第7話 パンジャンドラムの夏


 それが起きたのはノルマンディ上陸作戦まで、あと二日に迫った日のことだった。このころ、俺たちは上陸作戦に使うパンジャンドラム四十機の整備に追われ、大忙しだった。俺を含むパイロット連中は、これら機体の整備に加えて、上陸作戦の詳細についても頭に叩きこむことが必要であった。しかしそれでも整備兵たちが味わった忙しさに比べれば、何ほどのこともなかったと言えたな。その時点で彼らはもう一週間も徹夜で働いていたんだから。

 パンジャンドラムの欠点である鉄条網に対する弱さは、車軸の周囲に針金切断用のねじり刃をつけることで解決した。こいつは螺旋状に伸びた小さくて鋭いカッターで、車軸の周辺に巻き付くものを何でも捉えて、噛み切ってしまう仕組みだった。それと同時に車軸に偶然命中する砲弾に対する防護板の役目も果たしていた。

 ワーズワース少佐は確かに技術的な天才であったし、こういった機材をすぐに揃えられる程あちらこちらに顔の効く実力者でもあった。この作戦が終了した時点で二階級を駆け登り、大佐になるのだという噂も、いとしめやかに流されていたほどだ。

 まあそういうわけで、約束の期日までにパンジャンドラムの改造と整備は片が付きそうだったし、ゲラゲラジュースもたっぷりと用意できていた。パンジャンドラムの揚陸艇への積みこみはその日の夜に行われる予定で、この揚陸艇のパンジャンドラム・カタパルト搭載型への改造も、どこかの港で突貫工事で行われているはずだった。

 俺たちパイロットは荷物をまとめると、その夜の移動まで仮眠を取ることになった。仮眠といっても、ここ数日特訓につぐ特訓だったので、ろくに寝ていないのが祟り、横になるとすぐに俺は泥沼を思わせる深い眠りへと落ちていった。

 ちょっとばかり、これから起きることに不安を抱いていたせいかも知れないのだが、俺は地獄に堕ちて、悪魔どもに周囲を取り囲まれるという悪夢を見た。

 そのわめきたてる悪魔どもは俺を捕まえて、拷問台へと引きずっていった。断言してもいいが、その悪魔の中の一匹はワーズワース少佐の顔をしていた。その拷問台ってのがまたふるっている。丸い円盤で、周囲と言わず、上と言わず、鋭い刺が生えている。俺はその上に載せられて、初めてそれがどこかで見た覚えのある形だと思いついた。

 そうだとも、パンジャンドラムだ。刺付きの拷問台はいきなり回転を始め、全身を鋭くて長い刺に刺し貫かれた俺は絶叫した。

 そうして俺は叫びながら目を覚ました。目の前には見覚えのある悪魔が立っており、そいつは俺を睨んでから口を開いた。

「どうした。恐い夢でも見ていたのか?

 起きろ! 緊急にやらなくてはいけない仕事ができた」

 悪魔じゃない。本物のワーズワース少佐だ。いや、ワーズワース少佐ではあったが、本物の悪魔でもあった。俺は彼の正体をついに悟ったと知った。

 しかし彼の正体を知ったからといって、彼が恐くなくなったとは言えない。ワーズワース少佐に下手に逆らったりすれば、ゲラゲラジュースなしでパンジャンドラムに座らされかねない。俺は夢の触感を振り捨てて跳び起きると、彼の前で直立不動の姿勢を取った。

「敵のスパイが基地内に侵入した」ワーズワース少佐は厳しい声で言った。

「施設の写真を撮り、基地内の無線機を使ってどこかと連絡をとった。最後にそいつは、基地の車を盗んで逃げ出した。ただちにそいつを追いかけろ。捕獲するのが望ましいが、無理なら殺せ。いいか、確実に殺すんだ。さもないと取り返しのつかないことになる」

 ワーズワース少佐は俺についてこいという身振りをすると、宿舎から急ぎ足で飛び出した。俺もその後を慌てて追った。凄かったな。あれほど怒っていた少佐は初めてだった。それが自分の聖域を土足で乱されたためなのか、それとも単に焦っていたためなのかは、俺は知らない。

 俺が連れていかれた先はパンジャンドラムの格納庫だ。

「少佐殿。一つ質問があります」

「何だ。手早く言ってみろ」ワーズワース少佐は振り向きもしないで答えたよ。

「どうしてパンジャンドラムではなくて、基地の車で追わないのでありますか?」

 俺はそう尋ねた。

「そいつ。男だか女だかは知らんが、そいつは基地中の車に細工をしていったのだ。幸い、パンジャンドラムには整備員が徹夜で張り付いていたお蔭で細工はできなかった」

 ワーズワース少佐は、準備したパンジャンドラムに俺を突っ込むと、俺の体に固定ベルトを閉めながら言った。

「悪いがゲラゲラジュースはなしだ。今回の任務は万が一にも失敗するわけにはいかないからな」

 俺は少佐のこの非人道的な決定に抗議しようとした。

 ゲラゲラジュースなしで、パンジャンドラムに乗るだって!

 冗談じゃない。どうせならいっそ死ねと言ってくれ。するとワーズワース少佐の野郎が、俺の首のストラップを力任せに締め上げたので、俺は息を詰まらせた。

「その代わりといっては何だが、ロケットの全力は出さなくてはいい。港までの移動用に用意した配分器を使う。緑のボタンだ。順次燃焼方式で、出力はたったの十分の一だ。燃焼時間は当然十倍になるが、あんまりのんびりやるんじゃないぞ。何としてもこのスパイだけは殺せ」

 いつのまにか、逮捕命令が殺害命令に変わってしまっている。

 俺は配分器を動かしてからロケットモーターの点火ボタンを叩き込むと、パンジャンドラムを前進させた。十分の一の出力でもパンジャンドラムはやはり恐ろしい地獄の車輪だ。俺の乗ったパンジャンドラムは地面を蹴って飛び出すと、あっと言う間に巡航速度に達して基地から飛び出した。俺の背後でパンジャンドラムの刺に掘り返された道路が、ずたずたに引き裂かれる。

 このままパンジャンドラムの向きを変えてワーズワース少佐を轢き殺すことも考えたが、止めておいた。もし彼がそれでも死ななかったらと思うと怖くなったからだ。

 相手を悪魔かも知れないと思うよりも、本当に悪魔だと知る方が恐ろしい。

 真実を知れば、きっともう見逃してはもらえなくなる。


 俺は前面ライトのスイッチを入れた。強烈な光が夜の闇を切り裂くと、俺は前方に見慣れた山道が続いているのを捉えた。悔しいがワーズワース少佐は正しい。ゲラゲラジュースなんか飲んでいたら、この山道は突っ走れない。俺は操縦席が回転を始めませんようにと、神に祈りを捧げると、山道の中でパンジャンドラムを突進させた。

 基地に通じる道は一本限りだ。パンジャンドラムのパーツを運ぶために、山の中に立派な道路が敷かれている。今日は空が曇っており月も見えないようだから、スパイは人家が見える辺りまで、車で飛ばすつもりだろう。空さえ晴れていたら飛行機が出せる。そうなれば山道のど真ん中でスパイは蜂の巣になるだろう。

 いや、違う。俺は気づいた。

 飛行機の音が聞こえれば、スパイは車を止めて夜の森の中へと紛れ込む。そうなればもう簡単には見つけ出せない。ということはパンジャンドラムでも同じことだ。ロケットの轟音は遠くからでも聞き取れる。だから向こうが音を聞いて隠れようと思う前に、一気にパンジャンドラムで踏み潰すしかない。いま必要なのは強襲。

 そのときの俺は血に飢えた怪物だった。

 十分間も走行しただろうか。出力を絞っているので、普段のパンジャンドラムよりも長く動ける。いつもよりも穏やかな走行とは言え、揺れるパンジャンドラムの中は乗り心地が悪い。本来これはゲラゲラジュース無しで乗るような代物ではないのだ。そうかと言って、ここで一度でも回転を止めようものならば、パンジャンドラムは横倒しになって身動きも取れない羽目になる。そもそも燃料が完全に尽きるまでは止まるような構造にはなっていない。

 俺は我慢を自分に言い聞かせると、目の前の暗闇の中を睨んだ。

 そのときだ。暗闇の中にさらに濃くて暗いシルエットをぼんやりと浮かび上がらせている山の稜線の向こうに、ちらりと小さな明かりが走るのを、俺は見てとった。

 どうやらやっと追い付いたらしい。スパイは二つか三つ先のカーブの向こうにいる。隠れるよりも、車の速度を利して逃げ延びられると考えているらしい。

 そうは行かせるものか。

 俺は前々から考えていた通りに、パンジャンドラムを道から外し、山の崖へと突っ込ませた。

 パンジャンドラムは巨大な花火のついた大きな車輪だ。転ばない限りは動くし、動くのに整備された道路は必要とはしない。元々がバリケードを強行突破するための兵器なのだ。

 俺が考えたのは山を隠れ蓑にして頂上まで一気に駆け上がり、そこからまっすぐにスパイの車の上を駆け抜けるという手だ。車輪の周囲についている逆刺のついた鋼鉄の大牙を使って、パンジャンドラムは垂直な壁だってなんなく登ることができる。これぐらいの傾斜は屁でもない。俺はまっすぐに頂上を目指した。パンジャンドラムの周囲で回転する刃が、木々を引き裂き、岩を砕いた。切り裂かれる木の悲鳴が俺を満たし、舞い踊る木の葉で何も見えなくなった。闇の中にライトの光芒と螺旋の噴射炎を撒き散らしながら、鋼鉄の車輪が破壊の軌跡を描く。

 大きな木にパンジャンドラムが正面から衝突し、俺はその衝撃に悲鳴を上げた。パンジャンドラムはその大木の幹に鋭い刺を突き刺し這い登り、その恐るべき重量で大木を二つに引き裂きながら、再び地上に降り立つと、まるで何事もなかったかのように前進を続けた。

 山火事までは計算に入れなかった俺は迂闊だった。ロケットモーターの噴射をもろに受けて森が燃え上がった。背後に炎の轍を残してパンジャンドラムはついに山を登り切り、そして切り立った崖を一気に転げ降りた。

 目の隅に捉えた車のライト目掛けて、俺は必死でこの悪魔の暴れ馬、地獄の車輪、燃え上がる炎の拷問台、無敵のパンジャンドラムを操った。

 その重量のもたらす落下の加速をあますことなく飲み尽くして、パンジャンドラムは突進した。俺の前を行くジープがどんどん大きくなり、俺はその中に、背後を見て悲鳴を上げている二つの人影を見た。

 ライトの中に浮き上がった内、一人は見知らぬ男だった。必死に前方を見つめ、車を運転している。その横で恐怖を顔に浮かべてこちらを見ている女は・・。

「エマ!」俺は叫んだ。

 俺が止める間もなく、パンジャンドラムは二人が乗る車の上に襲いかかった。彼女が男の腕を引っ張って、車から飛び降りようとするのが俺には見えた。

 だが遅すぎた。パンジャンドラムの鋼鉄の回転刃が二人の上を薙ぎ払い、続いて恐るべき重さの車輪が、車の上を通過した。

 卵の殻を踏み潰す感触そっくりだった。

 俺は悲鳴を上げてパンジャンドラムの軌道を捻じ曲げようとしたが、すでに手遅れなのは判っていた。パンジャンドラムはバランスを失い、横倒しになりながらも再び森の中に飛び込み、巨人の扱う回転ノコギリへと変貌した。百本近い木を切断した後で燃料が尽きて、倒木に乗り上げるようにして止まった。

 俺はパンジャンドラムの操縦席から転げ落ちると、たったいま、自分が通ったところ、道路の上に刻まれた地獄の車輪のわだちの跡へとよろめきながらも駆けつけた。そこには高速回転するノコギリが残した無残な爪痕と、砕かれ引き裂かれた車の残骸が散らばるばかりだった。


 エマが単にスパイの人質として拉致されたのか、それとも最初からスパイとして潜りこんでいたのか、俺には最後まで判らなかったよ。俺としては人質にされたのだと思いたい。でも最後の瞬間に彼女が取った行動は、それを否定しているようにも思えるんだ。

 俺は茫然とした面持ちで、再びパンジャンドラムのところに戻った。そうして燃える木々の明かりに照らされるパンジャンドラムを見て、もう一度悲鳴を上げた。

 エマが宙に浮いて、俺を睨んでいた。正確に言うと、エマの首だけだ。パンジャンドラムの刺に貫かれて、奇跡的に頭だけが原形を留めていた。

 エマの血にまみれた顔は、ただ俺を、そして俺の向こうにあるはずの悪魔の姿を見つめていた。


 パンジャンドラムは地獄の車輪。悪魔の選んだ贈り物。暗闇の中から這い出して来た拷問台。俺にはようやくそれが真相なのだと判った。これは人間が作ってはならない兵器なのだ。


 ずるりと、エマの首が自分の血で滑った。エマの首は、鋼鉄の刺から抜けると俺の前に落ちて来た。俺は反射的に手を出して落ちて来るエマの首を受け止め、それからその首を横に放り出して、激しく嘔吐した。

 どれくらいの間、そこに座り込んでいたのか。

 帰らねばという思いが、俺の中に生じて、ようやく俺は立ち上がった。


 そして見たのだ。


 最初は流れ星かと思った。薄曇りの夜空の中を、夜が開ける前に己の存在を証明しようとするかのように、駆け抜ける流れ星。やがて遠くから爆発の音が響いて来て、俺はそれが何であるのかを知った。そうだとも、そいつはドイツの科学者が作り上げた超音速の爆弾ロケット。その名もV2。

 夜明け前の空を彩るのは無数の流星、夜を司る死の天使の群れであった。それは赤い尾を引いて山の向こうに落ちると、続いて巨大な火球が空へ登っていくのが見えた。俺のパンジャンドラムが引き起こした山火事をも圧する勢いで、すべてを焼き尽くす火炎が広がる。

 スパイが何を無線機で話したのか俺は悟った。パンジャンドラムの基地の位置だ。ありったけのV2がその報告に対して投入されたのだ。そしていま、基地はこの破壊の真っ只中にあった。

 俺はパンジャンドラムの操縦席の中に這いずり込み、朝が来るのをじっと待った。


 空を埋め尽くしていた流星の数が減り、やがて完全に跡絶えたころ、朝日が昇った。

 俺は朝日の中を基地へと向かった。周囲ではまだ森がくすぶり、さきほどまでの爆撃の激しさを物語っていた。ようやく見慣れた丘までたどり着くとそこを回り込み、そして俺は自分が基地の残骸の上にいることに気が付いた。周囲を埋めているのは、ねじれた鋼鉄の塊に、砕けたコンクリートの山。ときどき、どこかで爆発があり、パンジャンドラムから外れたロケットモーターが空に打ち上がるのが見えた。それはまるで自分の親戚であるV2ロケットの真似をしているかのように、俺には思えた。

 俺は残骸の上を歩き回り、生きている者がいないかと探し求めたが、無駄だった。ドイツ軍はスパイの報告を聞き、数週間前に自分たちの海岸防御陣地を襲ったのが、いったい何だったのかを知ったのだ。上陸作戦の目標がどこか判らない以上、上陸に使われる最強兵器を予め潰しておくしか手はない。そう判断したのだろう。そう考えたからこそ、これだけ大量のV2ロケットを、ロンドンではなくこの場所に落とすことにしたのだ。

 俺は生存者がどこにもいないことを確認すると、文明社会への長い長い旅へと出発した。

 パンジャンドラムに関する総てがこれで消滅したと俺には判っていた。

 組み立てシステムはこの基地がすべて受け持っていたし、外部には発注できないような特殊な部品もここで作っていた。この悪魔の拷問台の生みの親のワーズワース少佐も爆撃で死んでいるとすれば、再びパンジャンドラムが日の目をみることはない。ゲラゲラジュースの在庫も製法も失われたわけだし、第一、いまから再開発していたのでは、上陸作戦には間に合わない。オーバーロード作戦はすでに発動しているのだ。


 勘違いしないで欲しいのだが、俺はナチスが嫌いだし、ナチスがやったことも大嫌いだ。だがそれでも、奴らがパンジャンドラム計画を闇の中へと追い返したことは、たった一つの正しいことだと思っている。基地で死んだ同僚たちのことはそれは残念に思っている。だがそれでも、俺のこの思いは変わらない。

 パンジャンドラムこそは地獄の車輪、炎の拷問台。それは切り裂く暴虐であり、転げ回る憎悪であった。


 後はもうそれほど話すことはない。

 俺は街まで歩き助けを求めると、やがて原隊へと復帰することになった。原隊に復帰して最初にやったことは、ゴメスの腹にパンチを叩き込むことだったが、やつはそれ以上に大きなパンチを俺に叩き込み返してきた。まあ、いい、これでおあいこということにしておいてやろう。ゴメスはゲロを吐いたが、俺は吐かなかったからだ。どうやらパンジャンドラムは思いのほかに、俺の胃袋を鍛えてくれていたらしい。

 総ての計画は闇の中に消え去り、本物のパンジャンドラムの記録は抹消された。ナチスドイツに得点をやることは無いという上からの判断だろう。いまでは、おとりに使われた偽物のパンジャンドラムの映像だけが、第二次世界大戦の道化役の記録として残されている。



 いまここで俺が話したことは別に秘密でも何でもない。ただ誰も、俺に尋ねようとしなかっただけさ。確たる証拠も無いし、信じるかどうかは、まあ、あんた次第だな。

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パンジャンドラムの夏 のいげる @noigel

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