最終話 カカオ72パーセント

 休憩所をあとにして、柏木さんと話をした大きな柱に来ました。

 柱の陰に立ってみます。あのとき柏木さんが立っていたのと同じ姿勢で。私の身長が低いので、柏木さんは首を傾けて下を向いて、私と目を見つめ合ってお喋りをしていました。


 私は柏木さんの目に、どんな風に映っていたのでしょう。あまり人目につかないようにと言いつつ、こんな風に柱の陰で話している私と柏木さんを見かけた人は、どんな風に思っていたのでしょう。

 どうせなら堂々としていたほうが怪しまれないのでは? そう思ったけれども、言い出せなかったあの日。言っていたら、なにかが変わっていたのでしょうか。


 いつまでもここにいても仕方がありません。過ぎた日は、変えられないのです。

 居室に戻る途中、柏木さんとすれ違いました。


「今日でお別れだね」


 二人とも、同じ台詞を言いました。

 柏木さんは、大きな柱に向かいました。私もそれに続きます。

 あのときと同じ、柏木さんは廊下と反対側、柱の陰になるように柱に寄りかかります。目の前には私。ここだけ少し、暗いのです。


「記念にチューでもしとく?」


 柏木さんは少しだけ笑って、少しだけ切なそうな表情をして言いました。冗談なのか本気なのか分かりません。だからわざわざ人目につかない柱の陰に来たのでしょうか。


「……なんて答えるのが正解なの?」


 私はどんな表情をしているのでしょう。目が少し、潤んでいるかもしれません。必死の顔をしているかもしれません。もう、どんな風に思われたっていいです。もう、会わないのですから。


「これでチューするくらいの気持ちがあったら、小川さんはもっと楽に生きられるのかもね」


 私の返答は、間違っていたのでしょうか。


「でも、ここでチューしないから小川さんだよね。ちゃんとしてる。俺の家庭を大事に思ってくれていたのも伝わってた」


 伝わっていた。過去形です。私と柏木さんは、私たちはもう、会わないのです。私が柏木さんの家庭を大事に思う必要は、もう、ないのです。


「なんで私とメルアド交換したの?」


 もう最後です。聞きたいことを聞こうと思いました。


「最初はヤレるかなって思ってた。小川さん、男慣れしてないし口堅そうだし。優しくすればつけ上がってホテル行けるかなって。でも話してるうちに、そうじゃないって気づいた」


 柏木さんは真剣な表情で言いました。正直に話すことで免罪符を手に入れるかのように。

 私は、言葉にされたことでショックを受けました。ヤレそう。そう思われていたのです。優しくしていればつけ上がると思った―。

 そこで終わってくれればよかったのに。


「そうじゃないって……どういうこと?」


 確認するために、柏木さんに問いました。


「そうじゃない、でしょ? 小川さん、既婚者の俺と恋愛する気なんてなかったでしょ。正直そこに安心してた。俺は家庭を壊す気はないし」


 会話のリズムが、いつもと違います。柏木さんも、戸惑っているのかもしれません。私はこの期に及んでなにを考えているのでしょう。

 柏木さんは、もう終わりだから本音を打ち明けただけです。


「友達に、なれなかったね」


 最初は、友達になれるかと思っていました。本当に、最初は。ダメ元で確認してみました。


「じゃあ俺たちの関係って、なに?」


 残酷な質問です。私たちはもう会わない、もう終わり。そうです、だったら半端な優しさは逆効果です。柏木さんは恋愛も人生経験値も、私より多いのです。躊躇なくそれを実行するのが一番だと分かっています。


「不倫も恋愛感情も、なかった」


 私は下を向き、自分の気持ちとは離れた、今ここで言ったほうがいい単語を選びました。

 柏木さんはなにも言いません。私は顔を上げます。


「柏木さんのメルアド、消すね」


「……分かった」


 柏木さんと、目が合います。


「新しい課でのご活躍をお祈りしています」


「ありがとう」


 祈り。願いではなく、祈り。押しつけがましくないように、ただ単に、祈る。

 一方的な思い。私はあなたの負担になりません。そう思い、この単語にしました。


 ひな祭りは、女子の健やかな成長を祈る行事。こちらも、祈りです。

 願いという、自身の欲望を孕む単語ではありません。ただただ、あなたの健康と幸福と成長を祈る。

 そういった意味合いを持つと思い、私はこの単語を選びます。柏木さんは気づいていなくても。


 私は会社にいるうちに、柏木さんのメルアドを削除しました。



 その日はどうやって帰ったか覚えていません。

 部屋には、柏木さんに貸していたCDが袋に入ったまま置かれていました。いつだったか、柏木さんから返ってきたCDです。すぐに片づけると、柏木さんとの関係が終わってしまいそうで、そのままにしていました。なにをしているのでしょう。もう終わったんです。もうお別れしたんです。


 袋のなかに、チョコレートが入っています。CDを貸してくれたお礼だと、柏木さんがくれたものです。

 箱パッケージされたカカオ七十二パーセントのチョコレートです。私がこのチョコレートを好きで、会社でよく食べていたからでしょう。ハイカカオのチョコレートはストレス軽減の効果があるとなにかで知り、食べていました。

 カカオ七十二パーセント。まるで私と柏木さんの関係です。ほろ苦くて、時々甘く感じます。けれども決して甘くなることはありません。

 気づいてももう、柏木さんに伝える機会はありません。

 このチョコレートを食べてストレス軽減が、出来るのでしょうか。皮肉です。私はこのパッケージを見る度に、柏木さんを思い出すかもしれません。


 私はのろのろと、CDを片づける動作を始めました。

 CDの向きを確認して棚に入れるとき、彼の香りがよぎりました。あの、柏木さんが好きだと言ったお香の香りです。香りは記憶を甦らせます。ひどいタイミングです。

 柏木さんのメルアドを消しておいて、よかった。とても胸が痛いです、けれどもそれだけが、救いでした。

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ハイカカオな関係 青山えむ @seenaemu

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