第32話

 璃鈴の先導で他人に見つからないよう裏道をひたすら進む。灯火台も消して月明かりもない今、食事処や宿屋や娼館が集まる通りから届く光が、唯一、行き先の見当をつけられる手がかりだ。


 通りをいくつか横切り、何度か角を曲がって璃鈴に連れて来られたのは、なぜか大通りに面した茶店だった。もうすでに店は閉まっている。璃鈴は周りを確認し、その裏口に回ると、声を出さずに戸を軽く規則的に叩いた。すると、しばらくして戸が慎重な様子でゆっくりと開いた。すかさず璃鈴は中に入り、樊季も後に続く。


「久しぶりね、梁店主。早速だけど、診てもらいたい人がいるの」

 入って早々、璃鈴は用件のみを告げた。部屋の灯りが、恰幅のいい、人懐っこそうな中年の男を照らしている。が、温厚な顔つきに似合わず、眼光が鋭い。


 梁店主は、璃鈴から簡単に事情を聞くと奥の部屋へ案内し、背負ってきた怪我人を寝台に俯せに寝かせるように言いつけた。そして、脈を取るために手を取ろうと患者に近づいて、何かに気付く。


「おや。この坊主、見たことあるな。うちに客として来た坊主だな」

「本当? お客のことなんて覚えてるの?」

「いや、普通は覚えておらんがな。この坊主、うちの店で同知相手に生意気な口を叩いていたからな。妙に記憶に残ってる。同知にも目をつけられてたな」


「浙冶……あんたって……」

 傍で聞いてた樊季は思わず脱力した。璃鈴は店主の言葉に反応を示したが、それについては触れずに単刀直入に訊く。

「それで、怪我人は助かるかしら?」

「さあな……そんなことよりも、なんだがな」


 梁店主は璃鈴の言葉を受け流し、少しやる気のなさそうな顔をした。一応、浙冶の脈を取ったり、目蓋をひっくり返したりと診療の手は動かしている。

「こっちは道楽で医術をやってるわけじゃあない。知り合いとはいえ報酬は高くつくぞ。璃鈴、お前さんに払える金はあるのかい?」

「それならご心配はいりません。ここに、あります」

 樊季が話に割り込んで、梁店主の前に両の掌を差し出した。そこには簪が、あの尹家の簪があった。


「樊季さん! さすがにそれは」

「いいの。璃鈴。簪がなくなっても、それで破談になったとしても……全然後悔はしないわ」

 無理をするでもなく、むしろすっきりとした淀みのない笑顔で樊季は告げた。しかし。


「お嬢ちゃん、悪いが、わしは現物では受け取らない主義だ。その簪の価値が如何ほどかは分からんが、桁違いに高価なものだと一目で分かる。売るとなると目立つし足がつくだろう。わしのこの稼業は、役人の目を引いてはならんのでな。これでは坊主の処置はしてやれん」


 首を横に振った店主に無情に返された。が、樊季は少しもうろたえることなく言葉に力を込めて返す。

「分かりました。きちんと売ってお金にします。だからどうか、浙冶を助けてください」

 その場にひれ伏し懇願する。璃鈴が慌てて立たせようとするが、樊季は跪いたままだ。


 しかし、梁店主は脈を取ったままの浙冶の手を持ち上げて、樊季に見せながらはっきりと言う。

「こりゃ、ダメかもな」

「待ってください! 諦めないで! 生きてるでしょ!」

 即、断じた梁店主に樊季が慌てて食い下がる。しかし、店主はかぶりを振った。


「助かる見込みは低い。手は尽くす、が、必ず助けると保証はできない。それでも?」

「保証ができるかどうかは関係ありません。でも、浙冶の命は助けて欲しい……絶対に」

「無理難題を吹っかけるお嬢ちゃんだな」

 梁店主は面白そうに樊季を眺める。


「嬢ちゃんの想い人かい?」

「違います」

樊季は即答した。でも、と付け足す。

「浙冶は家族です。助けたい理由はそれで充分でしょう?」

 店主は何も言わず、ふうっと息を吐いて浙冶のほうに再び向き直った。


 梁店主はまず浙冶の上衣を脱がせた。背中一面が赤黒く染まっている。何かを押し付けられたような火傷の痕も。そして肩や腕にもいくつか深い傷がついていた。

「……!」

樊季は思わず顔を背けた。が、自分のしたことの結果を見ないでいるわけにはいかない。意を決して視線を戻すと、店主が半ば呆れたように言葉を吐いた。


「どうしたら坊主はこんなひどい怪我をするんだい?」

「理由は言えないけど、『役人が無理やり言わせたいことがあったから』と言えば分かるかしら?」

「なるほどなぁ。『決められた以上の苦痛を与えられた』ってことかい。だろうなぁ、こいつぁちょっと、いや、かなりひどすぎる」


 通常の脊杖刑でもここまではならんぞと店主のひとり言が聞こえて、樊季は手の中の簪をギュッと握りしめた。


散瘀拈痛膏さんおねんつうこう……玉紅膏ぎょくこうこう……いや、どれも間に合わんな。それよりも」

 店主の妻が一部始終を聞いていたのか、沸かした湯を盥に入れて持ってきた。そのまま寝台の隣の卓に、これまたたくさんの布を持ってきて一緒に置く。


「はたして、坊主の体力がもつかどうか」

「浙冶は店にいるときは朝から晩まで食事を抜いてでも働くって聞きました。今回の旅でもよく動き回ってるし、喧嘩も強いんです。体力はある方だと思います」

 言いながら、樊季はそう思い込もうとした。

「年は? 嬢ちゃんよりいくつ下だ?」

 璃鈴と同じことを店主は訊いた。すかさず樊季は答える。

「いえ、私と同じ、十六です」

 店主の片眉が上がった。そして、樊季が思い込もうとしていた事柄をすべて打ち砕く。


「こんななりで十六だと? 飯をしっかり食ってるのか? 飯を食うことで気を作る。気が無いと人は動けん。身体も年相応にでかくならん。回復も当然遅い、いや、回復できるかも分からん。こんな小柄で食うもん食ってないんなら、体力があるとは言えん。今までかなり無理してきたんだろう、違うか?」

 そういやぁ、棗をやったときも坊主は口を付けなかったな、と店主が言葉を付け足すと、樊季は何も言えなかった。


 康令で浙冶と喧嘩したときに夕食を食べさせないという暴挙に出たが、後で高殊に頼んでこっそり焼餅を持って行ってもらった。しかし、浙冶は頑として食べなかった。

 旅の間でもここ最近はずっと、浙冶は寝食を忘れるほど多忙だった。やれることがあるなら手伝うと声もかけたが、「かえって邪魔だ」と言われたので放っておいた。


 浙冶は家族だと店主に言い切ったし、実際、樊季はそう思っていた。葉の家にいるときでも。が、振り返ってみればそれらしいことは何もしていない。旅を一緒にしてから少しは気にかけているつもりでも、すべてを見過ごした。そのツケがまわってきたのだ。


「浙冶はやっぱり……」

 助からないの、という問いかけを樊季は呑み込んだ。しゃがんでその顔を覗き込む。動かない表情を見ながら、数日前にふたりで話した夜のことを思い出した。浙冶は苦笑しながら、樊季だけは何があっても無事に葉の家に帰すと言ってくれた。夢は壊さないとも。どんなに恰好悪くても、浙冶自身のやり方で。


 でも、樊季は今、浙冶ひとりだけを犠牲して自分が家にのうのうと帰るくらいなら、もう嬰舜との婚儀なんかどうでもいいと思っていた。

 項垂れる樊季にちらりと視線を向けて、梁店主はため息を吐きながら腕組みをした。


「仕方ない。やはりあれを使うしかないか」

「あれって、なんですか?」

 樊季が勢いよく振り仰いで期待の声を上げる。しかし、店主は無情に返した。


「そんなことより、嬢ちゃん。約束の金は用意しなくていいのかい?わしはタダでは人を助けん」

「用意します! お金は必ず用意します! 浙冶の命を助けてくれるならいくらでも!」

「店主、それ、完全に悪党の台詞よ」

「悪党でもなんでも構わん。奉仕の精神で人を助けて自分が損をするなど、わしの性質には合わんからな」

 その言葉で璃鈴は黙り込んだ。その様子を見ていた樊季は少し気になったが、今は急いでやらなければならないことがある。


「じゃあちょっと売りに行ってくるわ!」

 店を出て行こうとすると璃鈴に慌てて止められた。

「待って! 樊季さん! 売りにって、どこに行くつもりなの?!」

「え? えーっと……質屋さんだけど……そういえばどこにあるのかしら、ね?」

樊季がうふふと笑って誤魔化すと、璃鈴が脱力した。


「どうしても売るというならわたしが行くわよ。樊季さんはここで待ってて」

「ちょっと待って璃鈴。そうしてもらいたいのはやまやまなんだけど。これって、このままで売れるのかしら?」

「えっ?」

 尹家からもらったものなので品自体は間違いなく超高級品である。ただ、そんなものをただの庶民が売ろうとしても、相手が簡単に買うものなのだろうか。


「盗品と思われるかなって思ったの。それでも売れるものなの?」

 簪を売ろうとしたら自分たちが役人に売られていた、なんてことにはならないかと樊季は危惧したのだ。すると、璃鈴が冷めた口調で言った。


「盗品だって気づいても素知らぬふりをして買ってくれるところに売るのよ。そういうところはちゃんとそういった売り筋があるから」

 つまり、璃鈴はそういう質屋を知っているということだ。

「分かったわ。じゃあ売りに行きましょ。あと念の為、もったいないけど、元の形が分からないようにバラすわね」

「えっと……バラバラにするのは最後でもいいんじゃないかしら?」


 愛する許婚からもらった簪……のはずが、樊季の中ではすでに金策の手段になっている。

 絶対に手放すなと浙冶から何度も言い聞かされていた、尹家の簪。一時前までは大切にしていたはずのもの。それをあっさり売るというのだ。切り替えが早いわねーと、この状況下で璃鈴は半ば呆れ、半ば感心した。


 樊季は、簪についている鳳凰の刻まれた白玉をためらいなく外した。

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