第36話

「士兄の予想通りだったね」


 延令府にある政務室の一角。東宜は目の前の人物に緊張気味に話しかけた。


「最初から瑯地府だと知っていた。分からぬ方がおかしい。ただ、貴様の知人も信用できぬが」

「そうかな? あいつはいい奴だよ」

 士准は顔を上げず、無機質に言葉を返す。

「いい奴と信用できる奴は違う。それに、目上の者に対する言葉遣いおよび態度は及第点とは言えん」

「まあ、後者は否定しないけど……」


 東宜は落ち着かなげに部屋を見まわした。ここにあるのは執務用の卓と椅子と大量に積み上げられた資料だけ。調度品はほとんどなく、外部の者を招くことなど想定していない。


「忙しげだな。部屋を見まわすな。貴様にやる情報などない」

 情報収集を否定するように、慌てて東宜はまったく関係ない話をふった。

「士兄って、官服が似合うよね」

「戯言を言うな。貴様の世辞にも付き合うつもりもない」

 会話はあっさり打ち切られた。お世辞ってわけじゃないけどなと東宜はぼそりと呟く。


 士准は青の袍を着ている。烏紗帽うさぼうを被り、同知の官品、正五品を表す白鷴きじの補子を胸背に身に着け、花の紋様が彫刻された銀の帯を締めている。

 背が高く容姿も抜きん出ているため、その色も装飾も一層映えた。


「それはそうと、今回の件は結構大変だったでしょ。ここの通常の仕事はしてるの?」

「してないと思うのか。どちらも仕事だ。手を抜くなんて有り得ん」


 士准は表情を変えずにさらりと言い放つ。だよね、と東宜は張り付いた笑みを向けながら言った。士准なら、調査をしながら合間に同知の仕事をするということくらい、なんてことはない。


 だから、ここへ来たのだろう。士准の前所属部門は巡按の上位部署である都察院。官吏の監察が職務である。士准は東宜に何も言わなかったが、百曄花の件を掴んだ李前同知が消える前に都察院に何らかの報を送ったらしい。そう実家から東宜は聞いていた。


 東宜は機嫌を取るようにさらに会話を続けようとする。

「調査するのに平民の服を着てたって聞いたけど。士兄なら目立ったんじゃないの?」

 どんなに装いを変えようと、士准が歩けば若い女性たちが振り返る。そのことを東宜は言ったつもりだった。ところが。


「民は、官服を着ていないと役人だと判らない。役人の顔など覚えてなくとも生活にはまったく影響がないからな。私は市井へ出るときは官服を着ない。つまりだ。私を役人だと判じられるのは、私の顔を知っている官署に務める者だけのはずだ。それ以外の者が知っているとなれば、その者たちは必然、私の顔を知る必要のある者たちだけということになる」


「炙り出しか!」と東宜は内心、冷や汗をかいた。士准は顔が良いのでモテると冷やかすつもりだった。が、相手は見事に東宜の魂胆を無視し、反撃を喰らわせた。


 笑みを顔に張り付けたままの東宜は一刻も早くここを逃げ出したかった。心臓が早鐘を打っていて平静を保つのがやっとだった。なぜなら、東宜も百曄花の取引をしているから。


士准は瑯知府の件だけでなく東宜の計画の一端も嗅ぎつけていた。こうして目の前で話をしているとはいえ、今でも疑われていることはひしひしと感じる。


(犬並みの嗅覚をしてるよね、士兄は)

「何か言ったか、東宜?」

「え? べ、べつに?」

心の声が聞こえたとしか思えない。


 しかし東宜は、『御禁制の取引は儲かる』から始めたわけではない。陶器や山海の珍味ごときものなら手に入らなくても人の人生にはまったく問題はない。問題と言うなら、万能薬が目の前にあるのに使えないのが問題なのだ。


 本当に馬鹿馬鹿しい。その薬草さえ使えば何人もの命が救えるというのに、皇帝たったひとりのせいでそれができない。東宜は今回の取引は道に外れているとは思ってはいなかった。だから、自ら計画を立てて実行したのだが。


(まさか、士兄の赴任先だったとは)

 士准が延令府に赴任していることを、東宜は当初は知らなかった。噂で新しい同知の特徴を知ることになり、まさかと思い実家へ問い合わせの文を送った、その結果。「是」との返答を受け取った瞬間の、あの背筋が凍るような思いは今までに感じたことがない。


 しかも、たまたま指定された取引の場が、運悪く、士准が目をつけていた場所の近くだった。瑯知府と取引場所が重なるとは思ってもみなかったし、向こうは御禁制の百曄花を、延令府のためにとはいえ間違った正義のために取引していた。

つまり、延令府内に百曄花の取引経路はふたつあったのだ。瑯知府が関わっているものと、東宜たちが関わっているもの。


 士准とは何年も会っていなかったが、以前の性格を考えれば絶対敵には回したくない相手だった。先手を打って、東宜は士准に協力することを申し出た。それと同時に、御禁制密売の犯人をでっちあげたい瑯知府に対して、それとなく浙冶に目を付けさせるよう情報を流した。結果、瑯知府は動いてボロを出し、士准に捕まった。

 東宜は塩のためではなく百曄花のために浙冶をエサにしたのだ。


「これでも少しは役に立ったと思うけど」

 東宜は相手の出方をうかがう。

「貴様のせいで部下が数人犠牲になった。計画も悪かったようだな」

「えー……僕は居場所を教えただけなんだけどな」


 店主が逃亡したのを見計らって士准に店の位置を教えたのは東宜だ。つまり、最初に店に侵入してきた追手は士准の部下。浙冶たちを捕まえるだけで殺すなと命令を受けていた。が、少々手荒な真似で捕縛を実行したのが仇となった。そして、浙冶たちが店から逃げ出したあとに次々と現れた敵こそが、浙冶の居場所を探していた瑯知府の部下や民たちだった。


 浙冶が二度目に倒れたとき、匿名で薬を届けさせたのも東宜だ。梁店主は誰にも言わなかったが、店主の取引経路は東宜の関わっているものだった。東宜は保護した梁店主に頼み込んで万能薬を作ってもらった。浙冶を死なせることだけはしたくなかった。浙冶に言った『高くつく』は、あの時点ではほんの冗談のつもりだったのだが冗談ではなくなった。


(ごめんな、浙冶……でもお前のおかげで助かった)


 浙冶を囮にしたため、東宜が運んでいた百曄花は、流行病で苦しんでいた村へ無事に届けることができた。数多くの民が救われたのである。


 しかし、延令府にあった百曄花は民を救えなかった。すべて燃やされてしまったのだ、瑯知府によって。浙冶を身代わりにできなかったため、巡按が来る前に処理しようとしたが、突風が吹いて辺り一面を大火事にした。瑯知府は薬を渡すことなく、証拠を隠滅しようとしたのだ。弁解の余地がない。


 老婆が樊季に渡したあの粉にしても、ただの穀物の粉だった。いろいろなものを混ぜて大元の穀物が分からないようになっていただけで、きちんと調べれば、百曄花でないことはすぐ分かる。浙冶たちはすぐに解放されるはずだった。それが九死に一生を得たのだ。瑯知府の不正に関して言えば、下っ端のほうまでかなり協力してらしい。


 大勢の命を救うために、危うく仲間の命を犠牲にするところだったのだ。今では正しいことをしたと自信をもって言えない。せめて自分がやったと白状しておくべきだった。


 しかし、目の前の勝ち目のない相手に、東宜はちょっと恨み言を吐いてみる。

「罪人でもなんでもない、ただ、少しばかり疑わしいだけの人間を拷訊するのって酷くないかな?」

「私は一切やっていないし部下にも常に禁じている」

「いや、やったのは士兄じゃなくて瑯知府だけどさ。でも、士兄のことだからもしかして、最初から知府が怪しい行動に出るって分かってたんじゃないかな? 同知なんだから瑯地府を監視していざとなったら止めてくれれば良かったのに」


 東宜の恨めし気な言葉や視線にも相手は動じない。ただ冷えた声音を返すだけだ。

「そんな義理はない。しかし、貴様の知り合いには呆れたものだな。訊問中、叫び声ひとつ上げないくせに、康令、延令、昌令三府の米の相場をずっと唱えているとはな」


 その言葉で士准が止めなかったのはわざとだと東宜は確信した。瑯地府がボロを出すのを待っていたということだ。

「あー……知ってたんだね、やっぱり」

「そんなことはどうでもいい。今回は管轄外だから見逃すが権限さえあれば、次はないものと思え」


 まずい。一瞬、冷気が心に刺さるような感覚がした。

 これは自分に対しての警告なのだ。士准が今回、なぜ瑯知府だけに狙いを定めたのかというと、簡単なこと。他は自分の職務ではないからだ。現に、瑯知府の件が片付いても城市に未だいる浙冶を放っておくのは、都察院でも同知でも捕まえる職権がないから。それ以上は越権行為になる。


「ええっと、あの、叔母上はお元気で?」

 動揺しまくって東宜は余計なことを聞いた。すると今まで無感情だった相手にわずかだが不愉快な色が混じった。


「知らん。まったく会っていない。そもそも私は尹家の人間ではないのだ。お前とも身内だとは思っていない」

(しまった、機嫌を損ねたかー……)

さらに警告は続く。


「東宜、お前の兄に伝えておけ。尹家の総領だからといって、高みから民の生活を振り回すなと。お前もだ。何が正義で何が正義でないかなど勝手に決めるな。簡単に判じられないものもある」

「士兄」

「昔、民の病を救うためにある商人が百曄花の密売をしたというが、この延令でそれを手助けした官吏が何人も捕まり獄中へ送られた。地方の官吏は中央の者よりも民に近いし、情も湧くからな。しかし、延令の官吏は半数以下に減った。関与こそしなくともそれを目の当たりにして恐怖を感じ、以後地方への任官を固辞していた者もいたな。確か今は康令の知府になっているらしいが」


 さらに何かを言おうとした東宜が口をつぐんだ。そのまま一礼をして部屋を出る。ふと、戸口で振り向くと、士准の青い袍が目に入った。目の覚めるような汚れひとつない真青。しかし、東宜はなぜか孤高の白い百曄花を思った。

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