前夜の夏虫

硯哀爾

第1話

 つまらんなあ、と何度目になるかわからぬ欠伸をひとつ。それは単に退屈が長引いているからで、日が沈み辺りが夜闇に包まれてしまったのが理由ではない。……ない、はずだ。

 少し前から空になった部屋の障子に穴を空けて、それはじろりと渡り廊下を観察する。人の往来は少なくないが、皆忙しそうな上に、何だかぴりぴりしている。見えない何かを恐れているようにも見える。それが己だったら楽しくてたまらないのに、人間は示し合わせたように自分を無視して通り過ぎてしまう。それがつまらない。退屈のもとなのだ。

 それは人を驚かせ、怖がらせることを生き甲斐としていた。存在意義と言っても良いかもしれない。人からは化物、と呼ばれることが多かった。固有名詞で呼ばれたことはないが、特に気にしたことはない。わかることがあるとすれば、物心ついた頃には小さな紙切れに閉じ込められていて、やれ誰を呪え彼を祟れと命令されるばかりだった。それが甚だ不本意だったので、隙を見て逃げ出してからは人間を驚かせながら楽しく過ごしている。たまに追い払われそうになったり、念仏をぶつけられたりしてあるのかないのかわからない命の危機を感じることもあったが、幸いなことに今の今まで健在だ。

 しかし、ここ百年はそれにとってあまりにも気に食わぬ世の中が続くばかり。人同士で争い続け、己のような人ならざるモノに構ってくれる人間などほとんどいなくなった。誰も彼も自分にはわからない、目に見えない何かを恐れて、本来怖がるべきモノには見向きもしない。やっと人同士の争いが一段落したと思っても、上に立つ人が死ねばまた元通り。堂々巡りの繰り返しで、よくもまあ飽きないものだと常々思う。

 努力は日頃からしている。無視されてばかりなのは自分にも理由があるのでは、と思ってなるべく人の多い場所へ行ったが、情勢によって成果はまちまちだ。今だって、特別壮麗な城に忍び込んでいるが、不幸なことに最近戦があったとかで城の一部が崩壊してしまった。しかも一年経たずにまた攻め込まれる気配があるという。おかげで城内は慌ただしく、言い様もないに包まれている。

 ゆえに、それは退屈で仕方ない。わっと驚かせようとしても、無視されるか余計なことをするな、とろくに顔も見ぬまま叱られるだけだ。暗がりで訳のわからぬモノに遭遇すれば怖いだろうに、皆見向きもしない。そろそろ退屈で床と同化しそうな気分だ。

 誰も気付いてくれないことにいい加減腹が立ってきた矢先、障子を隔てた向こう側へ近付く足音が聞こえてきた。せっかくなので声をかけようと思い立つ。人間と思わせておいて、実はあの時話していたのは化物だった──うん、遅効性の恐怖も悪くない。たまには趣向を変えてみよう。


「どこへ行くの? そんなに急いで」


 あどけない子供の声で問いかければ、足音はぴたりと止まった。目玉が覗く障子の前で。それは久方ぶりに気付いてもらえたことがとても嬉しくなり、音を立てずに笑った。

 地味な柄の小袖からして、向こう側にいるのはそれほど身分の高くない女だろう。歩く速度はそこそこ速かったので、それほど老いていない人間だと思った。


「どこって……自分の部屋に戻るんですよ。もう夜遅いですし、あんまりうろうろしていたら間者かもって疑われちゃいますから」


 答えたのは、予想していた通り女の声。高い方だが、少女というにはやや大人びていた。


「疑われるのは、怖い?」


 再度問いかければ、はあ? と間の抜けた声が返ってくる。何を当たり前のことを、と声は続けた。


「そりゃ、怖いに決まってるでしょう。あたしはずっと大坂で暮らしてて、これからもこのお城に仕えようって気でいるのに、あらぬ疑いをかけられたら堪ったものじゃありませんよ。ただでさえ、また東国の連中が攻めてきて皆気が立ってるんですから」

「皆、疑われるのが怖いの?」

「さあ、知りませんよ。怖いというより、嫌なんじゃないかなあ。あなたはどうだかわからないけど、そこに居続けるのは良くないと思いますよ。お化けのふりして驚かせようったって無駄です。むしろ、悪ふざけしてると反感買いますから。度が過ぎて斬られても知りませんからね」


 呆れ混じりのため息を吐いて、声の主は去っていった。まるで相手にしてもらえず、ないはずの唇を尖らせたくなる。

 お化けのふり、なんかじゃない。本物のお化けだ。その気になれば、人間の儚い生命いのちなど一瞬で奪い取れるのだ。……やったことは、ないけれど。

 何にせよ、失敗だったことに変わりはない。面白い反応など、少しも見られなかった。

 次があれば、質問を変えてみよう。いや、人を怖がらせなければこの日は眠れない。睡眠など必要ないけれど、ひとつの区切りは付けなければ。中途半端なのは気持ちが悪い。

 そうしてまたしばらく待っていると、再び足音が聞こえてきた。わくわくして、障子から目を覗かせる。

 どたどた賑やかなその足音は、先程のものよりも力強く、落ち着きがなかった。がちゃがちゃうるさいのは、具足を身に付けているからだろうか。

 そういえば、ある時期からやたらとむさ苦しい男どもが増えた、と思い返す。牢人、とか呼ばれていたか。もともとこの城にいた訳ではない流れ者。良い香りを身に纏い、小綺麗な格好をした者たちからは喧しいだの下品だの臭いだのとぼろくそに言われているが、何故だか彼らは頼りにされているようだ。少し──とは言ってもお化けから見た認識である──前から牢人は増え続け、潜めそうな部屋を片っ端から埋めにかかっている。この前の戦でだいぶ空いたが、それまでは居場所を見つけるのもだいぶ難しく、時には床下で窮屈な夜を過ごしたこともあった。

 何はともあれ、標的が近付いてくる。胸を躍らせながら、それはじっと機を見計らい──唐突に声をかける。


「ねえ、これから何をしに行くの? そんな早歩きで」


 前の女よりも速かったが、足音の主は素通りしなかった。んー? と無邪気に疑問の声を上げて、障子の前で立ち止まる。


「何って、決まってるだろ? 戦に行くんだ。そのために準備してきたんだよ」

「いくさ」

「大人たちから聞いてないのか? 皆大騒ぎしてると思ってたんだけどなあ。さすがにおれたちばっかり騒いでる、なんてことはないと思いたいけど……」

「どうして騒いでるの? うるさくしたら、疑われない?」


 先程の話と繋がることだろうか、と思って聞いてみたが、障子の向こう側にいる若武者は違う違う、と屈託なく笑った。


「騒いでるっていうのは、連中みたいに慌ててるんじゃなくて、喜んでるってことだよ。こんなでっかい戦、まさかおれが元服してから起こるなんて思ってなかったからさ。嬉しいんだよ、戦場に出られるのが。おれの他にも、思いっきり戦えるのが嬉しいって奴、いっぱいいるよ」

「戦うのが、嬉しいの?」

「ああ! おれ、夢だったんだ。武士らしく戦場で戦って、敵の首を挙げて、華々しく討死することが! ずっとずっと、憧れていたんだ。昔の武将みたいに死ねる日が来るなんて、おれは本当に運がいい!」


 おまえもそう思わないか、と声を上擦らせながら問いかけられる。相手は本気で自分を幸せ者だと思っているようだ。

 だが、納得はできなかった。化物にだってわかる。大抵の人は、口では何とでも言うが基本的に死を恐れるものだと。

 それなのに、目の前の相手は死を望み、死に喜びを見出だしている。頭がおかしくなったとしか思えなかった。まだ若く、いくらでもがありそうなのに。


「そういう訳だから、おれ、もう行かなくちゃ。ひとつでも多くの首級を獲れるよう、精一杯頑張るよ。じゃあな!」


 返答を待たず、意気揚々と若武者は去っていく。相変わらず、がっしゃがっしゃと防具を重苦しく鳴らしながら、足音だけは軽やかに。

 自分勝手で向こう見ず。最初から最後まで予測不能だった相手に、ぽかんとする他ない。

 あいつは外れだった。明らかにおかしい。死ぬのが待ち遠しいなんて、狂っている。この城を包む焦燥や恐怖と、あの男は結び付かない。

 そろそろ疲れてきた。人間は訳がわからない。訳がわからないものに囲まれていると、あるかないかわからぬ心がもやもやとする。

 そう思っていた矢先、ぱたぱたと足音が近付いてきた。具足の音はしないから、武人ではなさそうだ。

 覗き穴から、様子を窺う。女物の着物が見えた。裾が乱れるのも構わずに、こちらへ向かってくる。急いでいる──というよりは、ひたすら気が立っているように見えた。

 せっかくだから、この人間にも問いを投げ掛けてみよう。幸運だと思いながら、それは先程と同じように声を上げた。


「ねえ、ねえ。どうしてそんなに急いでいるの?」

「────」


 一度素通りしようとしたその人は、何を思ったかわざわざ引き返してきた。しかし、その足取りは苛立ちにあふれ、決して上機嫌ではない。その矛先は見えない何かに対して向けられているように感じられた。──自分は憎まれぬという自惚れからではなく、直感的に。


「……何。急いでいるのだけれど」


 障子越しにかかった声は、やはり刺々しかった。そんな怖い声をせずとも良いのに、と思いつつも、人間など然程怖くはない化物は、幼子のような声で言う。


「それだよ、それ。この城の中は、ここしばらく急がしそう。皆焦っているし、怖がっている。それなのに、誰もその理由を教えてくれないの。ねえ、どうして?」


 すう、と小さく息を吸う音が聞こえた。溜め息ではない。ただの呼吸、感情の乗っていないまっさらな息。


「……お前、いつから大坂ここにいるの?」


 そして投げ掛けられたのは、一切の感情を読み取らせない透明な問いかけ。

 いつから、と脳裏で反芻しつつ、考える。正確な年月は覚えていないが、十年……いや、二十年は居座り続けている気がする。世の中がある程度まとまって、上方に活気が戻ってきた頃、ここなら人が集まるだろうと思って居座ることにしたのだ。

 大体二十年くらい、と素直に答えると、相手は驚くでも訝しむでもなくそう、と相槌を打った。


「それなら、私が指摘するまでもなくわかるでしょう。間もなく大坂は戦場になる。以前のように策を巡らせることも難しく、落城もやむなしと考えられている──いわゆる詰み。私たちは、選択を迫られているの。だから、皆慌てふためいている。死や喪失が間近に迫っているから。人によるとは思うけれど」

「でも、さっき会った人は死ぬのが待ち遠しいと言っていたよ。それに、疑われるのが怖いとは聞いたけれど、死ぬのが怖いと言う人はいなかった」

「……色々いるの。皆が皆、同じ気持ちを抱いている訳じゃない」


 それに、と平坦な声は続ける。


「見ず知らずの相手に胸の内を晒そうなんて人の方が少ないに決まっている。お前が何だかは知らないけれど、面白半分でこういったことをしているのなら今すぐにやめなさい。豊家のために戦う者たちにも、この城にいる者たちにも失礼だから」

「失礼? どうして?」

「己の目で確かめなさい。人に聞いてばかりでは、本当のことなど何もわからない。わかろうとする気がないのなら、もう私たちに関わらないで」


 淡々とした口調で突き放すと、声の主は踵を返す。そのまま、やはり苛立ちを隠しきれない足取りで去っていった。

 なんだろう、今自分は怒られたのだろうか。何もわからぬ化物は首をかしげる。

 ただ、わかったこともある。この城にいる人々は、追い詰められているのだ。だから、この城の中は焦りに満ちている。もうすぐそこまで、決断すべき時が迫っているから。

 それは己も同じことなのだと、化物は今初めて気付かされた。自分も、決めなければならない。これからどうするか。どこで、どのように生きていくか。

 そろそろ潮時かなあ、と他人事のように思う。先程の声は、落城もやむなし、と口にしていた。ならば、近いうちにこの城は駄目になるのだろう。化物の潜む隙間ごと、消えてなくなる。

 それは困る。居場所がなくなったら、化物はあらわになってしまう。それでは、人を驚かせることなどできない。隙間がなくては、化物はただ排斥されるだけだ。

 立ち上がり、動き出そうとした矢先、障子の向こうから足音が聞こえた。化物は慌てて身を屈める。

 次で最後にしよう。中途半端は良くない。この人間の話を聞いて、余裕があったら驚かせて、それからここを出ていこう。

 居住まいを正して、足音を待つ。ちょうど目の前を通りすぎる機を狙って、声をかけた。


「ねえ、どこへ行くの。これから、どうするの」


 足音がぴたり、と止まった。そのままくるり、と方向を変えると、見える景色が変わった。

 顔だ。顔の一部が見える。真っ直ぐに見つめる瞳と、化物のそれがかち合う。

 変に、緊張した。思えば、人間と顔を合わせて話したことなど、全くない。


「人に会いに行くのです」


 足音の主──年若く、しかし甲冑をうるさく鳴らしていた彼よりも落ち着いて穏やかな青年は、柔らかい声色でそう答えた。


「先程、この近くを女性が通りませんでしたか。不機嫌で、つんとしていて──きっと早歩きだったと思います。そういう方を、見かけませんでしたか」

「……いた、かも。顔は、見なかったけど」


 恐らく、先程の女性だろう。確証はないが、声が提示した特徴とも似ていたので、化物は曖昧な口調で答えた。

 障子を隔てた向こう側にいる彼は、そうですか、と少し笑って相槌を打った。苦笑じみた響きだった。


「彼女を怒らせたのは、私なのです。追いかけようと思い、ここまで来たのですが……予想通りの動きをされたようですね」

「怒らせた?」

「はい。私が優柔不断だったのが原因です。申し訳ないことをしたと、心から反省しています」


 私の愚痴にお付き合いいただけますか。誰かに話を聞いて欲しいのです。

 穏やかな口調で、声はそう頼んだ。断る理由はなかったし、経緯に関して興味がないとは言い難かったので、化物は是とうなずいた。


「大坂で戦が起こることは、ご存知ですか」

「うん、わかる。皆がそうってた」

「それなら話が早い。私は、その戦に出陣するのです。もとより、そのために大坂へ来たようなものですから。居場所をくださった殿には、この身命を賭してでもご恩返しをしなくては」


 そう決めていたのですが、と青年は声を落とす。


「私は、い人を得てしまった。それが先程挙げた彼女です。彼女は、私に死ぬなとおっしゃられた。何があろうとも己の知らぬところで死ぬのは許さぬ、戦に出るのは好きにすれば良いが必ず生きて帰ってくるように、と」

「生きては、帰れないの?」

「……によっては、生き残れるでしょう。ですが、私は武士として死ぬつもりで入城したのです。何処にも居場所のない牢人ならば、きっと大多数が憧れる生き方です。私はそれを成し遂げようと、心に決めていたのです。それゆえに、私は……情けなくも、迷っている」


 青年の声は柔和だった。不思議な程に落ち着いていて、先程討死するのだと息巻いていた者とは対極にある声色だった。要するに、全く血の気が感じられない。日常的で、一切の揺らぎが見えない声。言葉とは裏腹に、恐れも迷いも見当たらなかった。

 変なの、と化物は思った。既に心が決まっているような口振りで、一体何を言うのだろう。嘘を言っているようにも聞こえないし、まるでお手本のような声が続くばかり。武人とは、皆頭がおかしいのだろうか。


「私は隠し事が不得手なので、当然件の彼女には怒られました。いい加減にしろ、私を置いていくつもりか、とね。私は答えられなかった。武士として死ぬか、愛する人と生き延びるか。どちらも望んでしまっているから、どちらにも傾けない。もどかしい気持ちです。ですので、まずは彼女に謝ろうと思い、後を追っていたのです」

「……ふうん。そうなんだ」

「長々とすみませんでした。戦の前なのに、気の迷いに悩むなど、武士にあるまじき姿ですね。貴殿には、悪いことをしました。お礼になるかはわかりませんが……此処に、お菓子を置いておきますから、よろしければ召し上がってください。本当に、ありがとうございました」


 一貫して丁寧な口調で述べると、障子の向こうで衣擦れの音がした。菓子を置くために動いたのだとわかった。

 覗き穴から見てみれば、精悍な横顔が目に入った。真面目で誠実そうで、これから人殺しに行くのには似つかわしくない、清潔な印象の青年だった。

 その目に迷いなどないことを、化物は一瞬のうちに理解した。理解できてしまった。


「ねえ」


 ふ、と青年の目がこちらを見た。一欠片の濁りもない、真っ直ぐな眼差しに射抜かれる。


「本当は、迷ってなんかないくせに」


 少しの恨み混じりに言い捨てると、覗き穴から見える目尻が僅かに弛んだ。


「私だけではありませんよ」


 皆、迷いながらも心を決めているのです。

 ほどけるような笑みをこぼしてから、今度こそ青年は立ち去った。

 徐々に遠ざかっていく足音を耳に、化物は障子から距離をとる。誰もいない真っ暗な部屋の中で、ごろりとその身を横たえる。

 あの青年の言うことは真実だ。皆、心の何処かでは己のすべきことを決めているのだ。だから、化物の望む、それを満足させる答えなど、ひとつとして出ない。

 何をすべきかわからず、焦り、怖がっているのは化物だけだ。


「──つまらんなあ」


 呟き、化物は瞳を閉じる。そうしたところで、答えらしきものは思い浮かばない。暗闇にひとつ、取り残されるだけ。

 早く明るくなれば良い。何とはなしにそう思いながら、化物は眠ることもできぬままその場を動かなかった。

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前夜の夏虫 硯哀爾 @Southerndwarf

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