第30話

 数日後、延の城市の一角。西門の前に樊季と璃鈴はいた。


 浙冶が役人に連れ去られたあと、樊季たちは件の簪のおかげですぐに釈放された。馬車も荷も無事である。しかし璃鈴ができる限り物を手放すようにと一同に指図をしたので、樊季も胸に抱えられるほど荷物を小さくし、馬車については売り払ってしまった。


 そして、浙冶がどうなったのかは分からない。


 関所が延令府の管轄だったため、樊季は延令府の役所に訴えることを璃鈴に哀願した。浙冶は連れ去られる際、璃鈴の指示を仰げと樊季に言い残したので、その考えを酌んだ形で璃鈴が主導を取ることになったからだ。


 しかし、その璃鈴は何かを迷っているようだった。樊季の訴えを真摯に聴いてくれてはいるが、行動に移すのに躊躇っている。見かねた高殊が樊季の意見に加勢をしたため、ようやく馬を飛ばして延へ着いたのがその三日後の城門が閉まる直前。その次の日の朝一番に訴え出て受理されるまでにかかった日にちが丸二日。


「延令府の知府さまって慈悲深くて有能らしいって聞いてたんだけど……」

 延令の役所が意外に事務手続きで時間をとったことに樊季は驚いていた。

 ただの手違い、浙冶は無実の罪であるとの訴えはすぐには認められず、役人とのやり取りにもなかなか埒が明かない。璃鈴がそこで役人に心付けをそっと渡す。樊季は黙ってそれを見ていた。その効果があったのかようやく今朝認められ、この西門前で待つように言われた。が、朝から待って、もう夕暮れのときである。正門と違い、ここの人通りはほとんどない。樊季は落ち着きなく門の前を行ったり来たりしている。

 表情もひどく暗い。


「いくら慈悲深くて有能な知府でも、万能なわけではないわ。目が十分行き届かない辺鄙な地域のことならなおさら。あそこの役人の質だって見たとおりよ」

 璃鈴はため息を吐きながら諦めの口調で答えた。高殊たちには別件で動いてもらっている。その用の完遂未遂にかかわらず、夕方には城市門前で待機してもらうことになっていた。今夜はこの城市には泊まらない予定だった。


「浙冶、無事かしら。怪我してないかしら? 私のせいであんな……」

 樊季は胸の荷物をぎゅっと抱きしめて呟く。

「思いつめるのは良くないわよ。あなたは善意でやったことなんだし」


 しかし、それで別の誰かを傷つけたなら。それではまったく意味がない。璃鈴の言葉は樊季には慰めではなく戒めの言葉に聞こえた。

「罪を確定させるには自白が必要なの。証拠だけで自白がなかったら、罪は確定しないわ」


 樊季の表情がますます暗くなるのを見かねて、璃鈴がそんなことを呟いた。

「そうなの? じゃあ浙冶はあの壺については知らないから自白なんてできないし、無実って認められるわね」

 樊季の顔が少し明るくなる。


 しかし、璃鈴はこのとき樊季に言わなかった。自白を引き出すために許されている手段があることを。


***


「早く降りろ!」


 怒声とともにそれは馬車から引きずり出され、地面に投げ出された。すぐに男たちは立ち去るかと思われた。が、目の前の重たい岩を動かしている。それが終わると地面に放り出したそれの首根を掴み、再び引きずって目の前の洞穴に乱暴に投げ入れる。その腹の辺りを思い切り蹴り上げた。


「とどめを刺すならこっちの方が良くないですか?」

 別の男が腰の刀を手で叩き示したが、蹴った張本人は「とどめではない」と感情を含ませずに言葉を吐いた。まるでとどめさえ刺さなければ拷訊の範囲であると言わんばかりに。


 もう一度蹴ってやろうと男が足を引いたとき、馬のいななく声がした。もうひとり若い男が慌てて入ってきて耳打ちをした。

「火事だと?」


 驚きの声をあげた後、三人は大急いで洞穴を出て行く。馬車が立ち去る音がだんだんと遠くなっていった。


 人影はしばらく倒れたままだった。が、やがて苦痛にゆがませた表情でゆっくりと顔だけを上げる。浙冶だった。揺れる視線をなんとか定めて辺りの様子を見ようとした。


 そこは。人の骨が散乱していた。視界に入っただけでも何体分かある。

「……!!」

 ここにはいたくない。浙冶は這ってここを出ようとした。目の端に官服らしきものが映った。襤褸を着た、比較的新しい死体もある。が、確認をする余裕はなかった。


「畜……生……あい……つら……」

 覚悟したとおり、決められた数をはるかに超えて拷訊は繰り返された。何度も気を失いながら打たれ続けた背中の痛みは想像を絶し、息が止まりそうになる。


 釈放されたのは、浙冶が証拠を裏付けるような言葉をひとことも発しなかったから。疑いが晴れたわけではない。葉の家に戻れば累が及ぶ可能性がある。戻れるわけがない。


 いずれにしろそんな心配をする必要はないと浙冶は分かっていた。自分が喋らなかったために拷訊は苛烈を極めた。だから、このままではおそらく。


(せめて、外に)


 激痛が容赦なく襲う。視界もすでに昏い。

 洞穴を塞いでいたであろう一枚岩がずれて隙間ができていた。男たちが慌てていたからか、きちんと閉め切れていなかったようだ。そこからなんとか洞穴を這い出ると、見たことのある建物が目の前に現れた。


 靄のかかった思考ながらなぜだかすぐに思い起こせた。これは行きにも通りかかった、高殊によれば鳳亟という名の英雄を祀るあの廟だ。黄昏の光が差してきて、一瞬、目の前が明るくなる。


(樊季たち……無事に帰れたか……?)


 そう思った瞬間。城市の喧噪がひどく遠くに聞こえたような気がした。なぜか樊季の明るい声も。そして、すべてが暗転した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る