第31話

「樊季さん、どうしたの?」


 樊季は闇が下り始めた通りをじっと見つめていた。

 浙冶はまだ現れなかった。しかし、もう城市は離れた方がいい頃合いだ。璃鈴は諦めるよう樊季に声をかけようとした。が。


「璃鈴、さっきのお役人の元に引き返しましょう」

 樊季は勢いよく璃鈴のほうへ振り返ると、決然とした態度で言葉を発した。

「待って、樊季さん。戻ってどうするの?」

「あまりにも遅すぎるもの。もう一度、今度はきちんと浙冶の居場所を聞くの。連れてってくれるでしょ、璃鈴?」


 いつもなら樊季は璃鈴の言うことを大人しく聞いていた。しかし、今の樊季は璃鈴に対して自分の考えを押し通そうとしている。璃鈴は黙って樊季の言うとおり、先ほど浙冶との合流場所を教えてくれた役人のところに連れて行った。


「これを」

 浙冶から預かった財布を逆さに振り、樊季はあるだけ全部の銀をその役人の前へ差し出した。

「これですべてです。すべて差し上げます。ですから、教えてください。浙冶はどこにいるんですか?」


 もう間もなく、仕事の終わりを告げる鐘が鳴ろうとしている。下っ端役人の心の中はすでに帰る準備をしている。やる気のない返答を返しながら、樊季の差し出した銀に手を伸ばそうとした。樊季は手を引っ込め、きっと睨み付けながら静かに言い放つ。


「ちゃんと答えてください。そうしたら差し上げます」

「あのガキは捨てられたようだ。別のやつらが連れて行った」

「どこに?」

「教えたってもう手遅れだな」

「どこです! 教えて!」


 樊季は感情のままに声を上げた。鐘の音だけが遠くで聞こえる。

「約束するわ。私は浙冶を返して欲しいだけなの。もし、その途中であなたたちに都合の悪いものを見たとしても、私は誰にも何も言わない」


 璃鈴は驚いて樊季の顔を振り返った。いつもの後先考えずに人助けをする娘の言葉ではない。そして、いつもの世間知らずで気のいい娘の表情でもなかった。


「立場上、答えは言えんな。手がかりだけやろう。連中が捨てに行く場所はいつも同じだ。つまり、この城市のやつらがあえて近づかない場所にガキを捨ててきたということだ」

「そんなの、たくさんあるじゃない!」

 樊季が激高したのを璃鈴が止めた。


「待って、樊季さん、落ち着いて。ということは、ね。この城市の誰もが知ってる場所なのに誰もが近づきたがらない場所。うっかり入り込んだりすることはない、みんなが避けて通る場所ってことよね」

 璃鈴は落ち着き払ってゆっくりと言葉を返す。ここの出身である璃鈴には心当たりがある。条件的にはあの場所しかない。つまり。


「鳳亟の廟ね」


***


「浙冶ぁ!」


 樊季と璃鈴は廟の敷地に足を踏み入れた。すでに日は暮れて辺りは暗闇に沈んでいる。月もまだ出ていない。璃鈴が携帯式の灯火台で廟の敷地を順に照らしていった。

役所を出るとき、東の通りで大火事があったと聞いた。ここからでも赤焼けした空が見えるし、それを知らせる鐘の音も聞こえてくる。それがさらに不安を煽る。


「いない……いないわ……」


 樊季は焦りの中、必死で目を凝らしながら探している。嫌な予感しかしない。広い敷地に取り残されたように建っている廟の中にも入ってみたが、荒れ果てた姿を目にするばかりだ。

廟を出て今度はその周辺を探すと、目の端に何か黒い物体が映ったような気がした。急いでそちらへ駆け寄る。その陰を覗くと。そこには倒れて動かない人影があった。


「浙冶!」

 樊季は慌てて駆け寄った。抱き起こそうとしてその身体に触れると、べったりと手に付いたものがある。

「え……何これ……」

 樊季は呆然とする。璃鈴が手元を照らしてくれると、それは血だった。

 そして。浙冶の上衣がめくれていた。その隙間から見えたのは、背中につけられた無数の深い傷。息はかろうじてしているが早くて浅い。意識はないのに顔にはずっと苦悶の色を浮かべている。なにより、肌が冷たい。


「璃鈴! 浙冶が!」

「ええ、ひどい仕打ちを受けたんでしょうね」

 璃鈴は浙冶の傷の具合を見ていた。

「早くお医者さまに診せましょう。でないと……」

 助からない、という言葉を樊季は呑み込んだ。しかし。

「やっぱりダメね。残念だけど浙冶さんは多分、助からない」

 樊季が言えなかった言葉を、璃鈴は簡単に口にした。そのうえ、信じられないことを言葉にする。


「さあ、もう行かなくてはね。悪いけど……浙冶さんはそのままで」

「え……璃鈴……嘘でしょ……」

 樊季がのろのろと顔をあげる。目の前の璃鈴が知らない人間のように思えた。その表情は暗くて分からない。ただ、声には悔恨にも似た色を滲ませている。


「これは浙冶さんの頼みなの。何か想定外のことが起こったら、真っ先にあなたを守ってくれって。何度も念を押されたわ」

「だからって……嘘でしょ? 置いていくなんてこと、ありえないわよね?」

 助からないから、約束だからという理由だけで見捨てるなんて。

「だって、浙冶がこんなことになったのは……元はと言えば私のせいなのに」

 小さく絞り出すような声。そのあとに、冷えた声が淡々と続く。


「樊季さんは知らないでしょうけど……浙冶さんのお父さまは不敬罪で捕まっていたらしいの。詳しいことは本人もよく知らないって言ってたけど」

 樊季は驚いた。いや、そんな話を浙冶はそれとなくしていたような気がする。


「それを役人に知られると、あなただけでなくあなたの家にも累が及ぶ。それを浙冶さんは恐れていた。だからもう、あなたとは縁を切っておきたかったのよ。あなたが今ここで助けて浙冶さんが助かったとしても、浙冶さんの家の罪がばれてしまえば、元々繋がりがあったと勘ぐられる。それは得策じゃないわ」

 璃鈴は浙冶のことをすでに過去形で話している。それに樊季は気づいた。


「釈放されたのも、おそらく、身の潔白が証明されたからじゃないわ。多分、決定的な自白を引き出せなかったから。目的も誰が黒幕かも分からないけど、なにがなんでも浙冶さんに罪を被せたかったんでしょうね。でも、やりすぎておそらくこんなことに。罪が確定するまえに拷訊で死なせるのは、逆に罪になる。だから、そのまえに釈放したんでしょう」

 樊季は血の気が引くのを感じた。人ひとりの命が、ただの損得勘定で淡々と語られている。


「璃鈴、もう話はやめて……早く浙冶を」

「下手をすると、あなたと尹家との縁談はなかったことになるわ」

 その言葉を聞いて樊季は一瞬逡巡した、ことを恥じた。


「……そうなってもいいから助けて……お願い……」

 最後は消え入りそうな声だった。璃鈴は樊季の肩に手を置いて優しい声で諭す。

「樊季さん、あなたが罪悪感を持つ必要はないわ。あなたは元々この件には関係ないもの」

「どうして見捨てようとするの? なぜ、面倒だからという理由で助けないの?」

「『面倒だから』ではなく、『面倒に巻き込まれるから』よ。人を助けようとするのは当然のこと。でも、巻き込まれた相手のことはどうでもいいの? 人を助けたために、その人の幸福が脅かされても?」


 浙冶が往路の康令府で同じような話をしたことを樊季は思い出した。自分が良かれと思って行ったことが他人を巻き込んで不幸にすると。それは果たして正しいことなのかと。

 しかし、今のこの状況は樊季が浙冶を巻き込んだ結果だ。ならば、それは赦されるのか?


「不敬罪は死罪に当たる重罪だもの、仕方がないわ。助けてあげられない。それはあなたでも分かるでしょう?」

 それでも。樊季は頭を振った。涙を流しながら、聞き分けのない子供のように何度も何度も横に振る。そしてついに声を上げた。

「分からない、分からないわよ! お願い璃鈴、力を貸して! どんな理由であれ、私は浙冶に生きて欲しい!」


 しばらくの間、沈黙が下りた。日の光はすっかり力をなくし、冷たい風が熱を奪うように吹き退っていく。


 樊季は無言で浙冶の身体に腕を回し、背負おうとした。すると、璃鈴が樊季の動きを手で制し、灯火台を預けてその役を代わる。そして誰にともなく言葉を吐いた。

「やっぱりね。最初からこの策は上手くいくはずがなかったのよ、浙冶さん」

「璃鈴?」

 目の前の相手の表情が変わった。いつもの璃鈴だと思った。


「ごめんなさい、樊季さん、頼まれてたとはいえ。あなたのおかげで後悔しないですむわ」

 そう言いながら璃鈴は浙冶を背負う。が、動きが止まる。

「どうしたの、璃鈴?」

「軽いわね……驚くほど軽い。浙冶さんて樊季さんより年下?」

「いえ、同じよ、同い年」


「そう」と答えて、璃鈴は樊季を振り返りながら軽く注意をする。

「樊季さんはちゃんと顔を隠してね。浙冶さんを助けるなら自分も用心しないと」

 辺りはすっかり暗くなっているが、用心のため、ふたりは人気のない裏道を行くことにした。とはいえ、どうするか。医者に診せることはできない。この状態の浙冶を運んで傷口を見せれば医者も何があったか勘付くだろう。その医者が役人に密告しないとは限らない。そうなれば役人たちから再び目をつけられる可能性だって十分にありうる。あまり目立つ行動はとれない。


「となると、闇医者かしら……」

「璃鈴? 闇医者って?」

 すかさず、樊季が声を重ねた。璃鈴はしまったという表情で短く返す。

「いえ、なんでもないわ」

「璃鈴?」

 樊季がじっと璃鈴の顔を見つめる。無言で。そうして数瞬ののち、璃鈴は折れた。


「浙冶さんを普通の医者には連れて行けないの、こんな状況だから。だから裏稼業で医業をやってる闇医者に連れて行こうかなと思ったんだけど。やっぱり無理ね。お金がかかるもの」

「裏稼業?」

「使ってはいけない薬を扱ったりしてるの。中には毒薬そのもので治療したりもする。それが普通の人から見れば危険極まりないものに見えるから。だから、面倒なことになるのを避けて、堂々と医者とは名乗らない」


 それを聞いて樊季は思案顔になった。数瞬考えたのち、意識がないままの浙冶の顔にふっと目を向けて尋ねる。

「その闇医者の治療で治るの? その、こんなにひどい怪我でも」

「普通の医者が治せないような怪我や病気も治すわ。でも、それ相応のものがかかる」

 それを聞くと、樊季はひとつ強く頷いて言った。


「璃鈴、大丈夫よ、当てがあるから。浙冶をそこへ連れてって。助けてくれるならいくらかかってもいいわ」

 先ほど樊季は役人に有り金すべてを渡してしまった。しかし、今は治療費について自信ありげに「大丈夫」と言い切っている。後で父親に金の工面を頼むのだろう。


「助かるかどうかは分からないわよ」

「それでも、助かる見込みが少しでもあるなら。そこへ案内してちょうだい」

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