夕菅の追憶

 ――「いったいどこで間違えた。どこからが間違いだった」。


 廃れた社を目にしたときから、ずっとずっと聞こえていた。


 ――「わたしは人間たちとは違って、愛してなんていなかったのに」。


 元は同じ草木精くさきのせいで、そして、同じような思いを抱えた夕菅ゆうすげだからこそかすかに拾える、澱みと穢れに埋もれて、絶え絶えに響く悲嘆の声。


 ――「そんな情を向けることは、あの香神木への冒涜だから。だから、愛してなんていなかった。私はただ、変わらぬあの神木を、ずっと見ていたかっただけ」。

 ――「心を交わす気などなかった、そうすれば変わってしまうから。変わらない、あのままの香神木をずっと見つめていられたら、ただそれだけで良かったのに」。

 ――「間違えて、汚れて堕ちて、香神木を死なせたばかりか、社もこんなに穢させてしまう……!」


 泣き声ではなかった。けれど、血を吐くような嘆きだった。

 だから、


「あの頃まで戻してくれ――!」


 ミズキと名乗った都の符術師が絶叫しながら放った呪符に、幽世かくりよの桜の力が載ったとき、夕菅は驚かなかった。

 さもありなん、と思った。

 溜まり溜まって澱みきった思念は、己の願いに近いと思えるものに同調する。かの符術師の叫びは、「あの頃」のまま、変わらぬままでいたかった桜の叫びでもあったのだろう。

 どうかどうか変わらないで、美しいままであってくれ。特別なままであってくれ。……けれど、それは。


(結局のところ手前勝手な幻想に浸り、それを相手に押しつけようとしていただけではないか?)


 胸中でひとりごちて、夕菅は、かすかに嗤う。


(――少なくとも我は、そうだった)


   ◇


 夕菅はもともと、とある神域に咲く花だった。

 その神域の主は、美しい白い花をつける神木だった。けぶるような梅雨の隙間の、雨に洗われた夏の夜、闇にひときわ白く咲いては、甘い芳香を漂わせた。

 その静謐が好きだった。洗い立てで透き通る闇と、地を潤す水の匂いと甘い香りに包まれた、幻のような空間が好きだった。その場に咲いていられることが幸せで、夢見心地のそんな時間がずっと続くと思っていた。


 けれどあるとき、あの神域がいっとう美しい夏の夜に、ひとりの人間がやってきた。道に迷って日が暮れて、闇に包まれ難儀して、香りに誘われやってきた。闇の中で光を放っているように白く清く咲くあの方を見て、これは神木に違いないと、どうか里へ戻れますようにと、縋る思いで願いをかけた。

 あの方は優しかったから、その願いを叶えてやった。ひらりとひとつ、花びらを落として。

 おかげでその人間は無事に己の里に帰って――お礼参りにやってきた。

 そして、いつしか人の間で、あの方は噂になった。願いを叶えてくれる木があると。


 たくさんの人間が、あの方を求めてくるようになった。往来する人の足で踏み固められたその結果、人里から隔たった草深い場所にあった神域に、人里へ通じる道ができてしまった。道ができればなおいっそうに、遠くからも人が押し寄せた。

 どうかどうかと、熱をもって、欲をもって、痛みをもって、かけられる願いをあの方は叶えて、叶えて叶えて――。


 神域は、押し寄せた人の熱気で満ちた。もともと神域を構成していた、静謐で涼やかな神木の神気は、跡形もなく消えてしまった。

 そして、白い花をつける木自体はそのままに、その御霊みたまたるあの方は、存在を保てなくなり消えた。まるではじめからいなかったように、なんの名残も留めずに、夏の夜の幻のように、儚く消え去ってしまった。


 主たる神霊がいなくなったその神域に、そうとは知らず、噂に縋る人々の訪れは続いた。ここに来れば願いが叶うという人の念で満ちたその場所は、神域とは別の何かになった。見た目こそ変わらないけれど、まったく違うものになってしまった。


 うつつばかりか追憶までも、土足で踏み荒らされた気持ちだった。


 引きも切らずに訪れ続ける、望者もうじゃたちが憎かった。かつてはたしかに神域であったこの地を踏んだ者すべてに、思い知らせてやりたいと思った。

 あの方のそば近くに息づいていた、夕菅以外の草木精は、とっくに消えたり逃げ出したりしていた。けれど夕菅は、儚く消えてやるつもりなどなかった。逃げたくもなかった。


 ――「ああどうか御神木様、この願いを叶えてください」。


 叶えてくれだと? あの方が、次々花を散らしながら叶えてやったそのかわりに、おまえたちは何をしてくれた?

 ふざけるな、とつぶやいた夕菅の声は、ひどくおぞましい響きを帯びていた。


 そして、そこからさらに長い年月が流れ。


 願いを叶えてくれる神木の噂は、訪れれば不幸が起きる場所の噂へと形を変え、やがてかつての神域には、だれもやってこなくなった。

 ようやく静謐を――静謐だけを取り戻した場所で、夕菅は眠っていた。

願いを叶えてやるかわり、代償もきっちり取り上げることで、あまたの人間に不幸と凶事をもたらした、その鬱々とした怨念をとぐろのように巻きつけたまま、深く深く眠っていた。

 そんなあるとき、ひどく久々に、しとりと地を踏む音がした。


「災厄をもたらす悪霊を、浄化してくれと言われて来たのですけれど」


 声変わりも迎えていない、人の子どもの声がした。

 夕菅は、低く嗤った。


『――今さらか?』


 濃紫の瘴気立ちこめる中空に、目に見える姿形をとることもなく、ただ声だけを響かせた。そんな夕菅に、やってきたその子どもは――なんの変哲もないひとつに括った黒髪と、染色していない簡素な着物に、背負った朱塗りの弓だけがひどくあざやかだった、三年前のカヤは――恐れた様子なくうなずいた。


「人の住む領域の近くに悪霊が巣くっていることを、いつまでも見過ごすわけにはいかないそうです」

「近くしたのはそちらだろう。もともとここは、迷い込みでもしないかぎり、人などやってこない場所だったのだ」


 夕菅の感情に呼応して、その場の瘴気が濃度を増した。濃紫の澱んだ瘴気が、風に煽られた煙のように、いっせいにカヤのほうへと向かった。背負った弓の弦を弾いてそれらの瘴気を払ったカヤが、おもむろに細い首をかしげた。


「――ねえあなた。私と契約しませんか」




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