第34話

 ここへ来て四日目で動きがあった。


「よくここまでよく知られなかったものだと感謝すべきよね」

 璃鈴が急に、皮肉交じりに言い放った。浙冶の様子を見ていた樊季が顔を上げる。

「璃鈴? なんの話?」


 璃鈴はそれには答えずに口に人差し指を当てて、黙っているようにと樊季に身振りで伝えた。そして、樊季を窓から遠ざける。三拍ほど静寂が流れた。


 突然。窓が蹴破られ、黒い影が襲いかかってきた。三体いる。

 璃鈴は小刀のようなものを素早く投げ、侵入者たちの急所を刺した。

「こちらとしては助かったけど。あなたたち、仕事としては遅すぎるわ」


 床に転がった侵入者たちに言葉を投げつけ、璃鈴は「ようやく来たわね」と誰にともなく呟いた。樊季が璃鈴に何か言おうとした、そのとき。

「えっ? 高殊?!」


 どこから来たのと問う間もなくふいにその鏢師は現れた。数日ぶりに再会した高殊は明らかに何かを急いでいる。

「説明は後! やつらが来た!」


 話が終わるや否や、いきなり後方の扉がドンッと音を立てて開き、黒装束の、見るからに怪しい恰好をした人影が入り込んできた。高殊が振り向きざま短刀を抜いて斬りつける。影が散り、刀は虚しく空を切ったかに見えた。が、瞬時に手首を返して思いっきり後方に突くと、襲いかかろうとしていた影にズブリと刺さって倒れた。

「高殊! 時を稼げる?」


 璃鈴が侵入者からの防衛の是非を問うと、高殊は短刀を持った右手を大きく振った。「是」ということらしい。璃鈴は急いで樊季を連れて隣の部屋へ行く。樊季が心配そうに尋ねた。

「璃鈴、梁店主は?」


 璃鈴は固い表情をそのまま動かすこともなく答える。

「心配する必要はないわ。もうとっくに逃げたわよ。あなたが工面した銀も上手いこと処理してね。ここにいるのはわたしたちだけ」

「ええっ?! いつのまに?!」


 昨日までは確かに店にいた。何も言ってなかったが、逃げる算段はすでについていたということだろう。まさに用意周到。しかし、こちらは驚いてる暇さえない。


「浙冶は?!」

「大丈夫だ」

 浙冶が起き上がっていた。樊季が洗って繕った上衣に袖を通している。起きてすぐに事態を察したらしい。

「もういいの?」

「……ああ……」

 いいはずがない。何日も臥せっていたのに起きてすぐ逃げるなんて無理である。普通なら。


「どのくらい俺は眠っていた?」

「合わせて四日よ。ねぇ、浙冶さん、無理はしないで。わたしが背負うから」

 璃鈴の申し出に、いや、と浙冶が首を横に振る。

「薬が効いたのか、動ける。心配ない。そんなに長くはもたないだろうが。ところで」


 簪は持ってるよなと、浙冶はこの旅の間中、何度も樊季に尋ねたことを再び訊いた。

「え……ええ、あるわよ」

 簪を不自然に持って振ってみせた。浙冶が何かに勘付く。

「ちょっと見せろ」

 樊季が抵抗する間もなく、浙冶は簪を奪った。すべての玉がなくなっている。


「そういう……ことか……あの医者が言ってた『ここまでさせた』ってのは……」

 浙冶は瞬時に理解した。声に落胆の色を滲ませている。それを聞いた樊季のほうが首を傾げた。そして、ことさらに明るい調子で返す。

「いいのよ。これであんたの命が助かったんだから。安いもんよ」

 浙冶は頭を振る。


「よりによって尹家の印のある白玉を……」

 あれさえあればお前だけは助かるのに、という微かな呟きが樊季には聞こえた。

「それよりも、ふたりとも早く! ここから逃げるわよ」

「璃鈴さん! 奥の部屋です! 上へ!」


 高殊の声が聞こえてきた。璃鈴が部屋の奥に足早に移動し、壁を探っていたかと思うと拳で数度、強く叩く。すると、はめ込んた木の板が壁から外れるように落ち、壁に人ひとりが通れるくらいの穴が開いた。

「そこから上がって!」


 察した浙冶が外を確認し、樊季をすばやくその穴から出す。自分も外に出ると、そこはちょうど両腕を広げたくらいの空間だった。店の表口、裏口双方に面する各通りから見ると部屋の一部だと思われるように壁と屋根の位置が偽装してある。店主がいざ逃げるときに使うつもりだったのだろう。まず、浙冶が外壁についていた足場を利用して屋根へと上り、途中まで苦心して上がってきた樊季を引っ張り上げる。璃鈴もすぐに追いついた。


 月がまだ昇る前で辺りが暗かった。目立たないよう明かりも点けない。夜目の効く璃鈴が先導をしながらふたりが後をついていった。慎重にすばやく、三人は屋根を伝っていく。


 四半時ほど進んでいくと眼下に大通りが現れ、屋根が切れた。璃鈴が最初に大路に下り、あとのふたりに足場を指示しながら下ろす。浙冶は地面に降り立った瞬間にふらつき、思わずしゃがみこんだ。

「大丈夫?」


 樊季は心配そうに駆け寄り、璃鈴は無言で肩を貸し立たせた。困ったような表情で樊季が璃鈴に何か言おうとしたとき。遠くのほうで灯りが浮かんだ。それもひとつやふたつではなく、十以上の。かと思うと、それらがこちらへ向かってきた。休んでいる暇などない。

「なんで……こんな、分散して……」


 浙冶がなにか言いながら走り始めたが、会話などしてられない。三人はそのまま大通りをひたすら駆けた。

「いたぞ!」

 すぐに見つかった。しかも、近い。璃鈴は飛びかかる追手に向かって立て続けに小剣を投げる。すべて急所に命中し、敵は動かなくなった。

「別々に逃げるわよ」


 璃鈴が指示をし、次の分かれ道で二手に分かれた。浙冶は後ろを見ずに一生懸命駆ける。

 しかし、小路を見つけて曲がったとき。樊季が息を切らせながら後をついてきているのに気づいてギョッとした。


「お前! なんでこっちにきちまったんだよ! この状況を見りゃ、璃鈴と逃げるに決まってるだろ?!」

「知らないわよ! 璃鈴とははぐれちゃったんだから仕方ないでしょ!」


 本当にはぐれたのか、とは聞き返す暇もなかった。そのすぐ後には追手が迫ってきている。

 月明かりがないからといって、逃げるのに好都合というわけにはいかなかった。追手は各々松明や灯火台を持っていて、辺りを昼間のごとく照らしている。行く先は闇に閉ざされているのに、追われる自分たちは明るく浮かび上がっているという皮肉さ。


「放してっ!」

 突然、樊季の悲鳴が響く。足がもつれて転び、追手のひとりにその後ろ髪を掴まれたのだ。他の追手の手も次々に伸び、恐怖で身体を強張らせたのが灯りの影となって浮かぶ。


 次の瞬間、敵が吹っ飛び縛めがふっと解かれた。浙冶が体当たりを喰らわせたのだ。間髪を容れず、別の追手の顎を下から殴りつける。敵が怯んだところで、浙冶が樊季を素早く立ち上がらせる。


「こっちだ!」

 浙冶は樊季の手をとり無我夢中で駆け、気付くと橋の下にいた。

「少し……休むぞ」

 その息が荒い。先ほど体当たりをしたせいで傷口が開いたのだ。痛みがどんどん倍加する。そもそもたった四日でここまで動けるほうが奇跡なのだ。


 一度座ったら二度と立てないような気がして、浙冶は橋脚にもたれかかった。

「浙冶、怪我は大丈夫?」

 無言で二度頷く。とにかくここを出るための算段をつけなければならない。傷のことは頭から追い出した。しかし、考えに考えたが、取れる方法などほとんどないことに気付く。


 たとえば、城市を出る荷馬車を見つけて潜り込むとかできないことではない。肥料用の排泄物を載せた荷馬車ならなおのこと、呼び止められる確率も減るはずだ。門兵たちも調べたくないだろうから。

 あるいは、城市の地下を通る排水溝を伝って外へ出るという方法もある。が。


(どっちもダメだ……)


 ほんの数日滞在しただけのこの広い城市で、夜明けまでに荷馬車を見つけて潜り込むことは難しい。排水溝にしても、行きついた先に水門がある可能性が高い。その水門を潜れなければ意味がない。時間があればなんとかなるが、自分の今の状態ではもうもたないことも分かっている。最初から、選択肢はひとつしかない。


「樊季、お前、簪を売ったときの金は全部あの医者に渡したのか?」

 唐突に金のことを聞かれて樊季は面食らった。

「少し持ってきたわよ。十五両、ここに」

 樊季は銀の小袋を入れた懐を叩いてみせた。

「その金を役人に全部渡せ」

「えっ? 全部? まあいいわ。それでみんな助かるのね」

「いや、そのときにな、もっと重要なことがある」


 浙冶は目を瞑って天を仰いた。一瞬そうしたのち、再び目を開くと決然として言い放つ。

「今から俺の本当の名を教えるから、俺を役所へ訴え出ろ」

 樊季が驚いて浙冶の顔を見る。

「え? なんで? あんたを訴え出るって? 意味が分かんないわ?!」

「そのまんまの意味だ。俺を役人に突き出して賄賂をつかませろ」

「そんなこと、できるわけないでしょ! あんたが何をしたっていうの?!」

 予想通りの反応だ。その考えを反意してほしいと浙冶は祈るような気持ちで言葉を継いだ。


「したんだよ、昔、俺の父さんが、不敬罪で捕まるようなことを。何をしたかは……知らないけど」

 自分に嘘をついていると思った。父親の罪。本当は薄々気づいている。

「俺はあのとき逃げたけど、本来なら捕まるはずだった」

「そんなことをしてなんの得があるのよ」

「お前と、あと、璃鈴たちが助かる」


 この延令府の役人の誰かが大罪人を欲している。だから役所に、大罪人がいると突き出すだけでいい。飛び付くだろう。


 最初に捕まったのは突然のことだったから、拷訊の際には本当の名など口が裂けても言えなかった。屈して吐いてしまえば、一緒にいた樊季たちまで浙冶のことを隠していたと疑われてしまう。


 しかし樊季たちが、今まで自分たちは浙冶に騙されていた、罪人だとは知らなかったのだと自ら訴え出たとすれば。役人はその言葉を信用しなかったとしても、大罪人を訴えた者たちのことは大目に見てもらえる可能性がある。あくまでも可能性の問題だが、おそらく上手くいくはずだ。心付けもあればなおのこと。それで皆への疑いが晴らせるなら、やってみる価値がある。


 浙冶ひとりを突き出せば、ほかを逃がしても問題はない。それだけ浙冶の身柄は手柄を狙う輩からすれば絶好の獲物だった。璃鈴にこの話をしたら受けてもらえると思ったのだが。なぜか逆に助けると言われてしまった。


 璃鈴たちをも引き合いに出してまで樊季にこの役をやらせるのは、大きな心の傷になる。それでも樊季にやってもらわなければ。

「どのみち……俺はもう逃げられない」


 息をするのも辛かった。立っているのもやっとだ。

「もともと不敬罪で捕まる家だった。そして、俺自身、何度も盗みを繰り返した。捕まって当然なんだから、役人に突き出しても何も後ろめたいことはない。だから、お前が」

「いやよ! あんたを助けたのはそんなことをするためじゃないわ!」


 しかし、ついてきてしまったのならばこの役を絶対に引き受けてもらわなければならない。嫌がる樊季の腕を掴んで耳元に口を寄せる。

「俺の名前は――」


 パキッと枝が折れる音がした。浙冶は樊季の手を引き、急いで自分の背に隠す。

音のする方を向くと、暗闇にいくつもの光と人影が浮かび上がった。松明が辺りを照らしていた。その中から。


「あなたの名前はなんですか?」


 物腰が柔らかで丁寧な言葉遣い。しかし口に出す言葉には迫力と威厳がある。聞いたことのある声。


「瑯……知府、やっぱりあんたか……」


 笑みを浮かべている。最初にあったときと同じ、人を安心させようとするかのような笑み。だが、もう浙冶はこの笑みが油断ならないことを知っている。


「あなたは、あのときの。なぜここにいるんです?」

「それはこっちの台詞だ。なんであんたが直々に、俺なんかを捕まえようとすんだろうな?」

「捕縛をしなければならない罪人がいると聞いたのですよ。あなただとは知りませんでしたが。私はこの延令の長としてやらなければいけないことをやっているだけです」


 捕縛は下級役人のすることである。延令の知府が手を煩わせる所以はない。あるとすれば。

「俺は麻薬の取引なんてやってない」

「そうですか。話なら役所で聞きます」


 目の前にいる延令の知府は微笑をたたえたまま浙冶に近づこうとする。浙冶は樊季の前に立ったままその手を引いて後ずさりをした。

「もうすぐこの延令府にも巡按が来るよな」

「それがなにか?」


 この延令に初めて来たときのことを思い出した。完璧な施設が揃っている。これといった特産品はないのに。金になるものがないのに、金を大量に使って建てたものがたくさんある。思い起こせば、つまり、それが答えだ。


「なあ、瑯知府、なんで延令はこんなに豊かなんだろうな」

「城市の繁栄は、民たちのおかげです。働き者の自慢すべき延令の民のおかげ」

「あんた、いい知府だよな、どこぞの康令の知府とは違って。でも、その答えは違うだろ。麻薬ってさ、城市全体で大々的に組織して売ればこんなに儲かるんだな」


 瑯知府の涼しげな笑みが一瞬、動いたような気がした。

「それと、ここにはもうひとつ、珍しいものがあるんだよな。名前は知らないけど、御禁制の花が。それってさ、どういうことだと思う?」

「さあ、私にはわかりませんが」

「頭の悪いふりすんなよ。知府ともあろう人がさ。それに、あの鳳亟とかいう英雄にまつわる薬の話、あれもおそらく同じ薬だよな」


 浙冶は大きく息をついた。気を抜けば倒れる。背中の樊季にここから逃げ出すように言いたかったが、瑯知府の隙をつくことができない

「他愛もない昔話……単なる言い伝えだと、聞いたとき思ったよ。でも、その話が今の時期に出るとまずいんだよな、巡按がくるから」


 康令府では謀反を犯した貴族の話が今でも伝わり、橋を壊すことは重罪だとみなされている。ならば延令では。鳳亟の話が伝説となり、それを伝えることが禁止されることにはなにか意味があるのか。


「あってはならない薬を使った英雄の話が広まるのは、中央に疑念を抱かせる。それが鳳亟の廟を祀るのをやめさせた所以だろう」

 ここ延令にある皇帝にしか愛でることを許されない花。それが麻薬になり、秘密裏に売ることでこの延令は栄えている。


 浙冶は大きく息を吐いた。しかし、目の前の人物から目を離さない。

「もしかすると、もう、なんらかの事情で中央は疑念を抱いたのかもな。麻薬の販売経路の一端でも見つかったか、それか、いなくなった前の同知のことで何か気づかれたとか」


 煌々と照らす松明の光が一瞬、目の前で動き、黙して聞いていた人物の表情を照らした。ぞっとするほど優しい笑みを浮かべていた。

「面白いお話ですね。実によくできている。しかし、なにか証拠でも?」

「証拠なんてないさ」


 物的な証拠はない。あくまでも浙冶の想像。それを確証にかえる力も時もない。

「関所で捕まったとき、最初は盗賊役人が塩を横取りしたいがための罠だと思ったんだ。でも、そうじゃなかった。あれは、壺を渡すことによってあの馬車が麻薬の裏取引しているように見せかけるための罠だったんだよな。どうして狙われたのかはいまだに分からないが」

「あなたには心当たりがあるのでしょう?」

「薬屋を聞き回ってたのが悪かったのか? ガキの世話を頼んだ次の日に、あんたわざわざ人を使いにやって来てくれたよな。俺たちの旅の予定も尋ねてきたし」


 言葉を吐きながら、浙冶は別のことを考えていた。樊季だけでも逃がしたい。瑯知府との会話で時を稼いでいると、灯火の光が届かない陰に沈むように小舟が川に浮いているのを見つけた。が、それは敵側の近くにある。


「樊季、お前、瑯知府の傍にある舟があるのが見えるか? あれに飛び乗れ」

 顔を見ずに小声で指示する。樊季が舟に乗ったあとに押し出せば舟は流れに乗っていくはずだ。自分が捨て身で突っ込んでいけば、逃がすぐらいはなんとかできると踏んだ。


「見えるわよ」

「じゃあ、今すぐ走ってあれに」

「あんたが先に乗ったらね」


 逃がそうとしていることを見透かされ、浙冶は言葉に詰まった。瑯知府はそれに気づかないかのように話を続けていた。


「ただ美しいだけの花。それでは意味がないと思いませんか? 皇帝に献上されれば観賞されるだけで終わってしまう。しかし、富を生むものであればそれは民に分け与えるべきでしょう?」

「それが、麻薬であるとしても?」

 瑯知府がさらに一歩進み出たので、浙冶は意識を目の前に戻した。


「麻薬を使う者に慈悲は要りません。快楽を求める輩が注ぎ込んでくれる金は、この城市で活用したほうが有意義でしょう?」

「それがあんたの……」

「いやっ!」

 背後に気づかなかった。振り向くと、男が数人。そのうちのひとりが樊季の両腕を後ろ手に掴み、動きを封じている。


「樊季!」

 浙冶は助けようと動いた。が、別の男に肩を掴まれ、そのまま地面に押し倒される。そして思い切り背中を踏みつけられた。

「!!」


 浙冶は絶叫した。樊季が何か言っているのが遠くに聞こえる。助けなければと身を動かすが、さらに踏みつけられること数度。激痛で意識を手放す寸前だった。

「……すまない……はん……季……」


 覚悟した。何もかもここで終わることを。男たちが地面に転がる自分に向かって武器を振り落とそうとしているのが視界の端に映る。そのとき。


「瑯知府、ずいぶんと賑やかですな。この祭り騒ぎはどういったことです?」

 低く威圧するような声に、皆が一斉に振り返った。


 姿を現したのは楊同知、楊士准。親しみの欠片もなく、冷たく鋭い目で辺りを制す。


「士准、あなたこそ。こんなところでどうしたのですか?」

 瑯知府は落ち着き払って副官に問い返した。共犯の者たちの動きは止まっている。

「私は、今まで調べたことがすべて判明したのでここへ来たまでです」

「調べたこと? なぜ『ここへ』なんですか?」


 瑯知府の問いには答えず、士准は右手を大きく上げた。そして。

「瑯知府を捕らえよ。罪状は御禁制の品を横流し及び、官員殺害の疑い。ここにいる民たちもひとり残らず捕縛せよ。ただし、殺すな。法により裁く」


 士准は冷たい目を向ける。言葉も丁寧ではあるが一片の温もりもない。

「士准、それはあなたの仕事ではないでしょう? 越権行為ですよ。私は」

 瑯知府の話を遮り、目の前の同知は淡々と続ける。


「それは取り調べですべて話していただきます。資料を揃えて刑部と都察院に送らなければなりませんから。巡按に会わせるまでもない。あなたが廟の近くに捨て置いた李同知のことも、よくも今まで隠しおおせたものだ」

「士准、待ちなさい! あなたは!」


 いつの間にか槍を持つ兵たちに囲まれていた。同知に兵権などないのに目の前にいるということは、上位管轄者に許可を得たということだ。抵抗などできるはずもない。そのまま、あっけなく捕縛されていく。瑯知府は言葉なく何度も士准を振り返ったが、その相手は答えようとしなかった。


「浙冶!」

 自由の身になった樊季が浙冶に駆け寄る。兵たちが退いたあと、先ほどまでの明るさが嘘のように辺りは暗闇に沈んでいた。


 士准は地面に転がる浙冶に視線を向け、言葉を投げつけた。

「だから私は貴様に手を引くよう、最初に警告をしたのだがな」

 その結果がこうだと言いたげである。が、士准は一瞥をしただけでもう興味を失ったかのように、二度とこちらを振り返ることはなく立ち去った。


「樊季…良かったな。これでお前は……家に帰……れ、る……」

 俺の役目も果たせた、と浙冶は呟く。そして、そのまま昏倒した。

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