第12話 惹かれた理由

 社会人になって、自分でひし形のケーキを買って食べました。ひし餅を買った年もあります。

 私は毎年ひっそりと、一人でひな祭りを楽しんでいました。


 けれども今年は忘れていました。柏木さんのことで頭がいっぱいでした。けれども柏木さんは娘さんのことを一番に考えていました。


 執着です。祝ってもらえなかったひな祭り。参加出来なかったひな祭り。

 柏木さんの娘さんは、なにをせずとも柏木さんの愛情を受け取ります。

 柏木さんは娘のひな祭りのために仕事を休み、準備をして娘さんの健やかな成長を祈りました。


 そんなパパだから、惹かれてしまったのでしょうか。

 私の父親は口数が少なく、あまり会話をした記憶がありません。母親は、いつも面倒くさそうにしています。私は両親と、最低限の会話だけを交わします。そんな家庭でした。


 私も、ひな祭りを祝ってほしかった。あのとき、おひな様を飾ってほしいと言っていたら、飾ってもらえたのでしょうか。


    〇


 週が変わり、柏木さんの異動が決まりました。

 新規プロジェクト立ち上げチームに抜擢されたのです。

 柏木さんが元いた課の上司が新規プロジェクトの責任者になったらしく、名指しでの抜擢ばってきでした。

 異動は今週の金曜日でした。本当に、急でした。

 私は空いた時間を見つけて、柏木さんに話しかけました。


「新しい課に、行くんだって?」


「うん、前一緒だった上司が俺を指名したらしくて……」


「期待されているね」


「そんなことないよ……」


 私と柏木さんの間に、妙な沈黙が流れます。会話が続きません。


 先週辺りから、柏木さんからメールが来ない日が続いていました。

 メルアドを交換した当初は平日、毎日メールが来ていたのに。そう、平日だけ。

 柏木さんは最初から家族が大事だったし、私も彼が家族を大事にする人だから惹かれていたはずです。そういうことにしています。そう、自分に思い込ませていました。


 柏木さんと、柏木さんの家族が幸せだといい。そう思っています、そう思わないと、いけない。

 かろうじて均衡を保っていました。理性です。


 お別れに向けて、私と柏木さんは距離をとり始めます。私と柏木さん、私たちは、少しの言葉と態度で、伝わります。お互い、同じことを考えていると。それだけ、たくさん話して一緒の時間を過ごしてきたと思っています。


「借りてた本、返すね。小川さんも、返してもらっていいかな?」


「もちろんです、持ってきますね」



 柏木さんに返す本を準備します、明日返します。

 お借りした本にしおりをはさもうかと一瞬思いました。好き、と書いてあるアニメのカードを。

 このカードをはさんだら、柏木さんは気づくでしょうか。気づいたら、このカードを返すために、会うのでしょうか? なんて姑息な。

 これがフリーの相手だったら使っても許される手段ですが、既婚者の柏木さんにそんなことをしてはいけません。私は無言で本を袋に入れました。

 思いとどまって、よかったのです。今の私を支えているのは、理性だけです。

 次の日、柏木さんにお借りしていた本を全て返しました。柏木さんに貸していた本も、返してもらいました。

 これでもう、私たちが会う理由も、繋がる理由もなくなりました。



 木曜日。今日が柏木さんと一緒に仕事をするのが最後の日です。柏木さんは最後の引き継ぎを終えました。

 みんな、柏木さんとお別れの挨拶をしています。


 私はあとで挨拶しようと思い、一人で廊下に出ました。廊下をゆっくりと歩きました。

 柏木さんとよくお喋りをした休憩所に来ました。誰もいません。

 ここで柏木さんとバンドの話をしたことを思い出しました。ここでバレンタインにチョコを渡しました。ここの近くで、ハグされました。


 休憩所には今誰もいませんが、私の記憶のなかで、柏木さんが思い浮かびます。

 ここにいるときはいつも一人で、スマホを見て耳にイヤホンをつけていました。私が声をかけるととても驚いていました。映画やアニメを視聴していたのでしょう。柏木さんは、映像の世界からゆっくりと、こちらの世界へ戻ってきます。話し始めは、寝起きのようなおぼろげな状態でした。お喋りが進むにつれて、目が覚めてゆきます。

 柏木さんは、いません。全て私の記憶のなかの柏木さんです。

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