リセット・キス
佐古間
リセット・キス
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。意味が理解できなくて、はぁ? とは口から零れた声だった。
何の変哲もない朝だった。ルームメイトのチカは下手くそな手つきで焼き鮭を解しているし、隣室のアキラとルカは今日も賑やかに喧嘩をしている。困惑したのは私だけだったようで、チカが怪訝な顔をこちらに向けた。
「なに、気づいてなかったの?」
言いながら、諦めたチカが鮭の皿をぐっと寄せた。箸使いが下手なチカは特に魚を食べることが苦手で、食事に魚が出るたび私に「解して」と皿を渡した。初めて見た時、七歳下の妹よりも下手な手つきにハラハラとして、思わず手を出したのがいけなかった。味を占めたチカは毎度私に頼むので、一向に魚を食べるのが上手にならない。そして私も、チカに頼られるとどうも断れずに引き受けてしまう悪癖があった。
「気づいてなかったっていうか……気づいてなかった」
「気づいてなかったんじゃん」
寄越された皿を受け取って、ぼんやりと答える。あと七日、一週間後には世界が終わってしまうらしい。知っていたことだが、知らなかったというか、“七日後”だとは思っていなかったのだ。
「いや、だって、学期末試験あったし……あと七日なら試験する必要なくない!? リセット後記憶保有率って五十パーセントくらいでしょ」
問えば、隣に座っていたアキラが呆れた様子で「バカだねぇ」とからから笑った。一瞬前までルカと洗濯物の畳み方について喧嘩をしていたはずだが、こちらの話も聞いていたらしい。アキラが笑うのに合わせて、ルカもまたうんうん、と頷いた。しょっちゅう喧嘩をしているが、この二人はなんだかんだと気が合うのだ。
「習ったでしょ、リセット後の記憶保有率と、リセット前に会得した知識技能の引き継ぎは関係ないって」
そういえば、習ったような気もする。習わなかったような気もする。盛大に顔を歪めた私を見て、チカが「まあユキだしね」と肩を竦めた。ユキだしね、で片付けられてしまうのも悲しい。
「それよりあんたいいの?」
「いいって、何が?」
「ヒカル先輩」
反論できないので仕方なくチカの鮭に向き直っていると、思い出したようにチカが問うた。ヒカル先輩、と名前を出されて、何かあっただろうかと首を傾げる。傾げた瞬間、電撃が走ったように思い出した。
「っあああ!?」
ヒカル先輩!
叫んだ声は食堂に響き渡ったが、学年専用の食堂なので一つ上のヒカル先輩には届いていない、はずである。あるいは届いていたほうがよかったかもしれない。それならこの場で終わらせたのだけど。
呆れた様子でチカが笑った。あんまり私が情けないので、少し疲れた笑みだった。
「早くしないと、あと七日なんだから」
うん、と頷き皿を戻した。綺麗に鮭が解れている。食べやすいよう骨と身と分けられた鮭を見て、チカが何ともいえない表情をした。
「魚の身を解すのは、昔から上手いのにね」
何だ、急に褒めないでよ、と笑ってやれば、褒めてない、と怒られた。
人類が「リセット方式」を採用してからそろそろ千年の大台に乗ろうとしている。
高次生命体とやらにあこがれた遥か昔の人類は、自分たちの進化に限界を覚えてマザーと呼ばれる機械を生み出した。マザーによって人体を情報化することに成功した人類は、“魂”を限界ギリギリまで成長させたら、高次生命体への進化の道が開けるのではないかと考えた。
そこで生み出されたのが「リセット方式」である。人類、一人ひとりの人生について、一定期間を経ると「終わり」が来るようにして、次の人生をリスタートさせることにしたのだ。若く、情報吸収が良い時代を生きさせて、その情報を得たまま肉体をリセットさせる――と、魂に記憶・知識・技能が蓄積されてゆき、進化へと繋がるのだそうだ。詳しい原理は知らないが、当時の学者はそのような結論を出し、方法を確立させた。
“リセットされる日”はマザーによって定められているけれど、“リセットされる人”は生まれたときにランダムで設定されていて、生きられる期間はマザーに照会することで確認できる。記憶・知識・技能を蓄積することが目的なので、十五年未満でリセットされることはないが、人によっては五十年生きることもあるし、十五年ぴったりでリセットされる人もいる。時代ごとに色々な方法が試されたけど、結局「リセットのタイミングが同じ人」同士でコミュニティを形成するのが最も摩擦が少ないとかで、私の周囲には私と同じタイミングでリセットされる人しかいない。一定年齢を超えると親元を離れ集まるこの場所を、私たちは「リセットコミュニティ」と呼んでいる。
ヒカル先輩は、私より一つ年上で、運命の人だった。
すらっとした体型に見合うように手足も長く、ふわふわの茶髪は柔らかそうで、いつも触ってみたいと思っていた。少しつり目の瞳は大きくて、薄いブラウンはよく磨かれた鉱石みたいな透明度を持っている。とてもきれいなお顔をしているのに、無表情か、困った顔か、少し眉間に皺を寄せる表情ばかりで、だからたまに見る笑みがとてもとても可愛らしい。
朝食終わりから授業開始までの時間と、お昼休憩と、放課後帰寮時間までの間、校舎裏のベンチにいることが多いので、私もよくご一緒させていただいていた。ヒカル先輩はファンも多いが、私は先輩の運命の人なので、ファンに何か言われることはない。先輩自身も、私がしょっちゅう現れる事に、文句を言うことはなかった。
「先輩、ヒカル先輩」
“リセット日”まであと七日らしいので。
授業の数が少しだけ減っていた。時間割に気づかなかった私はやっぱり“ユキだしね”と言われて仕方がないのだろう。約千年前から始まった「リセット方式」のおかげで、私自身にも記憶・知識・技能の蓄積はあるはずなのだけれど。劣化個体と診断されているので、こればかりはしょうがない、し、個性の一つだと思っている。
午前中はまるまる休みだ。今日も校舎裏のベンチで本を読んでいた先輩を見つけて、声をかける。先輩はちらりと顔を上げると、あからさまに「うっ」と困った声を上げた。
「ユキ……その顔は、気づいたのか」
気づいたのか、なんて、随分な言い方だ。それではまるで、私が「あと七日」だということに気づいていないことを、黙って見ていたことになる。まるでもなにも、きっとそうなのだろうけど。
「気づきました! なので先輩、さくっとちゃちゃっとしてほしいです」
ん、と、唇を尖らせた。先輩は困った顔をして、「そうは言ってもね、」と身を引いた。
嫌がるくせに、先輩は私から逃げようとしない。嫌がっているわけではないと思うのだけど。
「そんなに嫌ですか、私とキス」
キス。先輩の唇が小さく震えて繰り返した。瞬間、ぶわ、と先輩の顔が真っ赤になったのを、私は何とも言えない気持ちで眺めていた。
運命の人、というのは、古典小説で見られたような比喩的な表現ではなくて、私たちの魂にはそういうシステムが組み込まれている。詳しいことはよく覚えていない。とにかく、私の「運命の人」はヒカル先輩で、ヒカル先輩の「運命の人」は私である、と、マザーによって定められていた。そして、「運命の人」を必要とするのは、劣化個体だけだ。
簡単に言えば、私は本来持っているべき以前の人生の知識・技能を正常に表出できていない。多くの人がほんの小さなころから幾つも言語を操り、難解な数式を解いて、難しい古典小説を読むのに対し、私は原初の人類と同じように、何も持っていなかった。
たまに、こういう「劣化個体」が発生するらしく、その頻度は年々増えているらしい。一度起こると次から発症しやすくなるらしく、次の人生でも、私の魂は劣化個体になる確率の方が高いと言われた。
劣化個体とはいえ、魂に蓄積されたものが消えてしまったわけではない。私のような劣化個体は、蓄積している記憶・知識・技能をうまく“思い出せていない”だけで、それらが魂の奥深く、頑丈なカギをかけられてしまわれている状態である。それを開けるカギこそが、「運命の人」システムだった。以前の人生か、さらにその前の人生か、とにかく魂の結びつきが強い人が、「運命の人」になりやすいのだそう。
なので、運命の人と言っても私とヒカル先輩の間にロマンチックな関係は何もなく、私にとってヒカル先輩は能力を開けるためのカギにすぎなかった。キス、は、つまり、カギを開ける行為の事だ。
(相変わらず純粋だなあ)
そして可愛らしい人だなあ、と、一瞬癒される。ヒカル先輩だってそのことを理解しているのに、どうしても「キス」を恥ずかしいと思ってしまうらしい。
「その、君と、しなきゃいけないのは分かってる……分かってるんだけど……」
「そうですよね。あと七日ですもん。あと七日の間にキスできないと、私、次は九十八パーセントの確率で劣化個体な上に、今生の情報をなーんにも持っていけないんですって」
そんなの嫌です、ときっぱり告げる。ヒカル先輩は困ったように眉尻を下げた。
分かってるんだけど、と、曖昧に口が歪む。ああだこうだと言い訳をしてキスしないのは、“分かっていない”のだと思うのだけど。ぐ、と顔を寄せると、先輩はますます困った顔をした。
「ユキ、ユキちゃん、こう、これでも一応、その、」
「なんですか、まだるっこしい」
するんですか、しないんですか、と、二択を迫れば先輩は面白いほど視線をうろつかせ、やがて観念したように私の両肩に手を置いた。やっとキスができるな、と、身構えた瞬間、そっと体を離される。またか。
「先輩……」
「その、せっかくなら、ちゃんと、そう。ちゃんとしたいから、今晩、ここに来てくれない?」
じっと先輩の瞳を見つめる。薄いブラウン、透明な色。不安が見えるような気もしたが、嘘はついていなさそう。「仕方ないですね」と肩を落とした。
「絶対、絶対約束ですよ。今晩、九時くらいでいいですか?」
「それでいい」
すっと小指を差し出せば、先輩はまぶしそうな顔をして自分の指をそっと絡めた。ゆびきりげんまん。一緒に歌を歌って、絡めた指を切るように離す。
「嘘ついたら針千本ですからね!」
また、お預けされてしまったけれど、仕方がない。今晩キスしてくれるなら、それを楽しみにすればいい。
それで、頭上からベルの音が聞こえてくる。昼食の時間だ。約束をしているので、チカが食堂の前で待っているだろう。
「先輩はお昼どうします?」
「いや、少しずらして行く」
「そうですか。それじゃあ」
またあとで、と立ち上がる。先輩はじっと私の事を見ていたようだが、言葉の通り後をついてくることはなかった。ただ何とはなしに、何かもの言いたげな視線を感じて、ちらりと先輩を振り返る。
じっと、私を見る先輩は、視線が交わったはずなのに、まるで私ではない何かを見ているような視線で――少しだけ、気持ちが落ちる。
その、視線は見なかったことにした。
帰寮時間は夕方六時。帰寮時間、と言っても、寮で点呼があるわけではなく、単に校舎の立ち入りが禁止される時間なだけだ。禁止されるのは校舎内だけで、外の敷地は特に制限もされていないので、夜更かしの生徒はたまに夜の散歩をしている。
寮も寮で、一応の消灯時間は設定されているものの、館内の電気が消されるというだけで特に動き回っても問題はない。ただ消灯時間を過ぎると物音厳禁になるので、行動したいのなら静かに動かなければならなかった。また「夜は寝たほうが良い」という絶対的な経験を持っているので、基本的には消灯時間を合図に寝る人ばかりだ。夜十時を過ぎると、なので寮内は驚くほど静かになる。
九時少し前、ルームメイトのチカはもう就寝準備を始めていた。ヒカル先輩と夜の散歩に行くのだと言えば、チカは眠そうに欠伸をこぼして夜更かししないようにね、と注意をくれた。夜の散歩、と言っても、実際にはきっと校舎裏で待ち合わせて、事務的にキスをして、それで解散の予定。消灯時間には間に合うかなと計算していたけれど、チカは「どうだろうねえ」と含みのある言い方をした。
「まあなんでもいいけど。ユキ、あんたって、それが初めてだっけ」
ナイトキャップを被ったチカがふと問うてくる。初めて、と、言葉の意味を解し損ねて首を傾げた。
「何が?」
「いや、キスよ、キス。先輩は運命の人だから、先輩とキスしなきゃいけないのは理解してるけど。初めてがそれって、ちょっと嫌じゃない?」
そんな、チカは少し面白いことを言う。私は首を傾げたまま、「初めてとかなくない?」とごくごく単純に問いかけた。
「そりゃあ、私には前世の記憶が不完全だけど。あるってことは知ってるよ。で、前世の私ならキスの一つや二つくらいしてるだろうし、たとえ前世でしてなくっても、その前にしてるでしょ。それってホントに“初めて”じゃなくない?」
チカが不服そうな表情をする。それから、「まあ逆にあんたみたいなのはそうなのかもね」と肩を竦めた。
「どういうこと?」
「記憶があればあるほど、前世と今は違うって、ちゃんと理解できるものよ」
何度も繰り返してるならなおのこと、とチカは付け足した。一回一回の大切さがわかるものよ、と。私はそんなものか、と曖昧に頷いて、そろそろ行こうと上着をとった。
「それじゃあ」
行ってくるね、と。振り返りざまに、チカがひょいと首を伸ばす。
軽いリップ音がして、目の前いっぱいにチカの顔が現れる。一瞬、何をされたのか分からなくて、唇に生暖かい感触だけが残った。すぐに離れたチカは、少しだけ不器用に口角を上げた。無理やり笑ってる時の顔だ、気づいたが指摘ができない。なんでそんなことをしたのか理解できなくて、瞬きをひとつ。
「……じゃ、あんたの初めて、先に貰っとく」
「……事後報告じゃん」
まるで宣言のような調子だったが、既に貰われてしまった後である。理由を聞いてみたかったが、チカの方が「おやすみ」と背を向けてしまったのでそれは叶わなかった。消灯時間までもう少し時間があるが、寝てしまうことにしたらしい。
「うん……おやすみ」
それから、行ってきます、と続けて部屋を後にする。胸中に何かもやりとしたものが渦巻いたが、そのもやを探ることができないまま。
私が「劣化個体」じゃなければ、このよくわからない感覚に名前を見いだせたのだろうか、と、ふと思う。思うだけで、本当にそうかどうかすら、私には判別できなかった。
予定の時間に校舎裏に着くと、いつも通りの様子でベンチに座ったヒカル先輩がいた。今はぼんやりとした様子で空を見上げて、星の瞬きを眺めている。今日は月が多く欠けている日で、月光が普段よりも強いので、星もよく見えるだろう。先輩は誰が見てもきれいだな、と思うような人なので、そうして星を見上げる様子は、古典美術の時間に習う太古の宗教画のようにも見えた。うっかり先輩の視線の先から、天使でも降りてきてしまいそうな。
「……ユキ」
来たの、と、問われて初めて先輩がこちらを見ていることに気づく。思わず見入っていたらしい、それを「見惚れた」というのかもしれない。私は頷きながら、「お待たせしました」と気持ち声を抑えて謝罪する。
「約束通り来たので――キスしましょう、先輩」
先輩の隣に座ることはせず、立ったままそのきれいな顔を見下ろす。先輩は星を見るのと同じ様子で私を見ると、「うん」と、ぼんやりとした調子で頷く。
「先輩」
頷いた割に、先輩は動く様子がない。私はもう一度、ヒカル先輩、と名前を呼んだ。
「してくれるって、約束です」
指切りをしました、と伝えれば、先輩は少しだけ眉をひそめて、「したね」とまた一つ頷く。
「その前に少し話をしない?」
話、と、言いながら先輩の視線が隣を向いた。座れということらしい。
話をするよりキスをしてほしい、と伝えたかったが、先輩の顔が妙に真剣だったので、私はしぶしぶ隣に座る。人がいなかったベンチの座面は驚くほど冷たくて、お尻から冷気が急に上がってきたみたい。まだ少し肌寒い季節なので、上着を着てきてよかったと思った。
「話を聞いたらキスしてくれますか」
問えば先輩はまた困ったような顔をする。キスの話をするといつもそうだ。あんまり困った顔をするので、そんなに私とキスをしたくないのか聞いたことがあったが、その時先輩は「したくないわけじゃない」とはっきりと答えていた。何がそんなに、躊躇わせているのかがわからない。
「……劣化個体の運命の人が、キスをしたらどうなるか、ちゃんと知ってるかなって」
ちゃんと、というところに力を込めて、先輩が問う。思いがけない問いかけにぱちりと瞬きをする。聞こえた言葉を噛みしめて――「知ってます」と返事をしたのは、二拍ほど遅れた。
「ほんとに?」
知っている、と答えたのに、先輩は念を押すようにもう一度聞いた。その、「ほんと」の意味が分からなくて困惑する。私が何も言えずにいると、先輩はふと表情を緩めて、「ごめんね」と謝った。その、謝罪の意味すら、私にはわからない。
「なんで謝るんです」
「いや、意地悪い聞き方をしたなと思って」
それはまるで、私が「知らない」ことを知っていて質問したような様子だった。実際、多分先輩が聞いたようには「知らない」のだろう。困惑したままの私は怒りを覚える隙も無い。じっと先輩の事を見つめ返した。
「劣化個体」は知識・技能を魂に封じられているから、「運命の人」からのキスによって、封じられたカギを開けなければならない――というのが、私の認識しているキスのこと。先輩は小さくため息を吐くと、「思い出したくないこともたくさんあるよ」とぽつりと言った。
「どういうことです」
「……劣化個体は、知識・技能はもとより、魂が記憶している記憶、全てが封印されている状態で――それはつまり、他の個体がむき身で持っている情報よりも正確性が高く、意味合いが全く違う」
“君”という魂が産み落とされてから、今に至るまで。何度も何度もリセットを繰り返して蓄積されたその情報すべてが、完全な形で封じられている状態、と、先輩は続けた。
言っていることがよくわからない。
「つまり、何が言いたいんです?」
「キスをしたら、きっと膨大な記憶にひどい頭痛がするって話」
問い直せば、先輩は肩を竦めて随分軽い調子で言いなおした。先ほどは思いつめた様子だったのに、私が引き下がる様子を見せないのであきらめたのかもしれなかった。あるいは、私が理解をしていないからかもしれない。
「頭痛くらい、なんてことないです」
「いやな記憶もいっぱいあるよ。リセットばかりが人生の終わりじゃない」
それで、目を伏せる。信じられなくて、私は先輩の顔を覗き込んだ。リセットが人生の終わりではない、とは、つまり、
「……“死んだ”記憶ってことですか?」
恐る恐る、尋ねると先輩は緩く笑った。
「これでもユキの“運命の人”だからね。君がたどってきた幾つかの人生の、幾つかの記憶を共有している」
持っているよと、声は力ない音だった。
授業で最初に習うこと。「死」の記憶は、魂が最も保持してはいけない記憶。
検知できないレベルの負荷がかかるのだそうだ。記憶・知識・技能がどれだけ完全に引き継がれていても、その中に「死」の記憶が混じると、精神に異常をきたす。私のような劣化個体は別として――他の人が「死」の記憶に苛まれていないのは、マザーがそうした危険性を危惧して、「死」ではなく「リセット」をするからだった。リセット方式は、リセット方式をスタートしたタイミングからしか動いていない。それ以前に魂が有していた記憶などは、あるかどうかもわからない。
そして、先輩がそうやって言う、ということは、私の前世――か、さらにそれ以前――の人生のどこかで、リセットを待たずに死んでしまったことがある、ということだった。
魂に記憶・知識・技能は引き継がれると言っても、全てが完全な形で引き継がれるわけではなく、どうしたってロスが生じる。劣化個体ではない人たちは皆、そうしたロスがうまく働いて、苦痛な記憶・不要な知識・不完全な技能なんかを都合よく忘れているのだそうだけど、私の場合は違うらしい。劣化個体だから、カギを開けなければ引き継げないのに、劣化個体だから、しまい込まれた記憶はロスなく完全なもののよう。
ううん、と唸って考える。結局、それで、私がキスを諦めたとして。
私は今生の情報を何一つ次の人生に引き継げないことになる。チカのことも、ヒカル先輩のこともだ。そして、次の人生もまた、劣化個体になる確率が極めて高いのだとしたら、結局同じことの繰り返しなのだ。運命の人、は、魂で繋がっている。次の人生だって、きっとヒカル先輩の魂は、名前の違う別の人になったとしても、私に向かって「キスをするな」と言い含める。「いやな記憶を思い出すから」と。
「わかりました」
大きく頷くと、先輩は少しばかり期待した様子で私を見下ろした。星明りばかりでは光源が足りないはずなのに、先輩のふわふわの茶髪は暗闇でなお明るく見えた。触りたいなあ、と思いながら、先輩の瞳を見つめる。薄いブラウンの瞳。透き通って、私の事を映し出している。
「キス、しましょう。先輩」
続けると先輩はぐ、と押し黙った。ほんとに? と、震える唇が言葉を紡ぐ。
「ほんとに、いいの?」
何度も、念を押すように。私はからりと笑うと、「いいですよ」と頷いた。
「先輩がどんな記憶で、何に怯えているのか知りませんけど――たぶん、思ったより変化はないですよ。第一、今のタイミングで“開けないと”、次のロスで手放せないですもん」
今であれば、この世界も残り七日だ。たとえ完全な記憶のせいで私が狂ってしまったとしても、あとたった七日なのだ。
「錯乱したら、先輩が私を部屋まで帰してくださいね。それで、それで――チカに頼んでくれれば、いいです」
何も問題はないです。
言葉に出すと少しばかり胸の奥がずきずき痛む気がした。先輩がぐっと眉間に皺を寄せて、「そう」と端的に頷く。ひどい頭痛だ、なんて、先輩なりのジョークだったに違いないけど。本当にそんな記憶が残っているなら、ひどい頭痛、で終わるはずなどないのだ。
「じゃあ、そしたら、もしそうなったら、残りの七日、毎日ユキを見舞いに行くよ」
一度、強く目を瞑った先輩は、ゆっくり瞬きをすると私を見つめ返してそう言った。そうですね、と頷く。約束です、と。
小指を差し出せば、小さな声で「ゆーびきーりげーんまーん」と歌ってくれる。先輩の声に合わせるように、私も歌った。そういえば、こんな、大昔のまじないみたいなことをやっているのは私と先輩だけだと思った。いつから始めたのだったか、よく思い出せない。
「あ、一応ですけど、さっきチカにファーストキスとやらは奪われたので、そこは気にしないでくださいね」
指切りを歌う先輩の顔がどんどん暗く険しいものになったので、思わずそんなことを言った。ぴくり、と先輩の肩が震えたが、それだけ。やっぱり先輩は「そう」と感情の見えない返事をしただけで、気持ちが解れたかどうかもわからない。ふと、もしかして先輩の方がファーストキスなんじゃ? と思いついたが、問い詰めることはしなかった。大体、きっと、チカの考えの方が少数派だ。
「それじゃ」
顔を見合わせる。改めて向き合うと変な心地がした。先輩の顔がゆっくりと近づいてきて、とっさに私は目を閉じた。
唇に温かい体温が乗せられる。あ、ちゃんとキスしてくれたな、と、思った瞬間、何か腹の奥の奥の方からせり上がってくる熱を感じて、動揺する。あ、あ、と、声を上げたい。口が塞がれたまま、思わず目を開けた。
先輩が私を見ていた。じっと、キスをしたまま、私の瞳の奥を見ている。その、薄く透明度の高いブラウンの中に、誰か私ではない人を見つけた気がして。
(先輩――)
ひかるせんぱい、と、名前を呼ぶことはできなかった。言われた通り、ひどい頭痛に見舞われて、お腹も熱くて痛くて、力が抜ける。ああ、そうかと理解した。完全な記憶をよみがえらせてしまうから。劣化個体でしかない私は、表層だけの私は、
リセット・キス 佐古間 @sakomakoma
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