第11話 ひな祭り
本当に、意味が分かりませんでした。柏木さんの真意はなんでしょう。嘘をついた直後に暴かれるなんて、
「俺が結婚しているから、動かないんだよね?」
柏木さんが言います。……なにがでしょう? 私が動かない? 私と柏木さんの関係が、動かない?
柏木さんの真意が分かりません。私は言葉を発することができませんでした。
「俺が結婚していなかったら……って話」
私がなにも言わないので、柏木さんがさらに言葉を追加しました。これはもしや……求められているのでしょうか? 私は動揺します。
「今、ギリギリのところを、楽しんでいる?」
かたことながら、ようやく絞り出た台詞です。
「小川さんは、俺といて楽しい?」
柏木さんが、真剣な表情で問います。
「小川さん、本当は俺と、どうしたい?」
真剣な表情のまま、柏木さんがさらに問います。
本当は……? 柏木さんの胸に飛び込みたい。抱きしめられたい。でも、それは、そんなことしたって、長くは続かない。一度きりかもしれない。
盛り上がって、二度か三度、抱きしめられるかもしれない。けれども遊ばれた女、そう言われるだけです。
かろうじて私のなかの理性がふんばっています。
そのためには、私は無言を貫くしかありませんでした。言葉を発したら、言ってはいけない言葉を言ってしまいそうです。きっと一言発したら、もう戻れなくなりそうだったから。
私は柏木さんを見つめたまま、自分が、悲痛な表情になるのを感じました。目は口ほどにものを言う。きっと私の目には、少しの涙がにじんでいるでしょう。
「……行こうか、あんまり二人きりでいるのもよくなかったね」
柏木さんは、私の目を見つめたまま言いました。どういう意味でしょうか。
「この間、駐車場で小川さんと会っていたのを見られていたみたいで……小川さんとつきあってるのかって聞かれたんだ。まぁ半分冗談だとは思うけど」
柏木さんは私から目をそらして気まずそうに言います。
なんということでしょう。男と女が一緒にいると、それだけで色恋沙汰に見られてしまうのです。いや、実際、私の気持ちはどうでしょう。そう思うと完全には批判できませんでした。
柏木さんの優しさは、やっぱり少なくなった気がしました。
〇
三月四日。
昨日、柏木さんは会社を休みました。どうしたのでしょう。
一昨日の嘘はなんだったのでしょう。奥さんと、うまくいっていないのでしょうか。一瞬だけ、期待してしまいました。そんなことを考えてはいけません。
「昨日なにかあったの?」さりげなく、そう聞こう。いつ聞こうかと思っていたのに。
「昨日は娘のひな祭りでさ。嫁がどうしても外せない用事が出来ちゃって。俺が全部準備したよ。娘もちょうど午前授業でさ」
柏木さんが、
柏木さんからしたら、パパ先輩になるのでしょう。
娘のひな祭り。ものすごいパワーワードです。
ひな祭り、それは女子の健やかな成長を祈る行事。
娘とは、血が繋がっていないと言っていました。けれど柏木さんが娘さんを大事に思っているのはよく伝わっていました、今までの会話で。
娘さんの話をするとき、柏木さんの目尻が下がります。本当に嬉しそうです。顔がほころぶって、こういうことなんだと思いました。
柏木さんは、幸せな家族に囲まれています。好きだから結婚した奥さん。柏木さんを理解している奥さん。柏木さんが愛する子どもたち。柏木さんと柏木さんの奥さんを愛する子どもたち。
私には、ひな祭りをやった記憶がありません。
三つ上の姉はおひな様を飾ってもらったと言っていました。
小学生のとき、母に「おひな様、飾らないの?」と聞きました。
「飾るの? 飾ってどうするの? 準備もあと片づけも面倒だし……やりたいならやるけど……」
母はそう言いました。明らかに嫌そうな母。その態度を見て「飾りたい」などと言えるほど、私は甘え上手ではありませんでした。
とても哀しかったです。
クラスでは女子が次々と、おひな様の話をしています。
ひな人形を持っていない〇〇ちゃんは、お母さんが小さい人形を作ってくれたと言っていました。羨ましかったです。
「ひな人形は飾らないけど、ちらしずしとハマグリのお吸い物を食べたよ」
「あと、ひなあられ」
「そうそう。うちはひし形のケーキ」
「なんでひし形なんだろうね」
みんな、口々にひな祭りを語ります。ひな祭りは女の子の行事。食卓が華やかになり、ピンクや白のお菓子が並ぶのだと想像出来ました。想像出来たのは、テレビでも特集していたからです。
うちではいつも通りの食卓でした。焼き魚でした。言えるはずもなく、私は黙っていました。
あれからひな祭りをせがんだことはありません。
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