第17話 4月26日 5:09

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「おはようございます」


 暁光の差す青空が濃化する頃、生徒会室に御十神みとがみマナセが顔を出した。

 未種学園の北西に位置する第三校舎、その六階に在る高等部生徒会室。左右一対で机が並べられ、その奧には更に厳かな意匠の机が置かれている。その卓上には、『生徒会長』と明記されたネームプレート。


「ええ、おはよう。よく眠れた?」


 猪鹿月いかづき水無月。この部屋で最も厳粛な席に座る彼女は、しかし身に纏う愛嬌で役職名から生じる厳然な雰囲気を悉く中和している。


「はい。お蔭様で」


 釣られる形で、マナセも笑顔で応じる。


「そう、良かったわ。……でも、彼女の方は朝が早過ぎたみたいね」


 微笑む水無月の視線の先――マナセの左腕には、今朝もホグラが確り両腕を絡めている。しかし薔薇色の派手な長髪ほど覇気は無く、ぼんやり眠そうな表情を浮かべていた。

 大人しいホグラを一瞥した水無月に対し、マナセは曖昧な苦笑で答えた。


「何だか、眠れなかったみたいで……」


「そう……。まあ、詮索はしません。ただ、色々と誤解を招きかねないわね……。そうね、ソファに寝かせておきましょうか」


「はい」


 生徒会室から繋がる隣室――応接室には、チークのセンターテーブルを挟んで三人掛けソファが一対置かれている。

 ホグラをソファに座らせ、そのまま身体を横に向け――マナセが手を離す。しかし彼女は彼の服から決して手を放さず、寝言で呻り始めた。


「……ソファに座って話しましょうか」


「……はい。すみません……」


 水無月とマナセは対面でソファに座り、彼の膝を枕にホグラは寝息を立て始めた。


「こうして見ると、普通の女の子なんだけど」


「そうですね」


 マナセが優しく髪を撫でれば、ホグラは喉を鳴らして機嫌の良い寝言を漏らした。


「まあ、これ以上彼女を探った所で――何も成果は得られないでしょうね」


「はい……」


「――それじゃあ、早速だけど昨日の続き。マナセ君に依頼したい事は、物資の生産よ」


「はい」


 トーンを落とし、真面目な声音で水無月が話し始める。聴いたマナセの表情も、自然と引き締まる。


「昨日、既にバケツを造って貰ったけど――一夜明けて、体調はどう?」


「特に、変わった所は何も」


「体重は?」


「昨日の、スキルを使う前と変わってませんでした」


「そう……。……分かったわ。これから先も、お願いするわね」


「はい」


「ありがとう」


 その日、水無月は晴々しい――本当に彼女らしい笑顔を漸く見せた。


「――で、頼みたい物資は日用品よ。保管庫に非常用として備えられていて違和感の無い日用品。下着や歯ブラシ、あと女性用の生理用品ね。他にも、石鹸とかガスボンベとか。……ダメね。挙げたらキリが無いわ」


「それ位なら――」


「ダメよ」


 マナセの言葉を、水無月が強く遮った。


「絶・対・ダ・メ。私が報いられる範囲で。そういう約束でしょ? ――それに、笑顔で信頼されたいんでしょ?」


「はい、すみません……」


『大切なヒトの笑顔を守れる自分に――』


 マナセが、水無月の前で心に誓った言葉。

 他人を笑顔で見守る、という事は難しい。作業する当人の許容量と、外から見る安全のマージンは違う。毎朝七時に出社し、日付が変わる頃に帰宅する。極端な例だが、本人が幾ら大丈夫と訴えた所で家族は当然心配する。

 他人を笑顔で見守る――自分の事を笑顔で見守って貰う為には、相互理解が欠かせない。これ以上は心配する。この程度の量なら身体を壊さない。双方の意見を摺り合わせ、両者が納得した所で――漸く、大切なヒトの笑顔を守れる自分が体現できる。

 しかし得てして男という生物は、自分自身の限界は百二十パーセントだと盲目に信じる悪癖を有する。己に幻想を抱く男の大丈夫は、冷静に現実を見定める女から言わせれば全く大丈夫ではない事が多い。――その意味では、性別を超越した美貌のマナセも男だと言える。


「――ふふ。でも、ありがとう」


 腰に当てていた拳を解き、水無月は優しく微笑んだ。


「本当に、マナセ君は優しいのね。でも、私だって優しい生徒会長って評判なんだから。貴方も、いっぱい頼ってくれていいのよ?」


「あはは……。はい、分かりました」


 マナセも微笑を返す。


「うん。改めて、宜しくね」


「はい。宜しくお願いします」


 水無月が少し身を乗り出す形で、マナセ達二人は再び握手を交わした。


「……――」


「……?」


 マナセの手を握った水無月が、固まった。見れば、頬は暁色より更に朱く染まっている。耳の先まで徐々に染まり――十数秒ほど経過した所で、彼女はハッと息を吹き返した。


「……ご、ごごめんなさい……」


「いえ……」


 慌ててマナセの手を放した水無月は改めてソファに座り――彼と悪手した右手を、また十数秒ほど熱く濡れた瞳で眺めていた。

 その間、微笑を張り付けたマナセは黙って座っていた。


「――……本当に、ごめんね? 昨日から、ちょっと身体が熱くて……。意識もボーッとするし……こんな時に、風邪かしら?」


「……そうですね。以前より朝と夜の寒暖差を強く感じますし、体調に気を付けて下さい」


「……――あ、うん。ありがとう……」


「いえ」


 マナセを見る水無月の目は、まだまだ熱い。しかし彼も剛の者。伊達に、男女の両性から告白を受け続けてきた訳ではない。


「会長。昨日は、ありがとうございました。お陰で助かりました」


「――……昨日?」


「僕に、個別で教室を用意してくれた件です」


「……――ああ、その事ね。構わないわよ。そういう取引だもの」


 マナセを見る水無月の焦点が定まり、紅潮していた表情も落ち着き始める。

 ヒトは、最低でも二種類の仮面を有する。公的な人格、そして私的な人格。知性と理性に優れた人間ほど、このペルソナを意識的・無意識的に深く使い分ける。――その事を、マナセは経験的に理解していた。


「でも、もっと自分の為に我儘を言いなさい」


 生徒会長として調子を取り戻した水無月は、再び腰に丸めた拳を当てる。喜怒哀楽の怒を表すポーズ。しかし隠し切れない愛嬌が邪魔で、威圧感も何も無い。


「四百個近いバケツの報酬が、個人で使える教室って――それ、その娘の為でしょう?」


「……」


 昨日の講堂で、ホグラは全校生徒に鮮烈な印象を与えた。良い意味でも、勿論悪い意味でも。彼女に向けられる事が予想される奇異の目から逃れる為に、彼は避難場所を会長に要求した。


「この娘の安全に対する処置として、マナセ君が言う前から決まっていた事。その事を、貴方は分かった上で要求した。――つまり、そういう事……で、いいのね?」


「……はい」


「まだ出逢って一日でしょう? 急いで決断する事でもないんじゃない? ……それとも、男として情が湧いた?」


 微妙に水無月の語気が鋭い。対するマナセは、常より調子を落とした声で答えた。


「……どうなんでしょう? 分かりません。でも、きっと……寂しかったんだと思います」


「……そう」


 高校入学直前、マナセが母親を亡くした事は――生徒会のメンバーから聞いて水無月も知っていた。

 出逢って一日。しかし、待ち望んで一年。


「分かったわ。それなら――ホグラちゃんの事は、全て任せます。……いいわね?」


「……はい。ありがとうございます」


「礼を言われる事じゃないわ。正直に言えば、私も肩の荷が下りてホッとしてるんだから。正に異次元クラスの問題児だもの、この娘」


「あはは……」


 水無月は肩を竦め、マナセも苦笑を返した。


「――マナセ君。私は、この世界では非力な生徒会長よ。それでも、全校生徒の安全の為に最大限努力しなければならない責任が有る。……残念ながら、私の両手は埋まっている。だけど、貴方はウチの生徒で大事な取引相手。可能な限り便宜を図るわ。――だから、貴方が守ってあげてね。……この娘、きっと未だ子供よ」


「……はい」


 マナセは、再びホグラの髪を撫でた。彼を父と慕う彼女は、無防備な寝顔を晒している。


「……子供、か」


「……?」


 本当に小さく呟いた水無月の様子を訝しみ、マナセは首を傾げた。


「ふふ、何でもないわ。――じゃあ、仕事の話ね。いいかしら?」


「はい」


 次の瞬間には、普段通り優しく優秀な生徒会長。水無月の表情に影は見えず、マナセも素直に頷いた。

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漂流学園 ~御十神マナセは、人類新興のアダム~ 五味はじめ @way7to8

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