覚悟が決まった。
青年は歌った。妖精王に乞われるままに。随分昔に先輩の竪琴弾きから聞かせて貰った歌だった。
それは深い愛情に包まれた夫婦と子供達の歌だった。戦争によって一人また一人と子供達が失われて行く中で、それでも耐えて行きていく夫婦の強さが歌われていた。最後には夫婦ただ二人だけが残り悲しみを癒すためにダンスをするが、その周囲を死んで帰ってきた子供たちが一緒に踊るという歌だった。
妖精王はじっと黙って聞いていた。
次に青年が歌ったのは、黄泉の国に妻を取り返しに行く竪琴弾きの歌だった。死の王に対する竪琴弾きの見事な計略も最後には妻の裏切りで終った。冒険は悲劇で彩られ、壊された竪琴だけが最後に残った。
妖精王の眉間の皺が深くなる。その指がぴくぴくと痙攣する。
最後に青年が歌ったのは、絶世の美人である自分の妻から逃げて世界中を旅する醜男の歌だった。行く先々であらゆる女に振られながらも、自分の妻から逃げ続けるという歌だ。世界をぐるりと一巡り、最後に声を掛けた女が振り向くとそれは自分の女房だった。
妖精王は苦い笑いを漏らした。
「どうやら余の負けじゃ。苦笑いでも笑いは笑い。よかろう。
選ぶが良い。望みの歌をそなたに上げよう。ただし覚えたとて、歌えるのはただの一度切り」
妖精王は言った。やはりすでに青年の望みを知っていた。
「しかし妖精王様。私の歌ではご不興が晴れなかったと存じます」
「それは良いのだ。余の憂鬱を晴らすことができるのはこの世でただ一人の女性のみであった。今までもそうであったし、これからもそうでなくてはならぬのだ。それゆえに、そなたが挑戦した課題は最初から不可能な課題であった。余をくすりとでも笑わせたなら、それで十分なのじゃ」
妖精王は遠い目をした。その視線は遠く黄泉の国へと注がれていた。しばしの沈黙の後、先を促すかのように妖精王は言った。
「選べる妖精の歌はただ一つのみ。そして、妖精の歌を使えるのはただの一度のみ。それでよいな?」
「それで結構で御座います」青年が答える。
「我が玉座には三つの歌がある。一つは・・」
妖精王は歌った。素晴らしいテノールの声で。歌い終えると、王座の前にはどこから現れたのか宝物が山と積まれていた。
「このように無限の富を生み出す。そなたにはたった一度しか歌えぬとしても、一生涯贅沢に暮らせよう」
青年はあの妖精の忠告を守ることにした。一番目の歌を断る。
「そなたは欲が無いのう。まあ、妖精の国では宝など意味が無い。わしにはこの歌は役に立たん」
妖精王はそう言って溜め息をついた。
「では、二番目の歌じゃ。これは・・」
妖精王は高らかに歌った。青年は歌を聞く端から忘れていくことに気付いた。
歌が終るときらめく鎧を付けた兵隊の一団が宙から現れた。手に手に剣を持ってざわざわと騒がしく動きまわる彼らを妖精王は手を一振りして消し去った。
「二番目の歌は、不死身の魔法の軍隊を生み出す。彼らが居れば、どんな戦争にも負けることは無い。これではどうだね?」
青年はためらわずに首を横に振った。竪琴弾きが軍隊を持ってどうすると言うのだ。
「妖精の王国に軍隊を必要とするような戦は無い。この歌もわしには役に立たない」
妖精王はまたも溜め息をつきながら言った。
「結局、余の玉座に隠されておる歌は全部余の国では役に立たない歌ばかりじゃ」
妖精王はそこで困ったように青年を見た。
「後、残っているのは三番目の歌だけだが、これは余りそなたも喜ぶまい。詰まらぬ歌なのでな。どうじゃ、最初の歌で」
「三番目の歌を教えて下さい」
やれやれという動作で妖精王は肩をすくめると、手を伸ばして青年の持つ竪琴に触れた。
その指に触れ、張ってある弦が一本切れた。
「良く見ておれよ」妖精王はそう言うと三番目の歌を歌った。
竪琴の切れた糸はたちまち繋がった。
「三番目の歌は切れた糸を繋ぐ。まあ、この妖精の国では、これらの歌の中では一番役に立つかも知れんな。ほつれた糸ぐらいならば多少はあろうから」
青年はここで迷った。どの歌を選ぶか。
一番目の歌ならば・・どれほど役に立つことか・・。財宝はどんな場所どんな状況でも役に立つ。妖精の森以外なら。
青年はさらに考えた。これらの富があれば領主は喜んで娘を嫁にくれるだろう。青年が約束の歌を持って来たこととは別にしても。
いや。青年は考え直した。領主は青年を地下牢に閉じ込め、なんとかもう一度魔法の歌を歌わせようとするのではないか?
歌がただの一度しか使えぬとは信じないだろう。強欲にその両目を曇らされて。
では二番目の歌はどうだろう。危険が身に迫った場合には役に立つ歌だろう。だが恋人を手に入れるためにはそれを領主の前で歌わねばならず、魔法の軍隊を手にいれた領主が何を始めるのかは容易に想像がついた。
財宝も軍隊もどちらも災厄でしかない。竪琴に載せて運べる大きな大きな災厄。しばらく迷った末に、青年は意を決した。
「三番目の歌を頂きたいです」
これならば誰の害にも成りはすまい。
妖精王は大きく笑って言った。
「何と欲のないことよ。しかし竪琴弾きのそなたにはふさわしいかもしれんな。これで竪琴の糸の切れる心配はしなくて済むからな、少なくとも一度だけは」
それから妖精王は真顔になって言った。
「誰に忠告して貰ったのかは知れんが、そなたには役に立つだろう。
余にはこの歌は役に立たなんだ。余は妃を愛しておったが、妃は余を愛してはおらなかったから」
妖精王は遠くを見る目付きをすると、竪琴弾きに向かって手を振った。
「もう良い。行け。そなたを見ておると、余が決して得られなかったものを見せつけられている気がする。帰りは誰もそちの邪魔はせん。まっすぐと、矢のように素早く帰るが良い」
気が付くと、青年は妖精の森の外に居た。
風も無いのにざわめく森を見ていると、まるで今までのことが夢のようだ。自分はここに立ったまま、白昼の夢を見ていたのか。
妖精の国に入ったという?
だが、心の中には三番目の魔法の歌のフレーズが残っていた。一度歌えば消えてしまう魔法の歌のフレーズが。
心浮き浮きと歩を進めていた青年は不思議な戸惑いを覚えた。見なれた村の風景のはずなのに、どこかが違う。
その思いは、村に近付くに連れて強くなって来た。昨日の朝、出がけに見たはずの光景はこのようなものだっただろうか?
あんなところに木があっただろうか?
こんなところに空き家が?
その違和感は領主の館に着いたときはっきりした。
館が無い!
青年は愕然とした。
そこにあったのは崩れ落ちた古い瓦礫の山だけだった。
館の跡は、丈高い草に覆われて、どうみても、昨日今日に崩れ落ちたものでは無い。
訳も判らず、そこに立ち尽くす青年を村の者が見つけたのはどのくらい立ってからだろう。
青年の質問に、見知らぬ村人達は答えた。妖精の森に入った青年の物語は村に伝わるたった一つの伝説になっていたのだ。
確かにここには御領主様の館がありました。随分と昔のことだそうですが。なんでも、後継ぎの美しい一人娘が旅の竪琴弾きに恋をしたそうです。
領主は一計を案じて、竪琴弾きを妖精の森に送り込んだそうですが、翌日から妖精達が村の丘に現れて歌い出しました。竪琴弾きが如何に勇敢に森に挑戦したかを。如何に領主が青年をだましたかを。そして、如何に勇敢に青年が戦い続けているかを。
妖精界の一日は地上界の百年にあたる。最後には青年は目的を達するのだろう。恐らく、妖精の日付で明日には。そして帰って来るのだろう。百年後に、この地上に。
妖精達は村の丘で、そして村の道々でそんな内容の歌を歌った。彼らの意図がどの辺にあったのやは知らず。恐らくはただ人間の世界に混乱を持ち込もうとしたのではないか。あるいは青年の意志を知らせようとしたのかも。それが妖精の善意なのか悪意なのか、誰にもそれは判らなかった。
こうして、領主の娘は妖精達の歌を聞き、真実を知り・・そして、己が命を断ったのです。
それ以来、領主の館は無人です。領主がどうなったかは誰も知らないまま、住む者も無く館は崩れ果て、荒れ果てた。
その哀れな娘御の墓は妖精の森を出たところの丘の上です。決して館の近くには埋めてくれるなと。出来るだけいまも妖精の国で戦い続けている青年のそばに埋めてくれと。そう書き残されていたからです。
わしらはこの話をひい婆さまから、そしてひい爺さまから伝えて来ました。
丘の上の今では草に埋もれて所在も定かでは無い娘の墓を、青年は探し求めて一人訪ね歩いた。
歩いて疲れ果て、つまずいたそれが娘の名が彫ってある小さな墓だった。
ああ、あれだけ苦労して歌を貰って来たのに。青年の中では最後に娘に会ったのはほんの数日前だったのに。
今では彼女との間は百年の歳月とそして生と死の境界によって隔てられている。
妖精王はきっと知っていたのだ。すでに地上では娘が死んでいることを。
『三番目の歌こそがあんたに必要になるだろう』
そんなことはない。宝物も軍隊も、そして糸繋ぎの歌も、死んだ者には役には立たない。
たった一度だけ歌える魔法の歌。
青年は竪琴を取って弾き始めた。全てを奪われた妖精の王国への旅から、一つだけ貰って来たものを。今や全て遅きに逸した過去に向けて捧げ始めた。
この歌は恋人に捧げる愛の証。
目は涙で曇ったが、指と竪琴は歌を覚えていた。
妖精の王国の秘蔵の調べが丘に流れる。
魔法の歌が世界を満たす。
妖精の王国の玉座深くに秘蔵された三つの歌の内の最強の歌が。
神をも欺く、全ての切れた糸を繋ぐ歌が。
『余には役に立たなんだ。余は妃を愛していたが、妃は余を愛していなんだゆえ』
妖精王はそう言った。だが青年は違った。青年は恋人を愛し、恋人もまた青年を愛していたのだ。その命を投げ捨てさえするほどに。
強烈な歌の魔力が丘の周囲の空間を歪めて行く。雷光が歌を中心に集まり周囲で弾ける。神の摂理さえもが顔を背けて逃げ出すその力。
全ての切れた糸を繋げる力。
それはあらゆる切れた糸を繋ぐ。失われた過去の肉体も。過ぎ去った魂も。消え去った命も。
途中で無惨にも断たれた愛という名の糸があれば。その切れた糸さえあれば力は働く。世界そのものを拒絶して。
雷が落ち、墓が砕けて飛び散る。風は轟々と轟き、太陽は暗雲の背後に隠れた。大地は揺れ、誰のものとも知れぬ悲鳴が空を満たす。
そして。
そして、娘は蘇った。青年がつい昨日の様に覚えている、その姿で。
こうして竪琴弾きの青年と遥か昔に死んだ伝説の娘は、今ひとたびの時を得た。
二人が幸福な人生を過ぎたことは言うまでも無い。青年は天才的な竪琴弾きであったし、娘はそんな青年に心から惚れていたのだから。
二人は穏やかでごく普通の生活を送った。ただ、一つの点を除いて。
竪琴弾きに取っては歌は取り引きの材料。しかし竪琴に取っては歌は存在そのもの。世界が生まれ出たその日より、この世界の全ての歌に対して竪琴は正当な所有権を持つ。
竪琴弾きは妖精の歌を忘れた。が、しかし竪琴はその歌を忘れなかった。
青年の竪琴の糸は生涯切れることは無かった。
妖精の国に魔法の歌を取りに行った男 のいげる @noigel
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