或いはあなたを愛する人に

文蔵未達

第一話

 長い旅を終え私がたどり着いたその場所は、タイルの床の上に苔が蔓延る不思議な空間だった。

 私はこの場所への道標としてきた線路からホームへとよじのぼり、ついに街の西端に位置する駅へと踏み込む。

「着いた……」

 しばらく前から狭い地下のトンネルを歩いていたせいもあり、まだ地下であることに変わりはないにもかかわらず詰まっていた息がやっとのことで解放できた思いである。

 服についた汚れを手で払いながら周囲を見回す。天井の灯りは全て死んでいるが、どういう訳かそれほど暗くはない。植物が蔓延っているのはその影響だろうか。ここは地下で窓もないはずなのだが……。

 しかし、この街でいちいちそんなことを気にする必要も無い、と割り切って、ふわふわとした苔を踏み締める感覚を味わいながらホームの奥へと歩みを進める。建物の構造はよくわからないが、とりあえず湿気た風が流れてくる方へ向かうことにした。

 どれくらい歩いただろうか。追いかけていた風に乗って、どこからかピアノの奏る音が聞こえてきた。その旋律はゆったりとしたワルツ。今度は風よりも幾分か頼り甲斐のありそうなそれを追って地上へ向かうことにする。

 数分の探索の末に見つけた階段にはやけに強い日差しが差し込んでいた。そのことを訝しみながら登ってみると、どうやら地上部分の建物はほとんど崩壊しているようで、所々欠けた高い壁が四方を囲む空間が残るのみとなっている。地上のタイルに蔓延るのは苔ではなく草花で、かつて観葉植物であったであろう樹木が鉢を突き破り地面に根を下ろしている様子もある。そんな場所の中心で、旋律の主であるピアノはワルツを奏で続けていた。それもひとりでに。

 そのピアノに近づこうとしたとき、ふと腕に何かサラサラとしたものが当たった感触があって思わずその方を見る。すると、青白いクラゲのような生き物が数匹、今出てきた階段の下の暗闇へと戻っていくところであった。彼らが日向から影に入ると、瞬間その姿は見えなくなり、その代わりに暗闇が明るく照らされた。

 私を照らしてくれていたのか、それとも単に縄張りへの侵入者に早く出ていって欲しかったのかはわからないが、私は感謝の意を込めて、彼らが灯す光が見えなくなるまで見送った。

 そしてその間もピアノは音楽を奏でている。いつの間にか曲調は跳ねるように、三拍子から四拍子へと変化し、明るい音楽がかつて駅のロビーであったであろう空間を包んでいた。そしてやはりその奏者は見えない。鍵盤は勝手に上下し、弦を叩き続けている。さらによく見ると光沢のある黒の塗装の上にはツタが侵食し始めていて、すでにまともな音が出るような状態には見えなかった。

 しかしそれでも、その旋律は私を惹きつけるのに十分に魅力的で華やかな音で奏でられている。私はまるで観客席のような形で残された白いベンチに腰をかけて、この場所に来た目的も忘れて聞き入ってしまっていた。

 次に演奏された曲は激しく重い低音から軽い高音へ素早く移動し、テンポも変動的で、前の二曲よりもずっと難易度の高そうな曲であったが、ピアノはおそらく一音のミスもなしにその難曲を演奏してみせている。曲の終盤、華麗なアルペジオを駆け抜け、演奏は力強い和音で閉じられた。

 と、同時に。私の意識の外から拍手する音が聞こえて来くる。驚いて横を見ると、そこには金髪ショートの少女が一人、私と同じようにベンチに腰掛けて奏者のいないピアノを讃えていた。その様子に促され、私も拍手を送る。

「大練習曲六番『主題と変奏』。難題だね。滅多に観客なんて来ないから、彼も力が入ったみたいだ。歳を取っても調子者なところは変わらないね」

「彼? 奏者が見えるんですか?」

 私は驚いて謎の少女に尋ねる。突然現れた彼女の正体よりも、今はそちらの方が気になった。

「まさか、君に見えないなら、私に見える道理はないだろう?」

 しかし、少女からは『何を分かりきったことを』といった様子でそんな答えが返って来ただけであった。ならば『彼』とはどういうことなのだろうか。

「そんなことより、ようこそ。現実と空想と廃墟の街へ。可愛らしい旅人さん」

 私の疑問などそっちのけの様子で歓迎の意を伝える少女。私は奏者の疑問については諦めることにして、代わりに別のことを尋ねる。

「あなたは誰ですか?」

「私? 私はそうだなあ」

 金髪の少女は口に指を当て考え込むそぶりを見せる。何か悩むような難しい質問をしただろうか。ただ普通に名前でも答えてくれればそれでいいのだが。

「この廃都の最後の住人。それか街の守人。或いはこの街を愛する人……」

 私の質問をどう解釈しているのか、少女は自惚れたような言葉を連ねる。その姿を見ていると、もしかすると私の訪ね方が悪かったのだろうかという不安にすらかられた。

「まあそれは置いておいて旅人。私は君を迎えに来たんだ。君の目的地まで案内しよう」

 少女の口から紡がれた予想外の言葉に『へ?』と気の抜けた声を漏らした私を尻目に、謎の少女は私を置いてスタスタと歩いていく。私は迷った挙句、彼女に走って追いついた。

「案内って。私がここに何しに来たか知ってるんですか?」

「まさか。でも、目的もなしにわざわざ遠くからここへきたりはしないだろう? それは推測できる。けど、正確な目的地については、君が教えてくれない限り私はそれを知り得ない。だから案内することもできない」

 少女の言葉に、私は『はあ……』と相槌を打つことしかできなかった。無駄に訳のわからない言い回しを使う人だ。要は『案内してやるから行きたい場所を教えろ』ということなのだろうが、もっと相手を思い遣った会話をしようとは思わないのだろうか。

「案内してくれるなら話しますけど、今はどこへ歩いてるんですか? 目的地、知らないんですよね?」

「それはありがたい。ちなみに今はとりあえず街の中心へ向かってる。君の目的地がどこであれ、こんな街のはずれには何もないからね」

 思っていたよりも理に適った応えに、確かにそうだと納得し、とりあえず彼女の言うことを聞いてみようと肩からかけた皮のカバンからクリップでまとめた原稿用紙の束を取り出した。

「それは、何か書き物?」

「はい、父の遺作です」

「ああ、それは、悲しいことだね」

 その声色にこれまでとは違う感情を捉えて隣の少女の顔を見遣る。吸い込まれそうな黒の瞳が、一瞬閉じられていたように見えた。案外こういうことには気を使える人なのだろうか。どこかおとぎ話に出て来そうな雰囲気の少女に初めて人間味を感じて、少しだけ警戒を解く。

「どうかしたかな?」

「いえ、ただあなたが地下の光る浮遊クラゲとか、不可視のピアノ奏者とか、そういった怪異の類いではないのかと疑っていただけです。もうそんな風には思ってないので安心してください」

 私の言葉に一言『面白いことを言うね』とだけ返すと、少女はさらに先を促す。今度は、その様子から本当に面白いと思っているのか推測することはできなかったが、まあどうでもいいことだと旅の理由の続きを語ることにする。

「この原稿、内容は普通の物語なのですが、最後の数ページだけ抜け落ちているんです。父はどうしても続きを教えてはくれなかったのですが、これは故郷の町に住んでいた頃に書いたもので、引っ越す時に忘れてきてしまったのだとだけ教えてもらっていて――」

「なるほど、それではるばる西の町からここへ来たということだね。つまり、君の目的地はお父さんが住んでいた家、という訳だ」

 私は彼女の言葉を無言で肯定する。しかし、何か引っかかることがあるような気がして、原稿用紙をカバンへと仕舞いながらもう一度彼女の言葉を頭の中で繰り返し、その違和感の正体に気づいた私の手がカバンの中で止まった。

「あの、私、あなたに『西の町から来た』なんて言いましたっけ」

 私は名前すら教えた覚えはないのだが。

「ん?ああ、それはね」

 彼女はそこで言葉を区切ったかたと思うと、駅の壁を越える手前あたりで突然その腕を真横より少し高めの位置へと伸ばした。

「急に何を――」

 やはりおかしな人だったのかと不安になる私の声を、もう片方の手の指を立てて遮る少女。不満に思いながらも口をつぐむことで生まれた静寂は、耳にグラス同士が擦れるような、連続する軽い音を運んできた。そしてその正体を推測するよりも早く、それは私の目に飛び込んでくる。

「……鳥?」

 それも透明なガラスの鳥。突然に現れたように見えたそれだが、よく見ると光の当たり方によって見えたり見えなかったりしている。見つけられなかっただけでずっと近くにいたのかもしれない。

 ガラスの鳥は私たちの頭上を旋回しながら、ゆっくりと高度を落とし、少女が伸ばした手の甲に留まると、そこで毛繕いを始めた。当然毛などないのでガラスの擦れる音が響いただけなのだが。

「さっきも言ったように私はこの街を愛している。そしてまた嬉しいことに、この廃墟と幻想の街も私を愛してくれているんだ。君がこの街に向かっていることも、どっちから来ているのかも、全てこの子が、ひいては街が教えてくれたんだよ。地下の光るクラゲが暗闇を照らしてくれていただろう? あれは私が彼らに頼んだんだ」

 顔の前でガラス鳥を愛でながら自慢げにそう言った少女が、今度はそれを軽く放り投げるようにすると、ガラスの鳥は陽光に煌めきながら、空へと帰っていった。

「さあ、行こうか。君の話はわかった。君のお父さんがここの出身だというなら、あてがある」

 その姿を見送った少女は、また歩き始める。しかし、今の会話のどこに手がかりがあったのだろうか。まだどの辺りに住んでいたのかという情報を尋ねられてすらいない。

「『あて』って。何が分かったんですか?」

 その自信ありげな姿に少し期待を抱いて、私は彼女の背を追いかける。そしてその勢いのままにかつて駅の入り口であったであろう場所を越え、そして目にする。

「ああ、この街は、この街に関わったことがある物事なら全て覚えているよ。君が知りたいことを知っているのなら、この街は確実に応えてくれるだろう。見たまえ、この街はかつての住人たちの空想を覚えていて、それらに満ち溢れている。彼はそういうひとなんだ」

 自信と言うより信頼。まさに愛情というべき感情の宿る言葉と共に、ハグを待つかのようにして両の腕を広げた彼女の視線の先に広がるのは、今は失われた技術で作られた高層ビル群の残骸と、そこに巣食う非現実達。私が目指した廃都の姿。

 傾きつつある陽光をビルのガラスが反射し煌めく空の中、そこを泳いでいた大きな錦の金魚が、何の予兆もなく建物の影から現れたさらに大きな龍に一飲みにされる。そして金魚を喰らった龍は雲の上に登る途中で霧散して消えた。

 この街がそう言う場所なのは知っていた。だが、まさかこんなにも壮大だとは。

「とりあえず、このまま街の中心まで歩こう」

 呆気に取られていた私は、少女の声にハッと気づいてその背を追う。

 私は歩きながら周囲の様子を観察した。駅の周囲にはほとんど何も残っていなかったが、中心部らしい高いビルがあるあたりの外周は、民家や数階建の小さなビルが並ぶ街並みである。あの程度なら今の技術でも建てられないことはないだろう。現に私が生まれた街の建物の中にも、あんな風な物があった。

「街が応えてくれるって、具体的にどうするんですか? まさかビルに向かって願い事をしろなんて言わないでしょう? 」

「鍵嬢を探すんだ」

「カギジョウ? それは何ですか?」

 聞きなれない単語の意味がわからず、彼女に尋ねる。

「鍵嬢は、君の言う『怪異の類』だよ。彼女はこの街のありとあらゆる扉とその鍵を管理している。要するに、彼女を見つければ、君の目的地も見つかったも同然だ。ただ……」

「ただ?」

「最近姿が見えなくてね。もうしばらくすればまた戻ってくると思うんだが、それがいつになるかは私にもわからない。この街もそれだけは教えてくれないんだ」

 それを聞いて、期待からか自分でも気づかないうちに力が入っていた肩を落とす。ほとんど見つかったような気になってしまっていただけあって、裏切られたような感覚である。

「まあまあ、そんなに落ち込まないで。そろそろ時期だから、待っても数日だよ。帰ってきたらすぐに迎えられる場所で待っていよう」

 確かに、そこまで悲しむことでもないのだろう。『時期』というのがいつを表すのかはわからないが、彼女の言葉を信じるのなら近いうちに確実に父の家を訪れることができるわけである。元はと言えば何週間もかけて探す予定だったことを考えればむしろ喜ぶべきなのだろう。

「とは言っても、結局街の中心までは歩かなくてはいけない。それまで何か話をしようか」

「話すって、何について話すんですか?」

 気を取り直した私がそう尋ねると、彼女は『そうだね……』と考えるそぶりを見せた。しばらくそのまま悩んでいたが、何か思いついたのか、不意に『ぽんっ』と手を叩いてこちらに顔を向けてくる。

「君のお父さんの作品。あれはどんなお話なのかな?」

 私は少女の言葉に少しだけ驚く。彼女のことだから、どうしようもなく訳のわからないことでも話題に挙げてくるのかと思っていたのだが、身構えていた分肩透かしを食らった気分である。

 とは言え、確かにそれなら暇を潰すのにもちょうどいいかもしれない。そう思い。私は彼女の隣で少し上を見上げながら口を開いた。

「機械仕掛けの少女のお話です」

 視線の先にその少女の姿が見えるほどには、私はこの物語を幾度も読んでいた。

「少女と少女を造った科学者は愛し合っていましたが。その裏で科学者は少女の未来を憂いでいました。自分が死んだ後、寿命の無い少女が孤独になると思っていたからです。しかし、そうはなりませんでした」

 隣の少女は黙って話を聞いている。その様子を見て、私は言葉を続ける。

「孤独になったのは科学者の方でした。少女に不具合が生じ、壊れてしまったからです。科学者は自分の愚かさを嘆きました。もっとできることがあったのではないかと。彼女の未来を案じること以外に、限られた時間に使い道があったのではないかと。そして同時に、自分の傲慢さを知りました。勝手に少女を生み出して、己が孤独を埋めてもらっていながら、勝手にその将来を憂いで、自分が与える側であるかのように思い込んでいたことを恥じました。そして……」

「そして?」

「ここで物語は途切れています」

 先が気になったのか、続きを促してきた少女に事実を伝えると、少女はその整った顔を不満そうな形にした。

「こんなことを言うのも何だけど。君のお父さんはなかなかいい性格をしているね。そんなところから先を置いてきてしまうなんて、悪意すら感じるよ」

「人の親によくそんなことが言えますね……。まあ同感ですが」

 確かにここから先を忘れてくるくらいならば全部無くしておいて欲しかった。生まれて初めて故郷を離れ、長旅をしてこの街に来るほどには続きが気になって仕方がなかったのだ。それにどういうわけか、父は決して続きを私に話してはくれなかった。

「まあ、それはいいとして」

 その言葉とともに腕を伸ばして私を静止する少女。何かあったのだろうか。

「っ!?」

 と思った次の瞬間。目の前の交差点を横切る形で、死角からとんでもない勢いで茶色い何かが飛び出してきた。

「君は本当に、その物語の続きを見つけてもいいの? 」

 私がそれを巨大な猪であったと理解するよりも早く、特に驚いた様子でもない少女はそう口にする。

 驚きから覚めた後、あまりの出来事に理解できなかった彼女の言葉を飲み込み、そしてそれでもなお理解できずに私は首を傾げた。今更何を言い出すのか。それを見つけるためにここまできたのだが。

「だってその物語は。君が続きを見つけることでバットエンドを迎えてしまうかもしれないよ」

「――!」

 その言葉で私は初めてその可能性に気づいてしまう。

 幾度も物語の続きを想像した。それでも無意識のうちに、誰も救われないという可能性を頭から弾き出していたことに、彼女に言われて初めて気がついた。

「科学者は孤独に耐えられず自ら命を経ってしまうかもしれない。少女を蘇らせようとして禁忌を犯すかもしれない。彼の未来には不幸しか訪れないかもしれない。そして続きを読まなければそれ以外の全ての道すら開かれているとすれば。それでも君は、物語の続きを読みたいのかい?」

 彼女が口にした可能性が映像になって頭を巡る。彼らに明るい未来が訪れないとすれば。彼らが救われないとすれば。私はそんな未来を知りたいのだろうか。父が私に物語の続きを語らなかった理由が、悲惨な結末を娘に伝えたくなかったからなのではないだろうか。

「もう一度考えてみるといいよ。君が何をしにここにきたのか。君が知らないことは、私にはわからない」

 そう言って、何事もなかったかのように歩き始める彼女の少し後ろを遅れて歩きながら考えていたが。私の思考は形になることはなく、ただ漠然とした不安が心の奥底に残っただけであった。

 そのままどれくらい歩いたか。周囲の建物は高さを増し始め、街の中心に近づいていることが目に見えてわかる。そしてさらに、進むにつれて街の怪異達と出会う回数は増えていった。何度も出会って気づいたが、怪異達はガラスの体を持つ物と普通の体を持つ者とに分かれている。そのことについて彼女に尋ねてみると、ガラス製の怪異達はまだ生まれてそれほど時間が経っていないものだと言う。どうやら彼らも歳を取るようである。ならば、死に行く者達もいるのだろうか。

 そんなことを考えながら、ちょうど電信を伝って高速移動する、彼女がデンシンバシリなんて名前で呼んでいたスパークの塊を見送っていたところだった。

「君は運が良いね、ランタン行列だよ」

 疲れているわけではないのに、次第に重くなり始める歩調で歩きながら彼女にそう言われた時、空はすでに夜に染まり始めていた。高いビルに囲まれていて見ることは叶わないが、西の地平線では太陽がもう沈んでいるだろう。

 そして私は、その暗がりの中に幾つもの灯りが揺らいでいるのを見つける。目を凝らして見てみれば、その正体が数十個のランタンの群れであることがわかった。ランタン達は揺れながら私たちの方へと漂ってきたかと思うと、奥の路地へと吸い込まれるようにして流れていく。

「あれは?」

「この街一番のイベントだよ。鍵嬢も帰ってくる。行こう」

 そう言い終わるか終わらないうちに突如私の手を引こうとする彼女。しかし私の足はついていかなかった。そのことに驚いたのか。少女は丸くなった目で私を見ている。

 そうしようと意識したわけでもないのにそうなったことに自分でも一瞬驚き、そして理解する。自分の頭の中では未だに出ていない答えだが、無意識に起こったこの行動から察するに、私は――。

「行きたく……ない」

 『この先へ進んでしまうことで苦しい未来を見ることになるのなら、私はこのまま何も知らずに帰ってしまいたい。』きっとそういうことなのだろう。その思いが、私の足をアスファルトの地面に縫い付けているのだ。

 私はなんだか後ろめたい気持ちになって、彼女から目をそらす。しかし、ここまで案内してもらっていて申し訳ないとは思うのだが、それでも引き返したいという思いの方が勝っていた。大好きな物語が、父が私に残してくれた最後のつながりが、暗い結末を迎えてしまうことによって好きでいられなくなるかもしれないということがどうしようもなく怖かった。

 視界の端で、彼女の口が開く。責められるだろうか。だがそれでも、私は……。

「ああ。それはまだ、決めなくていいよ」

「え?」

 少女が放った言葉は、意外にもそんなものだった。てっきり不満の一つ二つ言われるものだと覚悟していただけに驚いてしまう。

「私がつれて行くのは直前まで、そこからどうするかは、その時君が決めればいい。でも、その場所で見える景色だけはどうしても見て欲しいんだ」

 彼女は私の顔を見つめている。

 その瞳があまりにも真剣で、彼女がそこまでして私に見せたいものとは何なのか、という微かな好奇心が芽生えてしまう。

「行こう。どうせ、帰るにしてももう夜だ。すぐに出発というわけにもいかないだろう?」

 それを見計らってか、少女はもう一度私の手を強く引く。すると今度は私の足はしっかりと前に進んだ。

「急ぐよ。間に合わなくなる」

「走るんですか!?」

 次の瞬間、少女は私の手を引いて駆け出した。私は想像よりもずっと速く走る彼女のせいで転びそうになりながら、どこに向かっているのかもわからず必死に足を動かす。ふと、視界の端に明るいものが目に映ってその方に目をやると、今追いつこうとしているランタン達とは別に、孤立したそれが群れの中に吸い込まれていくところだった。いや、それだけではない。左右、上空、気付けば無数のランタン達が街のあちこちから群れに加わろうと集まってきていた。

 野良ランタン達に囲まれながら、やっとの想いで群れに追いついて並走する。

 間近で見て初めて気づいたが、ランタンの周囲にはその明かりに照らされて、主人の見当たらない影が無数にできていた。しかもそれらは形も大きさも一様ではなく、ランタンのサイズからは想像できない大きさのもの、小ささのものまで見つけられる。駅のピアノ奏者の類いなのだろうか。

 何はともあれ、追いついてしまえば少しは休める。そう思ったのだが、少女はなぜか全く速度を緩めることはなく、列の先頭のランタンを抜いてもなおその足は止まらない。

「追い抜いてしまいましたよ!」

「大丈夫。あれは全体の極一部。本流はもう中心で集結し始めてる」

 私の言葉を無視し、なおも走り続ける少女。彼女の言葉通り、角を曲がるたびに大きな集団と出会い、進めば進むほど一個の集団のランタンの量は増えていく。

「高い場所の方がよく見える。登るよ」

 その灯りに見惚れる余裕もないほどに走っていると、今度は急に右側に引かれて腕が抜けそうになる感覚と共に、道路沿いのビルの中へと連れ込まれた。

「もう、疲れたん、ですけど!」

 悲鳴と怨嗟の声が入り混じる私の声が聞こえていないのか、わざとに無視しているのか。どちらにせよ彼女に私の意思を汲み取る気はないようで、目の前に階段が現れた時には諦める以外の方法は無かった。

「後少しだ、頑張ってくれ!」

 真剣な声で叫ぶ少女。彼女も疲れていないわけではないだろうに、何かに突き動かされるかのように駆けている。どうしてこの人は、ここまでして走るのだろうか。そこまでして一体何を見せたいというのだろうか。今はその疑問が好奇心となり、私の足を動かしていた。

「つい、た」

 七階分の階段を上り切り、彼女がそう宣言した時、私はすぐにその場にへたり込んでしまいそうになったのだが、目の前に広がった景色がそうさせてはくれなかった。私の目についたのは、もちろん天井の一部ごと崩壊して広いベランダのようになったビルの壁ではなく、そこから入ってくる不自然な明るさであった。その光に吸い込まれるようにして、私は壁に開いた大穴へと近づき、そして息を呑む。

 眼下に広がっていたのは赤い灯火が作り出した幾本もの大河であった。街の四方から寄り集まったランタンの灯は、幾度も合流を繰り返して何千何万とも知れない大群を作り、ある一箇所を目指して移動していた。その場所とは、どうやら私たちのいるビルのすぐ下、大きな交差点の中央に開いた大穴のようであった。穴は何か光る液体のようなもので満たされていて、絶えずシャラシャラという音を鳴らしている。あれは……細かなガラスの破片だろうか?

「すごい……」

「まだ、ここからだよ」

 あまりの光景に魅せられてそんな言葉しか出てこない私の隣で囁くようにそう言う少女。その見つめる先で、ランタンの先頭が穴のある交差点にたどり着いていた。ここからどうするというのだろうか。そう思ったの次の瞬間のことである。

 ランタンは大穴の縁に達したかと思うと、躊躇う様子も見せることなくその中へ沈んでいった。後続のもの達もそれに続いていく。

 すると、それまで大穴の中でただ渦巻いているだけだったガラス片の水面が、幾つもの小さな輝く球体を作り始めた。最初のうち、水面に浮かんでいたそれは、ある時そこを離れ、空中に浮かび上がる。一つ二つ、三つ四つ。十、二十。百。千。と瞬く間に数を増やした光の球体は、私たちの目の前にも昇ってきた。直径は掌いっぱい分ほどだろうか。それはさらに上昇を続け、遥か上空に達すると今度は街の四方へと飛び去っていく。

「これは、何が起こって……」

「生まれ変わりだよ。古くなった空想は混ざり合って新たな空想へと形を変える。この光達は街のあちこちに散らばって、そこで新たに芽吹くんだ。そしてそのためにあるのがこの場所。あのガラスの泉はこの街がこの街であるための心臓なんだろうね」

 その声を聞きながら、私は彼女の言葉を思い出していた。

「現実と、空想と、廃墟の街……」

 かつて人の営みがあった街、そして今は、幻想達のための廃都。彼女が私にした説明は、確かにこの街を捉えていた。そしてそれらが織りなすこの街は、ひどく美しい。

「あなたがこの街に恋する気持ちも、分からなくはないです」

 少女は私の声を聞いて、『ふふ』と含んだ声で笑った。

「私は、現実と空想というのは、互いに近い位置にいると思うんだ。君のお父さんが書いた物語は君をこの街まで導いた。そして今君は、物語の中の人たちを想い真実を知ることを躊躇っている。同じように、この街に巣食った空想たちも、かつては誰かの中にあった物語だった。この街で起っていることと、今君の周りで起こっていることとの間に大きな差はなくて、私はそんなありふれた現象が愛おしくて仕方がない。だから私は、君をここまで導いたんだ」

 私たちの目の前で、一塊のガラス球達が一斉にガラスの小鳥へと変わってそのまま飛び去っていった。

「あなたの恋人を自慢したかっただけではなかったのですか?」

 その行方を眺めながら、私は冗談めかして少女に尋ねる。

「まあ、それもあるね」

 その言葉を最後に、私たちの間に心地の良い沈黙が流れた。その静けさは、頭の中の黒い靄を払い、思考を整理するのにうってつけであった。

 私は未だに生まれては空へと昇っていく灯りを見ながら呟く。

「誰かの空想がこうやって形になるのなら、私の描いた都合のいい結末も、この街は覚えていてくれるのでしょうか」

 私は物語の結末が知りたい。だが、救いがないというのは恐ろしい。もし、仮に物語が暗い終わりを迎えた時、せめて何か救いがあるのなら、私はきっと――。

「もちろん」

 彼女が返すのは私の胸に希望を宿すほど力強い肯定。

「君が知っていることは、すべてこの街が覚えているよ」

 そう言って笑う少女の手元に、ふわりと訪れたガラス球が一つあった。それは他と違って、一向に空へと昇る気配はない。どうしたのかと様子を伺っていると、隣の少女は『手を』と促してきた。言われたように球を掬うような形で手を差し出すと、突如掌の上に、ひんやりとした感覚と小さな重みを感じた。

「ありがとう鍵嬢。もう行っていいよ」

 その声を聞き入れたのか、頷くように小さく上下に動いたかと思うと、他の光達を追って上昇を再開した。

「嬢なんて呼び方するから、人の形をしていると思っていたのですが」

「ふふ、彼女はまだ生まれたばかりだからね。すぐに人間味のかけらもない機械みたいな少女になるよ。それが彼女達の在り方だからね。行きたい場所がある人にそこにつながる鍵を与える。そのためだけに生まれた者達だ。それよりも、もう手段は手に入ったわけだけど、君はどうするのかな?」

 言われて思い出して見てみると、私の手の上にあったのは、金属製の小さな鍵のようなものであった。それが鍵であると言い切れないのには理由があって、普通鍵穴と噛み合わせるためにあるはずの複雑な突起がこの金属には一つもなく、持ち手から伸びるのはただの円柱である。

「彼女らの渡す鍵は、この街のどの扉にも使える。行くのなら、そこの扉で試してみるといい」

 彼女が指差した先には、開くのかどうかも怪しく思えるほどに錆で覆われた鉄の扉があった。

 私が半信半疑のままその扉の前まで近づくいてよくみると、最初からあったのか、今現れたのかは分からないが、小さな穴が現れていて、試しに鍵をあてがってみると、穴のサイズはピッタリであった。

 私はそのまま鍵を押し込む。

 すると、中で何が起こっているのか。カチャカチャという音がしばらく続いた後、最後に『ガチャリ』と、まるで鍵を開けた時のような音がした。

 振り返ってみると、少女は私の方を見て頷いている。それを見てドアノブを回してみると、確かに扉が開錠された状態であることがわかった。

 彼女の言葉を信じるのなら、この先に父の部屋があるのだろう。

「これで良いのかな」

 私が背中越しに少女に投げかけた言葉は自分の中でも響く。

「それは君がその扉の先で確かめてくるといい。知らないことは分からないよ」

 その言葉に背中を押され、私はドアノブを回した。

 

 その部屋には、机と、数枚の原稿用紙と、一通の手紙らしき封筒があった。いや、それしか無かった。十畳の畳の上に、たったそれだけのものしか無いのだ。

 引っ越した後なので当たり前と言えば当たり前なのだが、ならばどうしてこれらは残っているのだろうか。いや、その前にここは本当に父の部屋なのだろうか。

 その疑問を解消したのは、手紙の方であった。

「私の、名前……!」

 閉じられた封筒の隅に、達筆な文字で確かに私の名前が書かれている。よく見知った、父の字だった。

 私はそれを恐る恐る手に取り、封を切る。仄かな紙とインクの香りともに現れた父の手紙は、こう始まっていた。

 『愛する私の娘へ』

 間違いない。これを書いたのは父だ。

 その確信を持って、心臓を高鳴らせながら本文を読み始める。

 『あなたがこれを読んでいるとき、それがいつであろうと、私はすでに死んでいて、そしてさらに私の画策は功を奏した後だろう。君は私の部屋で見つけた中途半端な物語の続きを求めて旅をしたに違いない。そしてこの素晴らしい街を探索しただろう。さて、これだけでも私としては満足なのだが、あなたは私が最後に書いた物語の続きを何通りも考えるほどに知りたがっていて、そして今、その答えは君の手元にある。だが、それを読むにあたってお願いがある。どうかあなたが思い描いた全ての可能性を否定しないでほしい。なぜなら君が描く全ての物語は、あの科学者や鉄の少女達に訪れたかもしれない未来で、私はその一つを選んで描いたに過ぎないからだ。そしてその上で、私の選んだ答えを覗いてほしいのだ。私が選んだものを見て、あなたが選んだものの尊さを感じてほしいのだ』

 父の、父としての最後の言葉を読み終え、飲み込み、私はそれを大切にカバンの中にしまった。

 物語の最後の数ページは机の上で読まれるのを待っている。

 思えば親孝行らしいこともできなかった。これで許してくれるだろうか。実の娘を手玉に取るような傲慢な父だ、もっとたくさんのことを望むのかもしれない。が、今できるのは、ただ父の選んだ結末を見ることだけだ。そのために私はここへ来たのだ。

 私は長い時間をかけてそれを読んだ。何度も、何度も。

 持っていた分と合わせて一言一句を心に焼き付けるように読んだ。

 

「どうだった? 物語の続きは」

 私が部屋を出てきたのを見た少女の一言目はそれだった。外はしんと静まり返っていて、あのランタンの騒ぎも収まったのだと知る。灯火が照らしていた夜空は、今は星明かりに包まれていた。

「とても、優しい終幕でしたよ。私が想像したのと同じくらい」

「それはよかった」

 私はそう言う少女の隣に座った。

「今からあなたにも読んであげますよ。私の大切な物語を」

 その言葉に、『それは楽しみだね』と寝転んで空に浮かぶ星を見上げながら笑う少女の姿を見て、私はふと思う。

 たとえば彼女なら、この物語を読んで何を思うのだろうか。

「あなた、名前はなんと言うんですか?」

 それを聞くための第一歩として、私は尋ねる。今度は教えてくれるだろうか。

「あれ? 言ってなかったかな。私の名前は――」

 その夜。知らない少女は私の友人となった。

 いつか彼女は、私にとって大切な人の一人になるのかもしれない。父にとっての私のように、彼女にとってのこの街のように。或いは、そう。私が、彼女の愛する人に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

或いはあなたを愛する人に 文蔵未達 @ayakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る