第37話

 浙冶と樊季は昌の城市に帰ってきた。結局、ふた月近くの旅になってしまった。すっかり晩秋となり、冬が足音を立ててすぐ近くにやってきていた。


 璃鈴や高殊とは城市に着いてから別れた。名残惜しそうにする樊季に向かって璃鈴は笑いながら言った。


「べつに今生の別れじゃないし。また仕事で会えるわ」

 お世話になったわと言い残して璃鈴たちは帰っていった。


 数日後。昌令府の昼時。いつもの飯店に浙冶はいた。なぜか樊季も対面に座っている。


「あんた、また同じもの食べてるの?」

 浙冶の口にしているものはいつも通り、具のない麺だった。いつもの通り、いつもの日常だ。

「好きで食べてんだからいーだろ」


 浙冶が面倒そうに返す。樊季はそれには答えずに店員に向かって手を挙げ、注文をした。

「すみませーん。こっちに青菜の炒め物と豚肉と野菜の味噌炒め、あととうもろこしの湯と肉包三つくださーい!」

「お前、よく食うなー」


 卓の上いっぱいに皿が並べられると、浙冶が呆れたような感心したような声を出した。

「私ひとりで全部食べられるわけないでしょ。あんたも食べるの、はい!」

 樊季が取り皿数枚を使って大量に盛ったものを浙冶は強引に渡された。

「ほとんど全部じゃねーか!」

「文句言わずに食べなさい。傷の治りが遅かったのは滋養が足りないからよ」

「食いもんは関係ないだろ」

「関係あるの。滋養が身体に行き渡れば回復も早くなるの。ほら、さっさと食べなさい」

「俺ひとりじゃこんなに食えんぞ。樊季、お前もさっさと食えよ」


 浙冶は諦めて、不承不承箸をつけた。が、言われた樊季はきょとんとしている。すぐに気がつき、「ああ、それは無理よ」と当たり前のように言い放った。

「だって私、お昼はもう食べたもの。これ以上食べられないわ。あんたひとりで残さずに全部、責任もって食べてね」

「話が違うだろうが!」


 注文してしまったものなので、残すともったいない。浙冶はなんとか食べ終わると、そういえば、と樊季がやや詰問口調で話を始めた。


「なんで言わなかったのよ」

 浙冶が自分の給金を、学舎の運営や子供たちの生活の糧となるように手工業の組合に注ぎ込んでいる。つい最近、樊季はそのことを知った。


 学舎では学問のほか、子供たちを職人として育てたりもする。いずれは自立して食べていけるようにするためだ。

「わざわざ言う必要がないだろ」

「言ってくれてもいいじゃない、私には。なんでそんなことをしてるの?」

「食うためとはいえ、道を誤ったのは俺の単なる言い訳だからな。世の中には俺より生きるのが大変でもぎりぎり道を誤らすに生きていってるやつらがたくさんいる。けどな、幼い子供だけでは生きにくい世の中でもあるんだよ。だから、俺みたいなやつを増やさないようにできればなと思った、そんだけ」


 浙冶はかなり早口で喋った。浙冶なりの照れ隠しなのかもしれない。

「魚をやるより釣りの仕方を教えるほうがいいって言うだろ?」


 そのことば通り、浙冶は帰ってきてから康令府の村についても対処した。陶磁器の産地として踏み出せないかと思ったのだ。あの村の近隣一帯が大昔、湖だったことを地図から思い出し、樊季に食事抜きにされた夜、土をいじって質を調べてみたのだ。湖の堆積物からは良質な粘土が採れることがある。


 怪我からある程度回復した後、往路に助けた焼き物売りの子供とその一団を探し出して、陶磁器作りの指南役として派遣してもらえないかと交渉した。もちろん、村の長老にもその後すぐに話をつけた。結果、双方共にやる気のようだ。上手く軌道に乗れば、長葉明が買い上げるという約束になっている。


「ああ、忘れてた」と言いながら、浙冶は懐から布に包まれたものを取り出した。

「お前にやる」

 布を広げると花をあしらった小さな髪飾りが現れた。作り物ながら、淡い紅色の花びらが幾重にも重なり気品のある様は本物に劣らない。そして、可愛らしい。

 樊季は不思議そうに手に取った。


「髪飾り? 蓮の花ね。どうしてこれを?」

 浙冶は頭を掻きながら、ちょっと目を逸らし気味で返答をする。

「清羽っていただろ、うちの店に来ていたガキの。職人の元に弟子入りさせて、今こういうものを作らせている」

「髪飾りを?」

「装飾品全般だな。まだまだ修業の身だからそれも試作品だ。だけどよくできているだろ」

 樊季はじっと手元の髪飾りを眺めている。

「ちゃんと対価は払ったさ。最初にできた品を俺が買うって約束になってたからな。けど、俺が持っていても仕方がないからお前にやる。他意は全然ないから心配するな。まあ、別につけなくてもいいしな」


 尹家の簪はその後、樊季が手放したことを水に流してくれたかのように、新しいものが嬰舜から贈られてきた。そのように浙冶は聞いている。破談にもならなかったらしい。樊季も安堵したはずだ。


 しかし、前の簪はあれほど気に入っていて常に身に着けていたのに、新しく贈られたものを髪に挿しているところを見たことがない。常に持っている様子もなかった。気に入っていないのかそれとも今度はなくさないように仕舞っているのか。


「蓮って縁起がいいのよねぇ。清くて品性が高いって意味があるのよ。私にぴったり」

「へぇ、そうか。足りないもんを、何か身に着けることによって補うっていう意味では確かにぴったりだな」

 樊季が得意げに言うと、浙冶がいつも通り悪態をつく。


「どういう意味よ!」

「しっかし、よりによって蓮かよ。清羽のやつ、他にも花なんてあるだろうに」

 浙冶がまだぶつぶつと文句を言っている。が、樊季の言葉に対してではないようだ。

「まあ、邪魔になりそうなら返してくれ。だれかほかのやつにでもやるさ。どうせ尹家には持っていけないしな」

 樊季は渡されたものをしばらく見つめていた。答える代わりに、そっと髪に挿す。

そして。ふんわりと柔らかな笑みを見せた、浙冶に向かって。

 浙冶は顔を赤くし、視線を逸らした。そして、ぼそりと呟く。

「まあ、一応、礼だ」

「礼? なんの?」

まさか聞き返されるとは思わず、浙冶は言い淀んだ。とっさに下手な言い訳をしてしまう。


「まあ、あれだ、服を洗って繕ってくれた」

 それが理由ではない。嫌っていたはずなのにわざわざ探しにきて命を助けてくれた。自分の幸せを捨てようとしてまで。


「けどな、この服縮んだみたいだぞ。袖とか裾がなんか短い」

 腕を広げてみせると、明らかに少し袖の長さが足りない。それを見て樊季がむしろ感心したように言う。

「それ、服が縮んだんじゃなくて、あんたが大きくなったんでしょ。きちんと休んでちゃんと食べれば、まだ背も伸びるのねぇ」


 言われて浙冶は自分の身体を見回した。自分では分からないものだ、日々どのくらい成長しているかなんて。


 樊季はその様子をしばらく眺めていた。が、身体を前のめりにして小声でいきなり突飛なことを言い出す。

「ねえ、あんたの本名を教えてよ」

 途端、浙冶は動きを止め、ぶっきらぼうになる。

「誰が言うか。知らないほうがいいってあれほど言っただろが」

「あら、延令で教えてくれようとしたじゃない」

「それは! ああゆう事態になったからだろ。しかもお前、結局俺の言った通りにしなかったしな」

「当たり前じゃない。あんたを見捨てて自分だけ助かろうなんてだれが思うのよ」


 浙冶は呆れ顔をした。まあ、こいつはそうだろうなといつも通りの感想しか出てこない。しかしだからこそ、浙冶も自分を犠牲にしてでも助けようと思ったのであるが。それに構わず樊季は続ける。

「ねえ、名前だけでもいいじゃない。どっちかって言うと、聞くとまずいのは家名の方でしょ?」


 そりゃそうだけど、と浙冶は思案顔になった。少しぐらいなら自分のことを話してもいいかという気にはなっている。

 誰にも言うなよと浙冶が手招きをすると樊季は顔を近づけた。耳元で何かを囁くと樊季が「どんな字を書くの?」と訊いてきた。

「そこまで教えられるか!」

「何よ、けちね。減るもんじゃないのに」

「そういう問題じゃねぇっていってんだろが!」


 いつも通りの口喧嘩に、いつもと違う内容の喧嘩。こいつとはどこまで関わっていいのかと、浙冶はちらりとそんなことを思った。


「ねえ、これからこの通りを花嫁行列が通るそうなんですって。見に行きましょうよ」

「お前、ホント、花嫁行列好きだなぁ。にしても、季節外れすぎやしないか?」

「東宜が変装してるのかもね」

 樊季がからかうように言った。浙冶は一瞬、むっとする。


「俺が見に行ったって仕方ないだろ。勝手に行って来いよ」

 半ば追い払うように浙冶は右手をひらひらさせた。その手を樊季は両手で掴む。

「いいから、あんたも行くのよ。さあ!」


 樊季が急かすように浙冶の手を引いた。お互い、握った手を離さない。そのままふたりは大路の人混みへと消えていった。


 襄国の大商人として蓮桐晢と葉樊季の夫婦の名が知れ渡るのはこれより先、数年後のことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

襄国商人話譚 江季東歩 @tokou-duhuang

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ