後半
滝人。
それは俺と中井が高校三年生の頃に出会った生き物だ。
身体は一見人間のようだが、よく見ると手にはヒレが着いているし、服だと思ってよく見て見たらそれは全身に張り付いたウロコだった。そして顔は魚のかぶりもののようだが、被りものではないらしい。
『村外れの滝には、滝を登って生きる滝人がいる』その中井のひいばあちゃんの迷信を確かめるために、俺達は全く舗装されていない山道を登った。崖を登ったり足元が崩れたり、いよいよ道に迷って投棄されていたテントで一晩を明かしたりと中々の大冒険だった。
そしてたどり着いた滝の周りには深い水場が広がるだけでとても近づくことは出来ず、仕方なく遠くの足場から、用意していた双眼鏡を覗いた。
すると、滝人がいた。
俺達はまたぐるりと山を回って可能な限りその滝へと近づき、しっかりとこの目で滝を泳ぎ登り続けるなにかを見た。
そのなにかは、どれほど声をかけてもこちらに見向きもせず、俺達はそんなこともあろうかと用意していたお供えものの数々を捧げて気を引こうと試みた。
お菓子でも無反応。野菜でも肉でも無反応。しかし、最後の最後に取り出した親父のワンカップを地面に置いた途端、滝を登り続けていたそれが急に下降し、水を泳ぎ、俺達の前に姿を表し、しばらく見つめあった後ゆっくりとワンカップを指さした。
以来、俺達の滝人の交流は続いている。
滝人について分かっていることは、常に滝を登り続けていること、喋れはしないが身振り手振りで意思疎通ができること、日本酒が好きで日本酒さえ持っていれば滝を登るのをやめて降りてきてくれることぐらいだ。
その正体が変態なのか妖怪なのかはたまた神様なのかはわからない。本人に聞いてもしばらく黙り込んだ後、首を傾げて手を腰の位置で曲げ『さあ?』というジェスチャーを返してきた。なんともいい加減な生物だ。
ただ、優しい性格をしているのは間違いないようで、最初に出会った時、そのまま村への抜け道を教えてくれ、村の近くまで先導し案内してくれた。
以来、滝人に会いに行く時はその道を使うようにしている。その抜け道は細い洞窟のようだが、天井には至る所に隙間が空いており、そこから陽の光が射し込んでとても幻想的な景色が見られる。
ただし、雨の日に通ると至る所から雨粒が集まって出来た塊が降り注いでおり、地獄と化すということを今日初めて知った。
村ハズレの滝の一部分には、いつものように流れに必死で抗っているような水しぶきが元気に跳ねていた。
僕らが今いる足場は、滝の落下地点からしばらく、川の流れも緩やかになり始めている辺りで、滝人との距離はそこそこある。
今日のような雷雨だと、声を張り上げても届かないかもしれない。
だが、その必要はない。滝人の五感能力がどういったものかは知らないが、このように地面にコンとワンカップを置くとやってきてくれる。
「あ、来た」
上にばかり向かっていた水しぶきが、今度は滝の流れにそって下に向かう。そしてそのまま消えたかと思うと、直ぐに俺達の近くに影が浮かんで近づいてくる。
さっきまでとはうってかわって、しぶき一つあがらない綺麗な泳ぎで、滝人は俺達の前に姿を表したのだが――
「た、滝人?」
中井が戸惑ったような声をあげる。
滝人の顔は魚のそれだが、表情は割と豊かで、いつもは俺達を歓迎してくれるかのように綻んでいる。が、今日は違う。いつもは若干曲がった腰もピンと伸びて、脇腹には握られたヒレ付きの手が添えられている。
これは、もしかしなくても、怒っているのだろうか。
「…………」
戸惑う我々に、滝人はゆっくりと手を上げて、俺達が来た道を指さした。
「――あ、今日は雷で危ないからこんなところにこず帰れってことか……?」
中井が俺に耳打ちしてくる。それは滝人にも聞こえていたようで、滝人はゆっくりと頷いた。
まあ確かに、雷雨の時に水場に近づくなんて危ないにも程がある行為だった。が、その危険を犯してまで滝人に聞かなければならないことがある。
「ご、ごめん滝人。でもどうしても、今じゃないと滝人に聞けないことがあるんだよ」
中井が鯉の入ったバケツを差しだす。そして、ようやくその異様に気がついた滝人は、喋り続ける鯉にグッと顔を近づけた。
そして何度も瞬きを繰り返し、顔を捻り、そして手を顎っぽい場所に当てていた。
「これ、いけたんじゃね?」
小さいが、弾んだ声で中井が耳打ちしてくる。
そして三分後、ようやく俺たちがどれほど無駄なことをしているかに気がついた――。
「あいつ喋れねえじゃん!!」
滝人に別れを告げて、来た道を戻り、家に入り玄関先で雨合羽をたたんだところで中井が吠えた。
「あまりにも無駄な時間だったな。怒った滝人と申し訳なさそうな滝人が見れただけだった」
「……それはそれで儲けとか思ってないかお前」
「思ってない。カメラを持っていってなかったからな」
「撮るなよ。滝人多分写真嫌いだぞ」
「え、そうなのか」
「……いや、わかんね。なんとなく」
「勝手なこと言ってるんじゃない」
なにも解決しないまま、無駄話に花を咲かせる。雨はまだ止みそうにないのが幸いといったところか。
意味不明な言語を発する鯉にもなんだか慣れてきて、あまり気にならなくなってきた。
「お前飽きてきてない……?」
「まあ、割と」
好奇心というものは未知であるからこそ湧き上がる。時間が経って未知が既知になってしまえば、当然それも薄れる。
まあ中井はそんな僕の性格を度々批判しているが。
「とりあえず、あと一箇所あたったら終わりにしようかな……」
「どっかあてあんの?」
「ん」
なんの躊躇いもなく、僕は中井を指さした。
この鯉のもう一つの謎、それは調達先だ。こうしてマヌケにもあてが外れた以上、最初にはぐらかされたそこになにかが隠されていると思うのは当然のことだ。
「さすがに答えて貰うぞ。この近所には鯉が泳いでるような場所はない。どこから持ってきた?」
「えー……あぁー……まあ、うん……それなあ……」
なおも歯切れの悪い中井に、俺は無言で詰め寄る。
そして返ってきた答えは、びっくり仰天予想外のものだった。
「覚えてないんだ。全く。これっぽっちも」
「は?」
ふざけているのかと思った。鋭い声を上げる鯉も、多分そのようなことを言っているのだと思う。そういうことにする。
肘で中井の腹を小突きながら、なおも詰め寄る。
けれど中井は必死にそれが本当であると主張している。
鯉の調達法を考えてあたりをうろついていたら、知らない間にその鯉が入ったバケツを手に持っていたらしい。
「……なんで言わなかった」
「だって、馬鹿みたいじゃん」
同意するべきか、怒るべきか、少し考えた結果最初からそこがわかっていれば別の切り口もあったんじゃないかというモヤモヤが湧いてきて、ひとまず中井の頭に一発ゲンコツを落としておいた。
「で、どこいくの?」
「お前の家」
中井の記憶の喪失とこの喋る鯉には何かしらの因果関係があると推測できる。だが推測できるだけで、そんな不思議を暴く方法はない。
だが俺達の身近には、ありとあらゆる不思議を脳に詰め込んだ人物が一人いる。その大半に真実性はないということだけは忘れよう。他に思いつくところがない。
その目的の人物──中井のひいおばあちゃんは今の隣の部屋で、腰を曲げてカレンダーの前に立っていた。よく見る光景だ。
「…………永遠の命」
なにかしわがれた声で恐ろしい野望が聞こえたきがするが、これは聞こえないフリをした方がいいんだろうか。
「ああ、最近たまにああなるんだよ。ひいばあちゃん」
「狂ってんの?」
「まあ、気にするなよ」
気にしないでおこう。あの人に関してはたまに好奇心より普通に恐怖が勝つ。俺が年寄りになっつもまだ生きていそうという予感のような。
「あー、ひいばあちゃん?」
「…………よく喋る鯉やねえ。お前叶えたんけ?」
「は?」
「おや、不二原いらっしゃい」
「どうも……」
ひとまず会釈をする。その後、事情を一から説明するべきか、さっきの第一声について問いただすべきか悩んでいるうちに、中井が身内特有の気安さで、あれやこれやと一から十まで説明していた。
その一つ一つに優しく相槌を打つ中井ひいおばあちゃん。
手持ち無沙汰になった俺は、バケツの中の鯉と視線を合わせる。鯉は相も変わらず喋り続けているが、既にそこへの関心はかなり薄まってきている。恐らく、このままいけば雷雨より先に俺の好奇心の方がなくなるだろう。
このまま、中井ひいおばあちゃんがなんらかの道筋を示してくれればいいのだが。
「そんじゃ、あんたらは忘れてしもうた真相を知りたいんやな……なら、教えちゃろう。それはな、103や」
「「ひゃ、ひゃくさん?」」
声が揃った。
ここに来てまさか暗号だろうか。というか真相と言っていたが、本当にこの人知ってるんだろうか。
二人でぽかんとしていると、中井のひいおばあちゃんはまた口を開いた。
「ほれ、よく教えちゃったろう。この村の言い伝えの103番目じゃよ……」
「「ああ、それか」」
また声が揃う。というかなら最初からそう言って欲しい。絶妙に混乱するから。
「……ってことは、その103番目の言い伝えに俺の記憶もコイツがなにを喋っているのかの答えがあるんだな! 道が開けたな、よし行こうぜ雨が止む前に!」
そう言って中井は勢いよく玄関を飛び出していった。俺も正直胸が踊っている。
まあただのでまかせという線も捨てきれない、というかそっちの方が可能性は高いが、ただあやうく行き詰まるところで開かれた道へのときめきは大きい。
だが、ここは冷静に。
はやって動くとまた滝人の時と同じ失敗を繰り返す。
俺はまっすぐ、中井のひいおばあちゃんに向き合い、一つ質問をした。
「なあ、ひいばあさん」
「なんじゃい? もう答えはいうたも同然じゃけど、まだなんぞあるんか?」
「うん、その103番目の迷信って」
「言い伝え」
「……その、言い伝えって、内容なに?」
会話を終えて玄関を出ると、雨に打たれながら遅いと中井が怒っていた。
そして案の定、中井はその103番目の迷信の内容をわかっていなかった。
『西のお稲荷様に、鼠を捧げて願い事をすると、記憶を代償に願いが叶う』
それが103番目の迷信……言い伝えらしい。
「ほい、鼠。雨だから軒下で何匹か雨宿りしてたのまとめて持ってきた」
「……一匹でいい」
その迷信を、どうやら中井のひいおばあちゃんは中井にだけ話したそうなのだが、中井にはどうやらその記憶はないらしい。
願いの代償で持っていかれたのだろう。
中井は、鯉の入手先を考えている時にこの迷信を聞いた。だから試しに実行して、そしてその迷信は真実だった。
「……ほんとにかよ」
「これからわかる」
締めたネズミを一匹、お稲荷様の前に置いて、手を叩いてお辞儀をして、目を閉じる。
中井のひいおばあちゃんは言っていた。この言い伝えには続きがあると。
『――もし、記憶を取り戻したければ、三日以内にまたネズミを捧げて、「私にはすぎたる願いでした。どうか、お戻しください」と祈れば願いは消え記憶は戻る』
「……でもいいのか? 願いが消えたらこの鯉が消えるってことで……結局この鯉が何言ってるかわかんなくなるぞ……?」
「いい。俺の推測が正しければ、これでいいはずだ」
祈りながら答える。
これは、単純に可能性の話だ。
これまでに聞いた迷信は103。そのうち調査済みは、確か60ほど。そのうち真実だったのは二個だけ。そのほとんどが徒労に終わっている。
ここにきて、その未調査の迷信のうち一気に二つが真実――そんな奇跡よりも、一つの迷信によって全ての自体が引き起こされた可能性の方が高い。
というか、今は鯉より先にこっちの方に興味が湧いている。
祈ること数十秒、その結末は、あまりにも気の抜けた声によって訪れた。
「……あー、なんかめっちゃ思い出したわ」
「なんかめっちゃ思い出したのか」
「うん、そうそう。鯉どうしようかなっと思った矢先にひいばあちゃんにあの話聞いて、面白そうだから試してみようって、祈ってるうちにふと頭によぎったんだよ」
「………『雷の日に鯉を捌くと喋り出す』」
「そうそれ!」
つまり、鯉が手に入ったのも捌こうとしたら喋り始めたのも、このお稲荷様が中井の頭の中にあるものをそのまま叶えた結果だったと。
「――……うん、満足だ」
「そりゃよかった……けど、結局あの鯉なに喋ってたんだろうな?」
「多分、そのままじゃないか」
意味不明な言語はそのまま意味不明なお喋り擬きで、そもそもが翻訳のしようもないものだった――という推測だ。
「まあ……そうなの……か? 確かに途中でいきなり頭に浮かんだことだから中途半端に願いが叶ったかもしれないしなあ……」
「抜かれた記憶もしょうもないしな。まあ、確証を得るためにはもう一度鯉を捌いて――」
と、祈るために後方に置いていたバケツの中を見ると、空っぽだった。
鯉どころか、中の水もなくなっている。いつの間にか雷の音も聞こえず、随分の雨も小雨になっている。
ひゅうっと吹いた風が、軽いバケツを転がした。
「………なんなんだろうな、この村」
中井の呟きに、滝を登る親切な半魚人のようななにかが頭に浮かんだ。
「この前都会から来てる大学のやつに滝人の話したら、薬はやめとけって言われたよ……」
「そうか……」
小雨に打たれながら、なんだかしんみりとした空気を感じていた。
この村そのもの――まあ、最終的にそこにたどり着くのも面白いかもしれない。
藤山のおじさんのシャンプーはどうでもいいとして、滝人がいて、願いの叶うお稲荷様さんがあって、そのほとんどが外れであっても、中井のひいおばあちゃんの迷信には、確かに迷信でないものが存在する。きっと、他にもあるだろう。
まずはその辺から、うん、ペースを上げて調べて見るのもいいかもしれない。
さしあたっては――
「鯉、調達できるか?」
「……今友達にあたってたところ」
「さすが、手馴れてるな」
検証といこう。
ひいばあちゃんの迷信その96 『雷の日に鯉を捌くと喋り出す』 林きつね @kitanaimtona
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