第2話 宮中での生活
綾姫様に東宮宣下が出たことで綾も香奈も急ごしらえで宮中の礼儀作法を良智様から教わった。
由比様から言われている修練は相変わらず続いていて、午後には良智様から礼儀作法を教わり、その合間に衣の準備に当てられた。
綾姫様は初めこそ嫌がっていたが、状況は変えられないと悟るとその集中力は凄まじかった。
「香奈、後宮での行動は気を付けないといけないわ。誰が味方か敵か、そしてその後ろについている貴族たちにも気を配らないといけないの。私たちの行動一つが父様やお兄様、ひいては大納言家にも及ぶの、間違いがあってはいけないわ」
「姫様。私も及ばずながら傍でお支えします」
綾姫様が私に話す内容は姫様自身の決意にも聞こえた。それが私にも気を引き締める内容であることは変わりなかった。
夜遅く、綾姫様が眠った後も香奈は良智様からは個別に宮中の重要な公達たちの性格や行動パターンなども聞いて宮中での対処法も学んだ。
「後宮に入る侍女たちの選別は母上が決められる。あらゆる面で役立つ者達だから安心していい。それと、綾を狙う輩は必ずいる。母上の教えが役立つはずだ」
良智様から教えられた内容は少しばかり動揺した。しかし、これが以前言っていたことだと理解した。
宮中で綾姫様に与えられる殿舎の下見をしてきたと良智様は言っていた。その際、壁や柱にさりげなく武器が隠せるようなところを確認してきたと言っていた。その武器の準備も進められていると。一体、いつからこのことを計画していたのかと驚く。
「どうして綾姫様なのですか?」
「東宮様にはある程度の地位にある姫君が必要だったんだ。それが綾と言うか綾しかいなかったんだ」
「姫様でないといけない内容?」
「いくら宮中でも他の姫君では襲撃に遭えば無傷ではいられない。その点、綾も香奈も実力は知っている。僕たちが駆け付けるまでの間くらいは持たせられるだろ」
「そんなに酷いのですか!」
襲撃とは穏やかではない。そんな場所に行かなければいけない綾姫様が不憫だった。
「宮中を牛耳っている者がいる。その者達は東宮様を操り人形のごとく利用しようと画策している。それを阻止するために綾は必要なんだ」
「良智様は本来の姿に戻られるのですか?」
「まだ早い。東宮様にはもう少しお力をつけていただかなければいけない」
これも前に言っていた確かな立場になったらということだろう。それなら……。
「私は何をすればいいでしょうか」
「やっぱり、香奈は話が早い。助かるよ」
宮中に入ってからの私の仕事は東宮妃となった綾姫様の筆頭侍女。それと綾姫様の周りで起こることを良智様に報告することになった。
後宮に入ってまず初めにしたことは周囲の状況確認と武器を隠す場所の確保だった。
由比様が選んだ侍女たちはまさしく精鋭部隊と言っていいほどだった。その侍女たちと共に襲撃されそうな場所や逃げ道の確保などを話し合って準備を進める。
一か月ほどは何事もなく過ぎていったが、綾姫様の表情からは少しずつ笑みが消えていった。
理由ははっきりしている。一度も東宮様のお渡りがないのだ。そのことについて良智様に問いただすとお渡りがないのは訳があると言っていた。心配しなくてもいいと言われたがそのまま綾姫様に伝えても納得してもらえるか自信がなく言えずじまいだった。
ポツリと散歩に行きたいと言い出した姫様がお可哀そうに思えて何とか夜の散歩に出かけることにした。
そこであった公達は良智様から聞いていた人物によく似ていた。
私は気を失ったふりをして状況を見守った。
「中務卿が?」
「はい。良智様からいただいた人相書きにそっくりでした。それと、もう一人は……おそらく帝だと思います」
「拙いな。何を企んでいるんだ」
良智様に報告すると想定外の出来事が起こっているようだった。取り敢えず姫様の周辺に気を付けるように言われた。
「ねえ、昨日の夜のこと誰かに話した?」
一瞬ドキッとした。
良智様に話したことがバレたのかと心配した。
「昨夜のことはこの殿舎を警護している方には話をしております。確か少し離れたところから警護すると仰っていましたが……見かけませんでしたよね」
そういえば、と考える。護衛は東宮様と良智様が選んだ人たちだと聞いていた。それがあんな失態を犯すだろうか。
すぐに良智様にこのことをお伝えしなければと部屋を出ると遠くから中務卿が歩いてくるのが見えた。
「梅薫君が、中務卿が来られると、今しがた先ぶれが」
中務卿はこともあろうに姫様に侍女として弘徽殿に入ってほしいと言ってきた。
姫様がなんと答えるか静かに見守るが言葉巧みに姫様を追い詰めているように見えた。とうとう姫様が侍女になって弘徽殿の内偵をすることになってしまった。
止められなかった。というより、一介の侍女にはあの会話に入り込む余地はなかった。
仕方なく、急いで良智様に報告すると内偵とは表向きで何か企んでいるはずだと言っていた。
「申し訳ございません。私が止めていれば」
「その状況は香奈では止められないよ。大丈夫だから」
良智様から任せるように言われたが、心配で仕方がなかった。あの二人は何を企んでいるのか。姫様に何をしようとしているのか。
だけど、弘徽殿に入ったのは姫様だけなので連絡がつかない。何としても弘徽殿から連れ戻さなければいけないと焦る。
それは良智様や東宮様も同じだったようで東宮様は護衛に扮して姫様に近づこうとさえしていたようだ。
「綾が攫われた」
良智様から告げられた言葉は理解するまでに少し時間がかかった。
「ここは後宮ですよ!どうして後宮にいる者が攫われるのですか?」
「門番を買収していたようだ。直貞親王の行方が分からないのと飛香舎の女房も行方不明だ。香奈、下手をすればこの責任は綾に降りかかる。なんとしても綾の行方不明なのを隠すように」
良智様はすぐに別の侍女たちを呼んで対策を練った。
綾姫は体調を崩して寝込んでいるとし、香奈が綾の身代わりをすることになった。
他の侍女たちにも箝口令をひき麗景殿は厳重に警備もされ、関係者以外立ち入ることはできなくなった。
綾姫様が救出されたと聞き、麗景殿では安堵の声が聞こえたが、綾が戻ってくるのと同時に中務卿の北の方、結月が麗景殿に来た。
侍女たちと一緒に良智様に抗議したが、中務卿が企んでいるのを阻止するためだと言っていた。所謂人質だ。
表向きは元皇女の結月は後宮内のことに詳しいからという理由だった。香奈も他の侍女たちも結月の行動を監視した。
「結月殿は今どちらに?」
「綾姫様とお話されています。隣の部屋で侍女が話の内容を聞いていますので問題があれば連絡があるはずです」
綾姫様の部屋を出て人目のつかない部屋の一室。
良智様と香奈は密かに情報交換をしていた。
「どうやら、中務卿は柾良親王様の病の原因を綾に押し付けようとしていた節がある」
「どういうことですか?」
「綾が承香殿の侍女に入った直後から柾良親王様の食事に毒が盛られていたのを確認した」
「では、どうして由比様はあのような手紙を送ったのですか」
部屋を移るようにと書かれていたと聞いた。それが意味するのは何か。
「もともと柾良親王様の病の原因はあの部屋にあったんだ。しかし、中務卿が毒殺の容疑をかけようとしていた綾が行方不明になった為、状況を変えざるを得なくなった」
「では、どうしてまだ中務卿や結月殿が綾姫様の傍にいらっしゃるのですか」
「大本がいるんだ。その者を引っ張り出すしか後宮内の問題は解決しない」
いつも柔和な笑顔の良智様からは想像できないくらいの険しい表情をしていた。一体誰なんだろう。
「それは誰ですか」
「皇太后様だ」
思わず何か言ってしまいそうになるからと口元に手を当てる。もしかしてこの間、飛香舎での襲撃犯は……。
「東宮様は以前から皇太后様の妨害にあってこられた。なんとしてもこの状況を変えたい」
「以前、綾姫様がおっしゃっていました。自分たちの行動一つで大納言様や良智様ばかりか大納言家にもその責は及ぶと」
「今の状況は何もしなくても影響は出ている。こちらも対抗しなければすぐにやられるんだ」
良智様が能力をひた隠しにしていた理由が分かった。
直貞親王様が飛香舎に戻る手筈が整えられていると聞いた。それが無事終われば中務卿と結月は屋敷に軟禁される予定だと聞いて安心した。
そして決行の日が近づいた。
結月殿に気づかれないように密かに侍女たちと準備を進め頭中将と打ち合わせを重ねた。
流石、由比様の教育のたまものとでも言うのか、綾姫様は疑惑を確信に変えていた。
「お待たせしました」
綾と香奈は動きやすい服装に小ぶりの薙刀を手に頭中将の前に現れた。
中務卿と結月は直貞親王を連れて飛香舎へ向かっている。その隙に香奈たちは弘徽殿へ向かった。
「動かないでください!」
姫様の予想通り不審者たちは部屋にやってきた。それも床下から侵入して。
すぐに外にいた護衛と検非違使たちが侵入者たちを拘束して連れ出していく。皆の気が緩んだ隙に床下から不審者が飛び出してきて頭中将様めがけて刀を振り上げた。
「中将、危ない」
無意識だった。
振り上げた薙刀は侵入者に命中して倒れた。
「大丈夫ですか?」
「助けていただき、ありがとうございます。このお礼は日を改めて」
公達にこのような対応をされたことがないので戸惑ったが、その後、求婚されてさらに動揺した。
「求婚されたよね。それなのに浮かない顔してどうした?」
いつものように良智様と情報交換しているときに聞かれた。
身分が違いすぎる。断るにしてもどうしたらいいのかも分からなくて悩んでいた。
「父上も僕も、それに東宮様も頭中将とのことは許可を出しているよ」
「ですが、身分が違いすぎます。私は東宮妃の侍女にすぎません」
「身分は何とかなるかな。それに、前に言ったよね。香奈と話の合う公達がいるって。あれ、頭中将だよ」
良智様の言葉に少し前向きに考えてみることにした。そして、頭中将と話をしてみると思いのほか楽しかった。
後宮での暮らしは緊張の連続で姫様は時々変なことをされるがそれさえも楽しむことが出来た。
良智様との情報交換は頭中将と入れ替わるようになっていったが、良智様の言葉はそれからも度々証明された。東宮妃には綾姫様でないといけなかった理由。
東宮様自身が見染められただけではなく、武術を嗜んでいて自分の身は守れること、皇太后様の恫喝にも恐れないだけの強さがあること。
流石に密通の容疑を掛けられたときは焦ったが、良智様や頭中将から何かあっても落ち着くようにと言われていたことから証拠になる文を持って帝の元へ行くことが出来た。
〇〇〇
「そろそろ準備してもいいのではないのか」
東宮様が帝になり、私は尚侍となった。
良智様が言っていた身分に変わる私の地位だ。
頭中将は出世して中納言となっていたが、尚侍であれば大丈夫だと自分にも自信が持てた。
帝が言うのは中納言様との婚姻だ。帝と綾姫様の周囲も落ち着いてきたからこその言葉だ。
「まだ、問題がありますゆえ、もう暫く」
「そうだ、通いでもいいぞ。いっそ中納言邸に住んではどうだ」
良智様曰く、結婚は面倒だと豪語していた中納言が求婚したと聞いて喜んだらしい。それも自分の見知っている者だと聞いて盛大に祝うと言ってきかないらしい。
帝は時間があると姫様の元へ行っている。
それというのも自分の娘を女御にと考えている者がいて毎日のように姫様の元をおとずれているのだ。
今日もその撃退の為に帝は姫様の元へ行っている。そろそろお戻りいただかないと仕事が溜まっている。
香奈は弘徽殿へ向かった。
「いい加減にしないか。右大臣の姫君は事情があって後宮にくるのであって、そなたの姫とは違うのだ」
「帝、私は信じませんぞ。そう言っていずれ女御にされるおつもりでしょう」
やはり。
「帝。お迎えに来ました。新しいお衣裳が届きましたのでご確認いただきたく」
声をかけて、部屋の隅に控える美夜を睨みつける。さっさと追い出さないから帝がご立腹よ。
「二度も言わせるな。私に後宮は必要ない。私の妃は綾姫、一人だ」
「ですが、帝。それでは世継ぎは」
諦めきれない内大臣様は追いすがろうとしていた。
「香奈。この内大臣は右大臣の姫君を後宮に入れることに不満があるようで自分の娘も後宮に入れろと言ってきている。そなたならどうする?」
突然振られて瞬時に考える。一気に撃退する方法を。
「右大臣様の姫君は事情がおありですが、内大臣様の姫君も同様の扱いでよければ後宮に入ってもらってもいいのでは?」
「同様の扱いか……。それもいいな」
帝の同意を得た。
心の中でガッツポーズをした。後はとことんやるだけ。
右大臣家の二の姫に教育をしてほしいと頼まれたのは帝からだった。
いずれ柾良親王が中務卿になる時の為の布石とも言うべき重大な案件だった。それゆえに邪な思惑を持ったものが入り込むのは香奈自身も良くは思っていなかった。
素早く諦めて帰ってもらうためにも厳しくするつもりだったが、初日からやらかしてくれた。
内大臣家の姫、美月は豪華な調度品と共に女御になるつもりでやってきて、門番に止められていた。
頭が痛い。
「歩いてきてください」
あまりの怒りにどうしてこんな者に馬車での入場の許可を取らなければいけないのか。だが、内大臣様はまだ納得していない。
「歩いてですか。まかりなりにも内大臣家の姫に歩いて後宮に来いとおっしゃるのですか?」
「女房です!」
怒りが頂点に達した。
それは綾姫様も同じだったようで声が重なった。
歩いて後宮まで来た美月は幾度となく問題を起し、授業をサボっては清涼殿に言っていたらしい。
「今日も来ていたぞ」
「申し訳ございません」
帝の着替えを手伝っていると毎日のように聞く言葉と謝る私。
「いいさ。近くにいた者たちに連れていかれていた。そろそろ、処分を考えたほうがいいだろな」
「そうですね。出来れば回復不可能なくらいにしていただけると私共もありがたいです」
「何か考えるとしよう」
その会話の数日後、紅葉から鼠が入り込んだと聞かされて姫様と侍女たちを総動員して後宮を探した結果、梨壺で我が物顔の美月を見つけた。
姫様はめまいを起し倒れそうになったところを芽衣が支えたが支えきれずに一緒に倒れこんだ。
「何事ですか!」
急ぎ帝に連絡を入れ来てもらい事の収拾にあたった。良智様と中納言様にも連絡をして美月は取り押さえられた。
「姫様。ゆっくりお休みください」
綾姫様は一旦目が覚めて夕餉を食べた後、休むように言う。
外が騒がしい。部屋の外に出ると帝の命により内大臣が美月を迎えに来たが、その美月は帰りたくないと騒いでいた。本当に迷惑この上ない親子だと眉をしかめる。
諫めようかと迷っていると良智様がやってきた。
「今すぐ、後宮から出るように帝の命がくだった。それに従わなければ捕えてもいいとのお達しだ」
「女御様に会わせてください。きっと誤解だと分かるはずです。姫は女御になるために後宮に来たのです。どうか!」
「帝の命により、内大臣の姫、美月を宮中より追放する。今すぐ連れていけ!」
騒がしいのがもう一人いた。話に聞いていた北の方だろう。帝の命が下っているのにまだ諦めないのかと呆れてくる。
内大臣家の者たちがいなくると後宮は一気に静かになり、香奈は紅葉と一緒に芽衣の婿探しを始めた。
良智様からも頼まれていたことだった。
その後、中納言様は綾姫様に婚姻の許可をもらってくれた。
私は今月の良き日に中納言様と結婚する。しばらくは通いで宮中に参内するが、いずれは北の方として屋敷を切り盛りする立場になる。こんな未来が待っていたなんて誰が想像できただろうか。
母に伝えたい。私は幸せです。
ぐうたら姫の後宮生活 番外編 橘 葵 @aoide
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