十  君の御跡

変貌

 ここだ、と、じつは絡繰灯龍からくりどうろうであるらしい、いまだフヨウに支えられたままの娘が尊大に顎で示したのは、蛇行しながら細く山腹へ延びていく上り坂だった。


「この先に今一番の、影蛇かげへびどもの溜まり場がある」


 だいぶ前から、そうでないかという気はしていた。予想が当たっていたことに複雑な思いを抱きつつ、フヨウは行く手の坂道を見上げた。


 この坂道の果てにあるのは、御神木様おみきさまのおやしろだ。かつて美しい桜の森に囲まれていた、フヨウの心を救ってくれた――そしてフヨウが何一つ返せないまま、炎の中に失ってしまったお社だ。

 都の襲撃を受けたあの後、お社がどうなってしまったのか、フヨウは知らない。確かめに行く勇気を持てなかったから、ただ噂に、当代様はあの後もまだお社に留まって、戦っているらしいと聞いただけだ。


「どうした」


 かけられた声に意識を戻せば、すぐ目と鼻の先の距離で、深赤の瞳がフヨウを見ていた。肩を貸しているせいで、顔の距離がとても近い。

 途中の小川で――とても嫌そうにしつつも――水浴びしたおかげで、身体中覆っていた泥をすっかり洗い流した娘は、フヨウが思っていたとおり、はっと目を惹く容姿をしていた。ぬばたまの黒髪は艶々流れてきらめくほどで、血の透けるような乳色の肌は得も言われぬ危うさで、見る者の心をざわつかせる。人でないものが人型を取ると、趣の違いこそあれ心惹かれる姿になるものなのかと、頭の隅で考えた。


「案ずることはないぞ。おまえに危険は行かぬ」

「……うん。それは心配してない」


 ここへ至るまでの道中、二人に襲いかかってきた妖を、娘は朱金の火を吐いて、次から次へと焼き払った。首から下はぐったり脱力して歩くのもやっとのありさまなのに、口だけは非常に頼もしかったものだ。

 フヨウの答えを聞いた娘が、器用に片眉を上げた。


「では何を心配している」

「……なんでもないよ。大丈夫」


 そう言ってすいと前を向けば、横顔に、じっと見てくる視線を感じた。


 だけど強がりではなくて本当に、今なら行けると思えた。

 ひとりでは戻れなかったお社だけれど、一風変わった道連れがいる今であれば、向き合うことができるだろうと。

 密着している娘の身体は、変わらずぽかぽか暖かい。その熱を心強く感じながら、フヨウは足を踏み出した。




 坂を上りだしてほどなく、藪に左右を挟まれた冬枯れ色の山道に、黒紫の霧が立ち込め始めた。冬とは思えぬ生ぬるさと、息詰まるような圧迫感を伴うその霧は、


「鬱陶しい瘴気しょうきよな」


 娘が忌々しげに言うのに、フヨウも小さくうなずいた。


「……大丈夫?」


 踏みしめて歩く地面のほうも、じゅくじゅくと緩みはじめている。フヨウがそっと声をかければ、娘は小さく鼻を鳴らした。


「気にするな。おまえと会ったときよりはまだましだ」


 黒紫の瘴気の濃度は上るほどに増していき、もはや行く手も見えないほどだった。もし今隣に娘がおらず、フヨウひとりであったなら、お社行きは諦めて引き返していただろう。半身にぴたりと密着している、肩に重くも暖かで、濃厚な瘴気の中でも動じることない娘の存在は、とても心強いものだった。


 ようやく、瘴気の向こうにうっすらと、鳥居らしき灰白色が見えてきた。


「どうした」


 無意識のうちに、身体に力が入っただろうか。ささやくように、隣の娘が問うてきた。


 こんな道のりの果てにあるお社が、かつてのままであるはずがなかった。小さく息を吐き出して、フヨウはぐっと前を見据えた。


「――大丈夫。行こう」




 かくしてフヨウは絡繰灯龍な娘と二人、灰白色の鳥居の前までやってきた。

 そして、社の今を目の当たりにすることになった。


 白い玉砂利の境内は、もはや心象ではなく現実に滲み出した黒い沼に沈んでいた。花と葉がすべて焼け落ちて、枝と幹だけが真っ黒に残った桜の森が、影絵遊びの手のように、沼の中に突き出している。

 鳥居の外まで浸食している黒い沼の水面からは黒紫の瘴気が立ち上り、水面の下には無数の肥えた黒蛇が、互いに絡み合いながらうねうねと泳ぎ回っている。


 足先のそんな様子から目を背け、視線を投げた境内の端では、かつてフヨウも過ごした木造きづくりの社務所が、陰鬱に漂う瘴気の中で、溶けるように腐り落ちていた。


 胸の奥が、きゅうと痛んだ。漂う瘴気に、黒い水面に、蠢く無数の気配はあれど、今のこの場は、なんて寂しい――、


「アララギ!」


 肩口で、愕然とした娘の声が響いた。

 それではっと我を取り戻し、そうだたしか絡繰灯龍は、当代様に倒されたという話だったと思い出す。けれど窺った娘の顔は、憎い敵を見つけたというものではなくて、ただただ、信じられない、と語っていた。


 娘の視線が向いている先は、鳥居を隔てたお社の奥、真っ黒に炭化して、ばかりか、いくつもの矢に穿たれている御神木の、その根元だった。そこに、フヨウが最後に見たときと同じ、白い狩衣姿の当代様が――アララギが、右手の指間に呪符を挟み、片膝を立てた状態で、胸元まで沼に浸かりながら、じっと座り込んでいた。深くうつむいている顔に、伸びた前髪が影を落として、その表情は窺えない。


 きいいい、と、鳴き声が聞こえた。


 はっと見上げたフヨウたちの頭上に、一匹の妖がいた。巨大な蝙蝠にくちばしと獣の脚が生えたそれは、フヨウたちには目もくれず、斜め一直線に黒い沼へ突き進んでいく。異様な鋭い嘴を大きく開いたそれに向かって、地上から、三枚の呪符が鋭く飛んだ。


 一瞬の後、呪符が貼り付いた妖は、木っ端微塵に爆発した。


 ばらばらと、塵が沼に降りそそぐ。過剰なまでの攻撃だった。呆然と眺めるフヨウの耳に、声がした。


「なぜだ」


 視線を横にずらせば娘が、信じられぬというふうに、珊瑚の唇を震わせていた。


「なぜそんな小物にむきになる。なぜ我に気づかない」

「……この姿だからじゃないの?」

「ありえぬ。我があやつに気づいたのに、あやつが我に気づかぬなどありえぬのだ」


 娘が、アララギ! と声を張った。


「我はここだぞ!」


 そしてそのまま、フヨウの肩から離れ、走りだそうとする。


「ちょっ、待って!」


 アララギに走り寄っていくということは、黒蛇たちが蠢いている沼に突入するということだ。この沼はきっと、あの泥濘ぬかるみにすら四苦八苦していた娘が触れたらひとたまりもないのに。

 慌てて引き留めようとしたそこへ、


「――そうですね。少し落ち着かれたほうが良いでしょう」


 聞き覚えのない声がかかった。


「なんの策もなく飛び込んで、無事に済むものではありませんよ」


 ぴたり止まった娘といっしょに、フヨウも声のほうへと目を向ける。


 いつからそこにいたのだろうか。灰白色の鳥居の手前、フヨウたちから見て左手の、黒い沼にぎりぎり触れない場所に。


 黒髪をひとつくくりにし、朱塗りの弓を手に持った、フヨウと同じ年頃らしき少年が、ひどく静かな落ち着いた目でまっすぐこちらを見つめていた。




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