音楽を嫌いになった日。

眠夢。

第1話

 二十歳の春、俺は吹奏楽、いや、音楽を辞めた。理由は本当に下らないものだ。俺より上手い奴が居て、俺はそいつに何をしても追いつけない。ただ、それだけ。けれど、それだけではないのだ。

 俺はいつも自分と他人を比べてばかりいた。運動から成績、楽器の上手さだってそうだ。俺は中学校の頃に吹奏楽を始め、高校まではそれなりに上手い方だった。他人より優れていたから、楽しかった。けど大学に入ってからは違った。別に音楽に長けた奴が入るような大学でもないのに、俺が入った吹奏楽部には俺より上手い奴が沢山いた。自分と同じパートは勿論、別のパートにだって、仮に俺が小学生からその楽器をやっていたとしても追いつけないだろうという程の奴らがいたんだ。

 それでつまらなくなった俺は、中学の時から使い続けた楽器を捨て、余りがちだったピアノパートを時々やるようになった。幸いにもピアノは趣味でかなりやっていたから、それなりにはできた。しかしそれも2年の春から事情が変わった。新入生に幼稚園から高校までピアノを習っていたとかいう奴が居て、俺はもう立つ瀬がなくなった。音楽にどこまでも打ちのめされた俺は音楽が嫌いになった。努力すればいつかは報われるなんてとんでもない詭弁だと思った。だって俺が努力をしている間に上手い奴らは同等の、もしかすればそれ以上の努力を積んでるんだ。いつまで経ってもその差が埋まるなんてことはないんだよ。

 とにかく、俺はもうそんな勝てない争いを続けるのに疲れた。自分が勝手に始めて勝手に負けてるだけなのは分かってる、でも今までそうし続けて生きてきた俺には他の生き方がわからないんだ。だからもう、自分で争う場をなくそうと思った。そうして俺は、ミーティングで辞めるとだけ言って部室から逃げ出してきた。

 今思えば、何からも逃げてばかりの人生だったな、と思う。自分が勝てない土俵からはすぐ逃げてきた。今回だってそうだ。我ながら情けない人生だと再確認してしまう。そんなことを考えながらふらふらと喫煙所に歩いていると、突然後ろから「せーんぱい」と声がした。先輩呼びしてくるような奴は思いつく限り居ない筈だし、まさか自分ではないだろうと思い、構わず進もうとすると服の裾を掴まれた。

「おーい。なんで無視するんですかー」

 何処かで聞いたことのある声に対して振り向くと、確かに何処かで見たことのあるような人間がそこに立っていた。そうだ、あの幼稚園からピアノやってたとかいうあの。とそこまでは思い出せたものの、肝心の名前が思い出せない。

「えーっと……どちら様で……」

 恐る恐る聞くと、彼女はどこか自慢げに言った。

「萩原です。萩原伊織。忘れちゃったんですか?ひどいなー。私はちゃんと覚えてますよ、望月先輩」

 ああそうだ。部内では1か月もたっていないのにすっかり馴染んでいおりんとか呼ばれてたな、と記憶が復元される。それにしても何故ここにいるんだ……俺が辞めると言ったのは始まりのミーティングだったし、部員である彼女がここにいるのはおかしい。

「ああ、そうだったな。ごめんごめん。で、なんでここにいるの?部活は?」

 そう言うと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら聞き返してきた。

「そういう先輩はどうなんですかー?」

「知ってるだろ」

 彼女とはほとんど言葉を交わしたことがなかったから知らなかったが、正直苦手なタイプかもしれない。こういう冗談はあまり得意ではないし、騒がしいのも苦手だからだ。ここは適当にあしらってさっさと逃げさせてもらおうと考えていると、予想だにしていなかった言葉が彼女の口から漏れ出た。

「まぁ正直言いますとですね、私も辞めたんです。部活」

「え?」

 耳を疑った。どう見ても部内で上手くいっていた彼女が何故やめるのか。というかそもそも何故今なのか。何故自分のことを追いかけてきたのか。頭の中が疑問符でいっぱいになってパンクしそうになっている俺を見て彼女は楽しそうにしていた。

「肌に合わなかったんですよねー正直。音楽好きだったから入ってみたんですけど、なんか変な連帯感とかが苦手だなって思っちゃって」

 連帯感、ね。確かに好きなものでもないが……自分はそんなに苦に感じたことはないから、音楽が好きならもうちょっと続けてても良かったんじゃないかと思ってしまう。まぁ、そんなこと俺には関係ないしどうでもいいことなんだけれど。

「ところで、先輩はなんで辞めたんですか。まさかホントに忙しいだけなんて訳ないですよね、先輩いつも暇そうだし」

「ひとこと余計だよ。まぁ色々あったんだよ、ほっといてくれ」

そもそも俺にとどめを刺したのはお前なんだからな、と言いそうにもなったがすんでのところで引っ込めた。さっさと何処かへ行ってくれないものか……そんな俺の意思に反して、彼女はこう言った。

「とりあえず、部活辞めた人間同士一緒に帰りません?」

 最悪だ。

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