エピローグ


 エピローグ



 一年間のほぼ全ての日々に於いて雨雲に覆われた空模様が昼夜を問わず継続される事により、眠らぬ街ならぬ晴れ知らずの街としてその名を知られる、常雨都市フォルモサ。特にこの盛夏前の季節は梅雨の名残も相俟って、朝から晩まで土砂降りの豪雨に見舞われる事も屡々しばしばでありながら、このまま初秋の台風の季節まで一日として雨が降り止まぬ事も決して珍しくない。

「まったくもう、梅雨も明けた事なんですから、少しは小雨になってくれてもいいんじゃないかしら?」

 するとそんなフォルモサの街の骨董街の一角に建つ、やや古風な意匠による装飾が施された雑居ビルの敷地内に、大きな紙袋を抱えた一人の女性がそう言って愚痴を漏らしながら姿を現した。そしてその女性は狭くて暗くて傾斜が急な階段を紙袋を抱えたまま駆け上がると、鈍い飴色に光る木製のドアを開け放ち、彼女が経営する『Hoa's Library』の店内へと足を踏み入れる。

「あら?」

 すると紙袋を抱えたまま入店した『Hoa's Library』の経営者、つまりベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包むグエン・チ・ホアはそう言って、長く艶やかな黒髪の先端からぽたぽたと雨粒を滴らせながら少しだけ驚いた。何故なら誰も居ないであろうと思い込んでいた店内に、見慣れた褐色の肌の大女の、革張りのスツールに腰掛けてくつろぐ姿を認めたからである。

「随分と遅かったな、チ・ホアよ。店主である貴様の留守中に勝手な事をするのもどうかとは思ったが、店の奥のキッチンで、適当に湯を沸かして茶を淹れさせてもらったぞ。悪く思うな」

 スツールに腰掛けたままそう言った褐色の肌の大女、つまり黒い三つ揃えのスーツの上から駱駝色のトレンチコートを羽織った始末屋の言葉通り、彼女の手にはベトナムの蓮花茶が注がれた茶碗が見て取れた。

「あら、そうなの? まあ、別に今更になってからあなたの勝手気ままな振る舞いを咎めるつもりも無いけれど、使い終わった茶碗と急須は、ちゃんと自分で洗っておいてちょうだいね?」

「ああ、分かってる」

 始末屋が茶碗の底に残った蓮花茶を飲み干しながらそう言えば、グエン・チ・ホアは抱えていた大きな紙袋をカウンターの上に置いてから、その紙袋に詰め込まれていた食料品の数々をキッチンの奥の冷蔵庫の中へと移動させ始める。

「それで、始末屋? 確かあなたったら、ほんの昨日か一昨日まではどこぞの王子様の殺人事件に巻き込まれてモナコで難儀していた筈なのに、急にフォルモサまで戻って来たのね? 何か、急ぎの用事でもあったのかしら?」

 グエン・チ・ホアがスーパーマーケットで買って来た食料品の数々を冷蔵庫の中へと移動させながら、語尾の音程がついつい上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言って問い掛ければ、問い掛けられた始末屋はスツールに浅く腰掛けてうつむいたまま口をつぐんだ。

「……」

 そして遣り場の無い視線と諸々の感情を持て余すかのような格好でもって、空になった茶碗を暫しジッと凝視した後に、ゆっくりと口を開く。

「子供が、女の赤ん坊が、死んだらしい。それもどうやら、その子の母親は、あたしがその子を殺してしまったものと判断していたのだそうだ」

「あら、そうなの?」

 しかしながらそう言ったグエン・チ・ホアの、始末屋の告白に対する反応と返答は、思わず拍子抜けしてしまうほど素っ気無いものであった。

「百戦錬磨の女丈夫として知られたあなたが、今更女の子の一人や二人殺したくらいの事で、どうして感傷的センチメンタルな気分になってしまっているのかしら? そんな事でしたら、むしろ、これまであなたが殺して来た膨大な数の老若男女に対して申し訳が立たないんじゃなくって?」

「依頼の標的ターゲットとして殺された人間には、必然として、殺されるだけの理由が存在する。また同時に依頼を完遂する過程に於いて巻き込まれて死んだ人間は、所詮は偶然、不幸な運命の星の下に生まれて来てしまったと言うだけの事だ。しかしながら、必然でも偶然でもなく殺された人間の死に関しては、あたし個人が責任を負うべきなのではないだろうか」

 始末屋がそう言えば、食料品を冷蔵庫の中へと移動させ終えたグエン・チ・ホアは、深い深い溜息を吐きながら呆れ返らざるを得ない。

「ねえ、始末屋? それって何だか理解出来るような出来ないような、ちょっとばかりおかしな理屈じゃないかしら? だって、そもそもあなたが死に責任を負うべき人間とそうでない人間との線引きは、一体どこの誰が誰の責任でもって執り行えばいいのはっきりしないものね? 違って?」

 そう言って疑問を呈したグエン・チ・ホアの言葉に、やはり始末屋は、空になった茶碗をジッと凝視しながら口をつぐむ。どうやら裏稼業のならず者である彼女の褐色の肌に覆われた逞しい胸にも、今回のアイーダ・サッチャーとの一連のいざこざを経験した事によって、決して看過する事の出来ない複雑な想いが去来したものと思われた。そして再びの沈黙の後にスツールから腰を上げると、始末屋は店舗の奥のキッチンの流し台で茶碗と急須を洗い終えてから、甘い白檀の香りが仄かに漂う『Hoa's Library』の玄関扉の方角へと足を向ける。

「あら? 始末屋ったら、もう帰っちゃうの? せっかくこうして久し振りに顔を合わせた事ですし、もう少しくらい、ゆっくりして行ったらどうかしら? ちょうど新しい蓮花茶を淹れ直してから、買って来たばかりの美味しいベトナムのお茶菓子も用意するところでしてよ?」

「いや、結構だ。自分から来店しておきながらこんな事を言うのも何だが、今はそんな気分じゃない。邪魔したな」

 最後にそう言った始末屋は、黒光りする革靴を履いた足でもって玄関扉を蹴り開け、グエン・チ・ホアが経営する『Hoa's Library』を後にした。そして狭くて暗くて傾斜が急な階段を鈍い飴色に光る木製の手摺の感触を確かめながら駆け下りると、やがて扉の無い雑居ビルの出入り口を潜り抜け、戸外の空気へとその身を晒す。

「涙雨か……」

 雑居ビルから退出した始末屋は暗雲垂れ込める雨空を見上げながらそう言うと、首周りからの雨粒の侵入を少しでも緩和すべく、その身を包む駱駝色のトレンチコートの襟を立て直した。そして常雨都市フォルモサの一角の、伝統的な骨董品や民芸品を扱う店舗が軒を連ねる骨董街を、降りしきる翠雨に濡れるのもいとわぬまま歩き始める。




                                    了

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始末屋繁盛記:the 3rd 大竹久和 @hisakaz

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