第5話

 今日は朝から祖父と井戸周辺を集中的に草抜きし、縁に張りついていた苔も削り落とした。綺麗に整えられた井戸は凛として、蔦を被り葬り去られていた以前の佇まいとはまるで違う。だからといって再び使えるわけではないが、息を吹き返したようで清々しかった。


清一せいいちさーん、下駄ありましたよー!」

 あの日は井戸の中からだったが、今日は井戸の中へ向かって叫ぶ。声は奥へ吸い込まれるだけで当然、返答はない。それでも底の見えない暗がりには、やはり引きずり込まれそうな力があった。覗き込むと、祖父が慌てたように腕を掴んだ。

「ごめん、大丈夫。下駄を」

 祖父から片方だけの下駄を受け取り、もう一度確かめる。鼻緒が紺色の天鵞絨。簡単に見つかる予定が町にはなくて結局、市内まで探しに出た。旧商店街でようやく手に入れた下駄は、桐柾目の高級品だ。台の素材を聞いておけば良かったが、間に合わなかった。

「渡しますよー! 鼻緒はほぐしてありますー!」

 もう一度叫んだあと、下駄をそっと落とす。しかし程なくして響いたのは予想していた水音ではなく、硬く乾いた音だった。

「今の、聞いた? 水の音じゃなかった」

「古い井戸だけえ、とうに枯れとったんかもしれんな。香与子が怪我をせんように、水を張って受け止めてくれたんだろう」

 祖父は感慨深そうに零したあと、手を合わす。だから冬のような冷たさだったのかもしれない。ふと思い出した温度に粟立つ肌を撫でたあと、私も手を合わせた。これでようやく、母親の傍へ行けるだろう。

――そんな親を悲しませるようなことを、してはなりません。

 思い出された言葉に涙が浮かぶ。彼は百年の間、ずっと悔いていたのかもしれない。下駄が原因で命を落とすとは、思っていなかっただろう。まさか母親が、幼い弟を残して自分の後を追うとは。


 洟を啜り、ゆっくりと目を開く。終えた役目に、安堵の息を吐いた。

「ちゃんと届いたかな」

 小さく呟いた時、山から吹き下ろした風が娑羅をさんざめかせる。

「届いたみたいだなあ」

 祖父は答え、少し眩しそうに山の端を眺めた。良かった、と私も山を見上げる。耳には再び、油蝉の声が溢れ始める。

 青々と茂る夏山の清涼な香りを深く吸い込み、頬を伝う涙を拭った。




                         (終)

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誘い水 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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