第2話
俺は家のベッドに体を沈ませ、大きなため息をつく。萩原と一緒に歩いている間、何を話していたのかは覚えていない。きっと、本当に心底どうでもよい話をしていたのだろう。記憶に残ってすらいないということはそういうことだ。まともに人と話したのはいつになるんだろうか。
俺にとって人と話すことは苦痛でしかない。話を振るのも苦手だし、相手から話を振られてもうまく答えられない自分が嫌になってしまう。ただただ疲れるだけで、ただただ辛くなるだけだから、俺は人に向き合うことを辞めた。そう、俺はここでも、逃げているんだ。多分萩原も、もう関わってくることはないだろう。
……正直、心のどこかで寂しいと思ってしまっている自分がいる。原因は自分だというのに、まだこんなことを感じてしまう自分が情けなくて仕方がない。──開けっ放しのカーテンの間から薄い光が部屋に投げ込まれている。大学に入って少しの間は綺麗だとかほざいてた月光が、今は自分の事を嗤っているように感じた。俺は月から目を逸らすように窓の反対側に寝返りを打ち、そのまま深い眠りについた。
……部活を辞めてから、一週間が経った。あれから大学には行っていない。どうにも部員と会うのがきまずくて、顔を出せずにいた。留年なんてしたくはないけれど、今はそれよりも自分の面目を保つことしか頭になかった。
いったい俺はどこまで逃げれば気が済むんだろう。地の果てまで逃げて、いつか逃げる場所がなくなって、奈落の底にでも落ちてゆくのだろうか。それは大層俺にお似合いな終わり方だな、と自分自身を鼻で笑う。電気もついてないない部屋で一人ベッドに沈んでいる俺は、もう奈落に落ちているように見える。現状が最低で、もうこれから先、落ちることはないと分かれば多少は気が楽になるのかもしれないが、底の見えない暗闇ではそんなことを確認する術もない。自分が落ちてゆく事すら認識できないまま、地上から遠ざかり続けている。幼いころに眺めていた輝かしい夢も、今となっては欠片も見えやしない。
はぁ、と体中の二酸化炭素を暗闇に投げつける。もちろん闇に何かを投げたところで音すら返ってくるはずがないのだが、どうやらまだ自分のいる場所は完全な暗闇ではなかったようで、インターホンの嫌に軽快な音が返ってきた。
誰だ?最近は、宅配を頼むことも訪ねてくるような人間も滅多にない俺の家のインターホンが鳴ることは非常に珍しいことだった。きっとタチの悪い悪戯だろうと無視して布団を被ろうとすると、「せんぱーい、出てきてくださーい」と聞き覚えのある声が俺を呼んだ。思いつくのは一人しかいないが、思い出したくなかった。そもそも何故俺の家を知っているんだ。何故俺なんかのことを訪ねてくるんだ。そうこう考えているうちに萩原はドンドンと音を立てて扉を叩き始めた。
「何しに来たんだ」
「そりゃあ傷心中の先輩を慰めるためですよ」
そうやって気味が悪いほど明るく笑う彼女は眩しかった。いや、久しぶりに外の光を浴びたせいかもしれない。
「そりゃどうも、だけど間に合ってる。それじゃあ」と言って扉を閉めようとすると彼女は勢いよくドアの隙間に足を突っ込んでくる。
「先輩が元気になるまで帰りませんよ」
「いーや元気だね、だからもう大丈夫だ」
「大丈夫だったら学校来てます。とりあえず暑いんで中入れてください」
「おい──」
静止の声も虚しく、彼女は腕の下を通って部屋に押し入り、「電気くらいつけましょーよ」とか言って勝手に電気をつけて、カーテンを開け始める。
「さぁ先輩、どうぞおくつろぎください」
「俺の家なんだけど……」
こじんまりした丸机の傍に、我が家で唯一のクッションを敷いて座る彼女を見て、心の中でため息をつきながら正面に正座で座る。
「わざわざ人の家に上がり込んでどういうつもりなんだよ」
「だから先輩を元気づけにですよ」
「間に合ってる」
「えーっ」
わざとらしく口を尖らせた萩原は、覗き込むように俺の顔を見て言う。
「じゃあちゃんと教えてください。先輩が部活辞めた理由」
正直恥ずかしくて言えたものではないのだが、いつまでもここに居られても面倒だ。数秒の思考の後、理由を話すことにした。自分より上手い奴が居てやる気がなくなってしまったこと。それで音楽まで嫌いになったこと。部員と会うのが気まずくて学校に顔を出し辛くなったこと。
一通り話し終わった後、彼女は「うーん」なんて言いながら数秒考えたようなそぶりを見せてから、ぱん、と小気味よい音を出して手を叩いた。
「趣味。趣味ですよ、先輩。何か新しい趣味を見つけましょう。できれば外に出てやるようなやつ」
ずいぶん大雑把なアドバイスに俺は「はあ...」とこれまた大雑把な返事しか返せなかった。
「趣味を見つけましょう、なんて言われてもそう易々と見付かるもんじゃないだろ」
「まあまあそう言わずに。とりあえず運動なんかどうです?」
運動は大の苦手だ。昔から体育の成績はろくなものを取ったことがなかったし、楽しいと微塵も感じたことがない。俺が無意識に苦い顔をしたのに気づいたのか、萩原は「うーん、ダメそうですね」と小声で呟いてから、こう続けた。
「じゃあ写真なんかどうです?私、カメラ持ってますよ。大したものじゃないですが」
写真。よく聞く単語だが、あまり馴染みのない言葉。写真に写る事は苦手なのだが、自分が撮るとなれば話が違うのかもしれない。そんなことを考えた末に俺が出した答えは「悪くはないな」だった。発言した直後に、もう少し言い方はなかったものかと自分自身を問い詰めたりもしたが、萩原はその答えにご満悦のようだった。
「じゃあ決まりですね。明日、カメラ持ってきます」
なんだか上手く口車に乗せられた気がするが、内心少し心を躍らせている自分がいた。明日が楽しみだと感じたのはいつぶりなんだろうか。
──雨の匂いが近付いてきていた。
音楽を嫌いになった日。 眠夢。 @nemur
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