漂泊
一帯を包んだ香煙がすっかり消え失せたあとには、影絵のような桜の森だけが、御神木のなくなった、空白を縁取っていた。
「――残るはあの桜のみ。今ならおそらく、
ぽつりとつぶやいたのは、宙をすべってカヤに寄った、半透明の童だった。
水干姿に振り分け髪の、一見幼気なその童は、あざやかな黄色の瞳にほのか哀傷めいた色を宿して、じっとカヤを見下ろした。
「……なあカヤ、おぬし最初は、ここの澱みをまるっと呑む気だったろう。今もそれでも良いと思うか?」
カヤが童に向き直った。
「私はかまいませんよ。そうしたいのですか?」
「……まあな。ここに溜まっていた澱みの大半は、姫姿の妖が吸い出して散ったことで結果的に解放したから、当初の想定にくらべれば、呑み込む量はほんのわずかだ。それに」
童が境内へ視線を投げた。御神木の骸すら失われた境内を今も囲い続ける、黒く焼け焦げた桜森を見つめる。
「……ここの澱みの大本となった存在はな、最期の最後、少しだけ気を晴らしたろうよ。ゆえにもう完全に、消し去られても良かろうが――我は、これを『浄化』されたくない」
幼い童の姿をしたその存在は、慈しむように目を伏せた。
「元になったその思いを、昇華し消し去られたくはない」
そんな童を見上げていたカヤが、うなずいた。
「わかりました。では祓うのでなく、呑みましょう」
「……良いのか?」
「あなたからのお願いは貴重ですから」
淡々とそう答えたカヤが、境内に向き直る。童がすっと、その前に出た。
「――『
りいん、と鈴が鳴るように、カヤの声が虚空に響いた。
「『聞こし召せ』」
童が水干の両手を広げた。両手の間の中空に、ぽかりと暗い穴が空く。手鞠ほどの大きさだったその穴は、見る間に大きく広がって境内を丸ごと呑み込んで、消え失せた。
フヨウは目を瞬いた。
暗い穴に呑まれたかに思えた境内は、変わらずそこに存在していた。ただし、それを囲んでいた桜の森は一本残らず消え失せて、白藍色した冬の空と、白い玉砂利の地面だけが、そこにあった。
朽ちた社務所も手水舎も、混乱の中で消え去っていて、灰白色の石鳥居だけが往時を偲ぶ墓標のように、無機的に佇んでいる。かつてここに息づいていたものたちの、名残はもう、何ひとつない。
宙に浮かんだ半透明の童の後ろ姿が、石を投げ込まれた水面のように、ぐらぐらとゆがみ揺れていた。だが、その揺れもしだいに収まっていき、やがて元通りになった。
童がくるりと振り向いて、カヤの左肩付近に戻った。
「呑んだ。取りこぼしなしだ」
「はい、たしかに。……少しお休みください」
素直にうなずいた童が、溶け込むように、カヤの身体に入っていく。
そうして童が完全に、カヤの内側に消えてから、カヤが視線を向けた先を、フヨウも見た。
まっさらに漂白された境内に、結わえた黒髪を風に揺らせる白い狩衣のアララギが、ぽつんと立ち尽くしていた。
アララギが、社を穢すことになっても傷つけさせまいと守っていた、香神木の骸は消えた。アララギの枷にして、アララギの最後の拠り所。それが消滅したことでアララギは、この先さらに生きるための
それでも幸せにと願われた、香神木の最後の神官は、放り出された幼子のように、あるいは、自責に沈んだ罪人が無罪放免とされたかのように、呆然と、愕然と、ただ立ち尽くしていた。
「我はもうねぐらに戻るぞ」
絡繰灯龍の声が響いた。
けれど声のした方に、灯籠をいくつも連ねたような、火を吐く龍の姿はなかった。黒髪に珊瑚の唇をした、娘の仮姿さえもなく。代わり、拳大ほどの火の玉が、明るい朱金に輝いていた。
そんな無防備な姿となった絡繰灯龍の言葉を受けて、ぴくりとアララギの肩が揺れた。玉砂利よりさらに白いような顔が、ゆっくりと、かつての好敵手を振り返る。そうして絡繰灯龍――であった火の玉と向き合った顔はなんの表情も浮かべられていなかったけれど、その金色の瞳にだけは、縋るような色があった。
「おまえも、消えるのか」
「消えるのでなくねぐらに戻ると言ったのだが――まあ、また当分は眠ることになるな。おそらく百年二百年ほどは、起きることはあるまいよ」
そうか、とアララギはつぶやいた。ひどく虚ろな響きだった。
じっと見ていた――目はないもののそのように見えた――火の玉が、ひとつ、人間くさいため息を落とした。
「――仕方がないの」
ほよほよと宙を漂って、火の玉がアララギに近づいた。その白い狩衣に焦げ目を作る寸前で止まる。
「ひとつ
――さて、とカヤが口を開いた。
「
残された華やかな着物を、たったひとつのよすがのように抱きしめている青年符術師がうなずいて、噛みしめるような声で応じた。
「……都に戻って、報告、します。瘴気も澱みも綺麗さっぱりなくなり、蛇の目の邪術師もいなくなったと」
アララギが、ほんのわずか、目を見開いた。
「……どうして」
青年符術師は、アララギの視線が向けられたことに驚いた顔をして、それから、どこか居心地悪げに目を逸らした。
「……いなくなったでしょう。『蛇の目の邪術師』は。游宮を頼るのは都にとっても苦渋の決断だったはずなので、『蛇の目』がいなくなったとわかれば、游宮への『蛇の目』の討伐依頼は取り下げられるかもしれない。……見つけて死体を確認するまでは安心できないと、取り下げられないかもしれませんが――、報告はします」
「恨まないの、ですか」
ぽつり。アララギが、つぶやいた。
「僕は、都から遣わされた討伐隊を――符術師や兵士をたくさん殺した。呪詛も全部、打ち返して――」
「そう、先にこちらから殺しにかかって、結果返り討ちに遭った」
青年符術師がそう、アララギの言葉を遮った。
「それを憎みこそすれ、恨むのは筋違いでしょう。……以前の僕なら、言っていたでしょうけどね。上の命令に従うしかなかった無辜にして無名な僕らを、無情に屠った
後半、薄く嗤った青年は、振り切るように首を振った。
「もう言いたくないんです、みじめだから。全部あなたのせいにして安心していたくない。僕は――弱者であることに、無名であることに、あぐらをかくのはもうやめたい」
風が吹いた。
火の玉がぱちりと爆ぜた。
「――行くぞ」
ふよりと浮上した火の玉が、石鳥居へと向かい始めた。
「……討伐依頼が取り下げられず、游宮の術師たちが僕を討ちにくるとしたら、僕を同行させるほうが危険だと思う」
「それこそ、おまえが我をしっかり守れば良い話だ。……案ずるな、我はどこぞの香神木のように
ふよふよと漂いながら、火の玉が遠ざかっていく。
迷うように、躊躇うように、立ち尽くしていたアララギは、けれど火の玉が石鳥居をくぐり、外に出てしまったのを見たとたん、弾かれたように地を蹴った。最後の導に縋るような、あるいは、夏の闇夜に光虫を追う子どものようなひたむきさで、火の玉の後を追っていく。そんな一人とひとつの後ろ姿は、やがて山道の向こうに消えて、見えなくなった。
フヨウは社に目を向けた。
桜の森と御神木がなくなって、黒い水面もなくなって、ずいぶん閑散としたそこに、乾いた風が吹き抜けていく。在りし日の、ゆるく抱かれているような、深く息ができるような感覚はもうすでにない。今はまだわずかに漂っている淡い名残の気配すら、吹き行く風に押し流されて、霞と消えていくだろう。
かつての記憶を焼き付けるようにじっと社を見つめた後で、フヨウはくるりときびすを返した。一足先に山道を下った、カヤの後を追っていく。
(庇われるのは嫌だ。わたしも、
ひとひら、風に乗って、目の前を雪が舞い落ちていった。
白い桜の花びらに見えた。
或る香神木にまつわる 南紀朱里 @ruribeni
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