遊里に咲いた白菊の花
亜月 氷空
遊里に咲いた白菊の花
江戸は浅草から少し入ったところにある、大きくそびえたつ門。くぐればそこは、浮世から切り離されたきらびやかな世界。男は一時の快楽を得、女は一生の地獄を見るという。一つしかないその大門は果たして、楽園への入り口か、檻の中への入り口か。
たいそうな遊び人であった父上から「お前も成人したのだから遊郭くらい嗜め」と尻を叩かれ、初めて訪れた吉原で、初めて目にした花魁道中。そこで私はその中心にいる花魁……ではなく、付き従っていた遊女の一人に目を奪われてしまった。主役ではないものの、例えるなら役枝に添えられた小さな花のような、優雅で美しく着飾った花魁とは違った美しさがあった。あだやかで伏し目がちな横顔に、まだ幼く世を知らないようなあどけなさが混在していて、年の頃が自分とそう変わらなく見えたのも大きかったのかもしれない。
華やかな道中を追いかけ、やがて揚屋に着くと、待っていた客を交えて酒宴が始まった。彼女を買ってみたい、彼女の馴染み客になりたい、しかし彼女の属する店が分からない。今の花魁が妓楼に戻ってくれれば分かるだろうが、それは酒宴が終わった後だ。彼女もきっと酒宴で客の相手をしているのだから、今夜は引き返すしかあるまい。揚屋の主人に彼女らの属する妓楼を聞いて、その日は出直すことにした。
翌日、その娘がいる妓楼の扉の前に立った時、えも言われぬ緊張と興奮を感じたのを覚えている。今思えば、彼女の遊女としての格付けを全く気にせず直接妓楼を訪ねてしまったのは早計だった。はやる胸を抑えて扉をくぐると、店の主人らしき初老の男性が、算盤で何かの計算をしながら煙管を弄んでいた。
「なんだい、見ない顔だね。うちは初めてかい? えらく若いあんちゃんじゃねえか」
男性はちらりとこちらを見ると、やや訝しげな様子で尋ねてきた。こんな若造が金はあるんだろうな、とでも言いたげな視線であった。
「ええと、昨日の花魁道中で付き人をしていた遊女、彼女を一晩買いたいのだが。金ならちゃんとある」
「付き人の遊女ぉ? あー玉菊か深雪か、どっちだい? あいや、どっちもまだ新造だから正式な客は取ってないよ」
「しんぞ?」
「つまりは遊女として半人前ってこったな。二人とも次の三月から正式に客を取らせる予定だが……」
その時が九月だったので、次の三月といえば半年の間があった。すぐにでも彼女と会えると思っていたので、いたく落ち込んで、たしかそのままふらふらと帰ってしまったのだったと思う。遊郭は永久指名制と聞いていたので、当然他の遊女を買う気にはなれなかった。
そんな衝撃的な出会いを果たしたのが、今から三年半前。今聞くと、新造でも床入りなしの条件なら特別に買えたようで、しかも主人はそれを伝えたというのだが、当時の私は碌に説明も聞いていなかったらしい。
半年待って三月、あの日以来の吉原で例の妓楼へと向かうと、道路に面した格子から、忘れもしないあの美しい顔、いやそれよりもさらに美しくなった顔が覗いていた。見惚れているとふと目が合ったように感じて、それだけで胸が高鳴った。興奮気味に店の主人のもとへ行くと、彼は私を覚えていたらしい。「妓楼の中まで来ておいて、金がないわけでもねぇのに誰も買わずに帰っていく客なんてそう居ないからな」なんて笑われてしまった。そして、彼女の名が玉菊ということ、ちょうど今晩はまだ彼女に客がついていないことを教えてくれた。聞けば彼女は格子女郎だという。それなら、揚屋で彼女を指名して待って、酒宴を開いてもてなし、三回通うまで床入りはしないのが礼儀というものだ。待っている間は一丁前にそんなことを考えていたが、いざ彼女と対面して酒宴が始まると、昂る気持ちを抑えるのに精一杯で、いささか酒を飲みすぎてしまい記憶が薄い。恥ずかしいことだが、それも今となっては懐かしい思い出である。
それから三年、私は彼女のもとに通いつめ、すっかり馴染み客となっていた。吉原は疑似婚姻であるなどと言われるが、なるほどその通りで、玉菊のもとに通い婚をしているような心地である。何年経っても玉菊の美しさは変わらず、それどころか通うごとに彼女の器量の良さや教養の深さを知り、惚れ直してしまっている。今日も彼女は酒宴で素晴らしい舞を見せてくれた。
「豊太郎様、いかがでござりんした?」
「もちろん素晴らしかった! いやはや、やはり菊の舞は一級品だよ。惚れ直してしまうなあ」
「もう、ぬし様はお上手なんだから」
ふふ、と笑う玉菊の頬に触れる。あんまりにも綺麗に笑うものだから、思わず手が伸びてしまった。
「ぬし様、もうわっちの舞はいいのでありんすか?」
すると今度はいたずらっぽく笑う。このあたりの駆け引きまで上手いのだからこの女は。このまま玉菊に触れていたいのはやまやまだが、しかし男としてここは見栄を張りたいものだ。
「そうだな、もう少しだけ見せてくれるか?」
「あい、わかりんした」
位置につき、すぅっと目を細めると、玉菊は再び優雅な舞を舞ってみせた。
※
「玉菊姐さま、お疲れ様でござりんした!」
明け方になって豊太郎様が帰られると、専属の禿である梅枝が駆け寄ってきた。
「梅枝、お早う。いつもありがとうね」
「いえ! あちきは姐さまを尊敬しておりますゆえ!」
梅枝は七歳の頃にこの妓楼に売られてきてから、遊女見習いの禿として、玉菊の身の回りの雑用をしながら読み書きや遊女として必要な技術を学んでいる。玉菊の方が五つ上なので、かわいい妹のようなものだ。
「本日も豊太郎様のお相手だったのでありんすか? 菊姐さまのことをたいそう気に入られていると聞きんした」
「そうね、わっちがまだ新造だった頃に見初めてくださったそうだから……。有難いことでありんす」
馴染み客の中でも、豊太郎様はかなり良い客だ。金払いはいいし、乱暴もしないし、若くて見目も悪くない。新造時代の花魁道中で一目惚れしたと言っていたが、おそらく夕霧姐さまのお付きをしていた時だろう。あの美しい夕霧姐さまの隣を歩いていたというのに、わっちの方に惚れるなんて……。
「豊太郎様のお相手の日は、姐さまが少し嬉しそうなので、あちきも嬉しいでありんす」
「嬉しいだなんて、そ、そんなつもりはありんせん! 遊女が客に夢中になるなど、そんな無益なことはするべきでは……」
「でも姐さま、昔も今も、禁断の恋というのは燃えるものでありんす。昔母さまに教わりんした」
「それは……。いえ、そんなことより梅枝、来月の新造出しの準備はどう? 皆様に梅枝をご紹介する日なのだから、わっちも張り切らないと。今度一緒に当日の振袖を決めんしょう」
取り繕うように話題を移す。梅枝の新造出しが、いよいよ来月に迫っていた。「遊女見習い」から「遊女半人前」へと昇格する、遊女になる者にとっての一大行事である。梅枝は将来最上級の遊女になる見込みがあるのだから、粗末な振袖は着せられない。
「姐さま、でもその……あちきの新造出しの費用は、菊姐さまのお金なのでありんしょう? あちきはそんな、姐さまに負担をかけるようなこと」
妹女郎の新造出しの費用は、姉女郎が負担するのが習わしだった。遊女は売られてきた時に借金を背負い、それを返済するために働く。妹女郎の新造出し費用だけでなく、自らの着物や装飾品の費用も、借金に追加されていく。正式に遊女となってから十年間働けば自由の身になれると言われているが、十年で完済できる遊女はほとんどいないらしい。玉菊の借金になることを知って、申し訳なく思ってくれる梅枝は心の優しい子だ。
「ほんに、梅はいい娘だねぇ。そんなこと、気にせんでいいのよ。わっちだって、新造出しの時は夕霧姐さまに出してもらったのだから。そんかわり、ぬしの禿が新造になる時に、良い振袖を着せてやんな」
「玉菊姐さま……。わかりんした、立派に務めを果たして見せんしょう」
「ほら、わっちはこれから少し休むから、梅も休みなんし」
「あい、ではまた昼前に、お食事を持って伺うでありんす。おやすみなさいまし」
※
それからひと月が経って、梅枝の新造出しの最終日。それは大々的に執り行われ、五日間にわたって、他の遊女や揚屋に挨拶して回ったのだった。そんな折、久しぶりに豊太郎様が妓楼へとやってきた。
「豊太郎様! お久しぶりでありんす」
「玉菊。だいぶ間が空いてしまってすまないね、少し仕事が忙しくて」
「いえ、いらしてくださるだけで嬉しいでありんす」
「はは、それは嬉しいなあ」
梅枝の立派な姿を見届けて、ほっと一息つきたいこの時間に、一番の馴染み客が訪れてくれたのは有難い。色好みなおじさまを相手取るよりよほど楽というものだ。
「なんだか今日は賑やかじゃあないか。何か行事でも?」
「実は、わっちの禿だった梅枝の新造出しでありんした」
「なんと、あの禿が新造に。それは一度改めて挨拶をしておきたいものだな」
「自慢の妹でござりんす。ぜひそうしてくんなまし」
それからは、酒を酌みながら、当たり障りのない話をした。豊太郎様は最近大きな商談が入ったらしく、うまくいけばかなりの儲けになるそうで、「そうしたらもっと菊のところへ来れるぞ」と嬉しそうにしていた。
「なあ、玉菊」
しばらくして、急に豊太郎様は真面目な顔になったかと思うと、まっすぐこちらを見つめてきた。急なことにどきりと心臓が音を立てる。やがて豊太郎様は、少し言い辛そうに口を開いた。
「玉菊は、吉原での勤めが終わったら、何かやりたいことはあるか?」
吉原での勤めが終わったら。つまり、借金を返し終わったら。借金をすべて返すには、遊女としてあと七年以上働くか……お客に身請けしてもらうか。身請けされれば、残っている借金はすべてそのお客が払い、今度はそのお客のものとなる。そんな莫大な金額を払える人など、そういない。どちらも現実的だとは思えなかった。きっとそれが分かっているから、豊太郎様も言い辛そうにしていたに違いない。
「そんなこと……考えたこともありんせん」
「そうか」
それっきり、豊太郎様は黙ってしまった。何故そんなことを聞いたのかは分からなかったが、お客様に夢を見せるのが遊女の務め。こんな雰囲気にしてしまっては遊女の名が廃るというもの。
「それよりも豊太郎様、久しぶりに来てくださったのだから、今は楽しみんしょう。ね、わっちの部屋へ行きんせんか?」
少し空元気だったのは、豊太郎様にも気づかれたかもしれない。それでも豊太郎様は「ああ、そうだな」と頷いて、部屋へと来てくれた。
そうして玉菊の部屋へ行き、床入りをしようという時。コンコン、と音がして、新入りの下男が少々申し訳なさそうに戸を開けて顔を出してきた。
「あのぅ……玉菊様、五郎衛門様よりご指名が入りました」
五郎衛門様は、数か月前から玉菊を訪れるようになったおじさまだ。金払いはいいのだが、どことなく色好みな視線が快いものではないため、あまり得意ではない。今日はせっかく豊太郎様が来ているのに、水を差されたくはなかった。
「……少ししたら行くから、梅枝を名代にしておいて」
「かしこまりました」
遊女を指名する人が重複した場合、遊女に優先されなかった方は、つなぎとして新造が相手をすることになっている。梅枝の初めての名代があのおじさま相手というのは少し荷が重いかもしれないが、あの娘ならきっとうまくやるだろう。
「さ、豊太郎様。わっちを、ぬし様の好きにしてくれなんし」
……とは言ったものの、やはり五郎衛門様の相手をさせている梅枝の様子が気になる。新造になって初めての名代で、あのおじさまで、いくら梅枝の器量が良くて床入りはなしとされているとはいえ、うまくやれているかしら。あの男、わっちのかわいい妹を泣かせるような真似はしていないかしら。気になって気になって、豊太郎様との床入りにも身が入らない始末。菊は遊女なのだから、もっとお客様を楽しませねえと……!
「菊」
「……ッ豊太郎、様……」
しまった。怒られるか、呆れられるか、悲しまれるか……。
「梅枝のことが気になるんだろう? 私のことはいいから、行ってあげな」
「豊太郎様……! でも」
「菊が梅枝を大事に思っていることはよく知っているからね。ここは私を、想い人を気遣える男にさせてくれないか」
「ありがとう、ござりんす」
軽く着物を整えると、早足で五郎衛門様と梅枝のいる大部屋へ向かう。衝立で簡易的に仕切られた部屋の一角に、二人の姿が見えた。するとどうも様子がおかしく、押し倒そうとする五郎衛門様に梅枝が抵抗しているようで。
「梅枝!」
大勢の遊女と客がいる中、はしたなくも思わず叫んでしまった。突然の大声に、二人だけでなく、大部屋にいた全員が静まりかえっている。
「玉菊、姐さま」
こちらを見た梅枝の目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「お、おお! 玉菊! わしを迎えに来てくれたのか? いやあの女、あれは駄目だよ、やはり玉菊がいちばんだ。さあ、部屋へ上がらせてくれ」
玉菊が自分を好いてくれているとでも勘違いしているのだろうか、男は玉菊のもとへ行くと手を握って、早く行こうと言わんばかりに部屋を出ようとする。しかし玉菊は動かない。
「五郎衛門様。今、ぬし様は何を?」
「何って、玉菊を待っていたんじゃあないか」
「わっちには、新造である梅枝に、床入りを強いているように見えんした」
「そ、そんなわけないだろう! あの女、この俺の誘いを断りおって……あっ」
「名代の新造は、床入りできない。ご存知ありんせんか?」
見るからにうろたえる男に、玉菊は冷徹な視線を向ける。
「いや、あの女が、そうだあの女が誘ってきたんだ。わしは悪くない!」
男が梅枝の方を見る。梅枝は声も出せないようだったが、かすかに首を横に振ったのが見えた。
「梅枝がそんなことするはずありんせん。あの娘を一番よう知っているのはわっちでありんす。これは……五郎衛門様の浮気、でありんしょう」
吉原の遊郭は永久指名制である。そのため一度指名した遊女とは違う遊女と床入りすること、すなわち浮気はご法度とされていた。
「ち、違う! わしは玉菊だけが」
「わっちのかわいい妹を蹂躙しておいて、部屋へ上がらせろなどと言う、そんな客はお断りでありんす」
焦って脂汗を浮かべる男に冷ややかな視線を送る。客を断れるのは高級遊女の特権であり、格である。
騒ぎを聞きつけた下男が慌ただしくやってきて、男のした一部始終を話して聞かせると、その日は強制的に帰ってもらうこととなった。今後あの男をどうするかは妓楼の主人が決めるだろうが、少なくとも玉菊は、今後あの男が指名してきても断ることに決めた。
「ねえさま、ねえさまぁ……っ」
「うん、がんばったね。よくがんばった。ありがとう、梅」
梅枝を抱き寄せ、優しく頭を撫でてやる。玉菊のために、お客のつなぎをしてくれた。怖い客を相手に、遊郭のしきたりを破るまいと抵抗してくれた。厳しいかもしれないが、遊女をしていればこういうことは何度だってある。
「ねえさま、あちき、はじめてのおつとめで、お客様が……ッ」
「うん、うん、もう今日は仕舞いにしんしょう。たくさん寝て、また明日から頑張ればいいのでありんす」
混乱が治まらない梅枝を、背中を軽く叩いて宥める。ここに送り出してくれた豊太郎様に感謝しながら、もう少しだけ梅枝のもとにいることを許してほしい、と願うのだった。
※
菊を梅枝のもとに送り出した日からほどなくして、私は再び菊の妓楼を訪れていた。あの時は格好つけて「行ってあげな」などと言ったが、久しぶりの玉菊だというのに碌に触れ合えなかったのは、少々、いやかなり寂しいものがあった。送り出してしばらくするとなにやら大部屋の方が騒がしくなったので、これは何かあったなと思い、菊の部屋に居座り続けるのもはばかられたため早々に帰ってしまったのである。安いとはいえない金を払って一夜を過ごせなかったわけではあるが、文句は言うまい。それもこれも、男の見栄というものだ。
「玉菊、今日は空いてるかい?」
「ああ豊太郎さん、先日ぶりだなあ。いや今日は先客がいるんだよ、ちょっと待っててくれ。その間、名代を行かせるから」
相変わらず何かの計算をしながら、煙管を弄んで妓楼の主人が言う。ほどなくして、大部屋に通された。
「玉菊姐さまの名代を務めます、梅枝でござりんす。豊太郎様、お久しぶりでありんす」
「梅枝か! いやはや、立派になったな! 美しくもなって、見違えた」
「もう、姐さまに叱られんすえ」
禿として何度か顔を合わせたことがあるだけで、話をしたのは初めてだったが、なるほど将来は上級遊女になれそうな風格であった。玉菊から話を聞いていた通りである。
「あのぅ……先日は、どうもありがとうござりんした。あちきが名代を務めていた時に、心配した玉菊姐さまを送り出してくださったそうで」
「ああ、なにやら騒がしくなったから邪魔してもいけないと思って帰ってしまったんだが……。その、大丈夫だったか?」
「姐さまが来てくださったおかげで、助かりんした。あちきもまだまだ未熟でありんすから、精進して参りんす」
詳しい事の顛末まで聞くつもりはないが、どうやら私のしたことは正しかったらしい。やはり見栄は張るものだ。
「姐さまも、本来なら客を待つ遊女が大部屋へ行くなど、と怒られちまったのでありんすが、しきたりを破る客からあちきを助けてくれたから、と許してもらったみたいでありんす。ほんに、助かりんした」
……ちょっとおしゃべりな気があるようだが、これも彼女の純粋さの証だろう。
「いや、それならよかった。安心したよ」
「姐さまから聞いてやしたが、ほんに、豊太郎様は良い方でありんすね。姐さまも、豊太郎様がいらした時は嬉しそうなのでありんすよ」
「……それ、本当かい?」
「もちろんでありんす」
嫌われていることはないだろうと思っていたが、まさか嬉しそうだとは。これを私が聞いてよかったのか分からないが、こんなに喜ばしいことがあるだろうか。
「実は……近いうち、玉菊に身請けを申し込もうと思っているのだが」
嬉しくなって、つい口が滑ってしまった。玉菊も含めて誰にも言っていない話だった。
「えぇ!? 姐さまが、みう」
「ちょっと、まってくれ声が大きい、まだ内緒にしていてくれないか」
まだ誰にも言っていないのだから、大部屋で叫ばれてはたまらない。慌てて梅枝を止めると、彼女は恥ずかしそうに口元を押さえた。
「玉菊が望んでくれるなら今すぐにでも、と思っているのだが、彼女が私と一緒になりたいと思っていないのならば無理はさせたくない」
「姐さまは喜ぶに決まってやす! あちきも、姐さまには幸せになってほしいでありんす」
「そうだと嬉しいなあ」
梅枝は、その後も普段の玉菊の様子を教えてくれた。玉菊がこの娘から相当に慕われていることが伝わってきて、微笑ましい気持ちだった。
しばらくして、妓楼の下男が顔を出した。
「豊太郎様。玉菊様のお部屋までお通りください」
どうやら玉菊が呼んでくれたようだ。
「いってらっしゃいまし、豊太郎様!」
梅枝はやけに嬉しそうに、私を見送ってくれた。その後玉菊に、梅枝と何の話をしていたのか聞かれたが、臆病者の私は身請けの話を切り出すことができなかった。
※
それからまたしばらくして、妓楼を訪れると、私を見た遊女や下男が少しざわついた、ような気がした。気のせいかと思い主人のもとへ行き「玉菊は空いてるかい」と聞くと、主人から
「豊太郎さん、玉菊を身請けする心づもりがあるってぇのは本当かい?」
などと聞かれてしまった。……完全に、この遊郭中に話が広まっている。
「正式に決めれば直接お話いたすゆえ、今はご勘弁を」
そう言って主人を躱すと、今日もまた玉菊は先客がいるというので、梅枝が名代を務めてくれた。
「一つ聞いていいか、梅枝。身請けの話が広まっているのだが……?」
「あの、それは……。おそらく豊太郎様から身請けの話を聞いた時、あちきが大きな声を出しちまったのがいけのうござりんした。あの時、聞いちまった遊女がいたようでありんす」
そういうことならこちらに非がある。客との戯れの最中でも、聞いている者は聞いているのだな……。
「それは私も悪かった。大部屋で話してしまったのが間違いだった。しかしそうなると、当然玉菊も……?」
「耳にしたと思いんす。けど、あちきには何も。喜んでいるなら、姐さまはあちきに話してくれると思うのでありんすが……」
梅枝は何か言い辛そうな素振りを見せた。ということは、玉菊は私と一緒になることを望んでくれないのだろうか。彼女が望まないのなら、無理に私に縛り付けたくはない。
しばらくして、下男が私を呼んでくれた。今日は部屋に招いてくれないかもしれないと思っていたから、少しほっとした。
「豊太郎様」
玉菊は本当に、いつ見ても美しい。しかし今日の美しさの中には、どこか影が落ちているように感じた。
「玉菊……。今日は、このまま休まないか。体調がよくないように見える。身請けの話については、菊に話す前に噂になってしまって申し訳なかった。しかし、私が玉菊を身請けしたいと思っているのは本当だ。玉菊、この話……受けてくれるか」
しばしの沈黙の後、玉菊はそれには答えず、自らの帯を解いていく。
「ねえ豊太郎様、わっちを抱いてくんなまし。休むなんていわねえで、これがわっちら遊女の役目でありんす」
その日の玉菊はいつになく積極的で、何かあったに違いないと思いながらも、とても尋ねることはできなかった。床入りの最中、玉菊は、哀しそうな、それでいて愛おしそうな切ない顔を見せた。まるでこれが最後の交わりかのような。
明け方が近づくと、いつもはする添い寝もせず、玉菊はさっさと着物を直して言った。
「わっちは……何年も通ってくださった豊太郎様には、感謝してやす。けど、ぬし様の身請けの話は、お受けできんせん」
身請けは、正式に申し込めば、遊女の側で断ることはできないとされている。しかし、菊が望まなければ私は無理に身請けを申し込むことはしないだろうと見越して、断るという選択をしてきた。
「わっちとぬし様は……恋仲ではなく、遊女と客でありんす。お客様には従順な妻のように、丁寧に接すること。それが、姐さまたちから教わった遊女の基本でありんす。わっちはぬし様と、本当に一緒になりたいと思ったことはありんせん」
私たちは、あくまでも遊女と客。玉菊の言うことに、間違いはなかった。
「今日はもう、帰ってくんなまし」
そう言われてしまっては、帰るほかない。私は軽く服を整え、荷物をまとめて部屋を出る。
「また、来てもいいか」
その問いに、答えは返ってこなかった。
※
あの夜から、はやひと月。私はあの時の玉菊の顔がどうしても忘れられず、再び妓楼の扉をくぐった。主人と顔を合わせると、渋い顔をされた。
「あー、豊太郎さん。玉菊だがな、もうお前さんを客に取りたくないそうだ。身請けの話まで出ていて何があったか知らないが、どの客をとるかって遊女の希望は聞くのが基本でね。悪いが玉菊には通せない」
「では、あの新造……梅枝と、床入りなしで、話だけ。通してもらえないだろうか?」
あんな別れ方をされて、あんな顔を見せられて、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「梅枝とぉ……? 仕方ねえな、あんたはうちの常連だからね、特別だ」
なんとか許しをもらって梅枝のいる大部屋へ行くと、梅枝は何かを決意したような顔で私を迎えてくれた。そしてそばへ寄るとすぐに、
「豊太郎様、菊姐さまを助けてくんなまし」
と言うと、私が口を挟む暇もなく、ここひと月の玉菊の様子を話し始めた。
「菊姐さま、最後に豊太郎様が来た日から、日に日に元気がなくなっているのでありんす。食事の量も減って、疲れているのに無理に笑うことが多くなって、あちきはこれ以上弱っていく姐さまを見ていられんせん。豊太郎様のお相手の日はあんなに嬉しそうだったのに、『豊太郎様はもうわっちのもとには来やせん』なんて言って、あちき、今にも姐さまが死んじまうのではありんせんかと……!」
梅枝も相当思い詰めていたのだろう、一気に吐き出すように話すと、泣き出しそうな顔でこちらを見てきた。「わかった、少し落ち着いてくれ。……しかし、私は玉菊に拒絶されてしまったのだ。そんな私に、今さら何ができると……」
「姐さまが心から豊太郎様を拒絶するはずがありんせん。姐さまに生涯恨まれてもいい、あちきは豊太郎様なら、姐さまを助けられると思うのでありんす」
「……ッ」
「豊太郎様!」
逡巡の後、私は立ち上がると、大部屋を出て妓楼の主人のもとへ向かった。後ろから梅枝がついてきている。主人の姿が見えると、私は形振り構わず大声で言った。
「ご主人! 私は玉菊を身請けしたいのだが、許可をもらえるか」
すると主人は、一瞬驚いた顔をした後、すぐさま算盤をはじき始めた。
「あいわかった、まいど。身請け料は……そうさね、ざっと八百両ってとこだ。追加でその他雑費を入れてしめて一千両程だが、どうだい?」
「それで構わない。すぐに用意しよう。子細な計算が出たら知らせてくれ」
「梅枝、豊太郎さんを玉菊の部屋へ通してやりな。身請けとなりゃ話は別だ」
「はッ、はい! 豊太郎様、行きんしょう」
一気に顔が明るくなった梅枝と共に、玉菊の部屋へと向かう。あれだけ大声で身請けしたいと言ったのだから、もしかすると聞こえていたかもしれない。叩かれるだろうか、恨まれるだろうか。それでも、私は梅枝の言葉を、自分の直感を信じた。……玉菊は、本当は私と一緒になることを望んでくれているのではないか、と。
「豊太郎様、どうして」
そこには、最後に会った時よりもかなりやつれた玉菊がいた。
「玉菊、そなたを身請けさせてほしい。そなたを、妻として迎えさせてくれないか」
「でも、わっちは……ッ」
「私は、恋い慕う相手が吐いた嘘も見抜けないような、腑抜けた男ではないよ」
本当は、一緒になりたいと思ってくれていたのではないのか。一か八か、それに賭けることにした。
「豊太郎様、わっちは……わっちは、もうじき死ぬ身なのでありんす。もう長くないと、分かっているのでありんす。だから、わっちはこのまま吉原で一生を終えるのが、豊太郎様にとって綺麗な思い出のまま散るのが、一番良いのでありんす」
堰を切ったように、感情と、言葉と、涙が溢れ出していった。豊太郎でさえ、初めて見る涙だった。
「夕霧姐さまは、病にかかって、治癒したと思われてから二年後に、病が悪化して亡くなりんした。わっちもその病にかかって、もう二年が経ちんした。わっちと同じ頃に同じ病にかかった深雪は、つい先日、夕霧姐さまと同じようにして亡くなりんした。わっちも姐さまや深雪と同じように、じきに死ぬのでありんす。だから……だから豊太郎様、わっちを身請けなんかしないで、他のところで別の娘を見つけて、幸せになってくんなまし」
他の遊女が病で死んでいたとは、知らなかった。玉菊が恐れるのも分かる。それでも。
「私は、玉菊以外の娘と幸せになんてなれないよ。私にとって玉菊がどれだけ愛おしくて、どれだけ大切か、分かるだろう。それに、菊は私のことを想って断ってくれたんだろう?」
「それは……。けど」
「それなら決まりだ。どんなに短い間でもいい、玉菊、私のものになってくれないか」
玉菊の前に右手を差し出す。涙の溜まった瞳が揺れた。この手を取っていいものか、逡巡している目だった。
「一緒に幸せになろう」
玉菊の手が伸びてくる。迷いながら、しかし確実に。やがて二人の手が重なった。
「……ッ、はい」
※
豊太郎様の手を取ってから、しばらくの後。玉菊の身請けの話は順調にまとまり、いよいよ遊郭を離れる日。豊太郎様が用意してくれた綺麗な振袖に袖を通して、化粧を整えるために鏡をのぞくと、赤い湿疹が現れていた。支度を手伝ってくれていた梅枝が、心配そうにこちらを見ている。その湿疹は、病が悪化する前兆だった。
「玉菊姐さま……」
「……やはり、身請けの話は……」
「玉菊」
気づくと、豊太郎様が部屋まで来ていた。
「豊太郎様!? ここまでいらっしゃるものではないでござりんしょう! それに、約束の刻まではまだ……」
「すまぬ、菊に早く会いたくて来てしまった。玉菊、こちらを向いてくれないか」
こんな顔、見せたら失望されてしまう。
「……嫌でありんす」
「どうして」
頑なに豊太郎様から顔を背ける。すると、急に回り込まれて顔を覗かれてしまった。
「うん、今日も綺麗だ」
「……豊太郎様、目がおかしゅうなっちまったのではありんせんか」
「いんや、目はいつも通りだ。菊は美しいよ」
「ほんに、おかしなひと……」
じんわりと涙が浮かんだ目には、気付かないふりをした。
身請けのための儀と酒宴は盛大に執り行われた。お世話になった方々に挨拶をして回り、賑やかな宴会を行って、いよいよ別れの時。
「玉菊姐さまぁ!」
「梅枝、今までありがとう。梅なら立派な遊女になれると信じてやす。達者で」
「あちきも、豊太郎様と姐さまなら二人で幸せになれると信じてやす……! 幸せになっておくんなんし」
どこまでもわっちの幸せを祈ってくれる、心優しい自慢の妹だ。いつかそう遠くない未来で、梅枝にも身請けしてくれる良い男性が現れることを願っている。
「玉菊」
「豊太郎様」
わっちは今、生きてきた中で一番幸せ。こんな幸せがわっちにも訪れるなんて、考えたこともなかった。
「玉菊、愛している」
「わっちもでありんす、豊太郎様」
※
それからほどなくして、玉菊は死んだ。原因は、梅毒の重症化であった。
玉菊の墓は立派なものを建て、白と赤の菊の花を植えた。私は菊を妻として迎え入れてから、吉原に通うことをやめ、彼女の死後も、妻や愛人を作ることはなかった。
玉菊の、死に際の言葉が忘れられないのだ。あの時、彼女はこう言った。
「豊太郎様。ぬし様がこの先どれだけの人を愛したとしても、わっちはこれまでもこの先も、ぬし様ひとりを愛しています」
そんな私も、もう命は長くない。身請けした日の玉菊と、同じ湿疹が現れていた。私が死んだら、玉菊の墓の隣に寄り添うように墓を作り、紫色の菊の花を植えるよう命じてある。次の世でも、彼女と一緒になれることを信じて。
遊里に咲いた白菊の花 亜月 氷空 @azuki-sora
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