第10話 春は残酷

 もう、気候は春です。日中の暖気は、すっかり春です。

 昔、派遣で働いていたとき、仕事がなくて毎日早く帰らされていたことを思い出します。


 あのときは、親戚の伯父さんが経営している借家がちょうど空いていて、格安でそこに住んでいました。二階建ての一軒家に一人で住んでいました。

 ぽかぽかした陽気で、窓際で小説を読んでいました。自然光の明るさと暖かさがものすごく【恵み】だと感じました。

 あのときに読んでいた本の作者は、いつも恋に生きていた女の人だったのを思い出します。


 新しい女? 私は先ほどそう疑いましたが、そもそも私は、柏木さんの女、ではありません。危ない人になっています。


 苦しいです。春は残酷です。暖かくて陽気で幸福の象徴のようです。

 恋人ができたことを「春が来た」なんて表現をします。

 みんなが平等な春とは、なんなのでしょうか。そもそも、あるのでしょうか。


 

 柏木さんと仲が良い若い女子が、彼氏の話をしています。

 私は柏木さんの「一番」ではありません。

 みんな誰かの一番なのに。あの若い女子だって、彼氏がいるではありませんか。

 会社にいる間、柏木さんと一番話をして、一番作品の感想を言い合っているのは私だと思っていました。私から、彼の一番を取り上げなくたって、いいじゃありませんか。


 いけない。おかしくなっている。私は柏木さんの一番ではありません。誰の一番でも、ないのです。


 執着。他人への依存は不幸の始まり。

 私が言った言葉です。柏木さんの負担にはならない……。自分はそうならない。不倫はしない。その自信から言った言葉なのに。


    〇


 三月になりました。月初め、なんらかのトラブルで部品の納入が間に合わず、私たちは待機になりました。

 柏木さんのことを考える時間が増えていました。以前のように楽しい気分にはなりません。沈むことのほうが多くなりました。

 そのせいか大勢のなかに一人でいるのは辛く、少し離れた休憩室に来ました。


「あれ? 小川さん、ここにいたの?」


 柏木さんが、休憩室に来ました。驚きと、嬉しさがありました。

 柏木さんは、私のななめ向かいに座りました。距離をとって座ります。私たちは、いつだってそうです。そうしてきました。

 柏木さんが、微妙な表情で微笑みます。私もきっと、同じ表情をしています。

 周りへの目を気にしていると言いながらも、今、この時間私との会話を楽しみたいのだと思いました。私だってそうです。


「部品、いつ来るんだろうね」


 そんな雑談からスタートしました。いつも通りアニメや映画の話題、友達の楽しい話などをしました。


 ふと、会話が途切れた瞬間です。


「俺、実は結婚していないんだ」


 柏木さんが急に、言いました。なにを言っているのだろうと思いました。エイプリルフールは、まだです。


「上の娘はね、嫁の連れ子なんだ。あ嫁って言ってるけれど、正確には違うな」


 柏木さんには、十歳の娘さんと、七歳の息子さんがいます。


「でも一緒に住んでるんでしょ?」


「籍は入ってないんだ」


 今までの話からして、柏木さんは、家族を家族と認識しています。お子さんも奥さんも、とても大事にしているように思われました。お子さんと奥さんの話をするときの柏木さんは、顔がほころびます。

 ああ、本当に、家族が大事なんだなと、すぐに分かります。私は柏木さんの家族の話を嬉しそうに聞きます。柏木さんは嬉しそうに話します。残酷です。


「なんで今、それを言ったの?」


 私は本当にわけが分からず、柏木さんに聞きます。


「なんでって……分からない? 俺が既婚者だから小川さんは俺を求めないんでしょ?」


 なにが起きているのでしょう。私は今、誘われているのでしょうか。かすかに、いえ、かなり動揺しています。


 誰かが来ました。知らない人です。その人は一瞬私の顔を見て、すぐに柏木さんに視線を向けました。


「柏木、久しぶり! 奥さん元気か?」


 柏木さんに話しかけています。


「よー久しぶり。元気だよ、子どもたちも」


 柏木さんの知り合いのようです。柏木さんとその人は少し談笑していました。やがて、その人は去って行きました。


 一瞬、微妙な空気が流れました。


「今のって……」


 私はすぐに、気になっていることを聞きました。柏木さんは黙っています。


「結婚してないって言ったよね? 籍は入れてないって」


「ごめん、嘘ついた」

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