混濁


 游宮ゆうみやから来た少年カヤに、この辺りで隠れていてください、と言われたから、ミズキは石鳥居の前までは行かず、山道の藪の中でうずくまっていた。そっと顔を出したなら、遠目に辛うじて境内の様子が窺える、そんな距離。

 寒くて情けなかったけれど、これが特別になれない己にとって相応の距離であり、姿勢だと思った。

 だから、瘴気立ちこめる山道に不似合いな娘二人が目の前を通り過ぎていったときも、ただ息を潜めていた。特別な人間であるカヤにすべてのことを託した今、ミズキにできることはただ、一部始終を見届けることだけだったから。


 ――そう、思っていたのに。


 生臭い臭いがした。疾風のような勢いで、質量が頭上を通り過ぎた。

 波打つ長い黒髪と、紅葉襲もみじがさねの後ろ姿が見えた。


「姫」


 気づけばミズキは立ち上がり、藪から飛び出していた。




 引かれるように山道を走り、堕地おちと山道とを隔てる石鳥居の前までやってきたミズキが目の当たりにしたのは、姫が、さっきミズキの前を通り過ぎていった娘二人のうちの一人、艶やかな黒髪のほうを、腹に呑み込む姿だった。


 姫は、符術師たちと衝突したときから今に至るまでの短い間に、また姿が変わっていた。


 両の袖からのぞくのが、前見たときは刀のような爪だったのが、青白い人の手に変わっていた。

 本来の姫の姿に戻った、わけではない。紅の長袴からは、相も変わらず黒々と肥えた無数の蛇が、赤い舌をちらつかせながらうごうごと顔を出している。


「あっさり喰われたな」


 立ち尽くしたミズキの耳に、カヤの脇に浮かぶ子どもが淡々と言う声が聞こえた。道中には姿を見せなかった、水干姿で半透明のその童は、明らかに人ではなかったが、今追究する気にはならなかった。


「ずいぶん弱っていましたから、無理もありませんね」


 応じたカヤが、背の矢筒から矢を取り出して、弓につがえる。つがえられたやじりの先が、浮上していく姫を追った。

 けれど上空で静止した姫は、一点だけを見つめていた。かつては社だったという堕地の中心、満ちる黒い沼の真ん中、黒く炭化した木を背に、胸元まで沈みながら、片膝を立て座り込んでいるアララギだけを。


『ねえ見た? アララギ、絡繰灯龍に勝ったわ!』


 見下ろし、呼びかけるその声は、姫と何匹もの妖が声を合わせているような、ひずみひび割れた音だった。小鳥のさえずりに喩えられた、軽やかで優しい声の名残は、もはやどこにも感じられなかった。


 アララギの応えがないことにれた様子で、姫が黒い沼に飛び込んだ。まるで大岩が投げ込まれたように沼の水面が激しく揺れて、黒い水が溢れ出す。ミズキの立っている場所も、みるみる足首ほどまで浸されて、ミズキはがくりと膝をついた。黒い水に触れている足から怖気が這い上がってきて、身体を巡る血潮がすべて泥に替わってしまったように、身体が冷たく、重くなっていく。視界の端で見ればカヤは、自身はミズキと同じように足首まで黒い水に浸かりながら、喰われなかった方の娘を横抱きにして庇っていた。


「下ろしてください、これじゃあなたが」

「大丈夫、これが私の役目です」

「そんな」


 娘とカヤが言い合うそばで、


「あの娘、見た目よりよほど呑んでおるな」


 半透明の童がそう、警戒を滲ませつぶやいた。


『ねえ、わたくし、強くなったでしょう? 今度こそ、今度こそ、おまえもわたくしを見てくれるでしょう?』


 姫がアララギに向かっていく。沼を波立てて進み、石鳥居をくぐり抜けようとした瞬間、ひゅっと風を切る音とともに、姫の右袖が砕け散った。


「――来るな」


 静まりかえった黒の境内に、アララギの声が、張りつめて響いた。


『……ちがう』


 愕然と、姫がつぶやくのが聞こえた。


『違うわ。わたくしが欲しかったのは、その目じゃない』

『どうして?』

『あの絡繰灯龍を呑んだのよ。わたくし、強くなったのよ』

『だから、ようやくこっちを向いてくれたんでしょう?』

『なのにどうしてその目なの。どうしてこっちを向いたのに、今もわたくしを見ていないの』

『おまえはいつだってそうね。いつも、いつも、いつもいつもいつも。どんなに心を砕いても、少しも受け入れてはくれない。決してわたくしを見てはくれない』

『さっきおまえが飛ばしたのだって……おまえのための、腕だったのに』


「来るな!」


 アララギの指先から、白い月光のような呪符が飛んだ。一枚、二枚、それは次々姫の身体を捉え、砕いていく。左腕、脇腹――。


『あ、ああ、ああああああ!』


 姫の身体が絶叫した。


『きえる。きえる、の? わたくし』

『いや。いやよ。消えてなんかあげない』

『たまるものか、こんな』

『こんなになったわたくしの思いが、こんなたやすく、消し去られてたまるものか――!』


 満身創痍になりながら、姫が、石鳥居を抜けた。そのまま、黒沼にうつ伏せで倒れ込む。その足下で、紅の長袴に群れる無数の蛇たちが、沼の水を呑み始めた。


 あまたの蛇で呑む澱みが、姫の身体に流れ込んでいく。姫の身体が沸騰するようにぶくぶく泡立ち、黒々と肥大していく。


「な……っ、なっ」


 あまりの悍ましさに、ミズキは這うようにして、娘を抱えたままのカヤに縋った。


「助けてください」


 カヤがミズキを振り返る。自身とほとんど同じ体格の娘一人抱えた状態で黒い水に浸かっているせいか、険しい表情をしていたが、その目はひどく静かだった。


「救えませんよ、あれはもう」

「どうして、姫様は悪くないんです!」

「どんな事情があったとしても、妖となることを選んだのは彼女自身でしょう。ただ喰われただけならああはならない。……だから、理解できないあやしの力に、気軽に頼るものではないのです。理解できない力であれば、それを借り受ける代償も必ず、理解の程を超えるのだから」

「違うんだ、ああなったのは姫様の咎じゃない。むしろ、あれは――」


「――っ、カヤ!」


 童の警告が飛んだ。


『うふ、ふふふふふふ』


 幾分水嵩が減ったように思える沼の中、倒れ伏していた姫が、その身を起こし始めていた。


「まずいぞ、カヤ」


 童の口調が緊迫を孕んだ。


「沼の中の黒蛇どもまで呑まれていく。おそらく、いっしょになってアララギを取り込む算段だ」





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