Sea Sugar
九詰文登/クランチ
Sea Sugar
朝焼けが空を彩り、地平線からわずかに漏れる光が波を煌めかせる。そんな朝、五時半。足の裏が砂を固める感触を静かに味わいながら、時々強く吹き付ける風の独特な匂いを感じながら、か弱く美しく押し寄せる小波の音を聞きながら。僕はこの静かな砂浜の王となり、その道を闊歩する。
昼までは五月蠅いうみねこの声も、子供のお絵かきのような個性を存分に発揮する人の声も、自然を汚し、現実いや文明という無様なものに引き戻す車の音さえも聞こえない。
これは僕のための道、僕だけが歩くことを許された道。実際そんなことはないのだが、微かにこの美しいと言う言葉以外が、浮かばないこの景色が僕をそんな気持ちにさせる。だが今日は違った。
綺麗な黒い髪に、白いワンピース、淡い色の麦わら帽子。かわいらしいサンダルを、そのワンピースの白さに負けず劣らずの肌をした手で持ち、波打ち際をゆっくりと静かにそれこそ優雅に歩いている一人の少女がいた。でもどこかその足取りは覚束ない。
夏の静かな海という状況で女性の格好と言えば、と言われ考えつくであろう全てのものを身に着けた少女の後ろ姿だけで、可憐で素直な子なのだろうと想像させる。
僕は僕の道を侵すものがどういうものなのか知りたいという好奇心と、男が故の汚い下心の元、その歩みを少しだけ早めた。後ろから驚かせないように静かに声を掛けると少女は僕を待っていたかのように、ほぼ同時に僕の方へ振り向く。
想像通り目鼻は整い、顎はシャープで、耳は可愛く小さい。日本的な顔立ちの可愛さと共に、どこか異国的な美しさを漂わせる。少女は静かに笑い、僕の隣に着いた。
僕は可愛い女の子の隣で歩くという何とも言えないサプライズに驚きながらも少女と歩みを共にした。僕は一方的に話しかけることはせず、この海を楽しんだ。彼女と共に。
その静かな歩みに対して僕は妙な落ち着きを覚えていた。まるで彼女は昔からの友人で、共に人生を歩んできたかのようなしっくりとする感覚。安心感と言うのだろうか。自分でも気味が悪いくらいに彼女に対して気を許している。
それこそ彼女も僕に話しかけようとはせず、静かにでも先ほどとは少し違い、楽しそうに歩いていた。そして僕の散歩道は終わり、砂浜の奥にある階段から町へと戻る。それを彼女に伝え、そこで別れた。
早起きは三文の徳というが、今日は金では代えられないほど心地の良い朝であった。確かに彼女と交わした会話は二言三言であったが、彼女と歩いたと言う事実がなぜか僕を嬉しくさせる。
僕は明日もいてくれるだろうかという淡い期待を胸に、町へ戻る。
今日も僕は海へ足を運ぶ。いつもは足を取る砂浜も今日は僕の足を軽快に跳ね返してくれる。そう感じるのは僕の気分が高まっているからだろうか。心なしか海風もどこか甘い心地よい匂いに感じられる。白い砂浜、青い海。シチュエーションとしては素晴らしいが、そこに一人白いワンピースの彼女がいることで、その場は僕にとって代えがたい価値ものになった。
どうだろうか、風が強いから髪型は変な形になっていないか、顔を洗ってきたが目ヤニなどはついていないだろうか、起きたてだから声に張りはあるだろうか。一度小さく咳ばらいをして喉の調子を確認する。そして小さな挨拶を一つ。
すると彼女はゆっくり振り返り静かにほほ笑んだ。昨日と同じ反応。僕は彼女と歩くこの時間を楽しみにしていたが、どこか彼女をもっと深く知りたいという気持ちが僕の中で芽生えつつあった。
僕は当たり障りのない感じで彼女に名前を問う。しかし彼女は微笑むだけで何も返さない。その反応に引っ掛かりを感じた僕は、少し語気を強めて彼女に問う。どこから来たのかと。昨日急に現れたが、遠いところから来たのか。この街に引っ越してきた人間なのかと。しかし彼女は先ほどより苦い顔をしながらもほほ笑むだけである。
その時の僕は自分のことしか考えていなかったのだ。もっと彼女にやさしく接していれば結果は変わっただろうか。彼女は急に立ち止まり、遠くの世界の淵をじっと見つめていた。そこからは徐々に日が顔をのぞかせつつある。僕はそんな彼女に、もどかしさいや怒りすら覚えていたのかもしれない。そして彼女を無視して散歩道へ戻ってしまった。
浅はかだった。今まで笑い歩くだけだった彼女の新たな行動は何かを僕に伝えようとしていたのかもしれないと言うのに。今僕が彼女を独占していると言う優越感と安心感から彼女を突き放し、僕はまたこの道を一人で歩くことを選んでしまった。
無意識と言ってしまえば無意識。だが自分の気持ちに、それどころか彼女の優しさに背くこの行為は僕という人間を僕の中で殺したようなものだった。砂浜が僕を海底に誘うかのように、足を掴んでくる。小波が僕を消し去ろうと強く迫って来る。その日、砂浜の王は自らが裸であることに気付いた。
小説の世界ではこんな時雨が降る。勝負に負けた時、やる気が出ない時、誰かに怒られた時、そして愛した人をなくした時。愛、そんな大きな責任が伴う言葉をこんな簡単に使っていいとは思わない。でも彼女に対する気持ちは好き以上で、ゆっくりと育てていけば愛足り得る感情だった。
何を急いでいたんだろう僕は。何を求めていたんだろう僕は。なんで理解しなかったのだろう僕は。
何を伝えたかったのだろう彼女は。
僕の過ちを指をさして笑うように、太陽は昇る。この愚かな僕を強く僕を売ってくれたらと思うのに。果てしなく空は青くて雲はどこにもない。これが彼女との別れの日ならばなんと皮肉なことだろう。僕の右頬を強く照らす朝日は温かく涙すらも乾かす。
白い可憐な少女の姿は雲と同じようにどこにもない。夢だったのかもしれない。嘘だったのかもしれない。あれは天が僕に見せた蜃気楼だろうか。
僕の頭の中をぐるぐるとほんの少しの想い出が回り続ける。そう、彼女との思い出は少しだった。でも今まで生きていた中で一番充実して、一番生きている実感を持てた時間だった。
僕は彼女と会うために生まれ、無意識のうちにこの浜で歩くことを望んだのだと。誰もが運命と偶然に縋る世の中。僕はこの別れまでが必然だったのだろうと思う。そして彼女が最後の言葉を残すように、あの麦わら帽子が浜に小さく置いてあるのも多分必然。
その彼女が被っていた麦わら帽子。持ち上げるとかすかな鼻につく藁の匂い。その奥にあの彼女の匂いがした。麦わら帽子の中にはとてもきれいな形な巻貝と、すらっと伸びた珊瑚の欠片が。置き土産。彼女が何かを僕に残してくれた。それだけでうれしかった。でもやっぱり寂しかったんだ。
手を頑張って動かして近づいてきた子供が小さく聞いてくる。
「返しちゃってよかったの?」
彼女は遥か彼方の空を見上げた後、その小さな子供に言う。
「うん。あの声じゃあ彼を驚かせてしまうし、子供の頃から時間も経ってたし」
その言葉の後に、一つ置いて彼女が続ける。
「ニンゲンは足より声の方が大切みたい」
小さな子供は少し悲しそうな声をして言う。
「でも彼は泣いていたよ」
「もっと一緒に居たら彼が……。私が戻れなくなっちゃうよ」
彼女の涙は溢れても、すぐに水に溶けていく。
「そっか。でも僕は帰ってきてくれてうれしいよ」
小さな子供はその小さな頭で頑張って思いついた言葉を彼女に伝える。
「ありがとう」
彼女はその子供の頭を撫でた後、もう一度遥か彼方の空を見つめ、彼といた場所を思い出す。そして愛する皆の元へ、彼の知る筈のないところへ潜っていく。
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