file2:君の電波

 ネクタイを締め、ジャケットを羽織り、鏡に向かって身支度の最終確認をする。普段身に着けるものといったら、パーカーとかジーンズとかラフな格好ばかりだから、あまり堅苦しい服装は好みではないけれど、この日のために買った正装を着て、家を出る。


 彼女に会うのは二年ぶりだ。




 約束の時間までまだ余裕があるので、本屋へ足を運び、店内を見て回っていた。


 思い出す。僕が本を好きになったきっかけが、彼女だったことを。


 普段まったく本を読まない僕は、いつも表情を変えながら小説の世界に浸っている彼女の姿に、惹かれていた。


 ときに眉を潜めたり、ときに微笑みかけていたり、ときに涙を浮かべることもあった。


 友達の輪の中では、いつも聞き役に徹しているような、そんな彼女だったけれど、本を読んでいるときの彼女の表情は、色とりどりで、とても奇麗だった。


 彼女をそこまで掻き立てる本の魅力を知るために、僕は小説を読むようになった。




 今日、やっと会えるのか。


 本を探している間も、僕は彼女と、彼女とのこれまでのことを考えていた。


 遠距離が始まってからは些細なことや下らない冗談を毎日のように連絡していた。


 そんな何気ない日々の中で、僕らは互いに影響しあっていた。


 元々ミステリー小説が好きな僕だったけれど、彼女が好むような本を読むようになったり、彼女は彼女で、僕の口癖がうつるなんてことがよくあった。


 僕が電話を出たときに言う「どうしたの?」の言い方が可笑しかったのか、何度も真似され、いつしか彼女も同じような言い方になっていた。


 茶化されてはいたけれど、僕は彼女の笑い声を聞けるのが嬉しくて、彼女との通話が好きだった。


 電話ができないような日は、今夜は君の声が聞けないのか、なんて、会いたい気持ちにもどかしい思いをすることはあったけれど、彼女を想うだけで、僕は気持ちが安らいだ。


 いつか会う日を思って、頑張れた。


 会えないからこそ、触れられないからこそ、言葉ひとつひとつが新鮮に感じられた。


 けれど、彼女は違っていた。




 町中にいる男女を見ては思うらしい。私たちはどうしてあんな風に手を繋いで歩けないのか、と。


 彼女がつい漏らした一言がきっかけで、会えない日々を数える度に、彼女を縛りつけている自分が憎く思えてきた。僕が彼女を好きでいるせいで、彼女は辛い思いをする。


 それからというもの、奥歯に物が挟まったような物言いだったり、彼女の機嫌を損ねまいとした僕の態度が、彼女は気がかりになっていたらしく、言い争うような喧嘩はしなかったけれど、何だか空気が重い時期が続いた。


 どこか噛み合わない言葉の数々に言い表しようのない負荷がじわじわと募った結果、それが無視できないほどの不満となって、互いに影響していた。


 クリスマスに会う約束も、彼女は会いたくないと断り、破談になった。


 いつまでこんな日々が続くのかと先が見えなくなってしまった僕は、一旦、連絡も距離を置こうと提案していた。僕は、彼女を嫌いになりたくなかったから。




 最後の連絡から数週間経ったある日の朝、いつものルーティーンで目覚めてからテレビをつけて天気予報を確認する。僕のいる街は午後から雨になるそうだ。


 彼女の町は──雪か。


 遠距離になってからというものの、彼女のいる町の天気予報を確認してしまう癖がついた。


 今は気にしていたって仕方がない。そう言い聞かせ、僕は大学へ向かった。


「予報では雨だっていってたのに」


 いくつかの講義が終わり、もう雨が降っているだろうと思って外に出てみると、降っていたのは雪だった。


 自動販売機で買った温かい紅茶を両手で握り締め、浅く積もった雪を踏み固めながら夜道を歩く。


 駅へ向かう途中の商店街では、クリスマス仕様のイルミネーションが施されている。


 街中で響くラブソングに、おもわず彼女の面影を重ねている自分がいた。降る雪を眺めながら、子供のようにはしゃぐ彼女が、僕の目の前にいるようだった。


 雪を降らし続ける夜空を見上げながら、昔彼女に勧められて読んだ本のことを思い起こす。雪を見て思い出す人こそが、自分が恋焦がれている最愛の相手だというラブストーリーの小説。


 彼女は今頃、雪を見て誰のことを想っているのだろうか。僕のことを、思い出してくれているのだろうか。


 僕がどれだけ想っていても、この気持ちが距離を越えて届くことはない。そんなことを思いながら、僕はさっきより強く雪を踏みしめた。




 次の日、講義の後に大学教授が声をかけてきた。


 教授は僕が高校生だった頃からお世話になっていて、いつも親身に話を聞いてくれる人だった。


「どうかされました?」


 微かに笑みを浮かべる教授の顔を見るなり僕は、少しずつ溜まっていた何かが溢れ出すかのように、今までのことを話していた。


 僕が話し終えるまで何も言わずに見届けてくれた教授は、あの優しく温かい笑顔のまま応えてくれた。


「あなたが彼女に恋をしていて、恋人であるというのなら、他の誰かはあなたになり得ません。あなたがそばにいてあげなさい」


 そばに、と言われたって、なんて思っていると、僕の心の内を見透かしたのか、教授は一言だけ付け足した。


「心の話です」


 僕は、教授の言葉に何も返せずにいた。こういうことは、自分で気づくべきだったんだ。それなのに。


 彼女が家の事情や将来のことで悩んでいるとき、抱きしめてあげることも、涙を拭うことさえも、僕はしてあげられなかった。そのことを引け目に感じていた僕は、自分が傷つきたくないからと、臆病者で意気地なしな自分を誤魔化すために、自分の話ばかりしていた気がする。


 挙げ句の果てに、連絡も控える提案を自ら切り出した。物理的な距離に留まらず、自分から心まで離れようとしていたことに、ようやく気づいた。


 僕にできることを、僕にしかできないことをすべきだったんだ。


 こんな僕にずっとついて来てくれている彼女に、僕は恋人として感謝を伝えようと決めた。


 突然電話することに緊張したけれど、覚悟を決めて通話ボタンを押した。


 鳴り響く呼び出し音に、心拍数を煽られ、冬だというのに僕の手は尋常じゃない早さで汗をかいていた。


 話をするうんぬんの前に、そもそも出てくれないんじゃないかと今更ながらに後悔した瞬間、女性の声がした。


「どうしたの?」


 弱々しい彼女の声が聞こえた。それでも、僕から移った口癖は、まだ彼女の中に残ったままだった。


 僕は馬鹿だ。


 距離は遠くても、既に心はずっと近くにいたということを自分で気づかずに彼女から教えてもらうなんて。


 そう思うと同時に、何故だかホッとしている自分もいた。


 それから、たどたどしくも素直な気持ちを伝えた。


 素直な、感謝の気持ちを。




 今までの出来事を思い出すたびに、今日という日を嬉しく思う。昔のように、カフェでくつろぎながら二人で本を読もうという約束を果たせるから。


 本屋を出て生花店に寄り、一輪の花を買って待ち合わせ場所へ向かった。


 都会は人が多くて、待ち合わせた人を探すのは一苦労だ。こっちに越してきて二年が経つ僕でも、未だに慣れない。


 それでも、流れるように行き交う人混みの中で、一人の女性が目に止まった。


 長く艶やかな髪をたなびかせ、雪のように白く透き通るその手で髪に触れながら、もう片方の手で器用に本を開き読んでいる女性。


 周りの人や物はすべて風景と化して、僕の目には彼女しか映らなくなっていた。二年で容姿が大きく変わることはないとわかっていても、この目で彼女の姿を見つけ出せたことが凄く嬉しかった。


 久しぶりの再会に抱いていた緊張が、砂糖を紅茶へ入れたときみたいに、さらりと溶けていった。


 今日を、この時を待っていたんだ。


 本に集中している彼女に気づかれないように近づき、昔のように僕は声をかけた。


「何の本読んでるの?」

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