第33話

 質屋から帰ってきたふたりはその荷を床にどさっと下ろした。と、金属のぶつかり合う高く澄んだ音がする。中身は銀だ。重い方の荷物を持ってきた璃鈴は腰を伸ばしながら疲れたように言った。


「あ~もう、ほんっと重かった! おおまけにまけても銀千両よ。これ以上は持てなくて、本当、残念だった」

「でもこれだけあれば庶民なら楽に一生暮らせるわ」

 一方で樊季は、このお金が浙冶の命を救うのねと不思議な思いがした。


 さらに半時後。ようやく、梁店主が「入ってもいいぞ」と許可をくれた。

 治療を終え、浙冶は俯せに寝かされていた。背中一面に薬が塗られている。樊季は駆け寄って顔を覗き込む。目覚める気配はない。


「店主、あれを使ったのよね?」

「まあな。あとはお前さんが説明してやってくれ」

 店主はタダでは治療をしないと言っていたわりには、樊季たちが今しがた手にした銀を見ても反応を見せず催促もしない。疲れたとひとこと言い残して部屋を出て行ってしまった。


 璃鈴は薬のことを知っているらしい。そして樊季に向き直り、感情のない声で手短に説明した。

「一番よく効く薬を使ったのよ。でも助かるかどうかはまだ分からない。ここ数日が分かれ目よ」

「じゃあ、数日乗り切れば助かるわよね?」

 それに対して璃鈴は是とも否とも答えない。

「樊季さん、わたしもそうなればいいとは思う。でも」

「あとは私が見るわ。ありがとう。璃鈴は休んで」


 璃鈴の言葉を遮るように樊季は言葉を畳みかけた。何か言葉を続けようとした璃鈴は、その言葉を呑み込んだ。代わりに、店主からもらった薬の使い方と使う間合いを説明し、隣の部屋へ引っ込んだ。


 三日三晩。樊季はほとんど眠らずに浙冶の介抱を続けた。


***


「……うっ……」


 浙冶が目を覚ました。小さな灯りをともしただけの部屋。今は真夜中である。俯せに寝かされたまま、焦点の合わない目で何かを探している。


「浙冶」

 樊季が慌てて顔を覗き込むようにして浙冶の視界に加わる。

「気が付いた? 気分はどう?」

 状況がよく分からず、何かを思い出そうとしているかのようだ。ふいに、焦点が定まる。が、それは一瞬のち、驚きと恐れがないまぜの表情に変わった。


「……なんでだ……?」

「なんでって、何が?」

「なんで……お前が……ここにいる?」

 一緒にいてはいけなかった。いるはずがなかった。なのに、なぜここにいる?


「だって。あんたが倒れていたのを見つけて。璃鈴に運んでもらったの」

「璃鈴も……いるのか?」

 浙冶が身体を起こそうとした。樊季は慌てて押し止めようとしたが、浙冶はそれを振り払い、起き上がってしまった。


「璃鈴と話を……させてくれ。樊季、お前は席を外せ」

「なんでよ、私は」

「いいからお前は席を外せ!」


 ものすごい勢いで怒鳴られ、樊季はびくりと身を固くした。浙冶のほうは傷口が開いたのか、声を上げ、痛みに耐えるように身体を小刻みに震わせている。

「頼む、お前は向こうへ行ってくれ……璃鈴と話を……」

 絶対安静と店主から言われている状態なのに、起きて話をするなど無茶である。


「浙冶、やっぱりだめよ。寝ていないと」

「話ならするわよ」

 璃鈴がいつの間にか部屋に入ってきていた。璃鈴はこの三日三晩、休んでいたわけではない。樊季が眠らずに介抱をしている間、璃鈴も隣の部屋で起きていたのだ。こんな状況で眠れるわけがない。


「話をさせて、樊季さん」

 璃鈴の言葉には有無を言わせない何かがあった。いつもの、姉のように親しみのある璃鈴ではない。樊季は浙冶の方を気にしながら部屋を出て行った。璃鈴は頭を振りながら溜め息を吐く。


「ごめんなさい、契約不履行ね。樊季さんがあなたを置いて帰ろうなんて考えるはずがない。これで良かったって思う自分もいるし。最初からこの計画は無理だったわ」

 浙冶を見ると、何かを言おうとしているのに璃鈴は気づいた。耳を貸せという手振りをしている。聞き逃さぬように、その口元に耳を寄せると浙冶がゆっくりと口を開く。


「いえ、東宜さんという人にはまだ会えてないわ。高殊たちが探してくれてる」

 聞き取れないくらいの浙冶の問いに璃鈴は首を振って答えた。当初は塩を預かっている東宜と合流する予定だったのだ。


 浙冶がまだ何かを言いたそうなので璃鈴は再び耳を傾ける。そのまま黙って聞いていたのだが。途端に璃鈴の顔色が変わった。

「今、なんて? もう一度言って!」


 浙冶は苦しげに、一度口にしたことを繰り返した。璃鈴が呆然と浙冶の顔を見る。

「あなたが……あの?」

「あんた、知っているんだな。今でも俺の家は、皇帝の御物を掠め取った、不遜の輩と悪名高い……らし……っっ!」


 声には諦めと自嘲とが混じっていた。旅の最初、浙冶は璃鈴に言っていたことがある。何があっても樊季だけは巻き込みたくないと。葉家にも迷惑はかけられない。そうなったらあとは頼むと。しかし。


「あなたが、あの……」

 璃鈴は放心したように同じ言葉を繰り返していた。聞いてしまったから、浙冶が本当は誰なのかを知ってしまったから。

 璃鈴はひとつ頷いて覚悟を決めたような表情をした。

「浙冶さん、あなたを必ず助けるわ。もちろん樊季さんも」


 今さら言うことではないけどね、と璃鈴は自嘲する。それにつられたのか、浙冶は目を閉じて頭を振りながら苦笑する。


「あいつは……自分から巻き込まれに行く、からな。怪我人連れて、あいつのお守をするのは……無理だ」

「あぁ、心配しないで。樊季さんはよく分かってくれるはずよ。ここにくるまででも周りに注意してきたもの。もう三日経ってるけど何も起こってないわ。だから」

「璃鈴」

 浙冶は話の途中で割って入った。璃鈴の話し方は早口で感情が入り過ぎているうえ、内容も理論的ではない。高殊が言ってた「未熟な部分」が出てしまっている。


「また、捕まる可能性、あるよな? これで終わりって……わけじゃない」

 息が上がってきた。大きく息を吐く。

「俺のことは、捨て駒として使ってくれて構わない……あいつだけは、最後まで守って、葉の家まで……無事に、帰してやってくれ。本当に、俺には悔いはない」

ただ、父さんのしたことは知りたかったけどな、と淡く笑んでぽつりと呟いた。


「浙冶さん……」

 璃鈴がなにか言葉を繋ごうとすると、梁店主が入ってきた。ふたりをギロリと睨んで言葉を吐き捨てる。

「安静にしておれと言ったはずだが。璃鈴、余分な話なんぞせずにだな、注意すべきじゃないのか?」

「え、ええ、そうね。ごめんなさい」

「まあいい、起きてるならちょうどいい」

 椀を浙冶の前に差し出した。

「坊主、これを飲め」


 濃い茶色をした液体だった。かすかに湯気を立てている。浙冶は店主の顔と椀と交互に見た。数瞬躊躇ったのち、黙ってそれを受け取り、口をつける。

「!」

ひと口飲んで咳き込んだ。なんとか吐き出さずに済んだが、びっくりするほど不味い。

「我慢して全部飲め。傷口に塗ったのと同じ薬草だ。怪我や病気によく効く。飯を食わなくても体力も保つ。嬢ちゃんにここまでさせたんだ。お前さんはもう、倒れるわけにはいかないだろ?」

「これ……は……?」

「いまさら隠しても仕方がないな。それは、この地方にしかない禁忌の万能薬だ。病気や怪我の種類を問わず、なんにでも使える」

「禁忌の……」

「だれにも言うんじゃないぞ。お前さんにも大量に使った。在庫すべてだ。あの嬢ちゃんが必ず助けろと無茶を言うもんでな。つまり、わしとお前さんとは同じ穴の狢だ」


 嬢ちゃんに感謝するんだなと店主は呟くように言った。

 浙冶はしばらく器を眺めていたが、意を決したように目を瞑って一息に口へ流し込んだ。そして、思いっきり咳き込む。と、傷に響いたのか顔をしかめた。


「とにかく今はゆっくり眠れ。このままではなんともならん」

 椀を取り上げられると同時に浙冶は寝台に倒れ込んだ。璃鈴が頭や腕の位置などを直して掛布をかぶせてやる。なにか聞きたそうに店主を見やると、答えが返ってきた。


「眠り薬を混ぜておいた。当分目を覚まさない。璃鈴、お前さんも休むべきだな。疲れは冷静な判断に事欠く」

 そうね、と璃鈴がくたびれた声を出した。と同時に、部屋の外から樊季が、もう入ってもいいかと急いた声色で尋ねてくる。許可の言葉とともに入り、浙冶の元へ真っ先に駆け寄って顔を覗き込んだ。


「浙冶は……?」

「大丈夫よ。眠ってるだけだから。たくさん休んだほうが治りは早いわ」

 樊季は無言で頷いた。璃鈴、と店主が呼び止める。

「いずれここも見つかるだろう。用意はしておけよ」


 誰に、とは訊かなくても分かった。今まで見つからなかったのは僥倖。むしろ、なぜまだここが突き止められていないのか不思議なくらいだった。


「大火事があったのは知っているか? 結構被害がひどくてな。その消火やら負傷者の手当てやらなんやらで結構手間取っていたらしい。ここはまだ離れていたから良かったもんだが。被害に遭ったもんたちからすると堪らんな」


 店主が見透かすように淡々と疑問に答えた。

 樊季を伴ってここへ来たとき、周囲に気取られないように細心の注意を払った。しかし、いずれは情報が漏れ、敵に突き止められる。


「悪いわね、いいお店だったのに」

「お前さん、悪いなんて全然思ってないだろう」

 店主が嘲笑気味に返すと、璃鈴はふと思い出したことを尋ねた。

「ねぇ、店主。浙冶さんの顔を見たとき、『同知にも目をつけられてた』って言ってたわよね。それってどういう意味?」

「言葉通りだ」


 店主は含み笑いをしながら直接答えず、「じっくり考えろ」と言葉を投げて部屋を出て行った。その様子を見計らったかのように、そういえば、と樊季が璃鈴に問いかける。


「ねえ、璃鈴、もう三日も経ってるけど……高殊たちは心配してるんじゃないかしら?」

 すると、璃鈴は事もなげに言った。

「大丈夫よ。これだけ経ってもわたしたちが現れないんだから、何か不測の事態が起こったことは分かるはず。そのうち合流できるわ」

「そのうちって……そういうものなの?」


 鏢師同士の絆なのかしらと樊季はただ普通に思った。それにしては璃鈴の言い方はあっさりしている。何か秘密の連絡手段でもあるのかもしれないと思い、樊季はそれ以上訊かず、浙冶の介抱に戻ろうとした。それを璃鈴が呼び止めた。

「なにかあったら、これを持って逃げてちょうだい」


 そう言いながら、樊季の両手に抱えるくらいの袋を手渡した。ずしりと重いそれは、簪を売って得た銀だった。


「店主がこれだけは返すって。元からすればだいぶ少ないけどね。それにしても」

 店主ったら本当にがめついわね、と璃鈴は呆れ半分、腹立ち半分でひとりごとを吐いた。九割方を取り分としたことに対しての言葉らしい。それを聞いた樊季が、でも、と繋げる。


「浙冶が助かるんだったら、全然構わないわ」

 浙冶の命は安くはないと言い切ったも同然だ。璃鈴は黙って頷くと先ほどの話を続けた。


「中に、十五両入ってるわ。千両に比べればなんてことはないけど、それでも結構な額よ」

 単純に、米が十七年分買える。知府の月俸より多い。

「何かあったときのために持ってて。お金はどんなどきでも大事よ」

 今度は樊季が頷いた。

「璃鈴、無理しないでね」

「その言葉、そっくりそのまま樊季さんに返すわ」


 互いを思いやる言葉にくすりと笑いあう。わたしたちも交替で休みましょう、と璃鈴は樊季を隣の部屋へ誘った。

 次の日の晩。皆の予感は当たった。

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