栄光中毒の終わり

海沈生物

第1話

 まだ幼い頃、スイミングスクール開催のジュニア限定水泳大会で一位を取った。腹筋がむちむちなお姉さんから首に作り物の金メダルをかけてもらうと、会場に来ていたクラスの同級生や地域の人、そして私の「初恋」の相手からも微笑みと共に称賛の言葉を浴びせられた。

 天窓から差し込む真夏の陽射しがスポットライトみたいに感じられて、私はその「栄光」が自分を証明してくれる唯一の証拠であるように感じた。その栄光の眩しさは、私の心の支えになった。嫌なことがあった時、くじけそうになった時、それら全部を「過去」にある栄光の存在が支えてくれた。

 だけど中学一年生の春、その栄光は私を苦しめるものに変わった。




 私は中学校に入ると、沢山ある部活の選択肢の中でも迷わずに水泳部を選んだ。それは「水泳がしたいから」という理由もあったが、何よりもまたあの栄光の眩しさを味わいたいという理由が大きかった。

 ともかく水泳部に入部した私は、顧問の先生から「どのぐらい泳げるのか」を測る名目で、他の一年生と泳がされることになった。言わずもがな、私は圧勝する予定だった。私の泳ぎに見惚れた顧問や上級生からの「すごいわね、山崎さん!」という声を期待していた。だけど、その結果は見るも無残な大敗だった。

 小学校に入ってから、スイミングスクールに行かなくなったのが原因かもしれない。あるいは、私と並走したのがスイミングスクールでも泳げると有名だった女子二人だったのが原因かもしれない。その二人は私の存在など歯牙にもかけないで、二人だけの世界に入っていた。二人だけで争いあっていた。私は彼らの世界に入ることができないまま、三着の最下位だった。無論、一位ではない人間に皆の目線は行くわけがない。先輩や顧問たちの目線は全て、そちらに奪われた。私は誰の目にも映ることができなかった。

 その日から、私は栄光のスポットライトに立つ主人公からただの脇役へと成り下がった。


 それでも、駄々をこねることはなかった。あの頃の栄光を覚えてくれている同級生たちは、「山崎ちゃん、水泳部頑張ってね!」「また一位取ってね!」と応援をしてくれているのだから。それを私の馬鹿な振る舞い一つで壊したくなかった。彼らの理想を裏切りたくなかったのだ。


 私は毎日のように真剣に練習を続けた。少しでも早く、あの二人を超える存在になりたい。一位に返り咲いて、また栄光のスポットライトを浴びたい。皆からの歓声を浴びたい。私が生きる価値を証明する証拠を、取り返したい。しかし、その望みは一向に叶わなかった。

 天性の才能の有無、というやつだろうか。あるいは、ただの才能すら私にはなかったのかもしれない。毎日練習を続けていく内にあの頃のようなスピードは取り戻せたが、ある点まで行くとタイムが伸び悩みはじめた。上にはまだ二人もいるのに、あと数秒が追いつかなかった。顧問から何度もアドバイスをもらって実践してみたが、それでも思うような結果が出ない。「続けていればきっと伸びるわ!」と励まされたが、そんな声もどこか遠くから聞こえてくるように心を通り抜けるばかりで、私の心にはただ疲労感だけが溜まっていった。


 どうして、私は今頑張っているのだろうか。こうやって練習していても、私に歓声が届くことはない。私だけに歓声が送られることはない。かつて私の栄光を見届けてくれた同級生たちは、それぞれのクラブで自分だけの栄光を掴もうと頑張っている。私を見てくれる暇などあるわけがない。

 仮に今の私を彼らに見てもらえたとして、一位ではない私の姿など醜聞にしかならないだろう。彼らの中にある理想が、彼らが知っている私の栄光が壊れてしまうだけだ。私はただの同級生に成り下がってしまう。




 そんな虚無を抱えていたある夏の日、いつものように更衣室で着替えていると、あの競い合っている一位と二位の二人が私の方へ近付いてきた。脱いでいる途中だったスクール水着を着直すと、バスタオルを持つ手にグッと力を入れた。


「あのー……山崎さん、今日一緒に帰らない?」


「帰る、って……あの、私と?」


「私と? って、ここにはあんたしかいないでしょ。馬鹿なの?」


「ちょっ……森宮! 威圧的態度を取ったら、怖がらせちゃうでしょ!」


「はいはい、悪かったわよ。それで、帰れるの?何か用事があるなら、無理強いはしないけど」


 私は迷った。この二人は追い抜くべき敵だ。蹴落とすべきライバルだ。そんな相手と仲良く一緒に帰るなんて行為は狂っている。どうして争い合っている人間と仲良くする必要があるのか。

 だが、その時ふと妙な思い付きがあった。私は彼らを追い抜けない。それは私の才能がないのが原因ではないのではないか。彼らの才能には、何か重大な秘密がある。その秘密を暴いて皆の前に晒してしまえば、私が一位になることができる。それがどれだけ悪辣なことであるが自覚はしていたが、その思いを止めることはできなかった。私はつい緩んでしまいそうになった表情筋を引き締める。


「うん。特に予定はないし、今日は大丈夫だよ」


「だってさ、佐々木。前からずっと話したかったんだろ? 良かったじゃん」


「あーもうっ! なんで言っちゃうのかなぁ。そのー……は、恥ずかしいじゃん」


 仲良さげな二人の姿を見ると、不意にめまいのような感覚が訪れる。どうして、争い合うべき二人がこんなに仲良くできるのか。実は彼らは別世界から来た住人であり、そこでは隣人と争い合うことが禁じられている。だから、仲良くできるのではないか。そんなSFチックな展開などあるわけがないのは分かっているが、そうとしか思えなかった。

 私は深呼吸すると、もう一度表情筋を引き締め直す。なるべく普通であるように、胸の内の感情がバレないように。隣で仲良く着替えている二人を意識しながら、私は内心でにやりと笑っていた。




 帰り道は偶然にも同じ方向だった。別方向でも嘘をついて付いていく予定だったが、部活終わりで疲労困憊の身体にはありがたかった。二人は私を間に入れると、今日の練習についての話をしていた。昨日よりタイムが微妙だった、佐藤くんの伸びがすごかった……なんてどうでもいい話である。それよりも、何か二人の秘密をぽろりとこぼしてくれないか。私が栄光に返り咲けるような、そんな秘密を。しかし、話はずっとただの水泳の話ばかりで、一向に秘密を話さない。

 痺れを切らしてどうにか都合のいい方向へ話を持っていこうかと思っていると、不意に「ねぇねぇ」と元気な方の佐々木に言われる。


「そういえば、山崎さんって幼い頃からずっと水泳しているの?」


「あー……いや、そうでもないかな。五歳の時から小学校になるまでの期間スイミングスクール通っていて、そこで……一位取った、ぐらい」


 控えめに言って、心臓が変な高鳴り方をしていた。「今」の一位はこの二人なのだ。本当に才能があるのは、この二人なのだ。そんな二人に「過去」の私の一位を語るなんて、恥ずかしさのようなもので心がズキズキと痛んだ。

 だが、私の感情とは裏腹に佐々木は目を輝かせて手を掴んできた。意味が分からないまま鈍器に殴られたような顔をしていると、彼女はブンブンと掴んだ手を上下に振った。


「この辺りででスイミングスクールって言ったら、青山スイミングスクールでしょ!? あそこ、私たちも通ってたんだ! あの頃は水泳に興味がなかったんだけど、あの時、二人で貴女の泳ぎ方を見てさ。カッコイイ、こういう人になりたい、って強く思ったんだ! えー本当、嬉しすぎる!」


 興奮する佐々木を森宮が犬を躾けるように抑えていたが、彼女の目にも珍しく生気が宿っている気がした。気がしただけで気のせいかもしれない。多分。ただ、彼女の目にどこか懐かしさを感じたような気はした。


 話を戻すが、佐々木から栄光を褒められた。しかも、私の過去の栄光を見てくれていた人に。それなのに、私の心はむしろ痛みを増していた。私の過去の栄光が、彼らという存在を生み出してしまった。そのせいで、私は栄光の座から落とされた。その事実は「そうではないこと」よりも辛く、私の心は褒められる度にズタズタになっていた。


 佐々木は永遠と「それから」を語ってくれる。私の泳ぎを見たあと、しばらくしてスイミングスクールに入った。だが、その時には私はもういなかった。当たり前である。あの栄光を手に入れたのは偶然であり、たまたま体験入学の期間にあったジュニアの大会にエントリーして一位を取れただけなのだ。……ただの、「偶然」でしかなかったのだ。

 佐々木が彼女の中の「栄光」の素晴らしさを語る度、私の記憶の中にある栄光を照らすスポットライトの光は小さくなっていった。いつしか、彼女の声がコーチと同様にどこか遠くから聞こえてくるように心を通り抜けるばかりになった。むしろ遠くで鳴く烏の声の方が近く感じた。早く、この場を離れたい。彼女が語れば語るほど私じゃない私を語られているような、そんな気持ちになっていた。


 分かれ道まで着くと、二人は右へと行った。私は嘘をついて、こっちが家だからと左に向かった。本当は私も右だった。だがこれ以上彼女と話していると、心が壊れてしまいそうだった。二人が見えない死角までやって来ると、私はその場で小さくなる。苦しい。彼らの秘密を暴こうとしていたはずなのに、なんで私はこんな苦しい思いをしているのか。私はただ、称賛が欲しかっただけなのに。また栄光を手に入れたかっただけなのに。

 ぽろぽろと勝手にこぼれてしまう涙に、自分で自分が分からなくなる。もういっそ、死んでしまいたい。私を認知されずに消えてしまいたい。こんなに過去の栄光に振り回されるぐらいなら、いっそあの栄光をなかったことにしたい。記憶から消してしまいたい。私はただ、その場から動けなくなっいた。




 それから何時間経ったのだろうか。気が付くと、目の前に誰かが立っていた。まさか不審者なのかと警戒していると、それは見覚えのある顔だった。


「……やっぱりね。あんたの家、こっち側じゃないでしょ」


 そこにいたのは、森宮だった。彼女は縮こまる私の隣へ「良い?」と言って座ると、持っていた鞄をコンクリートの上に置いた。学生服から二十本ぐらいのマリーゴールドが特長的な私服に変わっているのに目を見張っていると、「あと数分したら塾があるの」と微笑んだ。


「塾、行かなくて良いの?」


「大丈夫。どうせ、今日の講義は分かる所だし。それより、今はあんたと話したい」


 森宮は私の方を向き直すと、わざわざ正座をしてくる。


「山崎の気持ち、なんとなくわかるよ。私はそういう言語化上手くないのでアレだけど、その……嫌味だと思ったんでしょ? 佐々木は悪意がないの。単純に馬鹿なの。それは彼女の良さでもあるんだけどね。でも、その上で才能があるから厄介なのよね。私も頑張っているけど、いつまで経っても万年二位。あの太陽みたいな狂気人間には勝てないわ」


「……私は万年三位だけど」


「……あぁ。これはこれで私も嫌味だったわね、ごめんなさい。でも、分かるわよ。あいつに勝てないなら、もう水泳なんてやめてしまったら良いんじゃないか。水泳に興味がない人間が評価するのは二位や三位よりは一位なんだから、所詮私は脇役にしかなれないのではないか……って。でもね、私はやめられないの。才能があるどうこうじゃない。誰かと競い合って高め合う。どうせ勝てないと理解しながらも、それでも馬鹿みたいに超えてやろうとする。その感覚が死ぬほど楽しいの。だから、その……」


 彼女はぎゅっと私の両手を包み込んできた。咄嗟の仕草にドキッとしていると、彼女はまたあの微笑みを見せる。


「山崎も、絶対やめないでほしい。私は佐々木みたいな熱量で山崎の栄光を語ることはできないし、実際水泳に興味を持ったのだって佐々木がやるからだった。でも、だから分かるのよ。……”一位になることだけが全てじゃない”。もちろん競い合うことは大事なんだけど、それだけがゴールになったら、一位になった”その先”がないでしょ? 一位になるだけだったら、ジュニアの大会に年齢を偽って出場すれば私だってなれる。でも、それは意味がない。そこに楽しさはない。だから……私たちと一緒に水泳にしましょう? 山崎も競い合って、それで全然佐々木に勝てないことを嘆き合いましょう? 私と……馬鹿、しましょう?」


 その手は、まるで蜘蛛の糸のように見えた。才能が全てではない。順位が全てではない。そんな何かが、その危なげな糸の先にあるように感じた。それは過去の栄光などではない、確かな今にある光だった。私はまたこぼれだした涙を袖で軽く拭うと、彼女の手を掴んだ。渡されたハンカチに「ありがとう」と言って受け取ると、遠くから声が聞こえてくる。佐々木だった。こちらも「The talent is everything!」という英語が書かれた、良く分からないTシャツに着替えていた。


「二人で何話してたの? もしかして……私に隠れて密談!?」


「なんでもないわ。二人だけの、特別な秘密。……そうよね、山崎さん」


「そう、ですね。……森宮さん」


 犬みたいにプンプンと嗅ぎまわる佐々木が微笑んでいる様子を見ながら、私はいつしか栄光への中毒のような執着が消えていることに気付く。それと同時に、私は気付いてしまう。その「微笑み」の既視感の正体と共に、決して叶うことがない、誰にも言えない「初恋」を抱きはじめている事実に。

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