集結

「誰だ」


 低く尋ねた娘に対し、相手は会釈を返してきた。


游宮ゆうみやのカヤと申します。それよりあなたは」

絡繰灯龍からくりどうろうだな」


 ふいに声が響いたと思うと、カヤと名乗った少年の左肩上空、今まで何もなかった宙に、振り分け髪に水干すいかん姿の童が一人、姿を見せた。


 あざやかな黄色の目こそめずらしいが、肩の上で切りそろえた黒髪といい、裾をくくった短袴といい、見た目は幼い人の子だった。だがまあ身体が透けていて、めた目でこちらを観察しているところからして、正体は見た目通りではないだろう。


 見守るフヨウの肩口で、くん、と娘が鼻を鳴らした。


「妖ほど濃くはない、が、透き通るような匂いでもない……どこぞの草木精のなれの果てか」

「そういうおまえは、どこぞの火精かせいのなれの果てだろう」


 ぱちり、童と娘に火花が散る。そんな双方を宥めるように、カヤが再び口を開いた。


「これもひとつの縁でしょうか。……ずいぶん弱っておいでのようですが」


 娘が何か言おうとしたそのとき、ふっ、と地面に影がかかった。


 空から、また一体の妖が、黒沼に向かって駆けてきていた。


 猪の頭に馬の脚、胴はたくさんの獣の屍を継ぎ合わせたようなその妖も、太い歯の揃った口を開け、極上の餌を前にした勢いで、境内を満たす黒い沼に猛進していき、


「来るな!」


 悲鳴のような声とともに、風を切り叩きつけられた真白の呪符で、粉々に消し飛ばされた。


 さっき滅された妖と同じく、今度の妖もまた無数の塵となり、はらはらと沼に降っていく。一方、瞬きの間に大型の妖を葬り去ったアララギは、炭化した御神木を背に庇ったまま、今まで妖がいた宙を、揺れる目で睨みつけていた。


「損なわせるものか――」


 食いしばった歯の隙間から、漏れ出るような声だった。フヨウが最後に見たときよりも、もっとずっと、追いつめられた様子に見えた。

 黒い沼の中、片膝をついたままのアララギの右手の指間に、月光がしたたるように白い光が溢れだして、細長い四角の形で固まり、新たな呪符が補充された。


 彼はフヨウが去ってからもずっとこんな調子で、お社に近づくすべてのものを退けてきたのだろうか。瘴気と澱みに沈んだここには、もう食糧も、まともな水さえないだろうに。


「……あれはもう、ほとんど人の枠から外れていますね」


 フヨウの内心を読みとったように、カヤが静かにつぶやいた。


「――もっともそれはことここに至っての話ではなく、絡繰灯龍の気を至近距離で浴び続けていたからかもしれませんが」


 フヨウと密着している娘が、少しだけ胸を張った気がした。

 半透明の童が言い放った。


「普通、人が人でなくなるほどの気を浴び続ければ、変質するより前に人として死ぬのだがな。ほとんど人でなくなってもなおああして生きながらえているのは加護だろう。おそらくはあの、元香神木こうしんぼくのな」


 娘が歯ぎしりする音が聞こえた。

 童がふと、そのあざやかな黄色の目をすがめた。


「……なんにせよ、あれはもう正気であるまいよ。瘴気に惹かれてくる妖を力で屠り続けたところで、その妖の無念も蓄積されて、澱みを深めるだけだというのに。もはやそれすらわからぬように、あれだけの力を持ちながら、怯えた様子で呪符を投げ続けて」


 黒沼がとぷりと波打って、さっきまでは妖であった、無数の塵を呑み込んだ。瘴気がひときわ噴き上がり、水面下の黒蛇たちが、歓迎するように泳ぎ回った。


 ふいにひとすじ風が吹き、枝と幹だけ黒く残った屍のような桜の森が、かすかな音を立てて震えた。


 かつて、身を焼かれてもこの場と自身を「美しいもの」のまま終わらせようとした、桜様の嗚咽に聞こえた。


 フヨウは、娘を支えていないほうの手で、己の胸元をぎゅっと掴んだ。童も、痛ましげに目を伏せた。

 カヤが、そんな童を静かに仰ぎ、口を開いた。


「お願いします、夕菅ゆうすげ。アララギは僕が引きつける。あなたはその間にこの場の澱みを」


 目を開けた童がカヤを見下ろした。


「良いのか。あの小僧に煩く言われていただろう」

「覚えています。けれどこの絡繰灯龍を頼るより、早いうちにこちらで呑んでしまったほうが良いでしょう。今のままでは、澱んだ沼の瘴気に惹かれて来た妖が、アララギに倒され、沼に呑まれて新たな澱みとなり、強まった瘴気がさらに広範囲から妖を引き寄せる悪循環だ。放置すれば、手に負えなくなる」


 おい待て、と娘が声を上げた。


「何を勝手に決めている。アララギに引導を渡すのは我だ。ぽっと出の貴様らになど譲らぬぞ」

「真実それができるなら、お任せしようかとも思いましたが」


 カヤが、まっすぐ娘を見返した。


「――絡繰灯龍、今のあなたに、あのアララギを退けて、この澱み場に手を下すだけの力があるとは思えない」


 娘の身体が、ぴくりと震えた。


「……おまえなら、できるとでも?」


 いいえ、とカヤが首を振った。


「できるのではなく、やるのです。助けてほしいと――そう、願われましたから」

「……願われたのは、我とて同じだ」


 低く、娘が唸る。カヤから視線をはずし、アララギを見据えたようだった。


「今の我にアララギの相手は務まらぬと? 笑止。たしかに忌々しい残り香はいまだ、我をいましめてはいるが」


 娘がゆっくりと、フヨウから離れた。これまでずっとくっついていたぬくもりがなくなって、肩がにわかに寒くなる。息を詰めて見守るフヨウの目の前で、娘は、何度か危なっかしく揺れてから、しかと地面に自立した。


「――前の澱み場で受けた痛手のほうは、だいぶ回復してきたわ。アララギが我に気づかぬのなら、正気でないと言うのなら、この我が気づかせてやる」


 そして娘は、火を吐いた。


 朱金に燃える火の玉は火花を散らして爆ぜながら宙を転がるように飛び、大岩ほどまで膨れ上がった。猛然たるその勢いのまま、石の鳥居に突っ込もうとして、

 ――鳥居の向こうから放たれた、たった一枚の呪符とぶつかって、雪玉のように砕け散った。

 舌打ちひとつ、娘がまた火を吐いた。二つ、三つ、続けざまに七つ、鳥居の向こう、アララギめがけて吐き出された朱金の火の玉は、けれどただのひとつたりとて鳥居をくぐることはなく、同じ数だけ飛ばされてきた月白げっぱくの呪符にぶつかって、あえなくすべて四散した。


「来るな……!」


 破れた火球の片鱗が、朱い花びらのようにちらちらと舞う。その向こう、石鳥居の彼方に見えるアララギの、叫びはやはり、悲鳴に似ていた。


「来るな来るな来るな! 誰にも何にももうこれ以上、手出しはさせない――!」

「ええいやかましい、願ったのはおまえではないか!」


 再び呪符と火球が衝突し、爆発する。閃光と熱風の中、娘の強い声が聞こえた。


「どうか己と戦い続けてくれと、我に願ったはおまえではないか! その我がここに来ているのだぞ、心眼開いて我を見よ、そして戦え!」


 ふいに。酷い悪臭が鼻を突いた。娘も、そしてアララギも感じ取ったのか、動きが止まった。


 臓物を腐らせたようなその臭いは、どうやら近づいてきているらしく、どんどん濃厚になってくる。今フヨウたちがいるこの場所自体、澱んだ陰鬱な臭気が立ちこめているが、それよりずっと生々しい、吐き気がせり上がってくる悪臭だ。


 そしてほどなく背後の山道の空に、それは姿を現した。


 臓物を煮詰めたような臭気と、深い情念の赤黒い瘴気が、それの全身を包んでいた。怨念無念の類を相当その身に取り込んできたのだろう、凝縮された澱みの密度が、凄まじい圧迫感を放っている。足下には、足の代わりに黒々肥えた無数の蛇が、赤い舌をちらつかせながら蠢いていた。

 そんな蛇たちの上に御輿のようにある身体は、すでに散り落ちた紅葉を思わす鮮やかな着物をまとっていた。波打つ長い黒髪が、紫の瘴気に煙る空に、もの悲しげにたゆたっていた。元はきっと、まるでお人形のようなお姫様だったに違いないと、思われた。


 見上げるこちらに気がついたのか、それもまた、こちらを見た。空と地で、じっと見合うことしばし。姫君の形をしたそれの、濁りきって光のなかった双眸に、ゆらりと暗い焔が灯った。


『生きていたのね、絡繰灯龍……!』


 ひび割れた声が憎々しげに叫んだ。姫の姿をしたそれが、こちらにみるみる降下してくる。その胸から腹にかけてが、がばりと縦に裂け割れた。柘榴の実がはじけたような、真っ赤なその割れ目の奥には、黒々した深淵が広がっていて、


 フヨウはとっさに、絡繰灯龍な娘に駆け寄って、そして、当の娘に、突き飛ばされた。


 直後、ぱくり、と大口が閉じる音がして。間一髪フヨウを遠ざけた娘は、そのまま姫に呑まれてしまった。




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