一陣

「この場所にいた蛇たちは……そういうことを望んでいるふうには、見えなかったのに」


 カヤに庇われている娘が、呆然としたようにつぶやく。


「この手のやつらはな、あまたの思念が混ざり合い、時間をかけて煮込まれた結果、己の本当の想いなど、己が元々願っていたことなど、わからなくなってしまっている」


 そうでなくとも己の本当の望みなぞ、わからぬことが多いのに。――そういう童の口調には、わずかに苦いものがあった。


「だから、己の願いに近いと思えるものや、己は本当はそれを望んでいたのかもしれないと感じられるものを示されたなら、一挙怒濤にその方向へ流される。溜まり溜まって澱みきった思念というのは、いつだって捌け口を求めているものだからな。――そうやって、沼とあの姫、双方の澱みが合わさったなら、もはや我にも手に負えぬ。呑んだらこちらが呑み込まれよう」


 うなずいたカヤが、引き絞って矢を放った。それはぶくぶくと肥大していく姫の身体に当たり、一部を砕き、泥と散らせた。同時に、アララギが放ち続けている呪符も次々姫に命中し、みるみるその身を破壊していく。


「やめろ――やめてくれ!」


 ミズキは、新たな矢をつがえようとするカヤの腕に縋りついた。


「助けてください、珠姫様は妖じゃない!」


 カヤは微動だにしなかった。かわり、大仰に肩をすくめてみせたのは、その左肩上空にいる半透明の童だった。


「あれが妖でないのなら、我は清らかな精霊だな」

「あなたたちは知らないんだ、珠姫様は妖じゃない。妖じゃ、なかったんだ」


 常春に咲く花のような、だれからも愛される姫だったのだ。生まれにも境遇にも恵まれて、にもかかわらず、ミズキのような者にでも分け隔てない笑顔を向けて、小鳥のさえずるような声で「いつもありがとう」と言ってくれる、そんな尊いひとだったのだ。

 愛され、守られるべき姫君であり、退治されるべき妖などではない。なかったのだ。


 水位の下がった黒沼の中、完全に起き上がった姫が今一度、アララギに向かって進み出す。肥大化し、見上げるばかりのその姿はもはや、黒い汚泥の山のようで、姫の面影を残しているのは黒髪と、今にもはちきれてしまいそうな紅葉襲の衣だけだった。

 風切り音を伴って、アララギの呪符が進行を阻む。けれど、そうして呪符に砕かれた箇所に、澱みでできた黒い汚泥が内側から盛り上がり、瞬く間に傷を塞いだ。


『ふふ、ふふふふ』

『すごいでしょう?』

『そんなもの、もうきかない』


 姫がアララギに迫っていく。呪符に砕かれても砕かれても、即座に補修し、さらに大きくなって。そしてとうとう姫の影が、炭化した木を背に構える、アララギの頭上に落ちた。


『こいねがうのは、もうおしまい』


 黒い汚泥の山と化した姫の前面が裂けて、大きな紅い口が開く。


『すっかりたべてあげる』


 この期に及んでなお、炭化した木の前から動こうとしないアララギに、姫が覆い被さっていき――、


 ふわり。花の香りが漂った。


『きゃあああああああああ!』


 姫の全身に亀裂が生じ、白い煙が噴き出した。黒い汚泥が内から亀裂を塞ぎ埋めるが、そうする間にも別の場所にまた新たなひび割れができ、香の匂いの煙が噴き出す。

 アララギの呪符を受けても即座に補修されていた姫の身体が、見る見るうちにひび割れだらけになっていく。


『いやだ、なに、どうして』

『まさか、香神木……? うそだ、そんなはずは』

『ああ、でも、この匂い』

『おのれ、一度ならず二度までも』


『――嫌ダ、消エテ、タマルカ』


 最後の言葉に、もう姫の声の名残はなかった。


 躍起になったように、姫の足下の黒蛇たちが、嵩の減った沼の水を吸い上げる。黒い泥の巨塊と化した、姫の身体がこれまで以上に、ぶくぶく泡立ち、揺らぎ歪んで、


 黒髪が呑まれ消えていく。

 紅葉襲が消えていく。

 珠姫という少女の名残が、怒濤のように吸い上げられる、澱みに潰され消えていく。


 ――「救えませんよ、あれはもう」。


 さっき聞いたカヤの言葉が、ミズキの中で反響した。


 助けてくれると思ったのに。アララギは無理だったけれど、カヤならばもしかして、救ってくれると思ったのに。


 どうしてこんなことに。珠姫様はあんなにも、華やかで、幸せで、まわりをも幸せにする人だったのに。そしてミズキは、そんな珠姫様を遠目に眺めていられたら、ただそれだけでよかったのに。


 ――「こんにちは。いつも守ってくださってありがとう。これからもよろしくね?」


 秋晴れの日、美しく整えられた庭の、まだ淡い紅葉を背に、出会えたことが嬉しくてたまらないというように微笑んで、言われた言葉が甦る。あのとき、ほわりと温かくなった胸を押さえて、少しだけ上等なものになれた気がしたことも。


 ミズキは唇に歯を立てた。生温く口内に広がる血の味を噛みしめながら、姫だったモノを、白煙に苛まれながらも黒沼の澱みを吸い上げ続ける、蛇の群れを、睨みつけた。


(返せよ。珠姫様を返せ)


 珠姫様は美しい人だったのだ。

 幸せの象徴だったのだ。

 たとえ姫がみずから堕ちた結果がこれなのだとしても、そんなもの、ミズキは認めない。

 ミズキは姫に変わってほしくなかった。

 花のように笑っていたあの頃のままで。ミズキが思う美しいままでいてほしかったのだ。

 懐に手を伸ばし、ざらりと触れた紙の符を、勢いに任せ掴み取った。


「姫様を返せ!」


 叫んで放ったその呪符は、黒蛇たちに届くより前に、周囲に満ちた瘴気を受けて、腐蝕されるように溶け消えた。

 ならばと、新たな呪符を手に取って、ミズキは姫だったモノへと走り出した。

 黒沼の飛沫がかかる。瘴気を吸い込む。目の前がちかちかと明滅して、酷い吐き気と眩暈がする。

 視界が白煙と瘴気で霞む。大きく揺らいで横倒しになる。いつのまにか倒れてしまったらしい。歪む視界に、黒く泡立つ姫が見える。姫のわずかな名残すら、失われていくさまが見える。

 最後の紅葉が散るように、紅葉襲の欠片までもが、澱みの泥に呑み込まれる。


「……いやだ」


 倒れ伏した懐から、残りの呪符を全部引き出す。呪符の効果が皆違うから一気には使えないことも、こんな状態では到底まともに扱えないことも、すべて頭から飛んでいた。


「返せよ、珠姫様を返せ、あの頃まで戻してくれ――!」


 がむしゃらに放った呪符は、ほとんどすべて、瞬きの間に瘴気で朽ちた。


 けれど、ふいに、風が吹いた。


 かすかに桜の香りをはらんだ、その一陣の風は追い風となって、たった一枚生き残ったミズキの呪符を、立ち込める瘴気を切り裂いて、姫だったモノの元まで運んだ。


 澱み泡立つ黒山が、刹那、その動きを止めた。


 風に押された紙の呪符が、姫だった黒山に到達する。


 ぴしり。呪符が貼り付いたそこから、白い稲妻のような亀裂が、黒山の全身に広がった。

 そして、


「どんだけ澱みを呑んでおる、嫌がらせか!」


 派手に砕け散る黒山の中から、黒髪の娘が飛び出してきた。





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