泡沫の約束
遠藤世作
泡沫の約束
「私ね、そろそろ消えるの」
隣のベッドに横たわった彼女が、僕に向かってそう告げた。
彼女は若かったが、身寄りが無いらしかった。だから、いくら待ってもお見舞いには誰も来ないし、話し相手もいない。……たまたま同じ病室となった僕以外は。
「消える?人間が急に消えるはずないじゃないか」
僕は軽口を返す。ここに入院して数ヶ月が経つが、彼女は僕よりもずっと前からいるらしかった。最初は目があったら挨拶をする程度だったが、日数が経つにつれてやることもなく暇になり、病室に僕ら二人しかいないこともあって、いつしか互いに暇つぶしとして、他愛のない会話をするようになっていた。
「いいえ、私のことは私がよく知ってる。断言できる、今日、私は消えるわ」
「それは、死ぬってことかい?」
「そうね、そう言い換えもできる」
彼女がさっぱりと言い切る。けれど僕には、彼女が死ぬとは到底思えなかった。医学についてちゃんと学んだことが無いから言えるのかもしれないが、彼女の肌ツヤは良く、言葉を詰まらせるようなこともない。点滴や、呼吸器をつけているということもなかったのだから。
「冗談はよしてよ」
「まさか。冗談なら死ぬなんて縁起でもない言葉、私は口にしないわ」
彼女の真剣な眼差しに、僕は困惑し心を痛めた。もし本当なのであれば、彼女には死んでほしくない。話し相手がいなくなるのは、寂しい。
「どうにかならないのか」
「残念だけど、どうしようもないわね」
「どうして、そんな突然に」
「あら、おかしなこと聞くのね。死というのは誰にでも突然にやってくるものよ。それが遅いか早いかの違い。私には、みんなよりちょっぴり早く死が訪れただけ」
彼女の考えは、悟りを開いたかのように達観していた。これから死を迎える人間というのは、皆こうなのだろうか。いいや、違うだろう。僕だったら泣き喚いて、死にたくないと暴れる気がする。
「君はすごいな」
「そうかしら?」
「ああ、心の底からそう思うよ。死を前にしても自暴自棄にならず、真っ直ぐに自分を見つめている。そんなこと、僕にはできない」
「ふふっ、ありがとう」
彼女は微笑むと、今度は哲学的な話をしだした。
「ねえ、私ね、人間はシャボン玉だと思うの」
「シャボン玉?」
「そう、シャボン玉よ。きっと誰もが、誰かに息を入れられたの。それでフヨフヨと風に運ばれるのが人生で、何かにぶつかったりして割れるのが死──つまり人生の終わりなんじゃないかって」
「面白い考え方だね。でもそれだったら、泡に例えても良くないかい」
「泡はダメ。だって、あれは水面に出るまで必ず浮くものじゃない。人生はそうじゃなくて、上だけじゃなく横にいったり、落ちたりする遊びが無ければいけないわ」
ははぁ、と感心する。彼女の考えがそこまで深かったとは。
「すごいなぁ。本当にすごい」
「…?なぜ、あなたが泣くの?」
それは、無意識だった。自分でも気づかなかった。僕の目から涙がこぼれて、頬をつたっていた。
「あれ、ほんとだ。何でだろうね」
悲しみの涙なのか、哀れみの涙なのか。きっとどちらもなのだろう。彼女が、どうして死ななければならないのか。
「…やっぱり、人はシャボン玉ね。すごく綺麗。私みたいな他人に涙を流す、あなたの姿がその証拠」
「よしてくれ、僕はこれでも男だ。綺麗じゃなく、かっこいいって言ってもらわなきゃ」
僕は哀しみを振り払うように、入院生活で痩せ細った腕を曲げて、彼女にありもしない力瘤を見せた。
ふふふ、と彼女が笑う。あはは、と僕も、泣き笑う。二人で静かに笑い合う、この時間が続けばいいのに。
笑い終わると、今度は二人とも黙ってしまった。会話の流れを切ってしまったから、何て言い出せばいいか分からない。けれども、何かを喋りたい。そう思いモゴモゴと口籠もっていると、先に彼女が口を開いた。
「ねえ、最後にお願いがあるの」
──最後なんて言わないでくれ。そう返したかったけど、言ったらさらに涙が止まらなくなりそうで、何より彼女の大事な決意を踏み
「なんだい」
絞り出した返答は、震え声に近かった。けど彼女が泣かずに喋っているのに、これ以上、僕が泣いてはいけない。
「あなたに長生きしてほしいの。長生きして、その美しい姿を見せつづけ、高く大空へと飛び立って欲しい。私は天から長く、あなたの姿を見守りつづけていたいの」
違う、違うんだよ。君にとってそうであるように、僕にとってのシャボン玉は君なんだ。君が消えたら、駄目なんだ。頼む、どうか消えないで──。
「…わかった、約束する。僕は絶対、長生きするよ。こんな病気になんか、負けない」
飛び出そうになった心の叫びを飲み込んで、僕は彼女に笑顔を見せる。
「うん、ありがとう」
…駄目だ、まともに彼女を見ると、笑顔が泣き顔に変わってしまう。苦し紛れに顔を背けながら、今度はこっちから言葉を投げる。
「僕からも、一ついいかい?」
「なに?」
深呼吸を一つ挟み、勇気を出して、その言葉を彼女へ告げる。
「──ずっと言ってなかったけど、僕はどうやら、君が好きみたいなんだ」
彼女への、一度きりの告白。もっと早く、言っておけばよかった。
「……ふふっ、知ってるよ」
「え?」
「だって、私とこんなに話してくれてたんだもの」
──その瞬間から、彼女に異変が起き始めた。手の先、足の先から、彼女の身体が泡に変わっていく。比喩ではなかったのだ。彼女は本当に、消えてなくなってしまうんだ。
「待って、いかないで」
どうして泡になっていくのとか、君は人間なのかとか、そんなことはどうでもよかった。彼女にいなくなって欲しくない、それだけに心は染まった。
「あなたに会えて、幸せだったよ」
泡の侵食は速かった。彼女の腕と脚はもう無くなって、あと少しで全てが消える。
「泡にならないで、止まってよ」
願いは、叶うはずもなかった。ついにベッドの上には誰もいなくなった。そこには、少しの泡が残っているだけだった。
僕は泣いちゃ駄目だと涙を拭ったけれど、涙は僕の言うことを聞いてくれなくて、拭えば拭うほど出てきてしまう。顔を覆ってもそれを止めることは出来なくなって、僕は手の隙間から、ボロボロと涙をこぼした。
すると泡の一つが、窓からの風でふわりと浮いて、僕の身体に当たり、弾けて消えた。なんだかその時、彼女の「ありがとう」という声を聞いた気がした。
…しばらくしてやっと涙が止まったのは、僕が泣き疲れて眠ってしまったあとだった。
──目が覚めると、先生がベッドの横に立っていた。手術前に、何個かの検査をするらしい。
しかし、病室から1人いなくなったのにあまりに平然としているので、僕は気になって「先生、隣の子は」と聞くと、「何を言ってるのですか、この病室には君以外いなかったでしょう」と返された。どうやら彼女は、皆んなの記憶からも消えてしまったらしい。不思議といえば不思議だが、きっとそういうものなのだろう。深く考えようとは思わなかった。
そうして検査を終えると、まさかの事態が待っていた。
「なんということだ、腫瘍が消えている!」
先生が言うには、元からあって手術で取り除く予定だったものも、転移して手の施しようがなかったものも、全部が全部、綺麗さっぱり消えてしまったらしい。
「奇跡ですよこれは!よかったですね!」
「そうですね」
適当に返事を返したけれど、僕は知っている。奇跡なんかじゃない。きっと彼女が記憶の代わりに、僕の腫瘍を消してくれたんだ。
「ありがとうは、僕の方だよ」
検査から戻った病室で、隣に向かって小声で呟いた。
さて、彼女のおかげで元気になったのだから、僕はあの約束を果たさなければならない。
──僕と消えた彼女だけが知っている、二人だけの約束を。
泡沫の約束 遠藤世作 @yuttari-nottari-mattari
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