神霊の愛

「……いま」


 頼りなく細いその身体を、さっきまで龍をぎちぎちに縛めていた香りが、愛し子を守るようにやんわりと包み込んでいた。アララギの視線が、信じられないと言うように、恐れるようにゆらゆら漂い、正面の龍を見て止まった。

 答えを求めて縋るようなその視線をまっすぐ見返して、龍はひとつ、うなずいてやった。


「それはな、さっきまでずっと我についていたぞ。おまえを脅かすのは許さんと、ずうーっと、ねちっこく、執念深く、我をいましめていたのだ。だが、とっさに我を縛るのを止めて、おまえを守りに移ったと見える。縛められてなお吐き出した我渾身の炎が、あまりに強すぎたためだろう!」

「そんなはず、ない」

「ないも何も、気づいておらんのか? さっきだって守られたではないか。あの、いつぞやの娘を核にした妖がさっき内側から瓦解したのは、香神木の残り香によるものだぞ。その残り香に縛められたまま、妖に呑まれた我のおかげとも言えるが」

「そんなはずないんだ。僕はあの方に恨まれているはずで。憎まれて、責められているはずで。それが当たり前で……なのに」


 アララギが、今もやわらかく彼を取り巻く香りに、決して触れられはしないその加護に、畏れるように手を伸べる。そしてくしゃりと、顔を歪めた。


「なん、で」


 幼子のように、声は響いた。


「もうとっくに、見捨てられてしまったと思っていたのに」


 ふわりふわり。慚愧に震える白狩衣の薄い肩を、龍の目にはうっすらとした淡紫に見える香りが包んで、あやすように揺れた。


「どうして。どうして許してくれるのですか。どうして、愛してくれたのですか。僕はずっと、まちがってばかりで。こんなに心をかけてもらえるようなことなんて、何ひとつできなかったのに。こんなに慈しんでもらえるようなものなんて、何ひとつ持っていなかったのに」


 虚ろになっていたその心が、しとしとと満ちていくように。湿っていくその声をなんとなく黙って聞いてから、龍は改めて、アララギに告げた。


「戦えアララギ」


 黙って見返してくるきんいろの瞳に、龍はにやりと笑ってみせた。


「おまえには加護が戻り、我から縛めは消え失せた。かつての通りだ。今度こそ他人の邪魔も入らぬ。我と戦え」

「……なんのために?」

「おまえがそう願ったのだ、最後まで果たさぬか。……それにな、おまえが今なお背に庇う骸木むくろぎ、そこにもまだ、影蛇がいる」


 ――やめて!

 ――止めてアララギ、香神木が壊される!

 ――この上まだ、香神木を傷つけるの?


 炭化した木の内側で、蠢き騒ぐ声がする。元々巣くっていたものか、あるいは今、龍に呑まれる間一髪で、骸木の中へ逃げ込んだものか。どちらにしても、澱みを喰らい黒々肥大した挙げ句、アララギをけしかけようとするそいつらを、


「我は見逃せぬ。だがおまえとて、止めてと騒ぐそのさえずりが元の神霊の声でないとわかっても、むざむざ骸木が砕かれるのを、見過ごすことはできまいよ。――だから戦え」


 少しの間、考えるように目を伏せていたアララギが、やがてゆらりと両目を開けた。きんいろの双眸が研ぎ澄まされたように冴え、細い指の間に月白の呪符が生成されるのを見てとって、龍は笑みを深くする。そして龍も、一度目を伏せた。


 とたん龍の全身が、朱金の炎に包まれた。ゆらゆら揺れるその炎は周囲を燃やすことはなく、縦横に大きく広がっていき、やがて龍の輪郭に吸い込まれるようにして消え失せた。


 炎が消えたそのあとには、以前アララギとやり合っていたとき、「動く火の山」と呼ばれていた当時の姿そのままの、小山ほどもある巨大な龍が、暗紅色にそびえていた。


 アララギが軽く肘を引いた。しなった腕先、五指の間にすらり広げた真白の呪符を、龍に向かってまっすぐ放つ。応えて龍も、火を吐いた。


 吐いて放って、防がれて。朱金の炎と真白の呪符が、影絵のような桜の森の真ん中で、幾度となくぶつかり合い、砕け散り、合間に香が漂った。衝突の余波で、薄く残っていた瘴気は吹き飛んで、地面に落ちる朱金の火片で、玉砂利の隙間、わずか残っていた黒い澱みも蒸発した。


 そうして何度ぶつかっただろうか。次が最後の打ち合いになると、首を逸らしながら龍は思った。己の内に、残った火の気はごくわずか。火を吐けるのはあと一度。対するアララギも、空っぽになった手の中に、今一枚呪符を補充したきり、それ以上作り出す気配はない。

 石灯籠を連ねたようと言われた胴を赤く光らせて、龍は己の体内で、渾身の炎を練り上げる。アララギの、指間に挟んだ一枚の呪符が、まばゆいほどの白に輝く。

 満を持して吐き出した朱金の業火と、白光をまとった呪符がぶつかった。朱と白はせめぎ合い、反発の光と火花が周囲を満たし、耐えかねたように爆発した。押し寄せた爆風に、元の大きさを取り戻していた龍の体もなぎ倒される。倒れながら、体が無数の砂と化して、風に散っていくのがわかった。


(我の負けだな)


 香神木の残り香による呪縛が解けたとはいえ、完全回復には程遠いたましいを奮い立て、元通りの大きさに見せていた体だ。本当ならまだ人の娘程度の大きさになるのがやっとのところ、薄く引き延ばすことで見栄を張っていた体は、かつてアララギと戦っていたころよりずいぶん脆い。おまけについさっきまで、不本意ながら香神木の縛めが結界となって守られていたとは言え、龍にとっては猛毒同然の、澱みを煮詰めたような妖の腹に呑まれていたのだから。

 不利になるのは承知だった。それでも、どうしても龍は今一度、以前の姿でアララギと死合いたかったのだ。

 アララギの、己より遙かに巨大な龍を仰ぎながらも、一歩も怯まぬきんいろの目で、まっすぐ射抜かれたかったのだ。

 その目的を果たしたという意味では、と、炎の中でかち合った、きんいろの視線を思い出す。


(我の勝ち、とも言えようが――ああいやしかし、骸木は。残存の、影蛇どもはどうなった?)


 爆発の直後一帯を包んだ、白い煙が晴れていく。すでに体の感覚はないが、意識はまだ残っていた。反射のように、煙の向こうに、アララギの白狩衣を探す。


 アララギは、骸木の前、白い玉砂利の地面に倒れていた。

 けれど香神木の骸は、変わらぬ姿でそこにあった。

 ではその骸に逃れた影蛇も、と、もはや体のない龍が、内心歯噛みしたときだった。


 ――大丈夫よ。


 いとけない声が、聞こえた気がした。


 気を失っているのか、仰向けに倒れているアララギの身体から、淡紫の霞が立ちのぼった。アララギの上でふわりふわりとたゆたったそれは、やがて霞よりもさらに朧な、ひとりの娘をかたどった。

 薄墨色のやわらかそうな細い髪と、繊細優美な白い顔。淡い色合いの花びらを重ねたような衣裳の上に、たなびく春霞にも似た、淡紫の領巾ひれを羽織って。香神木の幻影が、うっすらと、無垢な目元に慈愛を湛える。静かで清浄で平穏だった、神代の在りし日と同じように。


 ゆらゆらと、不安定に揺れるその姿を、まがいものだと龍は思った。


 アララギを守っていたのは、そして龍を縛っていたのは、かつて香神木に宿っていた、神霊の残り香だ。当の神霊そのものは、とうの昔に失われている。失われたものは戻らない。だから、在りし日の神霊を模しているらしいあの姿は、たんなる幻影にすぎない。


 けれどその、今にも消えそうな儚い姿は背

の骸木を振り返ると、幹に小さな白い手を当てた。


 ――枷は、持って行くから。


 真っ黒に炭化した骸木に、淡い紫の光が灯った。その光は亀裂のように幹全体に広がっていき、白い煙を上げながら、骸木が千々に砕け散った。


 煙る香気が辺りを満たす。香る白煙に包まれて、神霊を象った娘の姿も、ほどけるように消えていく。今にわかに上体を起こし、愕然とした様子のアララギを、幼子を見守るような、やわらかなすみれの瞳で見つめて。


 ――幸せにおなり。


 アララギの横顔がひどく歪むのが見えて、龍は、ゆるりとそこから、意識を逸らした。


 香の匂いが薄れていく。


 吹き寄せてくる乾いた風を、龍はじっと感じていた。





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