夕菅の述懐

「退治依頼を受けたとき、ここの事情は聞きました。もともとは願いを叶えてくれる神木の神域だったのに、いつからか悪霊が棲みついて、訪れた者に不幸をもたらす場所になったと」


 でも、と。あらわな白い額の下で、見透かすような瞳が光った。


「そうして『悪霊』になって、気は晴れましたか?」


 夕菅ゆうすげは、答えなかった。ただ、瘴気だけがさらに濃さを増した。


「……そんなはずはありませんよね。晴れていないからこうしてここに、澱みうずくまっているんですから」


 カヤの声は淡々としていた。蔑むでもなく、哀れむでもなく。


「そうして腐っていくくらいなら、私と契約しませんか。あなたたち幽世かくりよの存在は、現世うつしよの人と契約を交わすことで、本来以上の力を振るえるようになる。そうして新たな目線を得ることで、見えてくるものもあるかもしれませんよ」


 夕菅はやはり答えなかった。力などほしくはなかった。現状から抜け出したいわけでもなかった。自分は、ただ。

 だんまりを貫く夕菅に、わずか、カヤの声質が変わった。


「……そもそもあなたが祟ったのはあくまで、この場の神霊が消滅してからも願いをかけに訪れた人々の一部にすぎない。それも、一攫千金を成したはいいがだまし取られて落ちぶれるとか、玉の輿に乗ったはいいが婚家になじめず苦しむだとか、そういうせせら笑うようなものばかり。直接命を取りにいくほどの憎悪は含んでいなかった。にもかかわらず、この場に満ちている怨念は強い。……あなたが本当に呪っているのは、だれですか?」

『この場を踏み荒らした者どもに決まっているだろう。さっさと立ち去らぬなら、おまえも例外ではなくなるぞ』

「最初の頃にここの神木に願いをかけて、叶えられて栄達した者の子孫は、いまだなんの報いも受けることなく繁栄を謳歌していますが、それはいいのですか?」

『……良くは、ない』


 そうですか、とカヤが小さくうなずいた。


「しかし今のままでは、あなたはここから動けません。思い知らせてやりたくとも、せいぜい手の届く範囲のものに、恨みをぶつけることしかできないでしょう。――だから、私と契約しませんか」


 すらりと、カヤが両手を開き、瘴気のほうへ差し伸べた。


「取り憑く先を、この場所から私の身体に変えて、今後私が困ったそのときは、あなたの力を貸してください。そのかわり私が死んだあとは、この身体も魂も、すっかりあなたに差し上げます。そのあとは、自由に動ける身体を使って復讐しようがどうしようが、あなたの好きにすればいい」

『……やかましい、何もわかっておらぬくせに知った顔で、そこらの妖といっしょにするな!』


 夕菅の怒声とともに、ごう、と瘴気が渦巻いた。濃紫の突風が、カヤの髪を、衣の裾を巻き上げる。それでも表情ひとつ変えぬカヤが、憎らしかった。


『我は力などほしくない、自由であろうがおぞましい、人の肉体などいらぬ! なぜ我が変わらねばならない、憎まねばならない、醜く力を欲さねばならない? あの望者もうじゃどもさえ押し寄せてこなければ、そんな変化の必要はなかった。この神域はずっと綺麗で涼やかで、静謐なままであったのに!』


 そうして夕菅も、あの方の神域に似つかわしい、儚く清らな草木精として、幻のような空間にただ漂っていられたのに。

 変わりたくなかった。変わりたくなんてなかった。深い深い眠りについて、目が覚めたら全部悪い夢で、すべてが元に戻っていることを期待していた。

 あの方が、白花の木の神霊が、人の願いを叶えてしまうその前に。


「――ここの神木に、最初に救われた者の子孫はね」


 ぽつり、カヤがつぶやいた。


「今もかの神木を、自分たちの救い神と崇めていて……新たに生まれてくる子にも、話して聞かせているそうですよ。夏の夜、道に迷って道をはずれ、途方に暮れていたご先祖を、闇にほのぼのと白く咲く美しい神木が、哀れみ導いてくださった。おかげで先祖は、闇の中獣に襲われることもなく無事に里へと帰り着き、なればこそおまえもこうして、この世に生まれてこられたのだと」


 知るはずもないその情景がやけに鮮明に思い浮かんでしまい、痛みが走った。


 そうだ。人の願いを叶えたのは、あの方だ。

 だれに強いられたわけでなく、最初に、あの方がみずから叶えたのだ。

 それを聞きつけてやってきた人々の願いも、あの方は叶えた。次々に、美しく白い花を散らしてまで。我も我もと集まってきた願いなどすべて無視してしまえば、最初のひとりが救われたのはただの偶然とみなされて、人の訪れも絶えたかもしれないのに。

 あの方は、最期まで人の願いを叶えることを選んだ。それで押し寄せる人の気によって神気が薄れ消えていっても、自分自身が消えていっても。最期まで慈悲を振りまいて、願いを叶えて、逝ってしまった。


 そんな残酷な慈悲など、示してほしくなかったのに。いつまでも、夏の夜の闇の中、幻のように白く咲く、甘く涼やかで静謐な、自分たち草木精だけの、神木であってほしかったのに。


 人々の願いを叶えたあの方は、夕菅の願いは叶えてくれなかった。

 人々の願いは叶えたくせに、夕菅の願いは――。


(……ああ、そうか)


 そこで、夕菅は気づいてしまった。

 気づいてしまったから、もうこのままではいられなかった。このままここでひとり澱んでいたのなら、遠からず夕菅はきっと、あの方を恨んでしまうようになる。


「私といっしょにいらっしゃい」


 だから夕菅は逃げるように、差し伸べられたその手を取った。




 幽世のものが現世の人と契約すれば、それまで以上の力を振るえるようになるというのは真実だった。

 それまで靄のような形しかとれなかった夕菅は、人の童のような姿を形作れるようになったし、できることも、人に因果をもたらす以外に、ずいぶん増えた。

 けれどそんな夕菅を身に憑けたカヤは、その後も熱心に弓やら符やらの鍛錬を続け、依頼されて妖退治に出向いても、弓矢や符で敵を倒してしまうことばかりだった。


「我を使えばよかろうに」


 半分あきれて言った夕菅に、カヤは片眉を上げてこたえた。


「あなたにすべての面倒を託して己を磨くことをやめたら、私はあなたのたんなる付属物に成り下がるではありませんか。それでは本末転倒です」

「ならばおまえはなんのために我の手を取ったのだ。あれほどやたらに煽ってまで」

「やたらに煽ったつもりはありませんが。――よりいっそう役に立つものになるために、できることを増やしたかったのですよ。身につけているわざは、多ければ多いほどにいい」


 は、と夕菅は目を剥いた。


「おま……それでは釣り合わぬではないか。人の魂とは、たかがひとつの『できること』を増やすために、他にくれてやるようなものではないぞ」

「ああ、それについてはご心配なく。私の魂とやらはこの一生で、塵も残さず使いきるつもりですから。むしろまともに取り分が残っているかどうか、そちらを心配されたほうがいいでしょう」


 さらりと言ってのけるカヤに夕菅は呆気にとられたが、悪い気分にはならなかった。


 カヤを宿主としたことを、今の夕菅は後悔していない。


 けれどそうして、カヤに憑いて海を渡り、游宮ゆうみやを知り、游宮に妖や悪霊退治を依頼するさまざまな人の暮らしを知ったのちも、かつて抱いてうずくまっていた気持ちは変わらず残っている。


 変わりたくなかった。変わってほしくなかった。

 変わってしまうくらいならいっそ、美しいままで、儚いままで、ともに滅びてしまいたかった。

 夕菅たちだけの美しいものであってほしかった。

 なのにあの方は、そんな夕菅の思いをよそに、人を受け入れ甘やかし、その果てにひとり逝ってしまった。


(もしも)


 もしもあのとき夕菅が、あの方に縋っていたならば。置いて逝かないでと、変わらないでとそう願っていたならば、何か変わっていただろうか。


詮無せんないことだな)


 そんなことできやしなかった。夕菅にとってあの方は、不可侵であるべき神域だった。夕菅の嘆願によってあの方があり方を変えてしまうことなど、夕菅は受け入れられなかった。


(だが結局は、幻想だ)


 夕菅が守りたかった美しいもののは、夕菅があの方に対して抱いていた幻想にすぎなかった。だって結局最後まで、夕菅には、あの方が何を思っていたのかわからなかった。何を思って人々の願いを叶え、消えていったのかわからなかった。

 変わらないこと、そのひとつしか、夕菅はあの方に望まなかった。関心を向けてほしかったわけではないし、言葉を交わしたかったわけでもない。ただあの方の神域で、夢うつつにたゆたっていられたらそれだけで良かった。そうしていれば――幻想と現実の落差に気がつくこともないから。


(臆病だっただけだな)


 ――でもな、桜、それでも我は。


 呪符に桜の力が乗って、瘴気を切り裂いていくさまを、見守りながら、夕菅は思う。


(……あの方のことが好きだったし、ずっとそばにありたかったよ)


 ぴしり、妖の身体にひびが入る。同時に呪符が蒸発する。

 呪符が消えたそのあとに、はらはらと黒い桜が散った。その花びらは、砕けた妖から噴き出した赤黒い瘴気の風に舞って、四散する。

 そのひとひらを、カヤの腕からすべり降りた娘が両手で受け止めて、そっと静かに目を伏せた。





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