終 風の通い路
散り紅葉の夢
呪符が貼り付いたそこから、白い稲妻のような亀裂が、元は姫君だったらしい妖の全身に広がっていき、妖の身体が砕け散った。
赤黒い瘴気が四方八方、血飛沫のようにほとばしり、黒く澱んで粘つく水が驟雨のように降りそそぐ中、姫の妖に巣くっていた影蛇や、喰われて取り込まれていたらしい妖悪霊魑魅魍魎、有象無象が飛び出してきた。それに混じって、紅を基調とした着物をまとった、娘姿の絡繰灯龍も、五体満足で放り出されてきた。
空中でくるりと一回転し、四つん這いで着地した龍たる娘は、黒い雨粒に濡らされながら、黒髪を振り乱して叫んだ。
「まだだ! 肉片が無事であるかぎり、こやつらまたくっつくぞ!」
叫びながら、人の娘の姿のまま、絡繰灯龍が口を開ける。その喉の奥にぼんやりと赤い炎が灯ったが、火花だけ小さく爆ぜて消えた。
「……ええい!」
どうやら力が尽きているらしい。それでも無理矢理吐こうとでもしたのか、絡繰灯龍が派手に咳き込む。その頭上で、赤黒い瘴気が渦巻いた。砕け散った汚泥の肉片が、影蛇とその他諸々が、ひとまとまりに巻き込まれ、新たな肉塊になろうとする。その中心を、緑の光をまといながら風を切って飛来した、一本の矢が貫いた。
その矢には、どこかの深い常盤の森の、幽遠な神気が乗っていた。矢の来たほうを振り返れば、さっきまでフヨウを抱えてくれていたカヤが、朱塗りの弓を構えていた。
矢が貫通した衝撃で、結びつこうとしていた肉塊が、再びばらばらに散らばった。そこをさらに射抜かれて、砂粒ほどまで細かく砕け、風にさらわれ消えていく。そんな中唯一、鮮やかな色の塊だけはまだ形を保ったまま、打ち捨てられるように落下していった。
境内を満たした黒い沼は姫の妖によってほとんど吸い上げられていたが、今また降りそそいだことで、黒く澱んだ水溜まりがいたるところにできていた。そのうちの大きなひとつに、鮮やかな色の塊、もとい、華やかに綾なす着物は、落ちた。
「……あら、らぎ」
黒く撥ねた飛沫に交じって、小さな少女の声がした。
カヤがちらりと、さっき姫の妖に向けて、呪符を放った青年を見た。浅葱色の狩衣を身にまとい、目に見える武装はしていない、おそらく都の符術師だろうその青年は、最後に呪符を放った体勢のまま、ぴくりとも動かなかった。
呼ばれた当のアララギも、指間の呪符を放ち尽くして空になった両手のまま、呆然と立ち尽くしている。
小さく息を吐いたカヤが、ゆっくりとその、華やかな着物に近づいた。袴が濡れるのもかまわず、そばの地面に膝をつく。
カヤが黙って見下ろしている華やかな着物に目を凝らし、フヨウはそっと息を呑む。姫の妖がまとっていたのと同じ、豪奢なその着物の下には、濡れたような黒髪と、白い髑髏がのぞいていた。
「……あぶないところを、ありがとう」
少女の声が、そう言った。か細くかすれていたけれど、微笑んだような気配があった。
いえ、とカヤが、静かに応じた。
「もう大丈夫ですよ。……珠姫様」
「……ふふ。ふふふ……」
少女の小さな笑い声が、湿った空気を震わせた。
ふっと、笑い声が途絶えた。白い髑髏がさらさらと、砂のように崩れていく。それは黒く湿った地面に溶けて、見えなくなった。
目を見開いて硬直していた、青年符術師が崩れ落ちた。震えながら、這うようにして近づいて、残された着物を手繰り寄せようとして、けれど触れられず、指をぎゅうっと握り込む。
カヤが無言で、その手に着物を掴ませた。
「――さて、いい加減おまえも目覚めぬか」
絡繰灯龍が言葉を放てば、姫の妖が消え去るさまをただ見送っていたアララギの、薄い肩がびくりと揺れた。不安定にさまよった視線が、鳥居を背にして正面に立つ、いまだ娘姿の龍で止まる。
思い出したようにその十指の間に、光の呪符が生成された。
「来る、な」
かすれた声が、静かになった境内に、妙に響いた。
「これ以上、だれにも、香神木は、傷つけさせない」
縦に細く瞳孔の開いた、稀なる金の双眸が、寄る辺なさと狂気の合間でゆらゆらと揺らめいていた。
「せめて、せめて、これ以上は」
「……気づいておらんのか? おまえの背にあるそれはもう、香神木などではない。それは空洞、空の骸。その中にはもう何もない」
アララギが、きつく唇を噛みしめた。
「だけどもう、これしかない――僕には、せめてこの骸を護ることしか、あの方にできることがない! なんの償いにもならなくても、それでも、もうこれしか」
「ああそうか、ならばせいぜい護ってみよ」
言い捨てて、龍は口を開いた。
境内のあちこちにできた黒い水溜まりが、そこに隠れた影蛇たちが、にわかに煩く騒ぎ出す。
――来るよ、来るよ、来るよ、来るよ。
――アララギ、止めて、止めて、アララギ。
――失われるよ、お社が、失われるよ。
――香神木のお社が、完全に失われてしまうよ。
「止めろ!」
絡繰灯龍が火を吐くと同時、アララギからは呪符が飛んできた。
朱金の炎が月白の呪符に、相殺されて砕け散る。
何度かその衝突を繰り返し、次第に押され始めたのは、絡繰灯龍のほうだった。
――追い出して、追い出して、追い出して。
炎が呪符に破られて、
――殺して、殺して、殺して、殺して。
炎で相殺しきれなかった呪符の衝撃の余波が、龍の体を後退させる。
――我らの脅威、絡繰灯龍、ここで殺して。
忌々しい、と龍は内心で舌打ちした。
「いいように利用されおって! おまえはいつから影蛇どもの守り役になった!」
――無駄だよ、おまえの声など届かない。
ゆらゆら揺れる瞳のくせに、憎らしいほどぶれのない呪符が、龍の体を打ち砕く。
――アララギの生きる意味はもう、ここの守護にしかないのだから。
――罪悪感でみずからを、この地に縛り付けたのだから。
「黙れ!」
視界が揺れて、霞んで、ゆがむ。それでもまだだ、と龍は腹の底、己に残るすべての熱量を、掻き集めて練り上げた。
(だっておまえは願ったではないか)
――「どうか己と戦い続けてくれ」。
――「どうかいつまでも己にとって、命を賭けられるだけの、強力な敵であってくれ」、と。
(人の願いというのはな、当の人が思うよりずっと、
龍は、体を内からひっくり返す勢いで、渾身の朱金の火を吐いた。
「目を覚まして我を見よ、アララギ――!」
まわりの景色を揺らめかせながら猛然と飛んだその火の玉は、アララギどころか境内まるごと呑み込む大きさに膨れ上がった。炎が渦巻く轟音と、爆ぜる火花が辺りに響く。月白の呪符が迎撃に飛ぶも、今度とうとう押し勝ったのは、龍の炎のほうだった。境内を呑んだ朱炎の向こうに、アララギの姿が掻き消える。
――香の匂いが漂った。
ふっと、龍の体が軽くなった。
(枷が)
これまでずっと龍を縛めていた、香の臭いが、今、外れた。
とっさに龍は、口を開けた。大きく息を吸い込んだ。
龍の口を起点として、渦巻く空気の流れが生まれた。細くも猛烈な竜巻のようなその奔流は斜めに地面に突き刺さり、黒い水溜まりを巻き上げた。方々でどす黒い飛沫が噴き上がる中、風の渦に巻き込まれた影蛇たちが、澱みの水ごと攪拌されながら、龍の口まで運ばれてきた。
次々と、次々と。汚泥の水といっしょになって口内に押し寄せてくる影蛇を、龍はひたすら呑み下した。
龍に呑まれた影蛇たちは、たちまち崩れて灰になる。だから、影蛇をいくら呑んだところで、龍の腹が満ちることはない。ただ、影蛇が灰に転じる瞬間、閃くように生じる熱が、龍の腹から総身に広がり、龍を満たす。
さながら霞が引くように、朱金の炎が晴れていく。濃くたゆたっていた瘴気はほとんど薄れ、いたるところにあった黒い水溜まりもすっかりなくなり、白い玉砂利で覆われた地面があらわになっていた。
そんな境内の真ん中で、変わらず白いままの狩衣で、傷ひとつないアララギが、けれど呆然としたように、白い顔を上げていた。
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