第35話

 あれから五日が経った。浙冶たち一行は、まだ延令府の城市に残っていた。浙冶が倒れてから、ここ延令にずっと留まっていたのだ。


 最初に助けてくれた梁店主夫妻は店をそのまま残していなくなってしまった。金目のものもしっかりなくなっていた。役人に没収されたわけではなく、逃げるときにきっちり持っていったらしい。璃鈴は「心配ないわ、あの店主なら」と心配する素振りも見せない。


 それよりも浙冶の傷が悪化したのに治せる医者がいないことが問題だった。

 宿をとり、腕がいいと評判の医者に診てもらうことはできた。が、具合は一向に良くならず、なかなか浙冶は目を覚まさない。


 医者にも「諦めてくれ」と言われた晩のこと。璃鈴宛てに小さな荷が届いた。旅人から預かったという荷を宿の主が部屋まで持ってきてくれたのだが、差出人が書いていない。怪しすぎることと関所のことを思い出して開けるかどうか迷ったが、開けなければ対策もとれないと思い至って封を切った。


「あ……これって……」

 見覚えがあった。梁店主が浙冶に使ったあの薬である。

「ちゃんと処方してあるわ。これなら使える……けど、本当に店主が送ってきたものなの? もし店主じゃなかったら浙冶さんはどうなる?」


 偽物かもしれないと思い、璃鈴は迷った。疲労で思考もまとまらない。状況判断の是非に自信がなくて即断はやめようと思ったとき、傍で黙って見ていた樊季が大きく頷きながら力強く言った。

「璃鈴、使いましょう。このままじゃ浙冶は二度と目を覚まさない。それなら使うべきだわ」


 樊季は、璃鈴が手にした包みを寝台の隣の小卓の上に移動した。宿の女将に頼んで湯と布を手元に用意し、傷に巻かれている布をほどいていく。璃鈴はその姿をしばらく見つめていたが、すぐに我に返り慌てて動き出した。


 数日後。

 浙冶がようやく意識を取り戻した。まだ言葉は発することができない。しかし、助かったと素直に喜ぶ樊季の横で璃鈴は思いに沈んでいた。


 さらに二日経って浙冶が起き上がれるようになると、それまで迷っていた璃鈴が思い切ったように切り出した。

「浙冶さん、話があるの。多分、あなたが知りたかったこと。あなたのお父さまのこと」


 瞬間、浙冶が身を強張らせた。璃鈴にゆっくりと顔を向ける。

「……今か?」

「もうすぐ高殊たちも戻ってくる。部屋の周りを確認したけど今なら他の客もいないの。昌令に戻ってしまえば話す機会もないかもしれない。だから」


 昌令へ帰る旅支度や役所への手続きは代わりに高殊たちがやってくれていた。片が付けば皆ここへ戻ってくるので内密の話はしにくくなる。浙冶は樊季のほうを見ることなく、ぼそりと呟くように言う。

「樊季、お前は席を外してくれ」

「いやよ」

 樊季はひとことで拒絶した。浙冶は顔を上げ、命令の中に懇願が混じる声音で樊季に向かってもう一度言う。


「樊季、いいから少しこの部屋から出てくれ。知らなければ面倒に巻き込まれずに済むんだからな。お前が」

「あんた、怪我をして倒れて最初に目覚めたときに何て言ったか覚えてる?」

 浙冶の言葉を遮って、樊季が強い口調でかぶせる。

「『助かった』でも『生きてて良かった』でもなかったのよ。ただ私の顔を見て、『なんで、お前が、ここにいる?』って」

浙冶が顔を背けた。樊季は構わず、続ける。


「旅に出る前に言ったわよね? 『全責任は俺が取るから』って。それは最初から自分を犠牲にしてでもってことだったの? 私は何も知らずに、自分の不注意であんたを死なせるところだった。だから、あんたが誰にも言わずに背負ってきたものを、私も知る必要があるわ。知らなくちゃ、何かあったときに私はまた同じ過ちを繰り返す」

「そのことならもう」

「言っとくけど、葉の家を出て行くって言うのはなしよ! 私に尹家の簪を売らせたんだから、このまま逃げるのって許されると思う?」


 樊季の言葉に浙冶は何も言い返せなかった。『簪を売らせた』なんて、樊季は微塵も思っていないはずだ。言わせてしまったのは、浙冶のせい。罪悪感を感じさせる、これくらいの言葉を聞かせなければ、浙冶はすぐにでも葉の家を出て行ってしまう。

「わたしも他人を巻き込むのは好きじゃない」

 璃鈴がふたりの間に割って入る。


「けれど、巻き込まれることも覚悟のうえで力になりたいと思っている人がいる。そのことをあなたも受け入れていいと思うの」

 璃鈴は樊季に傍の椅子に座るように言った。浙冶は無言のままでいる。否との言葉はないので了承という意味なのだろう。璃鈴は深呼吸をし、少し間を置いてから話しはじめた。


「単刀直入に言うわ。あなたのお父さまが捕まったのは御禁制の花を取引したからなの」

 浙冶に反応はなかった。ただぽつりと言葉をこぼした。

「そうか……そんな気がした」

 父親は麻薬の原料を売買していたのかと心が暗く沈んだ。しかし。

「でも、あなたのお父さまは悪くない」


 璃鈴は強い口調で言い切った。だが、浙冶にしてみれば、それはただの慰めの言葉を聞いているようだった。璃鈴はそんな浙冶に言い聞かせるようにゆっくりと、そしてはっきりした口調で話を続ける。

「花の名前は百曄花ひゃくようか。鑑賞用の花として素晴らしいけれど、麻薬の原料となる花。そして、万能薬にもなる不思議な花」

「万能薬? もしかすると、これのことか?」

 浙冶は自分の肩を指で示した。背中一面、布を巻かれている。その下には傷を覆うように万遍なく薬が塗られていた。


「そう、それよ」

 そして、璃鈴はいきなり頭を下げた。

「ごめんなさい。あなたたちがあんな目に遭ったのは、わたしの父のせいよ」

「璃鈴の……親父さん?」

「父が御禁制の花、百曄花を仕入れて欲しいと頼んだの。父は医者だったから。頼んだ相手があなたのお父さん」

「璃鈴、顔を上げてくれないか? きちんと話を聞きたい」


 長年知りたかったことが、たった今、目の前で語られている。傷の痛みのせいで夢を見ているのかと浙冶は思った。璃鈴はゆっくりと姿勢を戻し、目を逸らさずに浙冶に向かって話を続けた。


「その当時、辺境の村で疫病が流行っていたの。延令府が管轄する小さな貧しい村でね。当時の知府は、村ごと焼打ちにして他の地域に広がらないよう指示をした。それを知った父さんは古い文献を探して薬を作ろうとしたの。そこで分かったのは、疫病を治す薬はまだ発見されていないこと。でも別の文献で、百曄花という花は上手く処理すれば万能薬になるとも書かれていたの。作る人間の腕次第で、上手くいけば万能薬に、失敗すると麻薬になると。父さんは疫病を治せるのは百曄花だけかもしれないと考えて試すことにした。でも、その花は皇帝が観賞を独り占めするためだけに御禁制にした花よ。延令府に住んでいても分からないほどその存在は隠されていたの。試すどころか手に入れるのも難しい」


 璃鈴はそこで息を継いだ。そのまま続ける。

「父は信頼できる商人に百曄花が入手できないかと打診をした。けれど最初に頼んだ人には了承の意をもらったものの、入手そのものは上手くいかなかったらしいの。そこで父さんは、面識はなかったものの、商用でこの辺りに来ていたあなたのお父さまに頼み込んだ。あなたのお父さまは当時すでに、延令でも名が知れ渡っていたから」

「それは……どんなふうに? 名が知れ渡っていたってのは……」

 浙冶が躊躇いつつも訊く。


「儒商としてよ。利益を追求するだけでなく、人として為すべきことを為すという商人として」

 璃鈴の言葉は浙冶が聞きたかった言葉だった。


「ねぇ、璃鈴。百曄花が薬になることを皇上にはお伝えできなかったのかしら? 皇上に直接お願いするのは無理だとしても、お役所を通してとか」

 おとなしく聞いていた樊季が疑問を口にする。だれでも考えることだ。しかし、璃鈴は首を横にふる。

「皇帝は百曄花の薬としての効力を知っていた。知っていて民に分け与えるのを許さなかったらしいわ」

 つまり皇帝にとって民の命は、花よりも軽いということだ。樊季は息を呑んでそのまま黙ってしまった。


「話を元に戻すわね。あなたのお父さまはわりと早いうちに百曄花を探し当てて秘密裏に仕入れてくれた。かなり頑張ってくれたんだと当時、父さんは言ってたわ。おかげで、その村は救えた。薬が間に合った人々はほぼ全員治すことができたの。けれど、万全だと思われてた仕入れの経路が漏れてしまったらしいの。そしてある日」


 浙冶の父親が役人に捕まった。普通は末端の客から秘密がばれてそれを辿って仕入れの大元を突き止めることが多い。しかし、このときは幸か不幸か、仕入れをした商人の情報が先に突きとめられてしまったのだ。


 だが、浙冶の父親は万が一、役人に捕まったときの対処まで考えていた。花の入手先と渡す相手のことはあの爆発で消し飛んだ。何一つ手がかりを残さなかった。最初からこの取引を商売にする気はなかったのだ。


 璃鈴が息を吐く。悔しさと憤りと半々の感情を混ぜながら浙冶にもう一度、今度は床に膝をつき頭を下げる。


「ごめんね、浙冶さん。本当にごめんなさい。謝ってすむことではないのだけれど。父があなたのお父さまに依頼しなければ、あなたたちの家族は巻き込まれることはなかった。今でもあなたは家族とともに幸せに暮らしていたはずだわ。それに」

 わたしはあなたを見捨てたわ、と、言葉になるかならないかの声を吐いた。


 浙冶は黙って話を聞いていた。ぱたりと涙が落ちる。

「良かった……」

 浙冶は片手で顔を覆った。

「良かった、父さんが道義に外れた商いをしてなくて。俺は父さんを恨まずにすむ」

「浙冶……」


 樊季が傍らに添い、その頭をそっと両手に包んで自分の胸に寄せた。

 何も分からずある日突然逃げ出すはめになり、散々苦労して逃げた。そして目の前で母親が倒れたのだ。自分はその後も生きるために必死であがいている。それはすべて父親の私利私欲のせいではないかとずっと疑心と責めに苛まれていた。


「許して欲しいなんて言えないけど、浙冶さん、わたしは」

「いいよ。許すも許さないもない。元々あんたは関係ない。それに父さんはその村を救うことができて悔いはなかったと思う」

 そう言えたことに内心驚いたが、本心だった。父親が私利私欲で御禁制に手を出したわけではなかった。それが分かったことで今まで心の底に沈んでいた澱のような不信感が消えていくのを感じた。


「立ってくれ、璃鈴。あんたにそんなことまでさせたら、父さんに叱られる」

「私の父が浙冶さんのお父様に頼まなければ、今でも浙冶さんは……」

 南方の大商人の息子として幸せに暮らしていたかもしれない。過去に戻れるなら父親の挙動を止めていたと言っていた真意は、他人の幸せを奪うようは真似をしたくないということだった。


 浙冶も同じだ。樊季と長葉明には絶対に迷惑をかけられなかった。樊季との仲を修復しようとしなかったのも、自分と関わらずにいたほうが幸せなのだと思ったから。たとえ自分の罪が明らかになったとしても、樊季の幸せを壊すことにはならないと思ったから。


「浙冶さん、あなたは百曄花に似ているわ」

「璃鈴?」

「だから、樊季さんにも聞いて欲しかったの」


 百曄花は、他と交わらず孤高で咲くならば汚れのない白さを誇る花弁を有する。しかし、ふたつ三つと互いが触れれば、触れるほどにその花弁は様々に色を変化させる。それは、人と人との交わりのよう。


 浙冶は誰にも心を開かず、樊季を必死で守った。人との関わりを絶ち続けるのは花弁の白い孤高の百曄花を思わせる。しかし、その白さが表すものは孤独でもある。どの色の百曄花が美しいと思うかは人それぞれだが、樊季が浙冶と関わりを持ちたいと願ってくれたことは、その人生に色を与えることになる。


 皆が思いに耽り、長い沈黙が下りた。それを破ったのは。


「あ、浙冶さん、もう起きても大丈夫ですか?」

 非情に軽い声が戸口から聞こえてきた。すべての用事を終えた高殊が戻ってきたのだ。そして、璃鈴に向かって報告をする。


「ふたりは言われた通り、先に出発したっすよ」

 同行してきた御者役のふたりは、蔡鏢局から応援に来てくれないかとの打診の文が来たので、先に帰ることになった。当分ここからは動けないし、人数がいても仕方がないからだ。


「ところで、浙冶さん。なんであのとき言ってくれなかったんです? おれたちは信用できなかったですか?」

 高殊が残念そうな口調で話を向けた。急にふられて浙冶は何のことかと混乱したが、塩をすり替えたことを話さなかったことだと思い至った。


「依頼主に庇われちゃ面目丸つぶれですよ。浙冶さんも守れなかったら意味がない」

 高殊はいい奴だと浙冶は改めて思った。荷だけでなく浙冶の命も護衛の対象だったと当然のように思ってくれている。そう考えてくれるに違いないと思ったから。


「信用してるからこそさ。あらかじめ計画を教えたりなんかしたら、あんたは逃げてくれないだろ? あんたたちには絶対守ってほしいものがあったからな」

 樊季の、大貴族の尹家の許婚という立場は確かにどこにでも効力がある。しかし、長い帰路に何事もなく着くことができるとは限らない。その立場を無視して襲う輩ももちろんいるわけだ。だから樊季を護衛してくれる者はなんとしてでも残したかった。

 不承不承納得する高殊に今度は浙冶が質問をする。


「だけど、なんで高殊はあの店のことを知ってたんだ?」

 逃亡するときに璃鈴に隠し出口を教えてたのは高殊だった。高殊が不思議そうな顔をする。


「あれ? 璃鈴さん、言ってなかったですか? あれ、うちの親父とお袋です」

「は?」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。が、そう言われてみれば高殊と姓が同じだ。顔は店主とはあまり似ていないが。


「璃鈴?」

「えー……言ってなかったわね、そういえば」

 とぼけた様子ではなかったので、今回は単に言い忘れただけらしい。


「璃鈴さんの親父さんとうちの親父が知り合いだったんですけど、璃鈴さんとおれはその縁で。まあ、うちの両親のことなら心配無用です。あれでなかなかしぶといですから。親父たちなら延令でなくても上手くやっていけますよ」

 高殊の底抜けの明るい声が部屋を包んで、皆の抱える重苦しさを消していった。


 しかし、その数日後。


 樊季が難しい顔をしていた。朝から考え事をしている。浙冶の傷がまだ治らないのでそのまま宿に滞在しているが、安静にしなければならない本人が寝台にいない。


 院子に出ようとすると、向こう側の廊下にいた璃鈴が気づき手招きをする。

「浙冶さんが、ね」

「ええ、探してたの。どこにいるのかしら?」

「いる場所は教えられるけど行かないほうがいいかも。今、かなり機嫌が悪いようよ」

 樊季は溜息をついた。

「そうでしょうねー」


 今朝、一通の文が届いた。浙冶宛てだったのだがその文に目を通すや否や、当の受取人はビリビリに破いてしまった。そして、その文の差出人は――。


「くそっ、東宜のやつ! 次に会ったらぶん殴ってやるつもりなのに! あいつ、なんで、帰らないって抜かしてんだよっ!」


 宿の裏手にある馬小屋で、怒声と共に桶が床に当たって壊れる音がした。樊季が足を踏み入れると、浙冶が荒れて物に当たっているところだった。


「あんたがそんなんだから、察して帰りたくないんじゃないのかしら」

 呆れたような口調で言葉を返した。状況はまさに予想通りというところだ。

「俺が悪いわけじゃない! あいつが裏切ったのがそもそもの発端だろ!」


東宜の文、曰く。

『塩を持って花嫁行列のままで通るって君の思いつきはいいけれど、いささか心もとないんだ。悪いとは思ったけど、君のほうにお役人さまの注意を向けさせてもらうよ、僕たちの安全のために』


 つまり。樊季に壺を運ぶように依頼した老婆は、東宜に頼まれて芝居をしていた。そしてあろうことか、浙冶たちの荷馬車が通ることを盗賊役人に密告したのも東宜であった。


 浙冶を利用したと清々しいまでに書いてある。本人は姿を現さない。東宜と一緒に旅をした店の者が塩とこの告白文を届けにきたのだ。


「あいつ! 俺が頼んだときに『高くつく』って言ったんだ! それに『盗賊役人の出没は延令じゃなくて康令』って嘘教えやがって! それって、はじめっから計画してたってことだろ! 最初から俺を売るつもりだったな!!」


 璃鈴のときとは打って変わってものすごい剣幕だ。傷の痛みも忘れるほど激昂している。

 樊季もこの事実は知っていた。もう一通、自分宛の文があったのだ。同様のことが書かれていたが、ただ、樊季に宛てたものには『浙冶をなだめといて』との一文が加えられていた。それを思い起こしながら目の前のこの状況をもう一度見て、溜息を吐く。絶対、無理である。


「あんた、璃鈴のときは怒らなかったじゃない。東宜も悪気は……あったかもしれないけど」

「当たり前だろ! 璃鈴たちの場合とは全っ然違う! 璃鈴は元々関係ないんだから! 東宜のやつは知ってて俺を売ったんだ! 絶対許すかっーーーーー!」


 浙冶の理屈は分かるには分かる。が、どちらの場合もそのせいで地獄を見せられたのは同じなのに、どういう頭の構造になっているんだろうと樊季は驚きを通り越して呆れながら思った。


「じゃあ、私はどうなのよ。あんたが捕まった直接の原因は、その……私にあるでしょう?」

 樊季は躊躇いがちに言葉を発した。いまだに浙冶に対して罪悪感がある。が。

「あれは俺が迂闊だった。いやぁ、お前だったらやりかねん、想定の範囲内の行動だもんなー出発前にもう一度荷物を確認しておくべきだったわ」

「え、でも、私が荷物を届けるって勝手に約束しちゃったから……」

「安心しろ。最初っからお前の行動は信用していない。対処できなかったのは俺の責任だ。罪悪感とか感じる必要は全くないぞ」

「どういうことよ!」


 樊季はむくれた。あんなに心配して眠れぬ日々を過ごしたのに。今だって、寝台に連れ戻そうと探しにきたのに。かけられた言葉が、これ。もう心配などしてやるものか。


「あ、そうだ。話を戻すけど、東宜は当分帰ってこないわよ。塩はもう売ったけど用事で実家にしばらくいるって。さっきまた文が届いたの」

 ガチャンと激しい音がした。浙冶が手元の壺を拳で割った音だ。樊季は、その壺どこから持ってきたのかしら、と気になった。しかし、そんなに高くなさそうな壺。さすが浙冶、選んでるわねーと妙な感心をした。


「……あいつの実家ってどこだよ……」

「さあ?」

 誰も聞いたことがなかった。文にも記していない。文を預かったというこの宿店の者も、文を預かっただけという旅人から手渡されただけだ。


 ただ、樊季は少し疑問に思った。いくら塩が盗賊役人に狙われやすいとは言っても、浙冶が樊季を庇うことまで計算に入れて捕まるように仕向けることに何か意味があったのか。注意を向けさせるだけで充分だったのではないか。なぜそんなことをする必要が、そしてそのことを白状する必要があったのか。浙冶は、今は頭に血が上ってるので気づいていないだけかもしれないが。


「東宜って浙冶に恨みでもあるのかしら?」

「何か言ったか?」

「ううん、何も」


 樊季は頭を振ってその疑問を忘れようとした。今いくら考えても、当人が帰って来ないのだから答えは分からない。そこでふと、朝から考えていた別の疑問が再び浮かんできた。


「ねえ、浙冶、それはそうと私、気になることがあるんだけど」

 樊季は悩んだ末、ひどく真面目な顔をして思い切って疑問を口に出した。

「ああ!? 一体なんだ!?」

 浙冶はイライラして聞き返す。


「あの薬草のおばあさんて、東宜に頼まれたわけよね? 東宜の守備範囲ってどこまでなのかしら?」


 浙冶の怒りは一瞬で頂点に達した。

「知るかーーーーーっ!!」

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